2017年3月5日日曜日

口で伝わらないことは字では決して伝わらない

2017年3月3日金曜日、有志伝道会議(上野「アメ横」の近くにて)
私はFacebookに「友達限定」で自分の携帯電話の番号を公開している。自宅の固定電話は廃止。それで支障が出たことはない。初めての電話には出ず、その番号をネットで検索して、いろんな人が公開している「迷惑電話リスト」に載っていれば「迷惑」と名づけて保存。「0120」系はすべて無視。

役所や職場や商品購入などの書類にも、すべて自分の携帯電話の番号を記入している。そのほうがかえって安全だ。全くありえないと言い切れないトラブルやクレームに家族を巻き込むことがなくて済む。私に言いたいことがある人は、家族に伝えて間接的に「言わせる」のでなく、直接言ってもらうしかない。

そのせいだろうか、最近は電話というものがほとんどかかってこない。仕事の連絡はメールかSNSで事足りるし、そのほうが確実だと歓迎される。週末にうっかり職場に携帯電話を忘れて帰ることがたまにあるが、週明けまで誰からもかかってこなかったことを着歴で知って、がっかりすることがあるほどだ。

電話は不要だと考えているのではない。むしろ重要度が増している。メールやSNSではどうしても伝わらないことがある。字数を多くすればするほど誤解の泥沼にはまることがある。私の長年の持論は「口で伝わらないことは字では決して伝わらない」だ。直接話すのが最も良い。会えないならせめて電話で。

しかし、最も良いのは直接話すことだ。個人的に話すもよし、仲間で話すもよし。先週末は上野「アメ横」近くで有志伝道会議。そういうのが最高に良い。でもそれは物理的距離の問題をクリアできる関係の中だけで実現することだ。その意味でもせめて電話。メールやSNSでは伝わらないことがあるからだ。

どうでもいいことを流暢にしゃべる技術を磨くことなのか

記事とは関係ありません
頭脳明晰な方は伏せ字の中身を見抜くかもしれないが、だいぶ前、某国首相に日本の某大学が名誉博士号を授与することになり、その式典に出席させてもらったことがある。その某国首相の謝辞演説の後の質疑応答のとき、何人かの日本の学生が立ち上がった。自らの外国語力をアピールできるチャンスだった。

同時通訳者が学生たちの質問を日本語に訳してくださったので、日本語しか分からない私も含め、その式典に出席していた多くの人にも彼らの質問内容が理解できたはずだ。学生たちの果敢さは絶賛に値すると思った。しかし、質問の内容は「え?は?」と私ごときが驚くくらいレベルが低いことばかりだった。

「内容がないよう」と、つぶやいてしまった。彼らが使う外国語の流暢さがスーパーハイレベルだっただけに、中身の無さはがっかりだった。その某国首相は自国の歴史や自分が尊敬する人物と、日本の歴史やその大学の創始者との「類似性」を話していたのに、そのことに触れる質問をする学生がいなかった。

恥ずかしいとまでは思わないし、そんなふうに言えるだけの実力が私にないので黙るしかなさそうだが、それでもそのとき私が考えたのは、日本語しかできなくても、それはそれで同時通訳者が助けてくれるので、それよりもっと自分で本を読み、自分の頭で考えられるようになってほしい、ということだった。

いま書いていることに特に何かの脈絡があるわけではない。ただ、グローバル教育とは何なのかということを、わりと毎日疑問に感じているひとりであることを付け加えておこう。雑な言い方をお許しいただけば、どうでもいいことを流暢にしゃべる技術を磨くことがそれなのかと、わりと毎日考えこんでいる。

2017年3月4日土曜日

サイボーグ009豪華版が来ました

石ノ森章太郎『サイボーグ009』豪華版(全23巻)
幼少期から読んでいるが全巻を揃えたことがなかったサイボーグ009が豪華版で揃った。発売当時の定価では手が出なかった豪華版だが、ネットのおかげで超安値で落札、本日着。版元やサイズが違うシリーズがあるが、私はマニアではないので同じ内容なら違う版でさらに集めたりはしない(たぶん)。

豪華版にしたのは、老眼にやさしそうだったのと、古いのを捨てるためのつもりだったが、サイボーグ009マニアの人たちのサイトなど読んでいるうちに、古い版のものがすごい高値で取引されているらしいと知り、捨てるのが急にもったいなくなって、そっちも集めようかなという思いが浮かんできた次第。

