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個人や自分に関心がない神学がもしあるとしたら必ずしもそうでないかもしれないが、そうでない神学はおそらく必ず「今の私はなぜこうなのか」という問いから出発する。「今の世界がこうだから私はこうなのだ」という答えもあれば「今の世界がこうであるにもかかわらず私はこうだ」という答えもあろう。
しかし、それはなんら答えではないと感じる人は多い。謎は已まない。「ならば今の世界はなぜこうなのか」と問いはじめる。「政治が」「経済が」「教育が」と答え探しをしはじめる。それは決して無駄ではない。そのあたりをすべてスキップして「神が」「運が」「星が」と言い出さないほうが誠実である。
しかし人の関心は「神」なり「運」なり「星」なりに早晩たどり着く。そこから先が神学の出番であるわけではない。この認識が重要だと私は考えている。神学はもっと前の、いちばん最初の「今の私はなぜこうなのか」という問いからすでに始まっている。「なんでやねん」がすでに十分に神学の問いである。
そしてその「なんでやねん」は多くの場合、言い切りで終わる。「なんでやねん」という問いかけに対する答えの多くは、客席からのゲラゲラ笑いである。答えを知っているから笑っている人もいれば、自分も答えが分からないから笑っている人もいるだろう。しかし、ゲラゲラ笑い自体が答えではないだろう。
神学も同じだ。「なんでやねん」という問いの答えが神学ではなく、その問い自体が神学であり、その問いの多くは言い切りで終わる。神学が天文学のように仮説と実験を重ねて結論を導き出すことはありうる。しかし「人類はここまで解明できた」という話にはなりにくい。聖書学はそれに近いかもしれない。
そうではなく神学はむしろ、太古の昔から存在する多種多様な思想を、通時的にというより共時的に扱い、そのうちのどれが妥当かを主体的に選択し、責任的に決断することに重きを置く。どの思想は時代遅れでどの思想はそうでないというような見方も言い方もできないと思っている。神学に流行り廃れはない。
「三位一体論が流行してるんだよねえ」とか「売れ筋は贖罪論だぜい」とか「やっぱ聖霊論っしょ」とか、そういうトレンドは出版業界にはもしかしたらあるのかもしれないが、神学そのものの展開とは無関係だ。どれが古くてどれが新しいとかはない。新しいから良くて古いから悪いということもその逆もない。