2008年8月31日日曜日

やっと夢がかなった


使徒言行録28・17~31

今日で使徒言行録の学びを終わります。約一年半かかりました。最初の説教のときに私が申し上げたことを、たぶん皆さんはお忘れになっているでしょう。「使徒言行録の学びが終わるまで、皆さん元気でいてください」。冗談で言ったわけではなく本気で言いました。しかしこの間、一人の姉を天におくりました。一人の兄、一人の姉が、遠くに引っ越して行かれるのを見送りました。一人の姉は長期入院中です。仕事が変わった方、身辺が急に忙しくなった方々がおられます。年々体力が落ちていると感じている方は多いでしょう。私も今年前半は、体調不良に苦しみました。すべてこの一年半の間に起こったことです。

「願いがかなう」というのは簡単なことではない。そんなふうに感じます。使徒言行録に紹介されているのは最初の教会の様子、とりわけ伝道者たちの戦う姿でした。しかし、ここで言わせていただきたくなることは、最初の教会の人々やペトロやパウロだけが苦労したわけではないということです。わたしたち自身も苦労しています。わたしたち自身も、ペトロやパウロと同じか彼ら以上に、一日一日、足と体を引きずりながら、いろんなものにぶつかり傷つきながら生きています。しかしそれでもわたしたちが絶望してしまわないで立っていることができるのは、苦しみの日々の中でほっと一息つくことができる瞬間があるからであり、それを神の恵みとして受けとることができるからではないでしょうか。

日曜日の礼拝が皆さんにとってそのような時間でありうるようにするために、私なりに努力させていただいているつもりです。わたしたちの月曜日から土曜日までがつらくて、そのうえ日曜日までつらかったら、わたしたちは、もはや立っていることができません。教会の礼拝は、現実から逃避するための場所ではありません。しかし、現実の戦いのなかで傷ついた人々の安息の場ではあります。今日、日曜日はわたしたちの安息日なのです!ですから、皆さんどうぞここで休んでください。エウティコのように説教の途中で居眠りしてくださっても構いません(ただし、三階から落っこちないように。松戸小金原教会に三階はありませんが)。教会にはどうぞ休みに来てください。遊びに来てください。私にはそれ以外の表現ができません。ここは、お説教に苦しめられる拷問部屋ではないからです。

パウロの夢は、ついにかないました。念願のローマに着きました。パウロはこれまで、いくら祈っても計画を立ててもローマに行くことはできませんでした。ところが、その彼が囚人となってローマ人の兵隊に護送されるという格好で彼の夢がかないました。しかし、過程がどうあれ、パウロにとって重要だったのはローマに行くことでした。なぜパウロはローマに行きたかったのでしょうか。その理由が今日の個所に記されています。

「三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。『兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。』すると、ユダヤ人たちが言った。『私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。』そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」

パウロの発言の趣旨をまとめておきます。キリスト教信仰を宣べ伝えるパウロの活動をユダヤ人たちが理解してくれない。実際のキリスト教信仰はユダヤ人たちが信じる聖書の教えと反するものではない。ところが、ユダヤ人たちはそれが聖書の教えに反するものであると言い張り、パウロを捕まえて殺そうとした。裁判でローマ人は、パウロのしていることは死刑に当たるようなものではないことを理解してくれた。それでも、ユダヤ人たちが彼の有罪を言い張るので、ローマ皇帝に上訴しなくてはならなくなったというわけです。パウロは、キリスト教信仰を宣べ伝えることは、それによってだれかから責められたり殺されたりするようなものではないことを、ローマ皇帝に認めてもらいたいのです。

もう少し短く言い直します。パウロが「ローマに行かなくてはならない」という確信をもった理由は、キリスト教信仰とそれを宣べ伝えるキリスト教会の“市民権”を保障してもらうためであったということです。これを信じているから逮捕されるとか、これを宣べ伝えているから殺されるというような不当な扱いを今後一切受けることがないように法的に認めてもらうためであったということです。その法の番人がローマにいる。そこでこの問題についてはローマに行ってその人に直接かけあって話してみたいという動機をパウロが持っていたということです。

しかし、この理由は、私にとっては、分かりにくいものです。なぜ「分かりにくい」と言わなければならないのでしょうか。

第一は、わたしたち(念頭にあるのは、21世紀の日本のキリスト者)は、パウロと同じような意味で、キリスト教信仰とキリスト教会の“市民権”を獲得するための戦いをしなければならないような状況にあるとは思えないからです。わたしたちがこの信仰をもって生きることを決心し、そのような人生を歩んだからといって、それによってただちに迫害されたり殺されたりするような状況にあるわけではありません。

それどころか!つい最近ある先輩牧師の口から聞いた言葉をお借りすると、今日の状況は「糠に釘、のれんに腕押し」です。わたしたちが何を信じようと、何を宣べ伝えようと、「どうぞご自由に」という空気に包まれます。全く無関心です!迫害されたり殺されたりするような状況に戻るほうがよいなどと、まさか考えているわけではありません。しかし、いわばその代わりに、無関心の牢獄、無反応・不感症の泥沼の中にいるような感覚があります。これがパウロの時代とわたしたちの時代の決定的な違いであると思われるのです。

もう一つ。第二に申し上げることは、第一に申し上げたこととはいくらか違う次元から見たことです。しかし内容的には重なります。

パウロのローマ行きの理由は、ローマ皇帝に上訴することによって、キリスト教信仰とキリスト教会の市民権を保障してもらうためでした。しかしそこで私がどうしても抱いてしまう疑問は、はたして本当にそのようなことがパウロひとりの力で可能なのだろうかということです。相手はローマ帝国の最高権力者です。歴史が伝えるところによると、歴代の皇帝たちは、人を人とも思わない、凶悪な独裁者でした。そのような人のところまで、まるでネズミ一匹のようなパウロが、単身でのこのこ乗り込んだからといって、何がどう変わるというのでしょうか。あまりにも無謀すぎるのではないか。危険すぎるのではないか。そのように感じられてしまいます。

もっとも、パウロは、これまでの間にすでに、ユダヤの最高法院を相手し、ユダヤの王アグリッパに対しても戦いを挑んできました。だからこそローマにも行き、ローマ皇帝の前にも立つ。そのような勢いを得、自信を抱くことができたのかもしれません。

しかし、ここでわたしたちがどうしても考えなければならないことは、ユダヤとローマは違うということです。ユダヤの王とローマ皇帝は違うのです。ユダヤの王アグリッパの前でパウロがそれを根拠にして語り、しきりと訴えていたのは聖書です。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」(26・27)。ユダヤの国は、たとえどれほど堕落していたとしても、聖書を土台にして立つ国家でした。彼らの思想や文化の中に聖書の教えが生きていました。だからこそ、パウロが聖書の言葉を引き合いに出して論じることに対して、ユダヤ人たちは大いに反応し、また多くの場合、激怒したのです。両者の対話は、いちおう成り立っていたのです。

しかし、ローマ皇帝の場合はそうは行きません。聖書の御言葉を根拠にして語ったからといって、それを理解してくれるような相手ではありませんでした。どう考えても。それは全く異なる思想、全く異なる文化のうえに立っている相手でした。

聖書の教えが全く通用しない相手と語り合う。言葉の通じない、通じそうもない相手と話す。この点においてはパウロの状況とわたしたちの状況とが重なりあってくるところがあります。私は時々、家族の者から「内弁慶である」と批判されることがあります。そうであることを正直に認めざるをえません。すべての牧師が私と同じであるとは限りません。しかし、牧師たちの多くは、聖書を用いての議論ならば、得意としているはずです。私もそうです。もしそれが聖書に基づく議論であるならば、夜を徹して語り合うことができる用意と自信があります。

しかしです。聖書の教えが通用しない相手には苦手意識をもってしまいます。何をどう話してよいかが分からなくなってしまいます。黙ってやりすごすしかないと考えてしまいます。“引きこもり”になってしまいます。

そのような私であるゆえに、パウロの姿を見ると、大いに反省させられます。相手からネズミ一匹と思われようとも、聖書の教えが全く通用しない相手であろうとも、この信仰、この教会を守るために勇気をもって立ち向かう。このパウロの姿に学ばなければならないことがたくさんあると思います。聖書を知らない人々に、聖書を教えること。この信仰の真の価値を知らない人々に、この価値を分かってもらうこと。これこそが伝道であることは、間違いないことだからです。

「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。『聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。「この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。』パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

使徒言行録の最後の部分は、いくらかコミカルでユーモラスな調子で書かれています。念願かなってローマにたどり着いたパウロの前に、またしても(!)無理解なユダヤ人が現われ、苦労するのです。「あーあ。まったくもう!」というパウロのため息が、ここまで聞こえてくるようです!