マニアでもない私が009のことを書くなどおこがましいかぎりだが、今こそ読み直されるべきマンガだと思う。原子力開発、ロボット、サイボーグ、ドローン、クローンなどなどの問題を網羅。描かれるツールやマシン(電話とか車とか)のデザインはレトロそのものだが、かえって斬新でおしゃれでもある。

手塚治虫と並び称される石ノ森章太郎先生だが、私は実は手塚のマンガが昔から苦手。どれも共感できたためしがないし、単純に面白いと感じられない。石ノ森先生のマンガはどれもこれも面白い。すべて私の主観だけで言わせていただけば、石ノ森先生のマンガにはハズレがない。手塚のマンガは(以下略)。

100%私の主観だが、どこが最も大きな相違点だと感じるのだろうと、こんなの初めて考えたことだが。それで思い至ったのは、石ノ森先生はどの戦いにも悲哀を描き、どの主人公も心であるいは実際に涙を流しながら敵を倒すこと。手塚はそうでない気がする、とか書くと手塚ファンから叱られるだろうか。

たしか私が高校か大学の頃から、手塚とか石ノ森先生とか松本零士さんとかのマンガの大きなサイズのハードカバー本が出るようになって、「マンガのくせになんでこんなエラそうなの?」(失礼!)みたいなことを感じていた。でも、今やっと豪華本の意味が分かった。読みやすい!永久保存版!すばらしい!

2017年3月1日水曜日

命令したことがない

ほとんどもっぱら高齢者対象の仕事を長年続けてきたこともあり、だれかに指示したり命令したりしたことがない。だれに対しても「しなさい」と言ったことがない。そもそも自分が子どもの頃から、だれからも「しなさい」と言われたことがない。「せられえ」とか「せー」と言われたことはある(岡山弁)。

お願いならしたことがある。「もしよろしければ、これこれをしていただけませんでしょうか。なにとぞどうかよろしくお願いいたします」というようなことを言ったり書いたりはよくしてきた。しかしそれは指示でも命令でもありえない。「人を使う」ということも全くしたことがないし、考えたこともない。

協力を要請したことならある。「もしよろしければ、お助けいただけませんでしょうか。ご多忙中のところ申し訳ございません。ありがとうございます」と言ったり書いたりはよくしてきた。しかしそれは指示でも命令でもありえない。緊張しているわけでもない。それが「自然」であり「普通」であるだけだ。

妻にも子どもたちにも「しなさい」と、いまだかつて一度も言ったことがない。妻には「もしよろしければ~」で、子どもたちには「しろ」。そのどちらかだ。家庭内のことなので何の問題もない。よそさまに「しろ」も「しなさい」もない。ありえない。言い方の問題ではなく基本姿勢の問題だと思っている。

いま書いているのは「私はそうだ」ということだけで、すべての人が私と同じでなければならないと言いたいのではないし、考えているのでもない。ただ、聞こえてくるたびに嫌だと思っているし、不快に感じているし、腹が立っているし、軽蔑している。口に出して言わないだけだ。私はそういう人間である。

ほとんどもっぱら高齢者対象の仕事を長年続けてきたことと、命令も指示もしたことがないことがどうつながるのかといえば、仮に(相対的な意味での)高齢者に命令したり指示したりしても、言うこと聞いてくれるわけがないからだ。へそまげて、頭から湯気が出るだけだろう。そんなの当たり前ではないか。

まだ終わらない仕事を抱えているが、今夜はもう休ませてもらう。明日なんとか仕上げよう。

2017年2月28日火曜日

「よしこれからだ」と意味不明の気炎を吐く

クリニックの待合室に自分で持ち込んで読んでいたマンガ

血圧降下剤が今朝残錠ゼロになったので、職場からの帰りに行きつけのクリニックに立ち寄る。自分で持ち込んだマンガを読みながら診察を待つ。年度末が近づき、いろんなものが、いろんなことが終わっていく。へたばるわけには行かないので、病院と薬局と石ノ森章太郎先生に助けてもらいながらがんばる。

Facebookのお友達の投稿で、お台場のダイバーシティのテナント空きが増えている様子が分かって、ややショックを受けつつ、「よしこれからだ」と意味不明の気炎を吐く。調べてみると2005年1月10日だったようだが、私は某所で行った講演で「お台場伝道所を作ろうよ」と語ったことがある。

もちろん九分九厘妄想だが、冗談ではなく真顔で言った。教会青年対象の講演だったが、私が問いたかったのは、あなたがたは「ありそうもない夢は見ない主義」なのか、それでいいのかということだった。「お台場」なんかに教会ができるはずがないとか、何もそんな確信持つ必要ないでしょと言いたかった。

