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「ペトロの死に方」を指すという「年をとると両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21章18節)は、まだ一度も行ったことがなくて知らないところだから行きたくない、なのか、行ったことがあってよく知っているから行きたくない、なのかが気になる。
他の人であればどちらの可能性もありうるだろうが、ペトロの場合は後者かもしれない。「イエスの死に方」も「死に場所」もペトロは知っている。そこにいた人々の行為や声を覚えている。思い出すだけで寒気がする。あのときのあれが今度は自分の身に襲いかかることになるのかと考えるだけで足がすくむ。
あのときは自分が逃げる側だったが、今度はだれかに自分が逃げられる番かという思いがよぎると恐怖心が増す。仲間という仲間がすべて逃げ去り、自分だけ置き去りにされるのはどんな気持ちかと想像するだけで落ち込む。よく知っている場所や状況だからこそ「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。
「年をとると」そういうことになるというわけだ。ペトロひとりだけが年をとるわけでなく、すべての人が年をとる。ペトロ限定の特殊な話をしているわけでなく、すべての人に当てはまる普遍的な話をしている。「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。もういいオトナだろ、甘えるな、ということか。
ペトロが知っているのは「イエスの死に方」と「死に場所」だけではない。全体の流れを知っている。イエスはあのときこう言って、それが嫌われ憎まれる原因となって、その後こうなって、最後にああなった。イエスはペトロの反面教師だろうか。自分はあんなへまはしないと心に誓うものがあっただろうか。
そうではないだろう。イエスの死をへまだと言うなら、同じへまをペトロもする。イエスがたどった同じ流れをペトロもたどる。イエスと同じことを言い、同じように嫌われ憎まれ、その後も最後も同じになる。イエスの背中を見ていたときはその流れの最後の一歩手前まで一緒にいたが、耐えられずに逃げた。
しかし「年をとると行きたくないところへ連れて行かれる」。「死に方」や「死に場所」だけがイエスと同じだから「行きたくない」のではなく、途中の流れも同じ(でないと同じ最終地点に至らない)だから「行きたくない」。しかし「連れて行かれる」。かつて逃げ出した元の流れへと還流「させられる」。
それはペトロの勇気ではない。「年をとること」自体に勇気は要らない。努力も要らない。「行きたくない」のだから勇気はむしろない。自発性も主体性もない。他人のせい、運や星のせい、神のせいにますますしたがる。四の五の言う。当たり散らす。英雄性はない。しかし「連れて行かれる」。観念しろよ。
当時の人が何歳くらいまで生きたのかを私は知らない。しかし、「年をとると」の対象者の中に50代以上の人はすでに十分に入っていると思う。つまり私はその対象者であると自覚している。年寄りいじめだなどと受けとらないでほしい。「行きたくないところへ連れて行かれる」のは誰よりもまず私自身だ。