ローマの町はパウロにとって天国ではありませんでした。地獄でもありませんでした。そこでも引き続き、彼の日常生活が坦々と続けられました。彼の日常生活とは、御言葉を宣べ伝えること、すなわち伝道でした。パウロから伝道を取り去ると、彼のあとには全く何も残らなかったでしょう。パウロの人生は、神とキリスト、そして教会のためにすべて献げられたのです。

(2008年8月31日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年8月30日土曜日

ここに書いた願いはすべて必ず実現するブログ

「ここに書いた願いはすべて必ず実現するブログ」があればいいのにと、時々思います。私が今、心の底から願っていることが、二つあります。

第一の願いは、松戸小金原教会の礼拝が現在の二倍以上の出席者で満たされるようになることです。

2000年ちょうどに立ち上がった新しい会堂は、百名の出席者なら余裕で対応できます。現在は一人一人が余裕で座っています。しかしこれからは、少し詰めて座らなければ入れないほどの人数になっていくことを期待しています。

余所から来た者には言いにくいことですが、松戸市も、小金原という町も、教会周辺の街並も、オプション的な魅力に満ちあふれているとは言い難いものです。純粋に東京のベッドタウンであり、街そのものに面白味は感じられません。

交通手段も、便利とはとても言い難いものです。JR常磐線「北小金駅」からも、JR武蔵野線「新八柱駅」からも、それぞれ15分ほどバスに乗っていただかなくてはなりません(駐車場は10台分ほどありますので、自動車での来会も可能です)。

「それでも構わない。松戸小金原教会は神の言葉を大胆に語り、福音を正しく宣べ伝えることにおいて熱心な教会であり、温かく安心できる教会である」と信頼し期待してくださる方々によって礼拝と諸集会が満たされるようになることを願っています。

第二の願いは、2006年7月に設立されたばかりの東関東中会に、東部中会にあるのと同じような、あるいはそれ以上の「神学研修所」ができることです。

これは私一人が願ってもどうしようもないことです。東関東中会の教師・長老、そしてすべての教会員と相談しながら進めていかなくてはならないことです。だれか突出した特定の個人が単独で暴走することによって始められたものは、後々禍根を残すものになりかねません。そのことは歴史が証明しています。

しかしまた、ここにいたって深く考えさせられることは、そこで教えるのは個々人としての人間であるということです。どんなに立派な制度や組織ができようとも、どれだけ多くの献金が集められようとも、そこで教えるべき教師一人一人が知識と敬虔において優れた者へと成長していくのでなければ一切は空虚です。

また東関東中会全体が、そこに属する教会員全員が、そのような「神学研修所」の設立を真に期待するのでなければ一切は空虚です。わたしたち教師である者たちが「そのうちだれかが始めてくれるだろう。それまでは黙ってじっと待っていよう」と手をこまねいていても自動的にどうにかなっていくというのであれば、そうしていたい気持ちが私の中にないわけではありません。

しかし、「神学研修所」(このまさしく究極的な非営利事業!)に限っては、勇気(と遊び心)をもっただれかが始めるのでなければ、永久に始まらないのではないか。大きな石も、自ら転がりはじめるまでの最初の一押しは、だれかが肩や腰を痛めてでも、必死になって手を突っ張らなければならないのではないか。そういうことも、しきりと考えさせられるのです。


2008年8月28日木曜日

悲願のトップページ完成

私が管理している二つのドメインにトップページが欲しいと、ずいぶん前から願ってきました。それが本日ようやく日の目を見ました。我ながら、けっこう気に入っています。しばらくこれで行こうと思っています。



REFORMED.JP



http://www.reformed.jp/



PROTESTANT.JP



http://www.protestant.jp/





2008年8月25日月曜日

本格的な神学を教会の手に戻そう!

先週は、遅ればせながらmixiに恐る恐る近づき、ついに参加してしまいました。次の問題は、このmixiに60歳代以上の人々(とくに牧師や神学者のような人)を誘い込むにはどうしたらよいかです。

慣れればどうってこともない感じですが、その世代の人々にとっては新しいものに慣れるまでが大変でしょう。

私がmixiに参加したいと願うようになった直接の動機は、つい最近アメリカ改革派教会(RCA)におけるファン・ルーラー研究の第一人者であるポール・フリーズ先生(Prof. Dr. Paul Roy Fries)からPlaxoというSNSに誘われて加わり、その様子を見て非常に驚いたからです。

そのグループの全員が、自分の顔写真を堂々と出しています。もちろんすべて実名公表。国はさまざま。これからいよいよ本格的に、インターネット上の神学者国際会議が行われる時代が始まるかもしれません。

日本に同様の試みや計画があるかどうかは知りません。もしまだ行われていないなら、これから真剣に実現の可能性を検討すべきではないかと思うばかりです。

まだよく分からないので全くの当てずっぽうですが、SNS(ソーシャルネットワークサービス)での議論は、掲示板やメーリングリストでの議論よりも、いろんな意味での安全性が高いような気がしています(ポジティヴすぎるでしょうか)。

「関口よ、お前はインターネットにこれ以上何を期待するのか。これまで九年半も続けてきたファン・ルーラー研究会メーリングリストが、一体何を生み出したというのか」と問われると、あまりにもつらすぎて私には答えられません。

しかし、なかには「参加してよかった」と言ってくださる方もおられます。「あのメーリングリストに参加するまではオランダ語の書物を自分で読むことなど、考えられないことでした。しかし、それを翻訳してくれて、解説してくれて、質問すれば答えてくれて。」(全部無料でネ!)

私の願いを一言で言えば、「本格的な神学を教会の手に戻すこと」です。

神学が「教会の神学」としての本来性を回復すること。それによって、とりわけ礼拝の説教が正確な神学的道筋の中で語られるようになること。そのために神学の公開性を高め、アクセスを容易にし、悪しき秘教化(esotericism)を打破すること。神学を大学や神学校の専有物にさせないこと!「神学(者/校/部)栄えて教会(人)滅ぶ」という本末転倒的事態に陥らないこと!

このような願いないし目標のためにインターネットを用いることが有効かどうかを、これまでほぼ10年近い時間をかけて検証してきたつもりです。もっと別の有効な手段があるならば、私自身にインターネットに固執する思いは皆無です。こんなの、いつでも止めます。

神学はキリスト者と牧師の日常生活の中に位置づけられるべきです。神学は学者だけのものではありません。神学は信仰について反省する学です。信仰をもって生きている人々ならだれでも取り組むべきです。

しかしまた、神学は主として伝道に直接携わる人々、なかでも牧師たちが一心不乱に取り組むべき学であることは否定できません。牧師がなぜ神学に取り組むべきなのでしょうか。牧師の仕事の中心には説教があるからです。説教の思想構造を神学が形成するのです。

逆も然り。神学なき説教には思想構造が存在しないのです。不断の神学研究に裏打ちされていないような説教は、多かれ少なかれ会衆に多大な苦痛を与えます。筋も構造もない話となり、思いつき・行き当たりばったり・支離滅裂・しどろもどろの迷走説教になります。日曜日の朝を教会で過ごそうと決心して集まってきた人々に「来なければよかった」という落胆の思いを与えます。

時間泥棒は犯罪です。信仰生活を長く続けてきた方々の中には、説教を一度聞くだけで、その牧師が神学に真剣に取り組んでいるかどうかを直感的に見抜いてしまう人々が少なくありません。理由は簡単です。神学を深めた人の説教は「分かりやすい」。神学研究がいいかげんな牧師の説教は「ちんぷんかんぷん」です。

しかし、です。牧師たち、とりわけ地方教会に仕える牧師たちが神学を継続するためにクリアすべき問題があります。

神学研究に必要なものは、当然やはり「本」です。とはいえ、近くに大学や神学校があるわけでない。神学に関する書物が簡単には手に入らない。キリスト教書店さえ存在しない、というようなことで悩んでいる牧師たちがいます。私も体験したことですが、日本の場合、「都会」と呼ばれる地域以外では神学に関して入手しうる情報があまりにも少なすぎるのです。それが牧師たちから神学への意欲を奪う一因となっています。

加えて言えば、「本」を通しての情報収集を行う場合には、言うまでもなく「本を買う」という行為を避けることができません。このことも神学への意欲という点で無視することができません。なぜ無視できないかと言えば、こと日本の場合、神学書がべらぼうに高い!高い割に内容が薄い!地方教会の牧師の中には、高すぎる神学書を前にして買い控えている人もいます。