お台場の今の賑わいなど影もなかった1980年代後半の築地まで結婚前の妻を乗せて車で来たことを覚えている。大学生だった頃なので、そんなに昔ではない。本当に何もなかった。今のようなレインボーブリッジも、ゆりかもめも、フジテレビのビルも、ベイエリアの高層マンションも想像もつかなかった。

そのお台場に「なんで教会?」と、たぶん多くの人が疑問をもつだろう。そのことを予測したうえで、なぜそこで疑問を持つのかを考えてみてほしいと願った。私自身も答えを持っていたわけではないし、実行力や根拠となるものを持っていたわけでもない。しかし、むなしい言葉遊びをしたかったのでもない。

でも、まあいいや。書けば書くほど、まるで何かの弁解をしているかのような気分になってくるので、これ以上書くのはやめよう。「お台場教会」をぜひどなたかに作っていただきたい。そこで毎週日曜日に普通の簡素な(できれば地味な)礼拝が行われるのを期待したい。その教会に出席させていただきたい。

2017年2月26日日曜日

恐れるな、語り続けよ(千葉若葉教会)

使徒言行録18章9~11節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』パウロは一年六か月ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」

今日の箇所の文脈は、使徒パウロの第3回伝道旅行です。パウロはそろそろ高齢者と言える年齢になっていました。あらゆる困難を乗り越えて神の御言葉を宣べ伝える働きを続けてきました。

そのパウロに神が幻の中で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」と励ましの言葉を語りかけてくださいました。これはパウロに神が語った言葉です。しかし同時に、すべての伝道者、そして教会にも神が語り続けています。伝道者は個人的に神の言葉を宣べ伝えているのではなく、教会と共に働く存在だからです。

もちろん伝道者は個人的にも語ります。そこに教会がなければ伝道者は何も語ることができないのではなく、伝道者は新しく教会を生み出すことができます。しかし、親のいない子どもはいません。子どもは自分で自分を生むことはできません。教会も同じです。新しい教会にも生み出す母体となる親の教会が必ずあります。

しかしまた、ここで私が声を大にして言いたいのは、すべての教会の生みの親は神であるということです。教会はイエス・キリストの体です。究極的にいえば、伝道者と教会が属している母体は神御自身であり、神の御子イエス・キリスト御自身です。だからこそ、伝道者と教会が恐れず黙らず神の言葉を宣べ伝える働きを続けるために、神御自身の励ましの言葉を必要としています。

ここで問題があります。それは、伝道者と教会を励ます神の言葉は、わたしたちが手にしているこの聖書という書物そのものなのかといえば、必ずしもそうとは言い切れません。これはもしかしたら皆さんを驚かせ、不安な気持ちに陥れる言い方かもしれません。

しかし、今日の箇所に書かれているとおり、伝道者パウロに神が励ましの言葉を語りかけてくださったのは「幻の中で語りかける」形式であったことが分かります。「パウロは聖書を読んだ。こう書かれていた。だからパウロはそう信じた」というようなことを使徒言行録が書いていないという点が重要です。

パウロが自分の働きの支えとし、根拠とし、その上に立って伝道の仕事を続けた神御自身の励ましの言葉は、いわばたかが「幻の中で語りかけられたもの」にすぎないものでした。第三者が客観的にそれを証明できるわけではありません。何の証拠にもなりませんし、何の保証もありません。「それはあなたの思い込みだ」と言われてしまえば、それまでです。

伝道者と教会の存在は、その意味では、砂上の楼閣です。常に危険な綱渡りをしていると自覚するほうが、よほど現実的かもしれません。

しかしまた、だからこそ、伝道者と教会にとって「祈り」が意味を持ちます。祈りとは願いです。まだ実現していないことが実現しますようにとただ思っているだけです。ただ願っているだけです。私はこれだけのことをしたのだから当然これだけの評価を受けるべきだというような権利主張をすることが祈りではありません。

その意味では伝道者も教会も常に不安の中にあります。この務めにだれが耐えうるのでしょうか。しかし、神はこの務めを担う人々を世の中から選び出して、無理にでも担わせる方です。そのような、光栄でもあり、重荷でもあるのが伝道の働きです。

パウロが「幻の中で」この励ましの言葉を聴いたのはコリント伝道の最中だったことが分かります。使徒言行録によれば、パウロがコリントを訪れたのは、ギリシアの首都アテネの次でした。アテネとコリントはさほど遠くない距離にあります。

