2008年3月16日日曜日

十字架上で示された神の愛


マタイによる福音書27・32~50

来週はイースター礼拝です。われらの救い主イエス・キリストが十字架上の死の苦しみを乗り越え、克服されて、三日目に復活されたことをお祝いする日です。楽しく過ごしてよい日です。しかし、イースター礼拝を前にしてわたしたちが直視しなければならないのは、イエス・キリストの十字架上の死の場面です。イエス・キリストは、間違いなく一度死の苦しみを味わわれました。死がなければ復活はありません。受難週を過ごさなければイースターは来ません。キリストが死んでくださったからこそ、キリスト者に新しい命が与えられたのです。

今日の個所に描かれているのはイエス・キリストを十字架につけた人々の残忍な行為の数々です。しかしまた同時に、その人々の前で示されたイエス・キリスト御自身の態度が描かれています。「もしわたしが同じ目に遭ったらどうだろう」と考えてみることは、この個所を読む態度としてふさわしいものです。もしわたしならば、とても耐えることができない。人間の忍耐の限界をはるかに超えている。そのように感じながら読むことが大切なのです。

「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」

ローマの兵士たちが、シモンにも十字架を無理に担がせたことは、考えてみると、これもやはり、キリストを苦しめるものであったことは明らかです。なぜでしょうか。それはキリスト御自身の立場に立って考えてみると分かることです。

救い主の仕事は人を救うことです。人を救うとは、苦しみや悲しみや痛み、そして罪の中から救い出すことです。簡単に言えば、人を楽(らく)にすることです。重荷を負って苦しんでいる人の背中や肩からできるかぎり重荷を取り去り、軽くしてあげることです。

ところが、兵士たちは、キリストの目の前で、キリスト御自身が背負っている十字架を、直接的には何の関係もないシモンにも背負わせました。人を楽にする仕事をしてこられたキリストの目に、御自身一人で背負ってこられた十字架を無理やり背負わせられて苦しむシモンの姿を見せつけることは、キリストの心を痛めつける行為であり、嫌がらせ以外の何ものでもありません。

「そして、ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」

兵士たちがキリストに飲ませようとした「苦いものを混ぜたぶどう酒」とは、痛み止めの薬の役割を果たすものであったと考えられます。それは彼らのキリストに対する憐みの行為であると見ることもできるかもしれません。あるいは、激しい痛みに苦しむ人間の姿は、それを見る者にも苦痛を与えるものです。彼ら自身がそれを直視することに耐えられなかった。だからこそ痛み止めの薬を与えようとしたのだ、と考えることができるかもしれません。

ところがキリストは、それを飲むことを拒否なさいました。「なめただけで」とありますのは、棒か何かで口の中に無理やり突っ込まれたからだと思われますので、正しい日本語に置き換えるとしたら、「なめさせられただけで」ではないかと思われます。

なぜキリストはそれを拒否されたのでしょうか。考えられることは一つです。キリストは十字架の上で味わわれるべき苦しみを、余すところなくすべて御自身の体と心にお引き受けになろうとされたのです。人から憐れまれることを拒否なさった、と言ってもよいかもしれません。あるいは、人々の目に御自身が味わっておられる苦しみのすべてをお見せになろうとされたと言うべきかもしれません。

そのことはまた、とりもなおさず、人間が犯す罪の大きさ、深さをすべての人々の前で明らかになさろうとされたということにもなるでしょう。目を大きく開いてこのわたしを見よ。わたしの苦しみこそがあなたがたの罪の現実そのものなのだ。そのようにキリストは、十字架の上で、御自身の身をもって示されたのだと考えることができるでしょう。
 
「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。」

兵士たちは十字架にはりつけにされたキリストの目の前で、「くじ」を引きました。これは当時の遊びです。激しく苦しんでいる人の前で遊ぶ。これもまた、キリストの心と体を痛めつけることになる行為と見ることができるでしょう。たとえば、この頃の政治家たちも、この種のことではしょっちゅう槍玉にあげられます。大地震が起こって避難している人々が大勢いるのにゴルフで遊んでいた。船が遭難して行方不明者がいるのに酒を飲んでいた。そういう態度を見ると、激しく腹を立てる人がいるのです。とても不愉快に感じる人がいるのです。

「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げた。」

キリストの頭の上に掲げられた言葉が「罪状書き」として書かれたものであることも、キリストに対する侮辱そのものです。彼らの気持ちをあえて言葉にするとしたら、「こいつがユダヤ人の王なんだってさ、あはは」というくらいのところでしょう。学校のいじめの方法でよく知られているものとして、同級生の背中に「バカ」と張り紙をするというのがあるのとあまり変わりがありません。いずれにせよ人を馬鹿にし、笑い物にする行為です。

