2008年3月23日日曜日

十字架につけられたイエスは墓におられない


マタイによる福音書28・1~10

今日はイースター礼拝です。わたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする礼拝です。それを今日は昨年同様、召天者記念礼拝として行っています。ご遺族の方々が出席してくださっています。遠方からお集まりくださり、ありがとうございます。

また、先ほどは林昭子姉の洗礼式を執行することができました。林さんも二年半前に御主人・暁さんを亡くされました。林暁さんの洗礼式は、国立がんセンター東病院(千葉県柏市)の一室で行いました。葬儀は教会で行いました。それを機に昭子さんが教会に通うようになられ、そして今日、ついに洗礼をお受けになりました。林さん御夫妻を信仰へと導いてくださった神の大きな恵みを覚えて、心より感謝いたします。

イースター礼拝は、イエス・キリストの復活をお祝いする礼拝であると最初に申し上げました。しかし、イースター礼拝の目的はそれだけではありません。復活するのはイエス・キリストだけではありません。「キリストに属しているすべての人々」もまた、終わりの日に復活するのです!わたしたち自身も、イエス・キリストと共に復活するのです!

ですから、ここで重要なことは、イースター礼拝の目的は、イエス・キリストの復活をお祝いすることだけではないということです。今日わたしたちがお祝いしていることは、イエス・キリストが二千年前に死者の中から復活されたという歴史的事実だけではありません。わたしたちも復活するのだという約束と希望が、イエス・キリストの復活において与えられたことをも、お祝いしているのです。

キリスト教信仰によると、わたしたちよりも先に召された人々は、また戻ってきます。わたしたちもいつか、この地上の人生を終える日が来ます。しかし、また戻ってきます。この世界も、この地上も、終わりの日に回復されます。もう二度と会いたくないと思っていた人も、また戻ってきます。ですから、「ああ、あの人がいなくなってくれてホッとした」というような考え方は、わたしたちの信仰には合致しません。

なぜ合致しないのでしょうか。まさにイエス・キリストを十字架につけて殺した人々は、イエス・キリストがいなくなってくれてホッとしたのだと思います。彼らにとって都合の悪い話ばかりする人の口を何とかして封じ込めようとしたのですから。殺して死んで口を封じることができた。ああよかった。もう大丈夫。もう二度とあのイエスという男の顔を見ることもないし、あの男の声を聞くこともない。あのイエスはもう二度と会堂でも広場でも説教することができない。もう死んだのだから。いなくなったのだから。そのように考えて、彼らはまさにホッと胸をなでおろしたのだと思います。

しかし皆さん、本当にそのような結末で良いでしょうか。物陰でコソコソと悪いことをしたり、人前でいばり散らしたりしている人々が生き残る。多くの人々の前で、神の言葉に基づいて説教をしてきた救い主イエス・キリストが、死によって口を封じられる。そこに何か寂しいもの、物悲しいものがないでしょうか。

ところが、聖書の話は、そこで終わらないところに魅力があります。イエス・キリストは、死によって口を封じられてサヨウナラで終わりません。死人の中から復活して、再び説教をお始めになったのです。これこそが聖書の教えです。

「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」

今日の聖書の個所に記されていることを「ここに書かれているとおりです。どうぞこのまま信じてください」と勧めても、おいそれとは行かないと感じる方は、おそらく多いだろうと思っています。婦人たちがイエスさまのお墓に行くと、タイミングよく「地震」が起こる。「天使」が登場する。その天使が墓の石を転がす。不思議の国のおとぎ話のようだと思われても仕方がないことばかり書かれています。

しかし、とにかく事実として起こったらしいことは、比較的はっきりしています。婦人たちがイエスさまの墓に行ったときには、墓の蓋の石が動いていたということです。墓の入り口は開いていたということです。その石を、とにかくだれかが動かしたのです。

また、それを動かしたのが誰かということも、明らかにされているわけです。「天使」が動かしたのです。しかも、その「天使」が、石を動かした後もその場に残っていて、婦人たちに言葉を語りかけてきたということも記されています。

「天使」の姿は婦人たちに見えたのでしょうか。稲妻のように輝く姿、雪のように白い衣を着ていたとあるわけですから、とにかくそこに何かが見えていなければ、このようなことが書かれることはなかったでしょう。

ですから、そこで起こった出来事は、「天使」が人間の目に見える存在として現われて、イエスさまの墓の前にあった重い石を物理的に動かしたということです。地震は、重い石を動かしたときの地響きだったかもしれません。

信じることができないという人は、どの部分を信じることができないでしょうか。「地震」でしょうか。「天使」でしょうか。これらの点が躓きの要素になるでしょうか。この個所に登場する「天使」は、人の目に見えているのですから。また「地震」は、人の体に感じられているのですから。超自然的な出来事は、何一つ起こっていないのです。