パウロのアテネ伝道は、しばしば評価が分かれるところです。パウロはアテネで伝道に失敗したととらえる人もいれば、失敗したとまで言うのは間違っているととらえる人もいます。私はどちらかといえば、パウロのアテネ伝道は失敗したと考えるほうです。

パウロがアテネで出会ったのは、多くの偶像でした。あるいはギリシアの神々をまつる神殿でした。それを見て彼は「憤慨した」(17章16節)と記されています。エピクロス派やストア派の哲学者たちと討論をしたとも記されています(17章18節)。エピクロス派(エピキュリアン)といえば快楽主義、ストア派(ストイシズム)といえば禁欲主義ですが、そのあたりに立ち入るいとまはありません。

そのようなアテネでパウロが力説したのは、大きく分ければ2つのことでした。第一は「神は手で作った神殿などにはお住みにならない」(17章24節)ということでした。そして第二は「神がひとりの人を死者の中から復活させて(イエス・キリストの復活)、すべての人にそのこと(すべての人の復活)の確証を与えた」(17章31節)ということでした。

ところが、特に後者の「死者の復活」を語ったことで、あざ笑われ、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と立ち去られてしまいました(17章32節)。しかし、何人かの人はパウロに従って信仰に入った、とも記されています(17章34節)。パウロのアテネ伝道は失敗とまでは言えないと考える人々の根拠は、この点にあります。

しかし私は、パウロのアテネ伝道は失敗だったと考えています。それはパウロが死者の復活について語ったから失敗だったという意味ではありません。私が考えるのはもっと根源的なことです。

パウロのアテネ伝道には「憤慨」すなわち「怒り」という動機があったという点が問題です。腹立ち紛れに当てこすりの言葉を語ったのです。そのような動機で語られる言葉で心が動く人がいるでしょうか。それが「伝道」と言えるでしょうか。と、そのあたりのことを私は考えています。

そういうのは今の人なら「上から目線」と言います。私が過去に出会った少なくない数の外国から日本に来た宣教師たちの中に、そのタイプの人々がいました。「日本は霊的に貧しい国である。日本人は霊的に貧しい人々である。だから我々は日本に伝道し、日本人を回心させなければならないのだ」というようなことを書いたり語ったりする人々と出会ったことがあります。

外国の宣教師だけを悪者にするつもりはありません。日本人の伝道者にも、日本の教会にもそのタイプの人々がいます。私自身も同じような感覚に陥ることがありますので、自戒しなければなりません。

そのようなやり方で誰の心が動くでしょうか。ばかにされた、けなされたとしか感じないでしょうし、ますます心を閉ざされてしまうでしょう。自分が逆の立場であればその気持ちは分かるはずです。「怒り」や「軽蔑」が動機であるような伝道がうまく行くはずがありません。結果的に何人かの人が信仰に入ったとしても、長い目で見れば、パウロのアテネ伝道は失敗だったと言わざるをえません。

さて、パウロはアテネの次にコリントに行きました。コリントでパウロは、アキラとプリスキラというテントづくりを職業とするユダヤ人夫婦の家に住み、彼らの仕事を手伝うアルバイトをしながら伝道しました(18章1~4節参照)。

この箇所を根拠にして日本の教会でも「牧師たちはパウロと同じようにアルバイトをしながら伝道すべきである」というようなことがしばしば語られてきました。その趣旨を私は理解できるほうです。しかし、この箇所に記されていることが、伝道者の活動をサポートする教会の責任がまるで全く免除され、放棄されてもよいかのような意味で引用されることもありますので、警戒心が私にはあります。

話の流れをよく考えていただけば、コリントでのパウロのアルバイトは、あくまでも一時的な緊急避難だったことが分かります。恒常的なことでも固定的なことでもありません。

そして、シラスとテモテがマケドニア州からコリントに来てからは、パウロは御言葉を語ることに「専念した」と記されていますが(5節)、これはおそらく彼らがマケドニア州の教会で集めた献金を持ってきてくれたので、アルバイトで食いつなぐ必要がなくなったことを意味していると思われます。

お金を稼ぐことが伝道の目的ではありません。しかし、伝道の継続のために、そして伝道に専念するために教会の支えが必要です。

しかし、パウロがどれほど伝道に専念できるようになっても、必ず妨害が入り、そのたびに伝道の継続が困難になったことも事実です。それでパウロは移動を余儀なくされ、働きの場を転々とすることになりました。

