2017年10月3日火曜日

還流

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「ペトロの死に方」を指すという「年をとると両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21章18節)は、まだ一度も行ったことがなくて知らないところだから行きたくない、なのか、行ったことがあってよく知っているから行きたくない、なのかが気になる。

他の人であればどちらの可能性もありうるだろうが、ペトロの場合は後者かもしれない。「イエスの死に方」も「死に場所」もペトロは知っている。そこにいた人々の行為や声を覚えている。思い出すだけで寒気がする。あのときのあれが今度は自分の身に襲いかかることになるのかと考えるだけで足がすくむ。

あのときは自分が逃げる側だったが、今度はだれかに自分が逃げられる番かという思いがよぎると恐怖心が増す。仲間という仲間がすべて逃げ去り、自分だけ置き去りにされるのはどんな気持ちかと想像するだけで落ち込む。よく知っている場所や状況だからこそ「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。

「年をとると」そういうことになるというわけだ。ペトロひとりだけが年をとるわけでなく、すべての人が年をとる。ペトロ限定の特殊な話をしているわけでなく、すべての人に当てはまる普遍的な話をしている。「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。もういいオトナだろ、甘えるな、ということか。

ペトロが知っているのは「イエスの死に方」と「死に場所」だけではない。全体の流れを知っている。イエスはあのときこう言って、それが嫌われ憎まれる原因となって、その後こうなって、最後にああなった。イエスはペトロの反面教師だろうか。自分はあんなへまはしないと心に誓うものがあっただろうか。

そうではないだろう。イエスの死をへまだと言うなら、同じへまをペトロもする。イエスがたどった同じ流れをペトロもたどる。イエスと同じことを言い、同じように嫌われ憎まれ、その後も最後も同じになる。イエスの背中を見ていたときはその流れの最後の一歩手前まで一緒にいたが、耐えられずに逃げた。

しかし「年をとると行きたくないところへ連れて行かれる」。「死に方」や「死に場所」だけがイエスと同じだから「行きたくない」のではなく、途中の流れも同じ(でないと同じ最終地点に至らない)だから「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。かつて逃げ出した元の流れへと還流「させられる」。

それはペトロの勇気ではない。「年をとること」自体に勇気は要らない。努力も要らない。「行きたくない」のだから勇気はむしろない。自発性も主体性もない。他人のせい、運や星のせい、神のせいにますますしたがる。四の五の言う。当たり散らす。英雄性はない。しかし「連れて行かれる」。観念しろよ。

当時の人が何歳くらいまで生きたのかを私は知らない。しかし、「年をとると」の対象者の中に50代以上の人はすでに十分に入っていると思う。つまり私はその対象者であると自覚している。年寄りいじめだなどと受けとらないでほしい。「行きたくないところへ連れて行かれる」のは誰よりもまず私自身だ。


2017年10月1日日曜日

目白教会の主日礼拝に出席しました

日本基督教団目白教会(東京都新宿区下落合3-14-25)

今日(2017年10月1日日曜日)は日本基督教団目白教会(東京都新宿区下落合3-14-25)の主日礼拝に初めて出席させていただきました。今日は「世界聖餐日礼拝」ということで、通常の使徒信条に代えてニケア信条による信仰告白が行われました。素晴らしい礼拝に与り、心から感謝いたします。

2017年9月30日土曜日

神学に流行り廃れはない

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個人や自分に関心がない神学がもしあるとしたら必ずしもそうでないかもしれないが、そうでない神学はおそらく必ず「今の私はなぜこうなのか」という問いから出発する。「今の世界がこうだから私はこうなのだ」という答えもあれば「今の世界がこうであるにもかかわらず私はこうだ」という答えもあろう。

しかし、それはなんら答えではないと感じる人は多い。謎は已まない。「ならば今の世界はなぜこうなのか」と問いはじめる。「政治が」「経済が」「教育が」と答え探しをしはじめる。それは決して無駄ではない。そのあたりをすべてスキップして「神が」「運が」「星が」と言い出さないほうが誠実である。

しかし人の関心は「神」なり「運」なり「星」なりに早晩たどり着く。そこから先が神学の出番であるわけではない。この認識が重要だと私は考えている。神学はもっと前の、いちばん最初の「今の私はなぜこうなのか」という問いからすでに始まっている。「なんでやねん」がすでに十分に神学の問いである。

そしてその「なんでやねん」は多くの場合、言い切りで終わる。「なんでやねん」という問いかけに対する答えの多くは、客席からのゲラゲラ笑いである。答えを知っているから笑っている人もいれば、自分も答えが分からないから笑っている人もいるだろう。しかし、ゲラゲラ笑い自体が答えではないだろう。

