2008年3月2日日曜日

信仰の価値


使徒言行録19・1~20

パウロの伝道旅行は、すでに三回目に突入しています。第三回旅行が始まったばかりの頃に起こった出来事が今日の個所に記されています。

「アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。パウロが、『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と言うと、『ヨハネの洗礼です』と言った。そこで、パウロは言った。『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。』人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。」

最初の段落に記されていますのは、先週学んだ個所に初めて登場しました伝道者アポロに関する出来事です。雄弁で熱心な伝道者であったアポロはエフェソの町で伝道しました。ところが、このアポロが宣べ伝えた教えにはパウロが宣べ伝えてきたものとは異なる要素が含まれていたということが、先週の個所に明らかにされていました。

アポロはイエス・キリストについては正確に語っていました。ところが洗礼については「ヨハネの洗礼しか知らなかった」と言われています。ヨハネとは、イエス・キリストが公生涯をお始めになる前に活躍した預言者です。「ヨハネの洗礼」とは、救い主がこれからお出でになることを知っていた預言者ヨハネが、救い主をお迎えするために各人が自分の罪を悔い改め、身と心を清める必要があると教え、そのために多くの人に授けた洗礼です。それでヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」と呼ばれていました。

これに対して、イエス・キリストの御名による洗礼とはどういうものでしょうか。その特徴がパウロの言葉の中に出てきます。「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」。信仰に入るとは「洗礼を受ける」ということと同義語です。つまり、パウロが行なっていた洗礼は、それを受けると聖霊を受けるものであるということです。

「聖霊を受ける」とは、どういうことでしょうか。面倒な説明は省略して結論だけを申します。「聖霊」とは、わたしたちの信仰理解では三位一体の神御自身です。ですから、「聖霊を受ける」とは「(聖霊なる)神(!)を受け取る」ということです。「神を受け取る」という表現自体は、奇妙に聞こえるものかもしれません。しかし洗礼と同時に起こる出来事は、まさにそのようにしか表現できないものです。聖霊なる神がわたしの中に入ってこられるのです!わたしの中に神が住んでくださるのです!そのような実に驚くべき出来事が、洗礼を受けて信仰生活を始めるときに起こるのです。

しかし、アポロから洗礼を受けた人々は、そういうことを全く知りませんでした。聖霊の存在そのものを「聞いたこともない」とさえ言っていました。それでおそらくパウロはびっくりしたでしょうし、危機感を覚えたでしょう。なぜなら、アポロから洗礼を受けたエフェソの人々が信じていることは聖霊の働きを抜きにしたものであり、それはパウロが宣べ伝えてきた信仰とは異なるものであるということに気づいたからです。

聖霊の働きを抜きにした信仰とはどういうものでしょうか。使徒言行録に具体的な描写はありません。しかし想像することは可能です。聖霊は神御自身です。そうであるならば、「聖霊を受けた」と信じている人々はわたしの存在の中に神御自身が住んでおられることを信じているのです。そして聖霊は、神として御自身の御言葉をお語りになります。その際、聖霊は、わたしの心の中で、わたし自身の言葉とは別の言葉を、特にしばしばわたし自身の言葉に逆らった仕方でお語りになるのです。

変なことを申し上げているように聞こえているかもしれません。しかし、これはわたしたち自身も体験したことがあることです。たとえば、今朝、皆さんの中に「今日は教会に行くのがつらいなあ」とお感じになった方がおられませんでしょうか。それはおそらく、皆さん自身の言葉です。人間の言葉です。しかし、そのすぐあとに、「いや、でも、今日はやっぱり教会に行こう」と思い直された方はおられませんでしょうか。それも皆さん自身の言葉かもしれません。しかし、ひょっとするとそれこそが聖霊なる神御自身が皆さんに語りかけてくださった言葉かもしれないのです。

あるいは先週、皆さんの中に罪の誘惑を受けた人がおられませんでしょうか。悪いことをしていると分かっている。でもこれは仕方がないことだ、みんなやっていることだし、これくらいは大丈夫だと、自分で自分に言い聞かせている。これはおそらく皆さん自身の言葉です。しかし、すぐあとに「いや、でもやっぱりやめよう。罪を犯してはならない」という言葉が聞こえてきたという方はおられませんでしょうか。それは、ひょっとすると、聖霊なる神御自身の言葉かもしれません。そのようにあなたの心の中であなた自身に語りかけてくる別の言葉があるとお感じになった方はおられませんでしょうか。それを感じたことがある方は、おそらくすでに「聖霊を受けている」のです。