その苦労がパウロを伝道者として成長させました。コリントでは多くの人々が信仰に入り、洗礼を受けました。教会の仲間が増え、パウロの伝道を支えてくれる人々が増え、1年6か月コリントにとどまって伝道を続けることができました。

繰り返します。お金を稼ぐことが伝道の目的ではありません。しかし伝道の継続のために、そして伝道に専念するために教会の支えが必要です。

「教会は伝道者を助けることができませんので、自分でアルバイトをしてください。パウロもそうしたではありませんか」という言い方は、文脈を無視した間違った引用であるとしか言いようがありません。

「幻の中で」神がパウロに語りかけてくださった「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(9~10節)という言葉は、このような文脈の中で理解されるべきです。

伝道は賭けごとではありませんが、賭けの要素があることを否定できません。パウロにとっての伝道の究極の根拠は「幻」でした。それが何なのかは、彼以外の誰にも見ることができないし、理解することもできません。それは、ただ願いであり、祈りです。「にすぎない」ものです。

しかし、それを必要としている人々が大勢います。神の言葉を必要としている人々がいます。救いを求めている人々がいます。そのためにわたしたちは伝道を続けるのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

(2017年2月26日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年2月24日金曜日

糸通しの歌(作詞 関口康)


ボタンがとれても 慌てない
裁縫キットで ヒョイパッパ
今日はひさびさ 電車でゴー
朝から寿司だ 行ってきます

今日はボタンを 2つ付けた
スーツもコートも よれよれよ(ヨロレイヒ)
5年メガネが 今日折れた
車の走行 12万
ぼろろボロロと 明日も行く

今日は 夜遅くまで仕事
夕食も すっかり遅く
電車をおりて 駅前の日高屋で
ありついた レバニラ炒めがしみた
ごちそうさま
明日もなんとか 笑えそうだよ

今日いちばんの 喜びは
これが何かを知ったこと

今日いちばんの 悲しみは
これを今日まで知らなかったこと

今日いちばんの 喜びは
これで なんとかなったこと

今日いちばんの 悲しみは
これまでは これなしに
なんとかなっていたこと(目が 目がぁぁぁ)

糸通し 糸通し
ああ君の名は
糸通し

糸通し 糸通し
ああ君のこと
愛おしい


2017年2月22日水曜日

ふにゃぶにゅの極意

1993年3月28日 ガリラヤ湖上で
言葉を失う重い気持ちの中で今夜もガーネット・クロウさんの曲にいやされているという。空腹に食事、生傷に絆創膏、高血圧に降圧剤。そこスキップしていきなり宗教の話にしなくてもと思っている。

まあでも、なんだかんだ言いながら能天気なのは、ありがたい性質だと思っている。柔よく剛を制するよ。ふにゃふにゃだからな。弾き返せないけど、こっちにぶにゅっと埋まって止まる。子どもの頃からそう。いじめたことはないが、いじめられたこともない。いじめ甲斐がないからな。ふにゃぶにゅだから。

あと、押されるとわりとすぐに倒れるけど、意外に受け身が上手い。頭を打たないように、あご引いて丸まってごろりんできる。中学、高校で数年手ほどきを受けただけなのに、いまだに体と心が忘れない。柔道家は「かかってこい」とは言わない。かかってくるな。笑。殺気を感じるととりあえず逃げる。笑。

それと、もしかかってこられたら、目をやられないように、まずはメガネを外すくせもある。割れて目をやられたら逃げられなくなるからな。大事なのは、相手の動きをじっと見ることと、自分の逃げ道を確保し続けること。相手の急所を探してとどめを刺すための目ではない。少なくとも私はそう思っている。

全く脈絡はないが、「1993年3月28日」の日付がある写真を公開する。ガリラヤ湖上を走るフェリー内でマイクをもって讃美歌を独唱している。おお24年前か。27歳だったわけか。していることも、顔つきも、体型も、当時と今と全く変わっていない気がする。いいのか悪いのかさっぱり分からない。

2017年2月19日日曜日

神の言葉によって立つ教会(千葉本町教会)

使徒言行録20章31~32節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」

千葉本町教会のみなさま、おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。今日初めて説教壇に立たせていただきます。どうかよろしくお願いいたします。

岸憲秀先生と知り合ったのはちょうど30年前です。1987年3月です。岸先生は青山学院大学の学生でした。私は東京神学大学の3年を終えて4年になる春休みでした。お会いしたのは箱根で行われた全国教会青年同盟の春の修養会です。恵先生も参加しておられました。私の妻も参加していました。それぞれみんな独身でした。懐かしい、良い思い出です。

