一例を挙げてみます。ファン・ルーラーの文章について、いくつかの訳例を作ってみました(いずれも私訳です)。
(原文)
Voor de praxis pietatis van de enkele christen is het van de grootste betekenis, dat hij in zijn omgang met God oog heeft voor alles, wat God doet: niet alleen voor het avondmaal, maar ook de maaltijd thuis; niet alleen voor de liturgie van de kerk, maar ook voor de kunst; niet alleen voor de redding van zijn ziel, maar ook voor de dingen van het dagelijkse leven. (A. A. van Ruler, De waardering van de rede [1958] , Verzameld Werk, deel 1, 78.)
(訳例 1)
神との交わりにおいて神のなされるすべてのみわざを見つめる目を持つことは、キリスト者個人の信仰的実践(または敬虔の修練 praxis pietatis)にとって最も重要なことである。その目は、「聖餐式」だけではなく「家庭の食卓」をも、「教会の礼拝」だけではなく「芸術」をも、「魂の救い」だけではなく「日々の雑事」をも、見つめるのである。
(訳例 2)
「聖餐式」や「教会の礼拝」や「魂の救い」などは重要ではないと言いたいわけではない。しかし、キリスト者の信仰的実践(または敬虔の修練 praxis pietatis)は、そのようなことだけに終始するものではないのである。キリスト者の信仰的実践にとって最も重要なことは、神との交わりにおいて神がなされるすべてのみわざを見つめる目を持つことである。その目は、「家庭の食卓」や「芸術」や「日々の雑事」をも見つめるのである。
前者(訳例 1)のほうが「原文に忠実な訳」であるつもりで書きました。原文の構文を守りつつ、原文の各単語と日本語の辞書的意味との「一対一」の“パッチワーク”を行ってみました。しかし、この文章は、日本語として理解できるものでしょうか。これを読んで「ファン・ルーラー先生の意図が分かりました!」とすぐに返事できる方がいるとしたら、その方はかなりの天才です。これに対して私自身は、許されるならば後者(訳例 2)の方向に進んでいきたいと願っています。これでもまだまだ日本語として理解しにくい文章であることは承知しています。しかし、「著者(ファン・ルーラー)の意図を明らかにする」という一点においては、前者よりも後者のほうがよいと信じています。