2017年9月30日土曜日

三位一体の神学はどのゲートから入っても構わない

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神が三位一体であるという教えで我々は、神の内部の(ad intra)三つの位格(御父、御子、御霊)の区別にとどまらず、神の外部の(ad extra)外見上は大きく異なる三つの経綸(創造、贖罪、聖化と完成)の区別をしたうえで、三つの働きはただおひとりの神によることを教えようとする。

神の内部の(ad intra)の位格と外部の(ad extra)の経綸は一対一対応ではない。御父は創造のみ、御子は贖罪のみ、御霊は聖化と完成のみを担当なさるのではない。御父も御子も御霊も、創造も贖罪も聖化と完成も担当なさる。外部の経綸は区別できない(sunt indivisa)。

人間が神を見る場合、内部(ad intra)の透視はできないので、外部(ad extra)の経綸を見て内部の各位格の関係性を類推するしかない。そして出発点は常に神を見ようとする自分自身でしかありえないので「聖化から」出発するしかない。聖化から贖罪そして創造へとさかのぼるしかない。

神の内部(ad intra)との関係についても、たとえ透視はできないとしても「私の内に宿る御霊」(inhabitatio Spiritus sancti)は私との明確な接触点を有する神だと言える。それゆえ出発点は「御霊から」になる。御霊から御子そして御父へとさかのぼることになる。

しかも聖化は御霊だけの働きではなく御父と御子の働きでもある。神認識の出発点を「御霊による聖化」だけに限定するのは不適切であるし、目標を「御父による創造」だけに限定するのも不適切である。しかし聖化から贖罪そして創造へ、御霊から御子そして御父へという「後ろからの」発想の順序は正しい。

それはいわば、結果から原因へとさかのぼる順序に近いと言える。「今の私はなぜこうなのか」という自分自身のありのままの存在に対する現実認識から出発して、そのいわば究極的な原因を探し求める思索の中で、神までたどり着く人もいれば、別の何かにたどり着く人もいる。これ以外の経路はたぶんない。

「贖罪論一点張りの神学」には私も批判的だが、「贖罪論は不要だ」と考えたことはいまだかつてない。どちらの選択肢も三位一体の神学には不可能である。三位一体の神学は「創造論も贖罪論も聖化論も終末論も大事である」と必ず語る。どのゲートから入っても構わない。全体を見て回るには何年もかかる。