その後、岸先生が東京神学大学に入学され、1年か2年在学期間が重なっていたはずですが、1990年に私が先に卒業し、高知県の日本基督教団の教会の伝道師になりました。それ以降お会いできずにいましたが、13年前の2004年4月に私が千葉県松戸市の教会に来てまもなく、岸先生から久しぶりにメールをいただきました。東京神学大学卒業生有志同窓会の連絡でした。その後、15年ぶりくらいで岸先生と再会しました。お互いに変わり果てていましたが、すぐに意気投合しました。

昨年4月、私が教務教師として日本基督教団に復帰することになったときも、千葉支区長の岸先生にたいへんお世話になりました。30年来の悪友同士ですが日本宣教を共に担う牧師仲間として岸先生を尊敬しています。今日は岸先生が韓国出張で不在ですので、本人のいないところでほめておきます。

さて、先ほど朗読していただきましたのは使徒言行録20章31節と32節です。この箇所は、20章18節から35節まで続いている使徒パウロの説教の一部です。そのため、今日の箇所はその文脈の中でとらえる必要があります。

パウロの第3回伝道旅行の中で最も重要な拠点のひとつがエフェソです。パウロのエフェソ伝道についての記事は、19章1節の「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」と書いてあるところから始まります。パウロはエフェソで3年間伝道しました。

嫌なこともありました。ひどかったのはデメテリオというアルテミス神殿の模型を作る銀細工職人との争いです。「手で作ったものなど神ではない」とパウロが教えていることを知ったデメテリオが、このままパウロを放っておくと自分たちの商売が成り立たなくなるし、アルテミス神殿の権威の失墜を招くだろうと危機感を募らせ、人々を扇動してパウロの伝道を妨害しはじめました。事件の詳細は19章に描かれています。

そのデメテリオとパウロの争いを収めるために大きな役割を果たしたのは、「パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たち」(19章31節)の存在でした。その人々が騒動の鎮静化に乗り出してくれました。

彼らは、ローマ帝国の属州の人々に義務づけられていた皇帝礼拝を監視する人々でした。そのような人々の中に「パウロの友人」がいて、しかもパウロの身柄を保護する側になってくれたというのは、パウロの伝道活動の影響力を物語る重要なエピソードであると言えます。

そのような苦労も味わったエフェソでの伝道にひと区切りつけて、パウロは再びエルサレムに戻ることにしました。そのエフェソの人々とのお別れの場で行なったパウロの説教が、今日の箇所の前後の文脈です。

このパウロの説教は、私が知るかぎり、礼拝説教のテキストとしてよく取り上げられる箇所です。とくに牧師を隠退するときや、他の教会に転任するとき、この箇所を取り上げて説教する牧師がたがおられます。内容が「お別れの説教」ですから。この箇所を取り上げて説教すると、教会の人々から「うちの牧師はそろそろ転任するつもりか、隠退するつもりか」と勘ぐられることさえあります。

説教の内容は力強く、感動的で、美しいものです。現代の批判的な聖書注解書の中には「この説教はパウロの思想をよく表現してはいるが、使徒言行録の著者ルカの文学的創作物である」というような何とも興ざめなことが書かれていたりします。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。

しかし、今日皆さんにお話ししたいと願ってきたのは、使徒パウロの伝道旅行の歴史的事実がどうだったかとか、この説教はパウロが実際に語ったものかそれともパウロとは無関係にルカが創作したものかというような話ではありません。

今日お話ししたいと願ってきたのは、「神の言葉によって立つ教会」ということです。順序を換えて言い直せば、「教会は神の言葉によって立つ」です。その意味は、教会の土台は神の言葉であるということです。教会の存在を根底において支えているのは神の言葉であるということです。

いま申し上げたことに関することが、この箇所に確かに記されています。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」。

この箇所の読み方には注意が必要であると、牧師になったばかりの頃、先輩の牧師がたから何度も繰り返し教えられました。なぜ注意が必要なのかといえば、この箇所には「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」と書かれているにもかかわらず、それを「神とその恵みの言葉とをあなたがたにゆだねます」と誤読する可能性があるからだ、ということでした。そうではないのだ、そうではないのだと、何度も言われましたので、忘れることができません。

大事なことは、この箇所に書かれているのはパウロがエフェソの教会の人々「に」神とその恵みの言葉「を」ゆだねたのではなく、エフェソの教会の人々「を」神とその恵みの言葉「に」ゆだねたと言っていることです。