その状況をなんとか打破したい。神学研究に関しての地方と都会の「格差是正」に取り組まねばならない。この願いがきわまり、「使ってみよう」と思いついたツールがインターネットでした。東京神学大学での同級生であり、理系の専門的知識をもっておられる清弘剛生先生(現在は日本基督教団頌栄教会牧師)は私のさまざまな相談に快く応じてくださいました。

現在までに行ってきたのは、ホームページやブログによる論文公開、メーリングリストによる原書講読会やディスカッションなどです。それらの情報のすべてを無料で提供してきました。もちろんまだまだ試行錯誤中です。私自身は、これインターネットは神学研究にも役に立つと感じてきました。しかし、可能性は依然未知数です。危険性ないしマイナス面のほうを数えはじめると、きりがありません。自分だけが「清く」ありたい人は、あまり向かないかもしれません。

しかし、です。ほぼ10年かけての実験の中で感じてきたことは、これは本当に大変なことだということです。最も大きな困難は(「やっぱりか」と言われそうですが!)、資金的な裏づけがあまりにも乏しすぎるということです。私が願ってきたことの中には「神学を大学や神学校の専有物にさせてはならない」という点が含まれていますので(批判や抵抗をもくろむ意図などは皆無ですが!)、資金的な援助を大学や神学校に求めることはできません。求めても断られるだけでしょう。

また、この種の活動は学校内行政(とくに大学や神学校の理事会の判断)の束縛やしがらみのようなものからできるかぎり自由であるべきです。その意味で、これはあくまでも私的(オランダ語のvrijのニュアンスに最も近い)に行われるべきです。そのことを私自身は痛いほど理解しているつもりです。

ところが、ここで浮上する問題は、「私的なもの」もしくは「独学的なもの」を、誰が信用し、(精神的にだけでなく資金的に)支援してくれるでしょうかということです。たとえば、独学者の著書や訳書を信用して購入してくれる読者はどれくらいいるでしょうか。ここに大きな不安要因がつきまとい続けています!

高名な学者たちの論文や訳文を無料で公開することはできません(させてもらえません)。無料で公開できるのは独学者の作品です(ここで「独学者」の意味は、肩書にProf. (教授)かDr. (博士)かが(あるいは両方が)付いていない人のことです)。

そもそもの動機として「地方教会のキリスト者たち(とりわけ牧師たち)の神学的な飢え渇きをいやしうる一杯の水を提供してみたい」という思いから関与を開始したインターネット活動は、何を隠そう、私自身の飢え渇きを自ら克服するための方法を編み出す試みでもありました。

口幅ったいかぎりですが、わたしたちの悲痛な叫びは、地方教会でお働きになったことのない教師、あるいは大学や神学校をもっぱら活動の場にしてこられた教師には、なかなか理解していただけないのではありますまいか。

しかし、しかし、です。ほぼ10年続けてきて分かることは、このようなささやかな神学活動にも、個人には手に負えないほど多大な資金が必要であるということです。

10年の間に、1台10~15万円程度のパソコンを4台買い換えました。これだけで50万円。プリンタは6台(3台は落雷で動かなくなりました)。安いのばかりですが、それでも1台1~2万円はしますので、ざっと10万円。OSがバージョンアップするたびに(ウィンドウズ98 → Me → XP → Vista)、大きな費用が発生しました。プロバイダ会社には10年間で150万円くらいは(もっとかな?)支払ってきたはずです。

私がメールのやりとりをする相手は、ほとんどすべてキリスト者たちであり、牧師や神学者たちです。それ以外の使い方は一切していません。オランダ語の神学書購入には、現時点で200万円くらいを注ぎ込んでいます。そこに電気代その他の諸経費を加えれば、おそらく500万円近い資金を個人的に負担してきた計算になるはずです。「一杯の水」のコストが、なんと500万円です!

「一杯の水」が500万円。これだけ自費を注ぎ込んでも、依然として、まとまった一冊の著書も、一冊の訳書さえも世に問うことができません。生まれたのは、数編の雑誌論文と、インターネット内の散文と、個人やメーリングリストに宛てて書いた一万通をゆうに超えたメールだけです。独学者であることの限界を超えることができません。

神学活動からはほとんど一円の収入も得ることができませんが、ご批判だけは結構いただきます。「ハイリスク、ノーリターン」です。おかげさまで多くの同志と知己を得、山のようなオランダ語文献を手にすることはできました。それはそれで私の誇りとしているところなのですが、しかしこのままだと、どう考えても生計が成り立ちません。

幸い、わが家には「負債」はありません。「本格的な神学」に取り組むためのプラスアルファの部分がこれ以上は捻出できそうもないと感じているだけです。これまでは二人の子どもたちが小さかったので無理や無茶がききましたが、そろそろ限界です。一般企業の場合は、資金繰りに行き詰った時点で、その事業は撤退ないし終了となるのでしょう。私も撤退すべきかもしれませんが、諦めが悪いタチなので、何とかならないものかと、毎日頭をひねっています。

これから取り組みたいと願っていることもあるのです。提供する情報が「本格的な神学」でありうるために、オランダ語のスキルを高める必要を痛感しています。東京の日蘭学会で行われているオランダ語講座(初級・中級・上級)に通いたいと何年も前から願いながら、費用的裏づけを得ることができないために、いまだその夢が叶わずにいます。

あとは出版活動です。ファン・ルーラーの論文や説教の翻訳をインターネット上で始めて以来、「独学者(教授でも博士でもない者)の訳書をどうしたら信頼して買っていただけるのか」をずっと考え続けてたどり着いた一つの結論は、訳書を出版するよりも前に訳者自身の著書を出版すべきではないかということです。

おこがましいかもしれませんが、まず最初に私自身の本(説教集など)を出版して広く読んでいただき、この人間の考えやスキルを知っていただく。そのステップを経た上でファン・ルーラーを紹介するという手順を踏むしかないのではないかということです。

しかし、出版活動も、とどのつまりはお金の問題です。今42才ですので、たぶんあと30年くらいは体が動くだろうと期待しています。オランダへの留学を本気で思い詰めていた頃は、留学の限界と言われる年齢までの日数を(まるで死刑囚のように)数えながら、ほとんど強迫観念の中で勉強していました。しかし、それも今は良い思い出です。

松戸に来て、よい教会、よい長老たちに恵まれました。多くのことを望まず、自分にできることをコツコツ続けていき、小さな何かを残せたらよいと思っています。

2008年8月24日日曜日

伝道を楽しめ


使徒言行録28・1~16

「わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。」

パウロの乗った難破船は、地中海に浮かぶ一つの島に辿りつきました。その船に乗っていた276人全員の命が助かりました。彼らは大きな喜びに満たされたに違いありません。

その島に着いたばかりのときには、そこがどこの陸地であるかが彼らには分かりませんでしたが(27・39)、まもなくそこがマルタ島であることが分かりました。なんと、その島に住人がいたのです。

島の名前は、その住人たちが教えてくれたのでしょう。流れ着いた島の住人の言葉が分かるというのは有難いことです。そして何よりそこに人が住んでいたこと自体が幸いです。人の住んでいないジャングル島に着く可能性もありえたはずです。

積み荷も船具も、そして最後の食糧も、彼らには残っていませんでした。飢えと寒さの中、冷たい雨まで降っていました。惨めさと絶望の状態にあり、ガタガタ震えていた彼らを、野獣ではなく人間が、温かいたき火をもって助けてくれたのです。

人が人を助ける姿には、本当に心温まるものがあります。知らない人は縛り上げて奴隷にするとか、「人を見れば泥棒と思え」と教えられているとか。そのような可能性も決して無かったわけではないでしょう。

マルタ島の人々は、あとで見るように、宗教的・文化的に言えばパウロにとってもわたしたちにとってもかなり違和感を覚えるような人々だったかもしれません。しかし、彼らには彼らなりの文化があり、困っている人を助けることにおいて明確な良心があったと言うべきです。間違いなく言えることは、彼らはパウロたちにとって命の恩人であるということです。そのことを決して見落とすべきではありません。

「パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。『この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、「正義の女神」はこの人を生かしておかないのだ。』ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、『この人は神様だ』と言った。」

初めての島でたき火に当たっていたパウロが、さっそく災難に遭いました。パウロの手に蝮が巻きついてきたのです。海の難は去り、次は毒蛇の難です。それを見たマルタ島の住人たちはパウロを「人殺し」であると考えました。これは悪人に対する神の裁きであり、ばちが当たったのであると考えたのです。そのような考え方が彼らの宗教であり、彼らの文化であったと見るべきです。

