しかし、「翻訳」は難しい!オランダ語が難しいのではありません。日本語が(!)難しいのです。私が心から尊敬する翻訳者であり・翻訳理論研究者である山岡洋一氏(『翻訳とは何か 職業としての翻訳』の著者、『翻訳通信』主筆)のおっしゃるとおり、「英文和訳は翻訳ではない」のです。「翻訳とは日本語」なのです。原文の各単語に日本語の辞書的な意味を「一対一で」当てていくだけの“パッチワーク”は「翻訳」ではないのです。山岡氏はヘーゲルの翻訳者を例に挙げて説明しておられます。金子武蔵氏のやり方は「独文和訳」ではあっても「翻訳」ではありません。日本語としては支離滅裂だからです。長谷川宏氏のやり方こそが「翻訳」なのです。長谷川氏の訳文は、まさに日本語だからです。私が常に悩んでいることはこの問題です。私の見方では、キリスト教出版界、特に「神学」の世界においては、今書いたような「翻訳」についての考え方がいまだに定着していません。新共同訳聖書に採用された動的等価訳(dynamic equivalence)という方法でさえ、いまだに「あれは意訳である」という言葉で批判する人が少なくありません。その場合の「意訳」とは「原典に忠実でない、いいかげんなもの」という意味です。殺し文句の一種です。「原典に忠実な訳」と謳われているものはたいていパッチワークのままです。金子武蔵型です。日本語としては支離滅裂です。「ファン・リューラー」名で教文館から出版されたもののうち特に『伝道と文化の神学』(長山道訳)に関しては、残念ながらこの点が全く当てはまります。『伝道と文化の神学』を買って読んだ人々に「ファン・リューラーの神学とはなんと支離滅裂なものであり、我々にとって理解不可能なものなのか」と思われ、関心を失ってしまわれることを非常に懸念しています。ファン・ルーラーを知りたい人は、どうかあの本は読まないでください。あのような支離滅裂なものが世に出ることは、著者ファン・ルーラーに対しても、世界のファン・ルーラー研究者たちに対しても、日本の「ファン・ルーラー研究会」に対しても、世界中のファン・ルーラーの愛読者たちに対しても、失礼なことであり、迷惑なことです。長山訳は「原典に忠実な訳」であるがゆえに、日本語としては支離滅裂なのです。つまり、山岡洋一氏が見れば「翻訳ではない」と判断されるものなのです(私は長山氏を個人的に知っており、尊敬しており、将来に期待を寄せているゆえに、あえて厳しい言葉を用いて氏の訳業を批判してきました。私怨等は皆無です)。