そうではなく、もしパウロが「あなたがたに神の言葉をゆだねた」という意味のことを言っているとしたら、パウロは一時的にせよ、自分は神の言葉の所有者であると自任していたことになります。それを私の次にあなたがたに「委ねます」または「託します」と言いながら、神の言葉を手渡す関係に自分を置いていることになります。リレー競走のバトンの受け渡しの関係です。

しかし、ここに書かれているのはそういう意味ではないと、先輩がたから教えていただきました。ここに書かれているのは、あなたがた「を」神の言葉「に」ゆだねる、ということだ。つまり、牧師であり説教者であるパウロは神の言葉の所有者ではなく、自分が退くからといって、教会の人たちに神の言葉のバトン「を預ける」とか「を託す」という関係にあるわけではないのだ、ということです。

ここで言われているのはそのようなことではなく、牧師であり説教者であるパウロ自身も神の言葉の上に立って生きかつ説教してきた者として、その自分と同じ土台の上にあなたがたも立ってもらうのだという意味で、神の言葉「に」あなたがた教会「を」ゆだねると言っているのだということです。

それはこの箇所に書かれているとおりですし、私も納得していることですので、先輩がたから教えていただいたとおりのことを皆さまにお伝えしておきます。しかし、もう一点、付け加えたいことがあります。それは、ここで言われている「神とその恵みの言葉」の具体的な意味は何かという点です。

単純に「聖書」と言いたいところです。そのほうが話が分かりやすくなります。しかし少し厳密に考えれば、少なくとも当時は、わたしたちが今持っているような形の「新約聖書」は存在しません。それならば「旧約聖書」を指しているのかといえば、それも限定しすぎです。

考えられるのは、もっと広い意味です。直前にパウロが言っている「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたこと」すべてを含んでいます。狭い意味の「聖書」だけでなく、少なくとも「説教」が含まれるし、「一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきた」努力、時間、感情、個人的な関係などのすべてが含まれている「神の言葉」です。

「そうではない。神の言葉は神の言葉なのだ。人間の努力だとか、心の動きだとか、人間的な感情のようなものは神の言葉に含まれるわけがないし、含まれてはならない。人間的な思いが教会を左右するようなことがあってはならない。そのようなものの上に教会は決して立ちはしない。教会は人間のものではなく神のものである。あらゆる人間的な思いを否定し、対立するところに成り立つひたすら純粋な神の言葉の上だけに、真の教会は立つし、立たねばならない」というような反論が起こるかもしれません。

しかし今日の箇所を読むかぎり、いま私が付け加えたことのすべてが否定されなくてはならないほどの反論の根拠は見当たりません。私が付け加えたことを別の言葉で言い換えるとすれば、「神の言葉によって立つ教会」を強調することは正しいが、だからといって聖書、説教、教会における「人間性」を排除する理由になりはしない、ということです。

そのことを、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレー先生が、使徒言行録20章32節の註解としてしっかり書いておられました。ウェスレー先生は偉大であると思いました。次のとおりです。

「神は何の手段も用いずに、このようにわたしたちの信仰を築き得るのであるが、実際には手段を用いて、信仰を築いてくださる。諸君よ、今は以前よりもキリストを知ったから、人間的な教師の必要はあまりないなどと、思いあがらぬように気を付けるがよい」(『ウェスレー著作集 第1巻 新約聖書註解 上』松本卓夫・小黒薫訳、ウェスレー著作集刊行会、新教出版社、初版1960年、第二版1979年、498ページ)。

感覚的にはよく分かる話です。説教者の人柄と説教そのものを完全に区別することができるのかという問題です。現実に不可能です。

「神の言葉によって立つ教会」は「人間」を排除してはいけません。説教者が「人間」であることも「人間的」であることも、排除できませんし、排除してはいけません。パウロが教会の人々をゆだねた「神とその恵みの言葉」は、彼自身が「夜も昼も涙を流して」教えたものでもあるのです。

岸先生のような温かい人柄の牧師先生と共に歩んでおられる千葉本町教会の皆さまは、本当に幸せです。「人間」に冷淡な教会は残酷です。教会がそういうふうになってはいけません。

千葉本町教会の皆さまの上に、さらなる主の祝福がありますよう、心からお祈りいたします。

(2017年2月19日、日本基督教団千葉本町教会 主日礼拝)

2017年2月18日土曜日

「10年遅れで生きる」生活術

マルセイバターサンド
冷静に自己分析するとしたら、単純に私は「10年遅れ」の人生を歩んでいるようだ。10年前といえば2007年。41歳(遠い目)。もう解散しているガーネット・クロウさんの曲を今ごろ夢中で聴き、ガラケーを愛用し、反応するのはどれもこれも10年前のアニメや映画。10年間何をしてたんだろう。

