2008年3月9日日曜日

町に信頼される教会をめざして


使徒言行録19・21~40

「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。『諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界をあがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。』これを聞いた人々はひどく腹を立て、『エフェソ人のアルテミスは偉大な方』と叫びだした。そして、町中が混乱してしまった。」

今日の個所に紹介されていますのは、使徒パウロの第三回伝道旅行の途中、エフェソに滞在していた頃に起こった出来事です。パウロたちがキリスト教信仰を熱心に宣べ伝えた結果、エフェソに大きな暴動が起こったのです。それは町中を大混乱状態に陥れる非常に困った事件でした。そして、その暴動によって町があまりにもひどい状態になったので、町の役人が暴動の鎮圧に乗り出してようやく騒ぎが収まったという話です。

しかし、いま私が申し上げましたのは、事件の途中経過を省略して、最初と最後だけをくっつけただけの説明です。誤解されては困ることがあります。それは、このエフェソの暴動の犯人はパウロではないということです。パウロたちは、本当にただキリスト教信仰を宣べ伝えただけです。しかしその教えの内容を故意に曲げて受けとめる人々、あるいは全く誤解して受けとめる人々が現われたのです。そして過剰反応する人々が現われました。あのような信仰を宣べ伝えられると自分たちの立場が危なくなると考えた人々が現れたのです。そしてその人々がキリスト教信仰と伝道者パウロに対して非常に腹を立てました。その結果として暴動が起こったのです。ですから、パウロたちには暴動そのものに対しては何の責任もありません。暴動は犯罪です。その責任はそれを起こした犯人にあるのです。

暴動の発端は、アルテミス神殿の模型を作っていたデメトリオという銀細工師がパウロの「手で造ったものは神ではない」という言葉に反応したことです。たしかにこのようにパウロは語りました。使徒言行録17・29の言葉です。アテネでの説教です。「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」。考えられることは、アテネでパウロが確かに語った言葉が、数年の時を経て、エフェソのデメトリオの耳に届いたのではないかということです。

しかし、パウロが語ったのは、いわばそれだけです。そして、それは確かな事実であり、真実です。手で造ったものが神であるはずがないのです。これはキリスト教を信仰を受け入れている人々だけの真理ではなく、誰にでも受け入れることができる普遍的な真理なのです。パウロは、単純で当たり前の真理を語っただけです。少年は、王さまが裸だったから「裸である」と言っただけです。パウロが語ったのも同じようなことです。手で造ったものは神ではない。別の言い方をするなら、人間が神を造ることはできないということです。

しかし、デメトリオは、このパウロの言葉に対して非常に強く反応しました。キリスト教信仰とやらがこの町に流行しはじめると、「我々の仕事の評判が悪くなってしまう」し、「偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされる」し、「この女神の御威光さえも失われてしまう」と考えました。私は、このデメトリオは、相当頭の切れる人であると感じられます。計算高く、物事の動きや流れを先読みすることができる能力がある、経済学者のような人です。しかしまたこの人はけっこう思い込みの激しいタイプの人でもあったようにも感じられます。パウロが言っていないことまでパウロが言ったかのように言いふらす。パウロは、神殿そのものへの批判や神殿の模型を作ることへの批判までは語っていません。デメトリオはパウロが言っていないことをまるでパウロが言ったかのように解釈し、勝手に怒っているのです。

魔術を行っていた人々がキリスト教信仰を受け入れた結果、不要になった銀貨五万枚の魔術の書物を焼き捨てたという出来事も、彼らに対してパウロが「そんな書物は、捨てなさい。焼きなさい」と勧めたということまでは書かれていません。そのように勧めたかもしれませんが、勧めなかったかもしれません。パウロが勧めたという事実があったとしても、それはそれで何の問題もありませんが、もし勧めていなかったとしたらパウロ一人に責任を押しつけられるのは理不尽です。

しかし、このように言いながらも私は、同時に別のことも考えています。それは何か。わたしたちの語る言葉には表面と裏面がある。そのことは否定できないということです。

わたしたちはただひたすら真の神を宣べ伝えているだけであり、真の宗教を宣べ伝えているだけです。教会の伝道の本来の目的は他の宗教の批判をすることではなく、他の人々が信じている神々を否定することではありません。しかし、今申し上げたことは、いわば言葉の表面です。わたしたちの言葉を聞く人々は、それほど素直に聞いてくれるわけではありません。言葉の裏側を必ず読み取ります。こちらが言っていないことまで勝手に読み取ってくれるのです。

伝道にはそのような要素がどうしても避けられません。わたしたちの言葉を聞く人々の中には「それではお前は我々がこれまで信じてきた神は偽物だと言うのか。我々の宗教は嘘っぱちだと言うのか。我々が代々守ってきた宗教を否定するお前は、我々の宗教施設や行事によって経済的に支えられてきた人々の生活を脅かすつもりなのか」と、そのような反応を起こす人が必ず現われるのです。