神学も同じだ。「なんでやねん」という問いの答えが神学ではなく、その問い自体が神学であり、その問いの多くは言い切りで終わる。神学が天文学のように仮説と実験を重ねて結論を導き出すことはありうる。しかし「人類はここまで解明できた」という話にはなりにくい。聖書学はそれに近いかもしれない。

そうではなく神学はむしろ、太古の昔から存在する多種多様な思想を、通時的にというより共時的に扱い、そのうちのどれが妥当かを主体的に選択し、責任的に決断することに重きを置く。どの思想は時代遅れでどの思想はそうでないというような見方も言い方もできないと思っている。神学に流行り廃れはない。

「三位一体論が流行してるんだよねえ」とか「売れ筋は贖罪論だぜい」とか「やっぱ聖霊論っしょ」とか、そういうトレンドは出版業界にはもしかしたらあるのかもしれないが、神学そのものの展開とは無関係だ。どれが古くてどれが新しいとかはない。新しいから良くて古いから悪いということもその逆もない。

三位一体の神学はどのゲートから入っても構わない

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神が三位一体であるという教えで我々は、神の内部の(ad intra)三つの位格(御父、御子、御霊)の区別にとどまらず、神の外部の(ad extra)外見上は大きく異なる三つの経綸(創造、贖罪、聖化と完成)の区別をしたうえで、三つの働きはただおひとりの神によることを教えようとする。

神の内部の(ad intra)の位格と外部の(ad extra)の経綸は一対一対応ではない。御父は創造のみ、御子は贖罪のみ、御霊は聖化と完成のみを担当なさるのではない。御父も御子も御霊も、創造も贖罪も聖化と完成も担当なさる。外部の経綸は区別できない(sunt indivisa)。

人間が神を見る場合、内部(ad intra)の透視はできないので、外部(ad extra)の経綸を見て内部の各位格の関係性を類推するしかない。そして出発点は常に神を見ようとする自分自身でしかありえないので「聖化から」出発するしかない。聖化から贖罪そして創造へとさかのぼるしかない。

神の内部(ad intra)との関係についても、たとえ透視はできないとしても「私の内に宿る御霊」(inhabitatio Spiritus sancti)は私との明確な接触点を有する神だと言える。それゆえ出発点は「御霊から」になる。御霊から御子そして御父へとさかのぼることになる。

しかも聖化は御霊だけの働きではなく御父と御子の働きでもある。神認識の出発点を「御霊による聖化」だけに限定するのは不適切であるし、目標を「御父による創造」だけに限定するのも不適切である。しかし聖化から贖罪そして創造へ、御霊から御子そして御父へという「後ろからの」発想の順序は正しい。

それはいわば、結果から原因へとさかのぼる順序に近いと言える。「今の私はなぜこうなのか」という自分自身のありのままの存在に対する現実認識から出発して、そのいわば究極的な原因を探し求める思索の中で、神までたどり着く人もいれば、別の何かにたどり着く人もいる。これ以外の経路はたぶんない。

「贖罪論一点張りの神学」には私も批判的だが、「贖罪論は不要だ」と考えたことはいまだかつてない。どちらの選択肢も三位一体の神学には不可能である。三位一体の神学は「創造論も贖罪論も聖化論も終末論も大事である」と必ず語る。どのゲートから入っても構わない。全体を見て回るには何年もかかる。

2017年9月26日火曜日

ヘッペ『キリスト教倫理』オランダ語版(1882年)を入手しました

久々に古書を買った。注文して6日で届いた。ヘッペ『キリスト教倫理』フニンク訳オランダ語版(1882年)(中央)。発行者序によると本書は看過された手稿の没後出版。私のヘッペ蔵書は3冊目。左から『改革派教義学』『キリスト教倫理』『特にオランダの改革派教会における敬虔主義と神秘主義』。




ヘッペ(Heinrich Ludwig Julius Heppe)は1820年3月30日ヘッセン州カッセルに生まれ、1879年7月25日マールブルクで没したドイツの神学者、教会史学者。1844年マールブルク大学で博士号の学位を得た。1845年からカッセルの聖マルティン教会の牧師。

1850年マールブルク大学神学部助教授、1864年正教授。ヘッペの専攻分野は教義学とヘッセン教会史研究。マールブルク大学でヘッペはルーテル派の信条主義者フィルマー教授(August Friedrich Christian Vilmar [1800–1868])のけんか相手だった。

ヘッペが1861年に出版した『改革派教義学』(原題Die Dogmatik der evangelisch-reformierten Kirche)は、1935年にカール・バルトの巻頭言がついたビツァー編集版となり、そのビツァー版をトムソンが英訳して1950年に英国で出版された。

カール・バルトは、ゲッティンゲン大学教授だったときヘッペの『改革派教義学』(1861年)を読んで触発されたことが『教会教義学』執筆の足掛かりになった。ファン・ルーラーは、ヘッペ『改革派教義学』のビツァー編集版(1935年)をユトレヒト大学神学部の教義学講義の教科書として採用した。

