うちからみる東京スカイツリー。右下45度に小さな東京タワー(2017年9月23日撮影) |
昨年度1年間の学校教員生活のためか、意識の中ではすっかり遠い過去になってしまったが、私が日本基督教団に「戻って」2年に満たない。日本キリスト改革派教会に対する批判があって「戻った」わけではないので、思い出すのは良いことばかりだ。書けることは忘れないうちに書いておこうと思っている。
もっとも、私は日本キリスト改革派教会への加入の際、同教会の大会の教師試験を受けたわけではなく、東部中会の加入試験を受けただけだ。加入時にはすでに日本基督教団の正教師だったので、私の教師任職(按手)は日本基督教団のものであって、日本キリスト改革派教会で「再按手」されたわけではない。
日本キリスト改革派教会での19年半のうちの最初の1年半は神戸改革派神学校の学生だった。その後17年は東部中会の2つの教会の牧師だったが、大半の労力を「新中会設立」に注ぐことになった。私が願ったわけではない。しかし私は「新中会設立のために日本キリスト改革派教会にいた」ようなものだ。
「中会」とは英語のpresbytery(ブレスビテリ)の訳語だ。東部中会は英語でEast Presbyteryと訳される。Tobu Presbyteryと書く人もいた。日本基督教団の中に「連合長老会」を作っている教会群があるが、「連合長老会」もpresbyteryの訳語だと思う。
誤解がないように書くが、日本キリスト改革派教会東部中会の「新中会設立」計画は、私が加入するよりずっと前から立案され、実現に向けた努力が重ねられていた。私が「新中会設立」のために大それたことをしたなどとは思っていない。いわば偶然立ち会った。しかし、そんな私でも多くの苦労を体験した。
私が東部中会に加入した1998年7月の8年後の2006年7月に我々は「東関東中会」を設立した。英訳すればEast Kanto Presbyteryだ。私は常任副書記として初代四役の末席に着いた。それ以前の新中会設立準備委員会のような組織でもずっと書記だった。字ばかり書いていた。
そのとき味わった苦労は日本基督教団でもきっと役に立つだろうと思っている。「いかに」役に立つかはまだ分からないし、言えない。光の面だけでなく陰ないし闇の面も(十分すぎるほど)学んだので、「改革派教会」や「長老教会」のあり方を絶対視するつもりはない。地上の制度に完全無欠はありえない。