と書いたあと、いま思い至るのは、10年前ではないが9年前の2008年1月からブログを書き始めたことと、翌2009年からフェイスブックとツイッターを始めたことだ。個人情報保護最重要の時代、ネットには基本ジブンバナシしか書けない。10年前から極度に「自省的人間」になったのではないか。

自分を掘って掘って掘りまくって、もう何も出てこないと思うほどなのに、紙の日記は3日坊主だった私が、ブログもフェイスブックもツイッターもまもなく10年になる。それなんなんだと自分で思う(また自省だ)。そういうことが楽しくなってしまったのではないか。「自分探し」とは言われたくないが。

それ(「自分探し」とは言われたくないので差し当たり「自分堀り」と表記する)ができさえすれば、使う道具が10年前の流行だろうと、なごむ音楽が10年前の流行だろうと、かまわないし、むしろありがたいと無意識に感じているのかも。何言ってるのか理解されないかもしれないが、今の実感はそれだ。

「自分掘り」が好きなわけではない。逃げられるものなら逃げたいが、逃げられないし、自分以外のことを書いた次の瞬間に告訴の時代だ。それと一次文献に密着した研究をしてきたファン・ルーラーのこと以外のことも書けない。他領域のことを言おうものなら、たちまち「専門家がた」から、やいのやいの。

さしずめこんな感じなので、この世界にはまるで、大昔に没したオランダ人ファン・ルーラーと「自分大好きな」(事実に著しく反することを声大で訴えたいが!)私の2人しかいないかのような書きっぷりにならざるをえない。ブログやSNSに他人の実名や写真を載せて書ける人が、羨ましくて仕方がない。

大きく脱線したが、取り急ぎ書きたかったのは、ガーネット・クロウさんを今日もずっと聞いていますということと、ガラケーを愛用していますということと、今初めて書くが、パソコンは自作です、マッなんとかやアイなんとかは触ったこともありませんということ(それはずっと前から書いてるぞ)だけだ。

世の中を変えたいと願っていないわけでなく、変えたいと願っているが、だからといってちょっとやそっと字を書いたり何か言ったりしたくらいで変えられる世ではないと思っているので、だいたいいつも軽佻に書くし、へらへらしゃべる。だから軽く見られるし、軽く見てよいが、なめるなよとも思っている。

それにしても今日の昼パクついた「マルセイバターサンド」は美味しかった。尊敬する先輩牧師によれば「もらってうれしいおみやげダントツ1位」だそうだ。よく分かる。「SNSで見せびらかして羨ましがられるダントツ1位」だと思うもの。狙いすましてアップしているわけだ。悪い人間になったものだ。

そう。私のネット書き込み(ブログ、SNS)には自分とファン・ルーラーと食べものしか基本登場しない。というか意識的に登場「させない」。こうしておけば人々の好奇心の餌食にならないだろう。それでいい、それでいいのだ。草のように生息する。人の目に止まらぬよう。それでいい、それでいいのだ。

(追記)

なんと言えばよいのか、単純な因果律というか、算数的合理性というか、四角四面というか、逆説なしの勧善懲悪というかの中にいるとおぼしき方々の批評がなんともつらい。世の中そんなにシンメトリカルにできていない。パターン認識で誤記を見つけるのは、私も得意というか「見えてしまう」ほうだけど。

誰かから何かを言われて恨んだり落ち込んだりしているわけではない。ネットの世界の話でも職場の話でもない。私個人の話でさえないところがあるし、身近な話でもないところもある。強いて言えば、言葉や論理のやりとりの中で起こりうる現象の話だ。それを見ながら「なんともつらい」と思うことがある。

でも、そういうときに思う。「ひとの批判や批評をするのを我慢できないひとは、ジブンバナシを続けるのが恥ずかしいと思うほどプライドが高いひとなのかもな」と。自分の持って行きどころのないものを自分で処理できず、他人の体を借りる。そういうのはけっこう幼稚な行為ではないかと思わなくもない。

日付が変わる前に思い悩む。「逆説」も単純なシンメトリーでとらえるなら単なる合理性を裏返しているだけではないか。史的イエスの言説と行為はそれなのか。単なる反骨精神、判官びいき、あまのじゃくか。本当にそうか。打ちやすい球でもあえて空振りする。そういうところはないか。ないのか。ねよう。