微妙な点があります。わたしたちが語る言葉の裏側にあるものをそこまで読み取る人々に対して「それは読み込みすぎである。我々はそこまで言っているわけではない」などと言って済ませることができるでしょうか。あるいは、今日の個所に登場するデメトリオがパウロの言葉の中に見抜いた事柄を、パウロ自身が、あるいは他の人々が「あなたは考えすぎである。我々はそこまでは言っていない」と言って済ませることができるでしょうか。それは無理なことではないか。そのようにも、私は考えるのです。

かくして、暴動は始まりました。実際のパウロはそのようなことを一言も言っていない言葉をまるでパウロが言ったかのように決めつけられることによって。しかしまた、暴動は、パウロがたしかに発した言葉の裏側を鋭く読み取る力がある人によって(避けがたく!)始められたものであるとも思われるのです。

「彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕え、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。」

暴動はとても激しいものだったようです。興味深く感じるのは、「大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」(32節)と書かれている点です。意味も分からずただ騒いでいただけの人々がたくさんいました。群集心理とは、まさにこのことです。

そういうときに、です。今日の個所を読みながら私が最も感銘を受ける点は、パウロの弟子たちや友人たちの動きです。「パウロは群衆の中へ入っていこうとした」と記されています。ところが、です。彼らは、おそらく体を張って、あるいは言葉を尽くして、パウロの突入を止めました。私はなぜ、このような点に“感銘”を受けるのでしょうか。理由ははっきりしています。そこに暴動が起こっているところのど真ん中に、たった一人で乗り込んでいこうとするパウロの行為は、愚かな人(要するにバカ)のすることだからです。そのようなことは、少しも誉められるべきものではないからです。このような愚かな行為は、誰かが(体を張ってでも!)止めなければならないのです。

何度も申し上げてきましたとおり、パウロという人は非常に強い人でした。正義感にも満ちあふれていました。だから、暴動の最中の群衆の中にでも堂々と入っていこうとしたのでしょう。そして彼が皆の前で始めようとしたことは、おそらく説教です。自分の口で率直な言葉を語れば、なかには理解してくれる人も出てくるかもしれないとでも思ったのでしょうか。あるいは、ひょっとしたら、さらに楽観的に考えた可能性もあります。もしかしたら、このわたしに託された神の力によってこの暴動をやめさせることができるかもしれない、と考えたかもしれません。

このようなやり方は、うんと悪く言えば、傲慢な態度にも通じます。正義感という名の傲慢です。結局のところ、自分の力を過信することです。パウロの弟子たちと友人たちは、パウロの姿にそのようなものを見出したのではないでしょうか。

パウロの無謀な突入を止めた彼らの判断は、非常に正しいものであったと、私には思われます。わたしたちの多くは、パウロを模範と考えます。私もパウロを尊敬しています。しかし、パウロが聖霊に導かれて生きる者であるならば、パウロの弟子たちもその点では同じです。群衆の中に突入しようとしたパウロの判断は聖霊に導かれているものだったかもしれませんが、それを言うならば、パウロの突入を止めた彼の弟子たちの判断も聖霊に導かれているものです。パウロだけがそうだと語ることはできません。

彼らがパウロに何を言ったかは分かりません。「パウロ先生、お願いですからやめてください。あなたが行くと火に油を注ぐようなものです。暴動は収まるどころかますます激化するでしょう。今あなたのなすべきことは、一刻も早く暴動を鎮めることです。そのためにこそ、どうか群衆の中に入っていかないでください。無謀なことはしないでください」。もし私ならば、そのように言ったかもしれません。

事実、この暴動はエフェソの町の役人が登場し、「本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある」という脅し文句付きで諭されることによって初めて鎮静化されるに至りました。政治の力に委ねられる必要があったのです。

今日の個所を読みながら考えさせられたことは、教会と伝道者は賢くなければならないということです。わたしたちが日々携わっている伝道のわざは、今すぐにでも喧嘩に巻き込まれてしまいかねない要素で満ちあふれています。わたしたちが真の神を宣べ伝えるや否や、他の宗教の人々や他の存在を信じている人々が「我々の存在を否定された」というようなことを感じて、怒り出すからです。

しかし、そのときにわたしたちにできることは、必要以上に火に油を注がないことです。けんかしないでください。たとえ売られたけんかであっても、どうか買わないでください。この場面ばかりはパウロを見習わないでください。パウロの弟子や友人たちの側の言い分に耳を傾け、聞き従ってください。今の日本では、暴動までは起こらないかもしれませんが、教会とキリスト者は、今すぐにでも町や家族の中から孤立させられてしまいます。町から孤立した教会に、町への伝道ができるでしょうか。家族の中で孤立したキリスト者に、家族への伝道ができるでしょうか。そこに大きな疑問があるのです。

町に信頼される教会をめざすためには、言いたいことも、したいことも、少々我慢する必要があるのです。わたしたちには「何もしない」という方法もあるのです。すべてを神に委ねること、自分は引き下がることが、すべてを解決してくれるときもあるのです。

(2008年3月9日、松戸小金原教会主日礼拝)