しかし、パウロ自身はいたって冷静でした。驚くことも騒ぐこともせず、蝮を火の中に払い落して退治しました。災難から逃れ、何事もなかったように立っていることができました。すると、マルタ島の人々は、パウロのことを「この人は神様だ」と言いはじめたというのです。

人殺しにされたり、神様にされたり。パウロとしてはそれこそが、蝮にかまれるよりも災難だったかもしれません。しかし、それもまた彼らの宗教であり、文化であったと見るべきです。重要なことは、そこはエルサレムでもなければアンティオキアでもなかったということです。そのときパウロは異なる宗教の持ち主のど真ん中に立っていたのです。

さて、私はこの個所を読みながら、四つの問いを抱きました。第一の問いは、このときパウロが蝮に襲われても大丈夫だったことについて、わたしたちはどのように考えるべきだろうかということです。

もちろん、パウロの信じる神さまがパウロの命を蝮の毒から守ってくださったと言っても間違いではないでしょう。しかしまた、私にとって重要だと思える点は、このパウロの冷静な態度です。蛇に襲われた。蜂が飛んできた。そのとき重要なことは、とにかく冷静であること、そして相手の動きから決して目をそらさないことです。

熊が襲ってきた場合は「目を見てはならない」と言われますが、動きから目をそらしてはなりません。忘れてはならないことは、相手も生き物であるということです。こちらが怯えてあわてて騒げば、向こうもびっくりして攻撃を仕掛けてきます。暴れると噛みついてくるのです。

第二の問いに移ります。それではこのときパウロが冷静でありえた理由は何だろうかということです。それはやはり彼の強さにあったと言うべきです。パウロの強さの理由は、はっきりしています。単純に言えば、彼は神さま以外の何も恐れなかった人なのです。

これまで見てきましたように、パウロは人間というものを全く恐れませんでした。襲いかかろうと構える群衆のなかで、一人で立ち、一人で語ることができました。暴力も恐れませんでした。法廷も恐れませんでした。死刑宣告も恐れませんでした。

また彼は、人間だけではなくどんなことも恐れませんでした。海も恐れませんでした。暗闇も空腹も恐れませんでした。彼が唯一恐れたのは神です。そして真の救い主イエス・キリストです。その方以外のどんな存在も恐れませんでした。そのパウロにとって蝮などは、ちっとも恐くなかったのです。

第三の問いは、パウロが蝮にかまれたことを見てパウロを「人殺し」だと考えたマルタ島の人々の考え方を、わたしたちはどのように受けとめるべきだろうかということです。

はっきり言っておきます。彼らの考え方は、どれほど公平に見ても、パウロの信じていたキリスト教信仰と相容れるものではありえません。わたしたちは、彼らのような考え方についていくことはできません。誰かに災難が降りかかった。それは悪人に対する神の裁きであり、ばちが当たったのである。このように語ることは、わたしたちには許されていません。

この点は、どこまでも拡大していくことができるでしょう。戦争の被害に遭った。地震の被害に遭った。それは神の裁きである。そのように言いはじめますと、責任の所在がぼやけます。地震の場合でさえ、人災の可能性があるからです。そのように言うことは、「神の名をみだりに唱えること」に通じるでしょう。

しかし、です。ここで私は、第四の問いを発しておきます。それは先週申し上げたこととよく似たようなことです。それは、この場面でパウロが語っていない言葉があるということです。なぜパウロはその言葉を語っていないのだろうかという問いです。

パウロが語っていない言葉とは何でしょうか。すぐに気づいていただけると思います。マルタ島の人々がパウロのことを「人殺し」であると言い、その次に「この人は神様だ」と言いました。しかし、ここで驚くべきことは、そのときパウロが彼らに対して「わたしは人殺しではない」とか「わたしは神ではない」と反論していない(!)ということです。議論もしていません。微笑み(最低でも苦笑い)をもって受け流している感じです。

議論するのが面倒くさかったからでしょうか。もしかしたらそうなのかもしれません。しかしこれまでのパウロの言動と比較してみると、どこか違いを感じます。

もっと食ってかかってよさそうな場面です。噛みつくような調子でむきになって反論しそうな場面です。「わたしは人殺しではないが、神でもない。人間を神と呼んではならない。あなたがたの考え方は間違っている。今すぐその考えを捨てなさい」。もしこの場面でパウロがそのように語っていたとしても、わたしたちが驚くことはないでしょう。しかしパウロはここでは一切反論していません。

その理由は何でしょうか。そのことについては何も書かれていません。ただ、考えさせられることは、パウロも少し変わってきているようだということです。

アテネでの演説を思い起こしてくださる方もおられるでしょう。アテネの至るところに偶像があるのを見て憤慨したパウロは、誰が聞いてもアテネの人々を痛烈に批判しているように受けとれる言葉を語りました。皮肉な言い回しで、目の前にいる人々に噛みつき、こき下ろしました。おそらくそれがパウロの正義であり、語らずにはおれない言葉でした。その結果アテネの伝道は明らかに失敗に終わりました。「それでも構わない。言いたいことを言えたので私は満足である」と、パウロは考えていたのではないでしょうか。

しかし、そのパウロが、ここマルタ島では、「この人は神様である」と言われても黙っています。いい気持ちになっていたはずがありません。キリスト教信仰とは全く相容れない思想です。それでも反論していません。“新しいパウロ”とまで呼ぶのは言い過ぎかもしれませんが、ここに至って異教的な人々に対する接し方が変わってきたように見えるのです。

わたしたちの教訓にすべきことがあると感じます。何でもかんでも言い返すのではなく、少し黙ることも大切ではないでしょうか。そのように考えさせられます。

そして、実際のパウロが次にとった行動はとても興味深いものです。

「さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。」

マルタ島の長官プブリウスの父親が、病気で寝ていました。パウロは、その家に行って苦しんでいるその父親を助けました。そうしたところ、島の人々がパウロのもとに集まるようになり、深く敬意を表してくれるようになりました。そして船出のときには必要な物を持って来てくれるほどまで仲良くなったのです。

ここにはわたしたちの伝道を考えるうえで、とても重要なヒントがあるように思われてなりません。問わなければならないことは、町の人々を批判し、皮肉を言い、けんかして、どうして伝道ができるだろうかということです。

私自身は、アテネでのパウロの気持ちが全く分からないわけではありません。偶像など見るのも嫌なところがあります。しかし、パウロの時代において、彼が初めて行った町が“異教的”であるというのは考えてみると当たり前のことだったわけです。

わたしたち日本の教会の場合も、それと似たようなことが言えるでしょう。この町に一つしかない改革派教会にとって、この町の多くの人が改革派教会の存在を知らないのは当たり前のことなのです。

しかし、その場面でわたしたちが感情を表に出し、「この町は異教的である。改革派的ではない」などと言っては、むきになって立ち向かい、相手を怒らせ、もめごとの種を撒き散らしていくことが伝道なのでしょうか。そうすることが教会の使命であると言わなければならないのでしょうか。もう少し違ったやり方はないのでしょうか。

このマルタ島でのパウロのように、苦しんでいる人のために祈り、手を置いていやすというようなやり方は、どうでしょうか。それは、単純に人の役に立つことをすることです。困っている人を助けることです。相手に喜んでもらえること、楽しいことをすることです。

大切な点は、わたしたちがそれを“教会の外側”にいる人々に向かってすることです。わたしたち自身がどんな人にも親切にふるまい、信頼される人間になり、「あの人が通っている教会ならば、わたしもぜひ通いたい」と思ってもらえるようになることです。時間がかかるかもしれません。しかし、それこそが最も理にかなった伝道の方法なのです。

(2008年8月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

アンドリュー・マーレーのこと

アンドリュー・マーレーがユトレヒト大学神学部の卒業生であるとは知りませんでした。

たしかにユトレヒト大学は、ファン・ルーラーが教えた学校です。しかし、1828年生まれのアンドリュー・マーレーと1908年生まれのファン・ルーラーとの間には、80歳の差があるようです。

1837年生まれのアブラハム・カイパーよりもマーレーのほうが9歳年上。これで分かることは、カイパーが43歳の時に自ら開学した「アムステルダム自由大学」(1880年創設)は、マーレーの神学生時代には存在しなかったということです。

また、カイパーやヘルマン・バーフィンクらが初代メンバーとなった「(非国教会系)オランダ改革派教会(GKN)」も存在しませんでした。言い方を換えれば、マーレーの神学生時代に改革派系の主要な牧師養成機関としてオランダに存在したのは、いずれも国立大学であるライデン大学、ユトレヒト大学、フローニンゲン大学の各神学部だけだったということです(たとえばカイパーはライデン大学神学部の卒業生であり、「(国教会系)オランダ改革派教会」(NHK)の牧師になりました)。

