2008年3月7日金曜日

インプットとアウトプット

昨日の日記に、「ファン・ルーラーの著作を読んでいるときがいちばん幸せを感じられる」という趣旨の言葉を、確かに書きました。これは正直な気持ちです。しかし、こういう言葉は誤解を生みやすいものかもしれません。その前後に行ったこと、すなわち、入院している方の訪問、牧師館の大掃除、中会の委員会などには「幸せを感じられない」という意味ではありません。これとあれを見比べて、こちらはつらいがあちらは楽しいと言いたいわけではありません。しかし強いて言うならば、ファン・ルーラーの著作を読むことは私にとって「疲れ果てた体と心を温泉で癒すこと」に似ているかもしれません。ファン・ルーラー自身にもその自覚があったようです。たとえば、月曜日に訳していた論文「教義の進化」(De evolutie van het dogma)の中に「教義それ自体に贅沢や遊びの要素がある」(Het dogma heeft iets aan zich van luxe en spel)という名言が見られるように、です(A. A. van Ruler, Verzameld werk, deel 1, Boekencentrum, 2007, p. 285)。そのとおり!神学、とりわけ教義学には確かに「贅沢や遊びの要素」があります。旅行よりもスポーツよりも楽しい要素があります。そう感じるのは、おそらく私にとって神学の学びは「インプットの側面」だからです。生のエネルギーの充填です。それに対して、教会や中会や大会などの仕事は「アウトプットの側面」です。神学の学びが本当にただの学びだけで終わるとしたら、限りなく空虚そのものです。神学は、《地上の世界》と《地上の教会》と《地上の人間》の諸現実の中で(試行錯誤のうちに)実践されることによって検証されなければなりません。しかし、インプットなしのアウトプットは息切れの原因です。ガソリンを入れないで自動車を走らせようとするようなものです。牧師のガソリンは神学です(「牧師の」だけではないことは分かっていますが、今は私自身のこと(愚痴のようなことですが)を書いている場面なので)。新しく設立されたばかりの東関東中会には、東部中会のような「神学研修所」はありません。活力の源が近くにないことは、牧師が力を失う原因になります。神戸改革派神学校は、距離が遠すぎて手が届きません。松戸小金原教会の牧師館から自動車で一時間弱も走れば「東京キリスト教学園」(東京基督教大学・東京基督神学校・共立基督教研究所。いずれも千葉県印西市)、また二時間強走れば(外環自動車道を利用してのことです)私の出身校「東京神学大学」(東京都三鷹市)に到着します。関東地方に「改革派教義学」と「ファン・ルーラー」をキーワードとする具体的な人間関係を作っていきたいと願っています。そして各地でファン・ルーラーの読書会が開かれることを期待しています。もし私にもお助けできることがあれば、何でも喜んでさせていただきます。これまでの実績としては、2004年9月から3月までの半年間、「東京キリスト教学園」で学生有志のファン・ルーラー研究会を開くことができました(講師は関口 康)。学生さんたちは、とても熱心に、また楽しそうに参加してくださいました。メーリングリストは9年も続けてきましたが、インターネット上のやりとりには、この熱気を感じることが難しいのです。