2008年3月28日金曜日

それにしても翻訳は難しい!(4/5)

この一文の中でファン・ルーラーが語ろうとしていることは、キリスト者の信仰的実践(praxis pietatis)にとって最も大きな意味がある「神のすべてのみわざを見つめる目」が向けられるべき対象は何かということです。その目は、教会の壁の内(intra muros ecclesiae)における神のみわざ(聖餐式、教会の礼拝、魂の救い)を見つめるだけで終わってよいものではなく、教会の壁の外(extra muros ecclesiae)における神のみわざ(家庭の食卓、芸術、日々の雑事)をも見つめるものでなければならないということです。言葉を換えて言うならば、ファン・ルーラーが勧めていることは、キリスト者である者ならばこそ、「教会」に対して《内向きな》態度をとることだけに終始してもよいようなものではありえず、むしろ常に《外向きな》態度をとり続けるべきであるということです。“世俗化”(ontkerkelijking=脱教会化=教会と国家の分離)の不可逆的プロセスの中にある現代社会においてキリスト者が陥りやすい「教会への引きこもり」を、ファン・ルーラーは警戒しました。世間の中へと堂々と出ていき、「政治的な」責任を負う勇気を持ちなさいと訴えました。キリスト者が「不信仰な世間の人々」をあまりにも邪悪なものとみなして嫌悪感や恐れを抱き、その人々から遠ざかり、教会の砦に立てこもり続け、外側へと一歩も出て行こうとしないこと、なかでも「政治的な事柄」に関わろうとしないことは、「この世界と人類を創造された神への冒涜である」とさえ語りました。ファン・ルーラーの「宣教(アポストラート)の神学」が示すベクトルは、「教会への引きこもり」とはちょうど正反対の方向を向いているのです。