この三校のなかで最も古いライデン大学は啓蒙主義やフランス革命などの影響をもろに受けてリベラル化の一途を辿っていたようで、それがカイパーの国教会離脱の最も根本的な動機にもなっていくわけですが、ユトレヒト大学は(他大学と比較すれば)いくらか伝統的な改革派神学を保っていたようです。

19世紀のユトレヒト大学神学部で教えていた教授がどのような人々であったかは、A. ド・フロート編『ユトレヒトの神学四世紀』(A. de Groot (ed.), Vier eeuwen theologie in Utrecht, Zoetermeer, 2001)を読めば分かります。この本を私は持っていますので、そのうち調べておきます。


2008年8月23日土曜日

教義学の扱うべき範囲とは

(キリスト教)教義学の扱うべき範囲は、際限がありそうで無い。無さそうで、ある。そういう厄介な面があります。扱っているテーマが宗教の教義なのですから、宗教の主題としての神のみわざの全範囲を(とにかく何らかの仕方で)包括しているものでなければ、「教義学」と呼べるものではありません。

しかし、神のみわざの全範囲とは何でしょうか。それは「(「神が創造された」としか語りようがない)この宇宙の、最初から最後まで」というべきものです。それを一冊の書物にまとめることができる人間はいない。通常は、こういう前提から出発してよいはずです。

それでも「教義学」は、今日なお書かれねばならないものです。その理由は書き出すと長くなるので、今はやめます。それは現代においてもなお不可避的に書かれねばならない書物であり、また、それを書くのはいずれにせよ誰か人間です。

「誰にも書くことができない書物は、しかし、誰かによって不可避的に書かれねばならない。」もしこれをディレンマと呼んでよいならば、教義学は常にこのディレンマの中にあったし、今もあり続けていると言ってよいでしょう。

宇宙の最初から最後までを一冊の本にする。そのようなことは実際にはおそらく全く不可能なことであるわけですが、それでも20世紀まではさまざまな悪あがきがなされてきました。たとえば、タイトルの「教義学」の後に「概論」と付けておくことによって、「これは全体の要約としての意義を持ちうるのだ」と言い張ってみせる方法がしばしば用いられました。

あるいはまた、「教義学として書かれはじめた過去の書物は、いずれも未完結に終わったのである」という歴史的事実を引き合いに出すことによって互いに慰め合う(あのような偉い人たちでも成し遂げることができなかったことなのだから、わたしたち凡人にできなくても当然なのだという言葉をもって)というようなことも実際になされてきました。

しかし、そういうやり方は、私に言わせていただくと、何となくみっともなくて、見苦しいものです。「本当は書くことができたし、書くべき内容は山ほどあるのだが、時間切れで書けなかっただけである」と言う。悔し紛れか言い逃れとして言っているようにしか聞こえません。

わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。教義学を断念することは簡単です。この種の書物はとっくの昔から「サブカル化」しているわけですから、「新しい教義学を生み出す」などと息巻いている者は一笑・一蹴されるだけでしょう。16世紀や20世紀といった神学の黄金時代の書物を再版ないし再翻訳して、今の不毛な時代をやり過ごすしかないのでしょうか。


2008年8月22日金曜日

夏季休暇が終わりました

先週の木曜日から今週の水曜日まで夏季休暇をいただいていました。その間、妻子と共に岡山市の実家に帰省(実態は「寄生」ですね)していました。今年12月末に閉園されることになった「倉敷チボリ公園」に行ったり(初めて行きました。けっこう楽しかったです。最初で最後になってしまいました)、私にとっては懐かしい「表町商店街」や「天満屋」などを家族でぶらついたりしました。天満屋前の喫茶店で食べたカキ氷(ミルク金時)のあまりの美味しさに衝撃を受け、翌日まで快感にひたっていました。読書も少しはしました。茂木健一郎氏の『思考の補助線』(ちくま新書、2008年)を見つけ、一夜で読みました。本書全体を通じての「知のデフレ」ないし「知のサブカル化」に対する茂木氏の懸念や、茂木氏のニーチェ解釈(216ページ以下)には賛同できるものがありました。皮肉でも批判でもなく、「本書は茂木氏の宗教哲学ないし神学の書である」と思いながら、微笑ましく読み終えました。ひまつぶしのために(セブンイレブンの雑誌棚から)毎月買っている『日経PC21』の2008年9月号の中に見つけた古田貴之氏(千葉工業大学未来ロボット技術研究センター所長)のインタヴュー記事にはあらゆる意味で感動しました。この人は尊敬すべき真の学者だと思い、さっそく中学二年の長男に読ませました。日曜日は、日本キリスト改革派神港教会の礼拝に出席しました。長女が10年前に幼児洗礼を授かった教会です。午後は神戸のハーバーランドでぶらついた後、六甲山を越えて神戸改革派神学校の様子を見に行き、そこで渡蘭直前の石原知弘先生ご夫妻と30分間だけお話しすることができました。月曜日には、以前からメールのやりとりをさせていただいていた日本聖約キリスト教団南輝教会の吉岡創牧師に初めてお目にかかり、一時間半熱く語り合いました。「休暇でリフレッシュできましたか」と問われると答えに窮するものがあります。ガソリンは満タンになっていません。千円分ずつチビチビ買ってはようやく乗り継いでいる感じです。しかし、どんどん成長していく子どもたちを横目に見ながら、「私の目標はまだまだ遠い。こうしちゃおれない。立ち上がらねば」と少なからず再奮起できた(ような気がした)このたびの夏季休暇でした。「自分に甘い」人間であることを深く反省させられました。



面白そうだったコミュニティ

mixiの中にどんなコミュニティがあるのかを興味津々で調べています。今のところいちばん興味をひかれているのは「宮台真司」というコミュニティです。宮台さんという人に関心を抱いたというよりも、コミュニティの紹介文に「あえて作りました。これは戦略なんです。処方箋なんです」とか書いてあったことが、かなり言い訳がましくて、微笑ましくて、共感しました。でも、「誰でも参加できる(公開)」となっているものにわざわざ勇気を出して参加するのも奇妙なものだと感じましたので、建物の外から遠巻きに眺めるだけにして、中に入らないことにしました。中でがんばっている方々を貶す意図はありません。



やっとログインできました

mixiにログインできるようになることを長年憧れていましたが、だれも誘ってくれず寂しく思っていました。今日やっと誘っていただけました。初めての国の飛行場に降り立った気分です。どんなコミュニティがあるかを調べているところです。そのうち私も何か新しいコミュニティを作ってみたいです。



2008年8月21日木曜日

本当は直接お目にかかりたいのです

「久々のデジタル音声公開」へのコメントに感謝して



こちらこそお久しぶりです。お元気そうで何よりです。私の願いとしては、最初から、礼拝全体の音声を公開したかったのですが、ブログの機能上の制限(一ファイルあたりの大きさの上限)があって、それができなかったのです。それで仕方なく、説教の部分だけを切り取って公開していました。しかし、そのうちだんだん大変になってきたのが、礼拝全体の中から説教の部分だけを「切り取る」というその作業でした。私が利用しているデジタル録音ソフトは、インターネット上で拾ってきた無料の単純なものですので、高度な編集作業などはできません。パソコンを二台用意し、一方を再生用(アウトプット)、もう一方を録音用(インプット)にして、その昔、家庭用のテープレコーダーでしていたような、きわめて原始的な編集作業をしていました。それを毎週月曜日にしていました。毎回、その作業に長時間を費やしました。それがなんだか疲れてしまったのです。しかし、ブログ機能の向上により、大容量のファイルをアップできるようになり、録音したままのすべてを公開できるようになりましたので、「切り取り」の作業が不要になりました。テキスト(ブログとメールマガジン)はともかく、デジタル音声までを毎週確実にアップできるかどうかは分かりませんが(すべてを一人で行っていますので)、なるべく続けるよう努力いたします。とはいえ、言うまでもないことですが、私の求めるところは、自分の説教や礼拝全体をインターネットで公開することができたというところで終わるわけではありません。それは私の願いでもなければ目的でもありません。私の本当の願いは、ブログやメールマガジンを読んでくださり、デジタル音声を聴いてくださった方々が、松戸小金原教会の礼拝に出席してくださり、共に神を賛美してくださることです。真の神を信じてくださり、楽しく元気に生きてくださることです。そして、願わくは松戸小金原教会の会員になってくださることです。すでに他の教会でキリスト者である方々には、矜持と確信、喜びと救いの解放感とをもって信仰生活を続けていただくことです。距離や状況ゆえに毎週の出席が無理な方でも、せめて一年に一度くらいはお目にかかりたいです。松戸市は、東京都との県境に位置し、江戸川を越えてすぐのところにあります。最寄りの駅は、JR常磐線「北小金駅」か、JR武蔵野線「新八柱駅」です。どちらの駅も東京駅から40分くらいです。あとは、駅前(北小金駅でも新八柱駅でも)からバスに乗り、15分くらいです。バス停からは徒歩5分。そのルートで、不定期ながら東京から礼拝に通ってくださっている方も何人かおられます。駐車場もありますので、自動車での来会も可能です。もはや誰にも信じていただけないことかもしれませんが、私はこのパソコンというものがいまだに苦手で大嫌いです。しょっちゅう壁に向かって投げつけたくなります。ノートパソコンを買って以来、投げつけやすくなりましたので、かえって自制心が働くようになりましたけれども。パソコンとのつき合いは20年、メールを始めてから(当初「パソコン通信」と呼ばれていました)12年を経ているにもかかわらず、です。それほど苦手で大嫌いなものをかなり無理して使っているのは(この文章もパソコンで書いているわけですが)、私が発信する言葉に触れていただけた方々に直接(ただしなるべくなら日曜日の礼拝で)お目にかかりたいからです。パウロの言葉を借りれば、「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって励まし合いたい」(ローマの信徒への手紙1・12)からです。あとは、潤沢な資金でもあれば説教や論文を本にして出版したいところですが、それ(潤沢な資金なるもの)がないので、現時点では仕方なくインターネットに頼らざるをえないだけです。今年10月19日(日)には松戸小金原教会の特別伝道集会を行います。講師は私、関口康です。一生懸命に準備いたします。ぜひご参加くださいますようお願いいたします!