19世紀のドイツ国内で「改革派教義学」を教えたヘッペが「ルーテル派の信条主義者フィルマー教授のけんか相手(アンタゴニスト)」だったという点は非難されるべきではない。ルーテル派の圧倒的優位のドイツの中で改革派(カルヴァン主義)の立場に立つ少数の人々を神学的に擁護していたに違いない。

そのドイツ人ヘッペが書き残して出版に至らなかった手稿『キリスト教倫理』を、オランダ改革派教会の著名な神学者J. H. フニンク(Johannes Hermanus Gunning [1858-1940])がオランダ語に訳して出版していたことを今日初めて知った。驚き、興奮している。

目次を見るとキリスト教倫理の歴史的概観に始まり、各論では結婚、家庭、国民としてどう生きるか、教会の信徒としてどう生きるかなどに踏み込んでいることが分かる。19世紀のドイツで改革派(カルヴァン主義)の神学者がそれらをどのように教えていたかを知ることができるようになったのはうれしい。

2017年9月25日月曜日

関西学院大学理工学部で説教させていただきます

2017年10月16日(月)関西学院大学理工学部(兵庫県三田市学園2-1)チャペルアワー(礼拝)で私がチャペルトーク(説教)をさせていただくことになりました。テーマは「どうすれば人を好きになれるか」、聖書の箇所はローマの信徒への手紙7章19~20節です。よろしくお願いいたします。

大学入試シリーズ『関西学院大学』教学社

「ネットしかしていなかった」わけではない

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ネットに書けるのは公開可能なことだけだ。それが急速に拡散するので「書いたこと」ばかり目立つ。「それしかしていない人間」だと誤解されることもある。しかし実際は「書けないこと」のほうが多い。私もそうだ。教会や中会や大会のことは「書けなかった」。しかしすべての労力をそれらに注いでいた。

ただ、使用するメディアの新旧交代の過渡期ではあった。「手書きでないと牧師らしくない」「封書を受け取れば封書で、はがきを受け取ればはがきで返信すべきだ」という固定観念をもつ世代の圧倒的支配力のもとで、メールやブログやSNSを「仕事に」活用するという切り替えが始まりつつある頃だった。

しかも、私はずっと田舎の牧師だった。都会の教会との情報格差に苦しむ中でネットを始めた。今は都会にいるので情報には困らない。しかし自分さえよければいいとは思わない。田舎の教会の現実は30年前と大差ない。情報不足で苦しんでいる。私がネットから撤退できないと思っているのはそれが理由だ。

とはいえ、都会の教会が主催する講演会や演奏会などの案内をネットで知らされても、ジェットや新幹線でも使わないかぎり参加できるはずがない。そんなのはどうでもいいとは言わないが、知らされても困ることは現実に少なくない。そのような宣伝チラシの拡散より地方の教会が必要としている情報がある。

地方の教会が必要としている情報とは何であるかを特定するのは難しい。それぞれの意見があろう。私はそれを「中身のある話」だと考えてきた。それが説教であれ教理であれ神学であれ、中身がしっかり詰まった情報だ。チラシばかりが届いて「中身が知りたければお買い求めください」というだけでは困る。

しかし、そんなことを考えながらネットに力を入れているうちに、「電脳牧師」「パソコンいじってるだけ」「信徒の顔を見ているのか」と、見知らぬ人からネットで、あるいは他教会の人から面と向かって言われた。歯がゆくて仕方がなかったが黙るしかなかった。信念を持っていたので耐えることができた。

今は牧師がネットを使うのは当たり前の時代になり、私ごときよりはるかに多くの情報を発信しておられる方々が多くおられる。私ごときが「電脳牧師」などと呼ばわられる理由はもうない。自称したことは一度もないし、不愉快ですらある。謹んでご返上申し上げたい。ラベル貼りはいいかげんにしてほしい。

厳しい言葉で終わると「悲しいね」か「ひどいね」ボタンを押されてがっかりするので、しめの言葉はいつも肯定的でありたいと願っている。さて、それをどう書くかな。それが難しい。希望のメッセージを何か。どんなひどいことを言われても、最後は感謝と喜びを語るメッセージを。書いてきたつもりだが。

2017年9月24日日曜日

「字ばかり書いていた」日々を思い起こす

うちからみる東京スカイツリー。右下45度に小さな東京タワー(2017年9月23日撮影)

昨年度1年間の学校教員生活のためか、意識の中ではすっかり遠い過去になってしまったが、私が日本基督教団に「戻って」2年に満たない。日本キリスト改革派教会に対する批判があって「戻った」わけではないので、思い出すのは良いことばかりだ。書けることは忘れないうちに書いておこうと思っている。

