2017年9月25日月曜日

「ネットしかしていなかった」わけではない

記事とは関係ありません

ネットに書けるのは公開可能なことだけだ。それが急速に拡散するので「書いたこと」ばかり目立つ。「それしかしていない人間」だと誤解されることもある。しかし実際は「書けないこと」のほうが多い。私もそうだ。教会や中会や大会のことは「書けなかった」。しかしすべての労力をそれらに注いでいた。

ただ、使用するメディアの新旧交代の過渡期ではあった。「手書きでないと牧師らしくない」「封書を受け取れば封書で、はがきを受け取ればはがきで返信すべきだ」という固定観念をもつ世代の圧倒的支配力のもとで、メールやブログやSNSを「仕事に」活用するという切り替えが始まりつつある頃だった。

しかも、私はずっと田舎の牧師だった。都会の教会との情報格差に苦しむ中でネットを始めた。今は都会にいるので情報には困らない。しかし自分さえよければいいとは思わない。田舎の教会の現実は30年前と大差ない。情報不足で苦しんでいる。私がネットから撤退できないと思っているのはそれが理由だ。

とはいえ、都会の教会が主催する講演会や演奏会などの案内をネットで知らされても、ジェットや新幹線でも使わないかぎり参加できるはずがない。そんなのはどうでもいいとは言わないが、知らされても困ることは現実に少なくない。そのような宣伝チラシの拡散より地方の教会が必要としている情報がある。

地方の教会が必要としている情報とは何であるかを特定するのは難しい。それぞれの意見があろう。私はそれを「中身のある話」だと考えてきた。それが説教であれ教理であれ神学であれ、中身がしっかり詰まった情報だ。チラシばかりが届いて「中身が知りたければお買い求めください」というだけでは困る。

しかし、そんなことを考えながらネットに力を入れているうちに、「電脳牧師」「パソコンいじってるだけ」「信徒の顔を見ているのか」と、見知らぬ人からネットで、あるいは他教会の人から面と向かって言われた。歯がゆくて仕方がなかったが黙るしかなかった。信念を持っていたので耐えることができた。

今は牧師がネットを使うのは当たり前の時代になり、私ごときよりはるかに多くの情報を発信しておられる方々が多くおられる。私ごときが「電脳牧師」などと呼ばわられる理由はもうない。自称したことは一度もないし、不愉快ですらある。謹んでご返上申し上げたい。ラベル貼りはいいかげんにしてほしい。

厳しい言葉で終わると「悲しいね」か「ひどいね」ボタンを押されてがっかりするので、しめの言葉はいつも肯定的でありたいと願っている。さて、それをどう書くかな。それが難しい。希望のメッセージを何か。どんなひどいことを言われても、最後は感謝と喜びを語るメッセージを。書いてきたつもりだが。