久々のデジタル音声公開

日本キリスト改革派松戸小金原教会の毎週の礼拝説教を公開してきました「今週の説教」ブログに、久しぶりにデジタル音声(MP3形式)を公開しました。2008年8月10日(日)の説教です。タイトルは「生きぬけ」(使徒言行録27・27~44)です。



今週の説教 ブログ
http://www.reformed.jp/



これまでと異なるのは、説教だけでなく、松戸小金原教会の主日礼拝(2008年8月10日)の全体の音声を公開した点です。利用しているブログ(ココログ)の機能が最近大幅に向上し、大容量のファイルをアップできるようになりましたので、このたび初めて礼拝全体の音声を公開することができました。関心をもっていただきたいのは、説教よりも、リタージ(礼拝式文)や賛美の歌声、オルガン演奏のほうです。奏楽者は佐々木冬彦さんです。おそらくは改革派教会以外の方々にとって目新しく感じていただける要素があるはずです。「ジュネーヴ詩編歌」や「ハイデルベルク信仰問答の交読」や「罪の告白と赦しの宣言」などがあります。「主の祈り」は献金の後です。わたしたちのリタージは、日本キリスト改革派教会に共通なものであるわけではありません。私の前任者、澤谷実牧師が熟考して作成なさったものをベースにして、若干の改定を試みてきました。私が言うと変かもしれませんが、非常に優れたリタージであり、私はとても満足しています。





日本のファン・ルーラー研究会がオランダで

昨年2007年9月26日ユトレヒト・ヤンス教会で行われた「ファン・ルーラー著作集出版記念祝賀会」の席上、ファン・ルーラーの二男ケース・ファン・ルーラー氏が日本の「ファン・ルーラー研究会」について紹介してくださったときのラジオ音声が、インターネット上に公開されています。



「出版記念祝賀会」のラジオ音声(ケース氏の音声は「12:00」あたりから始まります)
http://www.eo.nl/media/spelert.jsp?aflid=8948162



そして、つい最近のことですが、このケース・ファン・ルーラー氏の発言のテキスト(全文)が、『ファン・ルーラー著作集』を扱っている出版社(ブーケンセントルム社)のホームページで公開されました。それを以下、拙訳にてご紹介いたします。微妙な気持ちにさせられる部分もあります。「誤解」がとかれる日の到来を期待しています。



写真で見る「出版記念祝賀会」(ここでケース氏のテキストを入手できます)
http://www.aavanruler.nl/index.php?cId=236



■ 『ファン・ルーラー著作集』出版感謝祝賀会でのケース・ファン・ルーラー氏のことば(関口 康 訳)



何人かの方々のお話を伺いながら思い出されたことは、ハンス・ハッセラー氏のことです。二つの思い出があります。



第一は、私が最初に受けた予備試験がハッセラー氏によるものであったことです。3時に始まり、それはそれは長く続き、やがて暗くなり(10月か11月でした)私の記憶では7時半を過ぎていました。



第二は、スポーツのことです。父がサッカーを非常に愛したことについては、すでに他の方々が話してくださいました。しかし、それは真理の半面にすぎません。父が重んじたもう一つの球技は、ビリヤードでした。我が家にはビリヤード台がありました。多くの日曜日の午後、父とわたしたち家族と友人たちがビリヤードに熱中しました。さらにハッセラー氏や他の教授たちまで加わりました。彼らはビリヤードをするために来ているのではないかと思うほどでした。



紳士淑女の皆様、私はファン・ルーラーの子どもを代表して謹んでご挨拶申し上げます。私の名前はケースと申します。この美しいロマネスク様式の教会で、1960年代に学生運動が起こりました。父は当時、この教会に通っていました。私も父と共に毎週通っていました。ここで父の『著作集』の第一巻を紹介させていただける機会を与えられましたことを感謝しております。



ファン・ルーラーの子どもとして最初に応答することができますことは名誉なことです。次にお話しになるバース・プレシール氏は、私もよく覚えておりますが、学生でいらした頃、父の情報カード整理箱の中身を並べたり補充したりしておられました。情報カード整理箱は計画の開始と共にカンペンに運ばれました。ディルク・ファン・ケーレン氏が上手に使いこなしておられます。私個人はファン・ルーラー協会(Stichting Van Ruler)の会長という立場でこの計画に関与することになるかもしれないという特別な経験をさせていただいております。



出版準備会に参加させていただいた初めの頃は、専門家たちが何か非常に曇った表情で私の父について聞いたり話したりしておられることに、しばしば疎遠なものを感じておりました。それは時おり私に、昔の感覚を思い起こさせるものでした。当時私は(新米の神学者としての)父の講義が、父とは異なる立場の人々のところまで飛んで行って、彼らを高く評価するものである(私にとって父は「ふつうの」人でもありました)と感じていました。第一巻の準備の際に、わたしたちは定期的に講義のテキストを送りました。私が特別に魅了され、かつ記憶に残っているのは、1956年の『エルセフィアー』誌に父が書いた論文です。真理について論じたものであり、「真理はいまだ已まず」というタイトルがついています。



その論文の中で父は、真理をめぐる対話における共産主義者たちの貢献に全く魅了されていると告白しています。父は、真理とは物質的現実と等しいものであるという彼らの見方を、自分の命題である「真理はいまだ已まず」に取り入れたのです。内容的に全く魅了されたのであり、時代の中で際立っていたのです。その論文は第一巻の68ページ以下にありますので、すべてお読みいただくことができます。それは祭日の午後のことでした。しかし、私はここでいかなる仲たがいについても言及するつもりはありません。そのようなことを皆さんにお考えいただくことは、少しも楽しいことではありません。それは昔話であり、父が教授をしていた頃の話ではないでしょうか。今とは違います。



この種の仲たがいは世界中のどこにでもあると言っておきます。それは、どうやら日本にもあるようです。わたしたち家族は、何年か前に日本のプロテスタント神学者のグループと会いました。彼らは父の本を日本語に翻訳するための特別で敬意を表すべき計画をもっています。彼らは近いうちに著作集を刊行するための計画までもっています。ついでに申せば、二年前に彼の前任者がオランダに来たときに(私の息子のドゥーウェと姪のロサリーと共に)私も会っていたらしいのです。彼らのリクエストがありました。私はファン・ルーラーの生活や知る価値のある事柄についての彼らの無邪気な考えを重んじるつもりでした。彼らは私の父が飼っていた小犬のことにまで興味を示してくれました。そのレベルのことを私は考えていました。



皆さんが期待されるでありましょうことは、多くの礼儀作法と共に開始される日本式の会話がなされただろうということでしょう。それはまさに真実でした。わたしたちは(ホテルの寝室でした)まだ座ってもいませんでしたのに、炎のような口ぶりで最初に問いかけられたことは「ファン・ルーラーは自分の神学のなかで『存在』(het Zijn)という言葉をどのような意味で語ったのでしょうか。この件についてお聞かせいただけませんでしょうか」というものでした。