「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われたとおり、復活なさったのだ。』」

天使が、婦人たちに話しかけてきました。ここに至って、「この個所は絶対に信じることができない。天使が人間に話しかけてくるはずがない。そもそも天使など存在するはずがない」と、そのように思われるでしょうか。

そのようにお考えになる方がおられても構わないと私は思います。天使の存在を信じることができないというだけでしたら簡単に克服できる方法があります。目をつぶればよいのです。目をつぶって「天使」の語る言葉に耳を傾けてみてください。目をつぶりますと、だれが語っているかということが決定的な問題でなくなります。その代わりに、何が語られているかが問題になります。

ここで再び、林暁さんのことを思い起こします。目が全く見えない状態の中で私の語る言葉に耳を傾けてくださいました。林さんはまさか、私のことを「天使」であるとは思わなかったでしょう。しかし、私がどんな体つきをしているかとか、どんな服を着ているかというようなことは、林さんにとっては全く関係ないことだったに違いありません。

天使の存在を信じることができない人は、目をつぶってみてください。そして、そこで語られている言葉に耳を傾けてみてください。

「十字架につけられたイエスは墓におられない。復活なさったのだ!」

「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました。』婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」

ここに記されていることは、次の四つに分けて考えることができるでしょう。

第一は、婦人たちが天使のお告げを聞いたこと。

第二は、婦人たちがそのお告げを他の弟子たちに伝えようとしたこと。

第三は、しかし、天使のお告げを他の弟子たちに伝える前に、婦人たち自身がまず復活されたイエスさまに直接出会ったこと。その際、イエスさまは彼女たちに「おはよう」とおっしゃったこと。

第四に、婦人たちは復活されたイエスさま御自身から天使が告げたのと同じ内容の言葉を聞いたことです。その内容は「ガリラヤに行くと、そこでイエスさまにお会いすることができる」ということでした。

この四つの内容の一つ一つについて丁寧に見て行くと、それぞれ興味深い内容を明らかにしていくことができると思います。しかし、その時間は残っていません。最後の第四の内容だけを見ておきます。大切な点は、復活されたイエスさまと弟子たちが出会う場所が「ガリラヤ」であると言われていることです。なぜ「ガリラヤ」なのでしょうか。

「ガリラヤ」とは、イエスさまがエルサレムでユダヤ教の指導者たちと直接対決なさる前に、神の国の福音を宣べ伝えておられた広い地域を指しています。イエスさまがいつも笑顔で、多くの人々を助け、励まし、愛しておられた場所、それが「ガリラヤ」です。

そこに行けば、イエスさまに出会うことができる。十字架の上で罪人の身代りに死んでくださり、救いのみわざを成し遂げてくださったお方に出会うことができる。そしてそこでこそ、イエスさまは神の御言葉を語り続けてくださる。ガリラヤでイエスさまに助けていただいた人々は、希望を見出し続けることができる。

イエス・キリストを十字架につけて殺すことによって口を封じようとした人々の策略と野望はイエス・キリストの復活によって打ち砕かれたのです。「ああ、あのイエスがやっと死んでくれた。もう二度とあの顔を見ることもないし、声を聞くこともない」と安心した人々は、再び不安の中に置かれることにもなりました。

正しい人・善い人が殺されることを、間違っている人・悪い人が悔い改めも反省もせぬまま喜んで生きている社会が住みやすいでしょうか。それは、正しい人が語る言葉が暴力をもって封じ込められ、間違っている人の語る言葉がのうのうと蔓延っている社会です。それこそが現実であると言って納得できるものでしょうか。そういうことに、わたしたちが納得してもよいでしょうか。

聖書が教えるイエス・キリストの復活の真実は、そのような社会にノーを突きつけます。間違っている人・悪い人が墓の中に閉じ込めた救い主は、復活され、墓の蓋を開けてその中から出てこられました。どんな権力にも、どんな暴力にも屈することなく。

復活を信じるとは、いわばそういうことです。イエス・キリストの説教は、わたしたち人間にとって、いつも耳触りのよい、都合のよい内容であるばかりではありませんでした。人間に罪があるからです。あなたの罪を悔い改めること、そして真の神を信じ、あなたの隣人を心から愛すること、そのことをイエス・キリストは語り続けられました。

イエス・キリストの御言葉は、復活の出来事を経て、今も語り続けられています。

永遠に生きておられるキリスト御自身によって、

キリストの体なるこの教会を通して、

キリストを信じるわたしたち一人一人によって。

どんな力も、それを妨げることはできません。

それこそが、今日のイースター礼拝において確認しておきたいことです。

(2008年3月23日、松戸小金原教会主日礼拝)