「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」

キリストの十字架は二人の強盗の間に立てられました。同じようなものとして扱われたわけです。そして実際、キリストは、まさに強盗が受けるのと同じ刑罰をお受けになり、多くの人々から激しく侮辱されることによって、地獄の苦しみを味わわれたのです。

「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしは神の子だ」と言っていたのだから。』一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」

滑稽なことは、そこを通りかかった人々と、ユダヤ教団の指導者である祭司長や律法学者や長老たちが、同じようなことを言っているところです。指導的な立場に立ちながら、知性のかけらもない、恥を知らない人々の姿が描かれていると見てよいでしょう。

ただし、両者に共通している要素には注目すべき点があります。それは、通りがかりの人々が言った「自分を救ってみろ」、またユダヤ教団の指導者たちが言った「他人は救ったのに、自分は救えない」という点です。

これは注目に価します。彼らの言っている言葉の一部には真理があると、私には感じられます。彼らは、おそらく意図せずして、真理を言い当てているのです。

どの点がそうでしょうか。「自分は救えない」がそれであると思います。ただし、真理はこの言葉と全く一致しているわけではありません。真理は「自分は救わない」です。救い主の仕事は人を救うことだからです!人の重荷を軽くし、人を楽にすることだからです!人の重荷を軽くするとは、その人の代わりに自分が重荷を背負うことです。逆もまた然り。人を苦しめるとは、自分が背負っている重荷をおろして、人に背負わせることです。

2月17日の出来事があり、少し体力の限界を感じましたので、東関東中会の一つの委員会の仕事を降ろさせてもらおうと、委員長に相談しましたところ、「だめだよー」と言われました。「関口さんが辞めたら、私の仕事が増えるから」と。泣きそうな顔で言われたので辞めないことにしました。

単純すぎる説明かもしれません。しかし、わたしたちが味わっている苦しみとは、そのようなものであると思います。誰かある特定の人が大きな重荷を担ってくれているおかげで、楽をすることができる人々もいる。だれかが自分の重荷をすっかりおろしてしまえば、他の人にその重荷が回って来る。

救い主イエス・キリストは、本来ならば全人類が担うべき自分自身の罪の罰を、身代りに引き受けてくださいました。自分が楽をすることを、一切お考えになりませんでした。救い主は、自分を「救え」なかったのではなく、「救わ」なかったのです。人を助けること、人を楽にすることを、心から願われたのです。

このキリストの前で「今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう」と罵るユダヤ教団の指導者たちの姿は、ぶざまです。彼らの関心は自分を救うこと、つまり、いかに自分の重荷をおろせるか、いかに自分が楽をするかということにしか無かったことが、図らずも暴露されています。人の重荷を背負いましょう、人を楽にしてあげましょう、ということには、これっぽっちも関心がない。要するに、自分のことしか考えていない、自己中心的で、自己愛のきわめて強い人々であったことが分かります。

自分を「救え」ないのではなく、自分を「救わ」ない救い主イエス・キリストの中に、真の神の愛が示されています。自分を犠牲にし、自分の心や体はボロボロにしながらも、世のため、人のために命を投げ出すイエス・キリストのお姿に本当の愛、真実の愛のあり方が示されているのです。

これは、わたしたちもできることでしょうか。イエス・キリストのように、わたしたちも生きることができ、死ぬことができるでしょうか。全く同じことはできない、ということを率直に認めるべきです。わたしたちはやはり、できれば自分が楽になりたいでしょう。だれかが苦しんでいても、見て見ぬふりをするでしょう。あるいは、苦しんでいる人の前でへらへら笑っていることもある。人を口汚く罵り、見くだした態度をとることもある。そしてまた、苦しんでいる人の前で「わたしもたいへんだ。あなただけが苦しいわけではない」と言いたくなることもあるでしょう。

これは、皆さんがそうであると言っているのではなく、私がそうだと言っているのです。自分にしか関心がない、自己愛の強い人間であるという点も、私自身のことを言っているのです。

しかし、それでよいと開き直るべきではありません。常に深く反省し、悔い改めるべきです。わたしたちはキリストと同じように生きることも、死ぬこともできません。しかし、キリストを模範にして生きること、死ぬことが、わたしたちに求められているのです。

(2008年3月16日、松戸小金原教会主日礼拝)