それ以外の点では、すべては順調に運びました。しかし、そのグループは『われ信ず』という父の本をファン・ルーラー家の承諾なしに日本語に訳した日本の他のグループと争っています。



それは日本のなかでの問題です。ここユトレヒトにおいては、大きな一致と感謝において、私の父の著作集の素晴らしい第一巻を見ています。本当にうれしく思っています。



ニコ・ドゥ・ヴァール社長のもとにあるブーケンセントルム出版社の皆さま、ファン・デン・ブリンク教授ならびに出版会の皆さま、そして編集者のディルク・ファン・ケーレン氏に心からの感謝を申し上げます。ありがとうございます。



2008年8月10日日曜日

生きぬけ


使徒言行録27・27~4

先週の個所に記されていましたのは、恐ろしい出来事でした。囚人としてローマ皇帝のもとに護送されることになった使徒パウロを乗せた船が、地中海の上で激しい暴風に遭い、漂流しはじめたというのです。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」(27・20)と書かれていました。

その船に乗っていた人の数は276人であったと、今日の個所の37節に記されています。これだけの数の人々が、暗闇の海の上でほとんど絶望してしまったのです。

しかし、そのような状況とその人々のなかで、パウロは、非常に毅然とした態度を貫きました。それは、ある意味で不思議なことでもあります。そもそもパウロは囚人でした。一人の囚人に過ぎない存在でした。その船のなかでパウロは、いかなる意味でも指導的な立場にはありませんでした。指導的な立場にあったのは、ローマの百人隊長であり、軍人たちであり、船長であり、船主でした。

もしその人々がその船に乗っている人々を励まし助けたというならば、よく分かる話になるわけです。しかし、彼らはおろおろするばかりでした。その中で一人、パウロが語りはじめました。護送中の囚人の一人にすぎなかったパウロが、とにかく一生懸命になってみんなを励まし、力づける言葉を語ったのです。そしておそらくはパウロの言葉が、絶望していた人々を勇気づけるものとなったのです。

「十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。」

27節以下に描かれていますのは、航海についての専門的な知識をもっていた船員たちが、どこかの陸地に近づいていることを察知したとき、船が暗礁に乗り上げて難破することを恐れ、自分たちだけがその船から逃げ出そうとした様子です。しかし、その怪しい動きにパウロが気づきました。そして、そのパウロが即座に取った行動は、百人隊長と兵士たちに船員たちの逃亡計画を知らせ、それを阻止してもらうことでした。

このパウロの行動の意味は、次のように説明できると思います。専門的な知識をもっている人が自分たちの命を守るために逃げ出し、彼ら以外の人々、つまり、専門的な知識をもっていない人々の命を犠牲にすることは重大な犯罪であるということです。そのことをパウロが「百人隊長と兵士たち」に知らせたことの意味は、その人々の軍事力、あるいは警察力に訴えることであるということです。

ここで皆さんにお考えいただきたい点は、わたしたちが何らかの専門的な知識をもつとは、まさにそのようなことであるということです。話は飛躍しているかもしれませんが、いわゆるインサイダー取引がなぜ犯罪なのかを考えていただくと、私が申し上げたいことをすぐご理解いただけるに違いありません。これから株価が上がることを事前に知りうる少数の専門的な知識をもった人々が、値上がりする直前に株を買い、値上がりした直後に売り抜けて一儲けする。これは重大な犯罪なのです。

他にも例を挙げて行くと、きりがありません。わたしたちが考えなければならないことは専門的な知識をもつとはどういうことなのかということです。そこにどのような責任が伴い、果たすべき役割が伴うのかです。もちろんわたしたちが専門的な知識をもつためには一生懸命に勉強する必要があるでしょう。つまりその問いは、わたしたちが一生懸命に勉強することの目的は何なのかという問いでもあるでしょう。

自分自身や家族や友人たちだけを助けるためだけでしょうか。そうではないでしょう。わたしたちは、多くの人々のために、公共の福祉のために、自分の専門的知識が用いられるようになるために一生懸命に勉強すべきなのです。そして多くの人々と共に力を合わせて危機的な状況を乗り越えていくために真剣に働くべきなのです。そうでなければわたしたちの勉強にも仕事にも意味がないでしょう。いかにもケチくさい、自分のことしか考えないような生き方は、明らかにまずいでしょう。

もちろんその中に自分自身や家族や親しい友人たちが含まれていることは許されてよいことでしょう。しかし、自分たちだけが逃げ延びて、他の多くの人々が犠牲になっていく様子を、まるで対岸の火事でも見るように、遠くから眺めているというのでは、何のための専門的知識なのか、何のための勉強なのかが真剣に問われなければならないでしょう。

先週も申し上げましたように、パウロには、航海に関する専門的な知識はなかったかもしれません。しかし、そのパウロが、彼の全力を尽くして危機的状況の中にあった人々を助けることができたのです。その意味をよく考える必要があるように思われます。

「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。』こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」

その船に乗っていた人々は、14日間、つまり二週間もの間、全く何も食べずに過ごしました。その中でパウロが語った言葉は「どうぞ何か食べてください」ということでした。先週の個所でパウロは、人々に「元気を出しなさい」と語り、また「わたしは神を信じています」と語りました(25節)。私が興味深く感じたことは、パウロがこの場面で口にしていない言葉がある、ということです。

それは「皆さん、どうか神を信じてください」という言葉です。また「皆さん、どうか祈ってください」という言葉です。このような場面ではそういう言葉を語るべきではないということを、私が言いたいわけではありません。事実としてパウロはそのような言葉を口にしていないということを申し上げているのです。そのようなことよりもむしろ、この場面でパウロが積極的に語った言葉は「元気を出しなさい」であり、「何か食べてください」という言葉であったという事実です。

「神を信じてください」「祈ってください」という言葉のほうを“宗教的な”言葉と呼ぶとしたら、「元気を出しなさい」「何か食べてください」という言葉はいわば“一般的な”言葉です。あるいは、前者を“精神的な”言葉と呼ぶならば、後者はいわば“肉体的な”言葉です。さらに言い換えれば、後者は“人間的な”言葉であると呼べるでしょう。

もちろんパウロは自分自身の告白として「わたしは神を信じています」と語っていますし、また彼自身の一つの態度決定として神に祈りをささげています。しかし問題は、そのパウロが自分以外の他の人々に対して何を語り、どのような態度をとったかです。今日の個所を見るかぎりパウロはきわめて積極的に“一般的”な言葉、あるいはきわめて“人間的な”言葉をもって人々を励ましました。この事実が、私にとっては大変興味深く感じられたのです。

この点は、わたしたち自身の姿と重ね合わせて見ることができるでしょう。より根本的な問いとしては、教会と牧師は“人間的な”言葉を語ってはならないだろうかということでもあるでしょう。わたしたちが苦しみの中にある人々を励ましたり慰めたりするために語るべき言葉は何なのかを考えるための、重要な材料になるでしょう。それこそ二週間も食事をとれない状態のなかで全く絶望しかかっている人々に向かって、ここぞとばかりに伝道しなければならないでしょうか。それが彼らを助けることになるでしょうか。

この場面でパウロが語っている言葉に対して私が感じることは人間的な温かさ、あるいはデリカシーです。

伝道者になりたての頃のパウロは、語る言葉の一つ一つがけんか腰のようでした。噛みつくような調子で語っていました。しかし、そのパウロも本当に苦しみ抜いてきたのではないでしょうか。人の苦しみや痛みがよく分かるようになってきたのではないでしょうか。人が生きるために、「生き延びるために」(34節)何が必要であるかを、人としての心の深い次元で知るようになってきたのではないでしょうか。ここにパウロの人格的成長を読み取ることができるように思います。

「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」というのは、もちろん真剣そのものの言葉であるに違いないのですが、どこかしらユーモラスな響きがあります。これと似た表現は、旧約聖書のサムエル記上14・45、サムエル記下14・11、列王記上1・52、また新約聖書のマタイによる福音書10・30、ルカによる福音書12・7に出てきます。

その個所を見ると分かることは、問題は髪の毛の本数ではないということです。「主なる神があなたの命をしっかりと守ってくださる」という点を強調して語る、励ましの言葉です。人を勇気づける言葉です。

「朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。」

船がついに陸地にたどり着きました。しかし、船員たちが予測したとおり、浅瀬にぶつかってしまい、船が壊れてしまいました。兵士たちが、囚人たちが逃げないように殺そうとしたのは、彼らに与えられた任務を全うしようとしたからではありません。囚人に逃げられてしまうと彼らの責任を追及され罰せられることを恐れての行為です。ここにも自分が助かることしか考えない、自己保身的な人々の姿が描かれています。