もっとも、私は日本キリスト改革派教会への加入の際、同教会の大会の教師試験を受けたわけではなく、東部中会の加入試験を受けただけだ。加入時にはすでに日本基督教団の正教師だったので、私の教師任職(按手)は日本基督教団のものであって、日本キリスト改革派教会で「再按手」されたわけではない。

日本キリスト改革派教会での19年半のうちの最初の1年半は神戸改革派神学校の学生だった。その後17年は東部中会の2つの教会の牧師だったが、大半の労力を「新中会設立」に注ぐことになった。私が願ったわけではない。しかし私は「新中会設立のために日本キリスト改革派教会にいた」ようなものだ。

「中会」とは英語のpresbytery(ブレスビテリ)の訳語だ。東部中会は英語でEast Presbyteryと訳される。Tobu Presbyteryと書く人もいた。日本基督教団の中に「連合長老会」を作っている教会群があるが、「連合長老会」もpresbyteryの訳語だと思う。

誤解がないように書くが、日本キリスト改革派教会東部中会の「新中会設立」計画は、私が加入するよりずっと前から立案され、実現に向けた努力が重ねられていた。私が「新中会設立」のために大それたことをしたなどとは思っていない。いわば偶然立ち会った。しかし、そんな私でも多くの苦労を体験した。

私が東部中会に加入した1998年7月の8年後の2006年7月に我々は「東関東中会」を設立した。英訳すればEast Kanto Presbyteryだ。私は常任副書記として初代四役の末席に着いた。それ以前の新中会設立準備委員会のような組織でもずっと書記だった。字ばかり書いていた。

そのとき味わった苦労は日本基督教団でもきっと役に立つだろうと思っている。「いかに」役に立つかはまだ分からないし、言えない。光の面だけでなく陰ないし闇の面も(十分すぎるほど)学んだので、「改革派教会」や「長老教会」のあり方を絶対視するつもりはない。地上の制度に完全無欠はありえない。



小金教会の主日礼拝に出席しました

日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)

今日(2017年9月24日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市)の主日礼拝に出席しました。今泉幹夫牧師の力強い説教と美しい会衆賛美に励まされました。午後の勉強会にも参加し、旧日本基督教会の伝統を継承する改革長老教会としての歩みに接し、感激しました。ありがとうございました。

2017年9月16日土曜日

「丁寧な牧会」とは何かと考えている


毎週教会に通っても聖餐式で無視されるのが不服で受洗(6歳)。毎週説教を聴いても理解できないのが不服で神学部入学(18歳)。日本の教会にファン・ルーラーの神学が十分紹介されていないのが不服で翻訳開始(31歳)。自分の翻訳が一向に日常の日本語にならないのが不服でブログ開始(42歳)。

字にしてみると自分の過去の判断と行動に共通点があることに気づく。どうやら私は不満だらけで生きてきたらしい。教師や先輩から嫌われる要素を持ち続けてきたらしい。批判でも文句でもなかった。いわば自分が納得したいだけだった。せめて「分かった」と言えることでなければ承服できなかっただけだ。

分からないことがあれば悔しくなって自分で調べたいと思わないだろうか。自分の文章や翻訳が極度に専門家の人たちの間だけの言葉で(その人々でさえ分かったふりをしているだけかもしれない)日常の日本語でないと思えばもっとよく考えて「普通の言葉」で書けるようになりたいと思わないだろうか。

某キリスト教雑誌のインタヴュー記事で「丁寧な牧会」という言葉を見た。それは「頻繁に信徒訪問するとか、信徒のケアをすることだけではありません。大切なのは牧会の目的です」と。その中にすべてを普通の言葉で語れるようになることが含まれていると私は思う。「普通」とは何かと問われるだろうが。

謎の要素があるほうが宗教性を担保できるという意見もあろう。平易であることを愚かであることと同義語のように受けとる向きもあろう。学術論文の文体でなければ何かを言いえたことにならないとみなされる分野や領域で働いている人々もいよう。しかし、そこにとどまっていていいのかと言いたくなる。

同じ感覚を持つ同世代以下の牧師が少なくないと感じる昨今であるが、「私は牧師らしくない」と自覚している。私もそうだ。たいていそういうことをだれかに言われた経験がある。良い意味だけでなく悪い意味でも。しかし、非神話化と偶像破壊を熱心に推し進めてきた世代の人々からそれを言われると閉口する。

閉口したままでしゃべろうとすると、もごもごになる。もごもごもごもご、もごもごもごもご。これで分かれと言われても無理だというのは分かる。もごもごもごもご、もごもごもごもご。うう、これでは伝わらない。どうしたらいいのだ。口を開いてしゃべるしかないか。でもそうすると、もごもごもごもご。