毎週教会に通っても聖餐式で無視されるのが不服で受洗(6歳)。毎週説教を聴いても理解できないのが不服で神学部入学(18歳)。日本の教会にファン・ルーラーの神学が十分紹介されていないのが不服で翻訳開始(31歳)。自分の翻訳が一向に日常の日本語にならないのが不服でブログ開始(42歳)。
字にしてみると自分の過去の判断と行動に共通点があることに気づく。どうやら私は不満だらけで生きてきたらしい。教師や先輩から嫌われる要素を持ち続けてきたらしい。批判でも文句でもなかった。いわば自分が納得したいだけだった。せめて「分かった」と言えることでなければ承服できなかっただけだ。
分からないことがあれば悔しくなって自分で調べたいと思わないだろうか。自分の文章や翻訳が極度に専門家の人たちの間だけの言葉で(その人々でさえ分かったふりをしているだけかもしれない)日常の日本語でないと思えばもっとよく考えて「普通の言葉」で書けるようになりたいと思わないだろうか。
某キリスト教雑誌のインタヴュー記事で「丁寧な牧会」という言葉を見た。それは「頻繁に信徒訪問するとか、信徒のケアをすることだけではありません。大切なのは牧会の目的です」と。その中にすべてを普通の言葉で語れるようになることが含まれていると私は思う。「普通」とは何かと問われるだろうが。
謎の要素があるほうが宗教性を担保できるという意見もあろう。平易であることを愚かであることと同義語のように受けとる向きもあろう。学術論文の文体でなければ何かを言いえたことにならないとみなされる分野や領域で働いている人々もいよう。しかし、そこにとどまっていていいのかと言いたくなる。
同じ感覚を持つ同世代以下の牧師が少なくないと感じる昨今であるが、「私は牧師らしくない」と自覚している。私もそうだ。たいていそういうことをだれかに言われた経験がある。良い意味だけでなく悪い意味でも。しかし、非神話化と偶像破壊を熱心に推し進めてきた世代の人々からそれを言われると閉口する。
閉口したままでしゃべろうとすると、もごもごになる。もごもごもごもご、もごもごもごもご。これで分かれと言われても無理だというのは分かる。もごもごもごもご、もごもごもごもご。うう、これでは伝わらない。どうしたらいいのだ。口を開いてしゃべるしかないか。でもそうすると、もごもごもごもご。