しかし、彼らの計画は、百人隊長が阻止しました。「パウロを助けたいと思った」とあります。パウロを大事に思う気持ちを、百人隊長が持ってくれたのです。そのおかげで誰も殺されずに済んだのです。全員が助かったのです。

どうか言わせてください。囚人にすぎない一人のパウロが、276人全員の生命を救ったのです。他の誰よりも強く立ち、全力を尽くして、与えられた知恵と力を用いて。

その際、“自分のことしか考えないわがままな人々との戦い”という点を無視することができません。自分自身を含む(これが重要です!)全員が生き延びるために、パウロは、その頭と心をフル稼働させて、最後まで戦い抜いたのです。

(2008年8月10日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年8月3日日曜日

わたしは神を信じています


使徒言行録27・1~26

使徒言行録の学びも、大詰めを迎えています。今日の個所から始まりますのは、言ってみるならば、パウロの第四回目の伝道旅行の様子です。ただし、第四回目という数え方が正しいかどうかは微妙です。

これより前に行われました三回の伝道旅行は、パウロ自身の祈りと計画に基づくものでした。しかし、今回は違います。今やパウロは囚人です。彼は囚人として、ローマ帝国の軍隊に引き連れられて、新しい旅行を始めることになったのです。

目的地は、イタリアの首都ローマでした。パウロがカイサリアで行われた裁判の結果を不服としてローマ皇帝に上訴したのを受けて、ローマに護送されることになったのです。それは、この(事実上の)第四回伝道旅行は、パウロの祈りと計画に基づくものではなかったことを意味しています。

とはいえ、今申し上げた事実にもかかわらず、これはパウロにとって事実上の第四回目の伝道旅行であったとみなすことができます。なぜなら、ローマに行くことそれ自体は、すでに十分な意味でパウロ自身の祈りと計画の中にあったことだからです。そのことは、ローマの信徒への手紙の中に記されています。「わたしは、祈るときにはいつもあなたがた〔ローマの教会の信徒たち〕のことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(ローマ1・9~10)。

ところが、パウロはその続きに「何回もそちら〔ローマ〕に行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」とも書いています。つまりパウロにとってローマは、何とかしてそこに行きたいと願いつつ、いろんな要素に妨げられて、なかなか行くことができなかった場所だったのです。

そのためわたしたちは、事情は何であれ、パウロの願いはかなったのだと信じてよいのではないでしょうか。生きておられる神御自身が全く不思議な仕方で、パウロをローマへと導いてくださった。そのように見ることができると思います。

「わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人のところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。」

船を用いて海をわたってパウロと何人かの囚人をローマへと護送する責任を負うたのは、ローマの百人隊長ユリウスでした。

このユリウスがパウロを「親切に」扱ったと言われていますが、「親切に」は「人道的に」または「人に優しい仕方で」と訳すこともできる言葉です。その意味として考えられるのは、パウロは確かに囚人でしたが、非人道的な仕方で拘束されておらず、かなり自由に行動できる状態にしてもらっていたということでしょう。当時のローマ人たちの寛大さや見識を垣間見ることができるエピソードと言えるでしょう。

「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた。かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。『皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。』しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。」

今日の個所から分かることは、パウロの時代の海の旅は決して順調なものではなかったということです。当時のローマ軍の船の大きさや性能がどれほどであったかは知りません。しかし、向かい風が吹けば進むことができず、陸や島を見ながら針路を決めたりしていることを見るかぎり、いかにも危なっかしい古代の原始的な船を想像すべきでしょう。

そして、もたもたしている間に冬が訪れました。すると、この時期の航海は危険であるとパウロは判断し、そのように人々に忠告したと記されています。ここで問題になることは、はたしてパウロに航海についての専門的な知識があったのかということです。書物や勉強によって得た知識くらいは持っていたと考えてよいかもしれません。また、これまで三回の伝道旅行の中には船に乗る場面もありましたので、そのたびに船長たちから教えられた知識があったのかもしれません。しかし、これとてあくまでも想像にすぎません。

むしろ事実に近いと思われることは、パウロの判断は、彼自身が「わたしの見るところでは」と言っている点を重く受けとめるとしたら、一種の直感あるいは霊感のようなものに基づくものであったということです。別の言い方をすれば、パウロはこの件に関しては素人(しろうと)であると見られても仕方がない人であったということです。

だからこそ、というべきでしょう、百人隊長はパウロの判断を受け入れず、船長や船主の判断のほうを信用しました。これはある意味で仕方がないことです。専門分野を越えて口を出すと、いろんな反発が返って来ます。「素人である」と批判されます。

ところが、です。パウロの判断が的中しました。彼らの船は、その時期に発生する暴風の直撃に遭い、太陽も星も見えない闇の中で、行く先も分からぬ状態になり、漂流することになったのです。

「この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。人々は長い間、食事をとっていなかった。」

私自身は、暴風のなか海の上を漂流するというようなことを経験したことはありません。強いて挙げるとしたら、一度だけ少し似ている状況に遭遇したのは、ギリシア発エジプト行きの飛行機に乗っているときでした。積乱雲に突入し、機体が激しく揺れたり、垂直に落ちたりして、私の目の前に座っていた客室乗務員の女性たちが乗客より大きな声で悲鳴を上げているのを見て、こちらが不安になってしまったことくらいです。

しかしまた、もう少し視野を広げて考えてみるとしたら、パウロが実際に遭遇した嵐の中のこの漂流体験は、わたしたちが人生のなかで何度となく味わう生活上の苦労の体験になぞらえることができるように思われます。

ここで二回繰り返されている印象的な表現は「流されるにまかせた」です。わたしたちも「流されるにまかせる」という体験をしたことがあるのではないでしょうか。

また彼らは「積み荷」(!)を捨て、ついには「船具」(?!)までも捨てました。こういう体験も、わたしたちは何度となく味わったことがあるのではないでしょうか。決して捨ててはならない大切なもの、それを捨てると先の人生を生きていくことさえも(精神的・肉体的に)困難になるほどのものまでも、仕方なく、涙を流しながら、捨てなければならない場面が、何度となくあるのではないでしょうか。

わたしたちの人生も、そして教会も同じです。教会も様々な困難、経済的な行き詰まりなどまで味わいます。あらゆることを切り詰めながら難しい局面を必死で乗り切っていかねばならないときがあります。

パウロが知っていたのは、おそらくその面なのです。彼には、船や海についての専門的な知識はなかったかもしれません。しかしパウロは、教会という船の船長を務めてきた人です。伝道の嵐と戦ってきた人です。海よりも恐ろしい反対者や迫害者に囲まれて、その中で死ぬほどの苦しみを味わってきた人です。

興味深いことは、そのパウロこそが、この嵐の中の恐ろしい漂流体験の中で、その面での専門家であったはずの船長よりも船主よりも、さらにローマ軍の兵隊たちよりも力強い言葉を語って、みんなを励ましたのだということです。パウロの強さは、明らかに、教会と伝道の戦いの中で身につけてきたものなのです。

「そのときパウロは彼らの中に立って言った。『皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。』」

パウロには一言多いところがありました。言わなくてもいいことを、つい言ってしまう。「わたしの言ったとおりにしていれば、このような目に遭うことはなかったのに」。

これは、苦しんでいる人をますます追い詰める言葉です。語られなければならない言葉かもしれませんが、これを聞く人の心は必ず傷つくでしょう。

パウロとしては、つい出てきた言葉だったかもしれません。しかし、それ以上は続けていません。実際に苦しんでいる人々を前にして、「その苦しみを招いたのは、あなたがたの責任である。そもそもあなたがたの最初の判断が間違っていたのである」というようなことをいくら言っても、彼らを助けることにならないことくらい、パウロにも分かっていたのです。

原因や責任の追究は、後回しでよい。今必要なことは、現実となったこの苦しい状況をみんなで乗り越えていくことである。そのことをパウロはよく分かっていたのです。

むしろこの場面でパウロが語ったことは「元気を出しなさい」でした。そして「わたしは神を信じています」という言葉でした。

「わたしは」にも「神を」にも「信じています」にも、それぞれ重い意味が込められていると感じる非常に味わい深い言葉です。もちろんその意味は、「神がこの絶望的な状況を切り開いてくださる。そのことをわたしは信じています」ということでしょう。

しかしパウロが「神を信じてください」とは言っていない点も重要です。この場面でパウロは、押しつけがましいことを少しも言っていないのです。

今、苦しみの中にいる方々へ。わたしたちもパウロと同じ言葉を送ります。

「わたしは神を信じています」。神がわたしたちを必ず助けてくださるでしょう。

(2008年8月3日、松戸小金原教会主日礼拝)