そして「聖霊を受けた人」は「預言」や「異言」を語り始めました。この文脈で「預言」と「異言」は同じ意味です。神の言葉としての「説教」のことです。わたしの内なる神の言葉、すなわち聖霊の声を聞いたことがある人だけが「説教」を語ることができるようになるのです。

ところが、アポロの授けた洗礼には聖霊なる神への信仰という要素がありませんでした。すると、どうなるか。罪への誘惑にあったときに、「いや、でもやっぱりやめよう」という言葉が心に響くことがあっても、それはあくまでも自分自身の言葉であり、わたしの意志や努力の結果であり、自分でなした悔い改めの結果であると考えざるをえないでしょう。そうしますと、罪の誘惑に負けることなく、踏みとどまることができた場合にも「それは私ががんばったからである」と、自分で自分を誉めることになるでしょう。アポロの宣べ伝えた信仰の本質は、結局のところ、自分を誇るものになるでしょう。

しかし、パウロが宣べ伝えた信仰は、そのようなものではありませんでした。パウロの場合は、罪を行わないように踏みとどまることができたのは、わたしががんばったからではなく、神が踏みとどまらせてくださったからであるということになるのです。そこには神への感謝があります。そして、その感謝のもとで自分の弱さと罪深さを自覚させられ、どこまでも謙遜にさせられます。まさにそれがパウロの宣べ伝えた信仰です。キリスト教信仰の目標は、自分を誇ることではなく、神に一切の栄光をお帰しすることであり、神に感謝することだからです。アポロの宣べ伝えた信仰は、パウロの伝道によって修正され、書き換えられる必要があったのです。

「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。」

パウロはエフェソの会堂で三か月間御言葉を宣べ伝えました。ところが、会堂に集まる人々の中に、パウロの言葉を受け入れず、またあからさまに攻撃してきた人々がいました。しかしそこでパウロは、これまでのように腹を立てたり、けんか腰で怒鳴りつけたりしたかと言いますと、そういうことは書かれていません。むしろ、どちらかというと御言葉を受け入れない人々の前からは静かに身を引き、いわばその代わりに、御言葉を受け入れる人々のところに行って伝道を続けるというやり方がとられたかのように描かれています。パウロの側にこれまでの強引なやり方に対する反省があったとまで言ってよいかどうかは微妙です。しかし、幾分か、パウロの穏やかな様子が伝わってくるような気がします。

わたしたちも考えておくほうがよさそうなことは、同じ伝道をするなら聞く耳を持っている人々に対して積極的に行うほうが楽しいし、有意義であるということは否定できないということです。反対する人々は、何が何でも反対します。それが真理であるかどうかは全く関係ないと思っている人々がいます。最初から聞く耳を持つ気がない。そういう人々の耳をこじ開けて受け入れさせることは至難の業ですし、神経をすり減らすばかりです。パウロは少し自分の健康を気にするようになったのかもしれません。聞く耳を持っている人々に御言葉を語る。その場合には、どれだけ語っても疲れることはありません。

「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。』そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

今日の最後の段落に記されていることの要点を短く述べておきます。これもエフェソでの出来事です。パウロの伝道によってキリスト教信仰を受け入れた人々の中に、それ以前は魔術を行っていた人々がいました。しかし、信仰を受け入れた日からその魔術の書物が不要になりました。その書物の値段は、なんと銀貨五万枚(現在の五億円に相当か)ほどであったというのです。です。それを捨てる決心が、彼らの心に芽生えたのだということです。逆にいえば、キリスト教信仰には、五億円を捨てても惜しくないほどの価値があるのだということです。

信仰はお金で買うことはできませんし、信仰によって受け取る聖霊もお金で買うことができないものです。信仰による救いをお金で獲得できるわけではありませんし、聖霊なる神をお金で雇うことができるわけでもありません。信仰も聖霊も無料(ただ)で受け取るものです。しかし、お金で買うことができないもの(プライスレス)は、「だから無価値である」というわけではないのです。信仰には、計り知れないほどの価値があります。魔術のようなものに惑わされないための知恵と判断力を与えられます。霊感商法のような宗教的詐欺行為、あるいは占いやおみくじのようなものにも惑わされません。罪の誘惑に易々と乗りません。

キリスト教信仰は、本当に大切なものは何であるかを知っています。神と隣人を愛することが大切です。そのためにわたしたちは生きているのです。神と隣人のために自分の命をささげることこそが最も大きな愛であるということを、わたしたちは知っているのです。この価値ある信仰に生きているわたしたちは、幸せです。

(2008年3月2日、松戸小金原教会主日礼拝)