2016年12月22日木曜日

年末年始の予定


関口 康(日本基督教団教務教師)

年末年始の予定

【2016年】

12月24日(土)
日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市)
クリスマスイブ礼拝〈出席〉

12月25日(日)
日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)
クリスマス礼拝〈出席〉

【2017年】

1月1日(日)
日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市)
新年礼拝〈説教〉

1月8日(日)
日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
主日礼拝〈説教〉

2016年12月21日水曜日

新年の年賀状について

各位

誠に心苦しいことですが、現住所(借家)を非公開にしている関係で、新年の年賀状のやりとりはすべて控えさせていただきます。日本基督教団年鑑には勤務校の住所を掲載しています。連絡はメールかSNSでお願いします。ご理解いただけますと幸いです。

2016年12月21日

関口 康

2016年12月20日火曜日

「2011年の」クリスマス礼拝の説教を公開しました

2011年12月18日 クリスマス礼拝
5年前のクリスマス礼拝(2011年12月18日日曜日)の説教を公開しました。良い説教ではなく悪い説教だったことを反省しています。ただ必死の思いで語ったことを覚えています。

「星空の下で喜び生きる(2011年クリスマス礼拝)」
ルカによる福音書2章1~21節

2016年12月19日月曜日

教会を面白くするヒントの学校

2013年6月23日、立教大学ゲスト講義
昨年までとの最大の変化は「考えるな、感じろ」(Don't think. Feel.)と教えるブルース・リーやマスター・ヨーダのような人が眼前にいなくなったことだ。「考えろ」(Think.)と言える。「考える勇気を持て」(Have a courage to think.)と言える。

新しい経験の中で、教会を面白くするヒントがいろいろあると感じている。週報に説教要旨を載せて、ところどころ穴埋め式にして「さて問題です。ねないで説教を聴いてないと答えられませんよ」と遊ぶとか面白そう。あとは礼拝中にグループディスカッションとかプレゼンとか。アクティヴラーニング教会。

いくつかのチームに分けて、来週の説教の聖書箇所を読んで歴史的背景を調べてくるチームとか、言葉の意味を調べてくるチームとか、自分の生活にあてはめて考えるチームとかにそれぞれ発表してもらうというやり方もよさそう。教会に行かなくちゃという自覚も出てきそうだし。死蔵本を読む動機にもなる。

あとはだんぜん教会にも黒板が必要だと思う。すごく反発されそうだけど。でも「ずっと前から使ってるよ」とおっしゃる方もおられるはず。テレビでテロップを見慣れている人多いので、耳で聴くだけでは分からない同音異義語なんかをちょっと板書するだけで、ずっと分かりやすい説教になること請け合う。

パワポを使っている教会は増えていると見受けるが、パワポが悪いわけではないが、話の流れの中でその場の思いつきで字を書いて見せるのはパワポだと難しいのではないかと。黒板とチョークならさっさとできるし、すぐ消せる。前準備は要らないし、字だけでなく、絵でも図でもなんでも書けるマルチ対応。

ややきつめの言い方だけど、黒板を嫌がる教会が少なくないのは、立派すぎる教会堂のせいではないかと思ったりする。うっとりしたい場所なのに、学校時代の悪夢を思い出したくないのかなんなのか。そういうのどうなのと思ってしまう。説教の意味なんか分からなくてもいいんだろねとイヤミ言いたくなる。

今の学校が果敢に取り組んでいる新しい方法なんか全く見向きもしないで、「教会に若い人が来ない若い人が来ない、教会の将来が危ない危ない」と、まるで来ない人のほうが悪いかのように言ってみてもどうしようもない。教会が学校に教えることは、ほとんど何もない。学校から教会が教わるべきだと思う。

2016年12月18日日曜日

勉強しましょ、そうしましょ

字にすると身も蓋も無くなる気がするし、自分も同じだった(今も)ので、考えると心が痛くなるが、理系はともかく文系の研究者は金も職もないところから「無からの創造」をする感じになると思う。でも、自分で研究会つくって、自ら代表名乗って「立派する」(派閥の領袖になる)のが文系学問の王道かも。

よく知らない分野に首突っ込んだこと書くのをお許しいただきたいが、たとえばの話、夏目漱石研究やりましたな方々はたぶんすごくたくさんおられてライバルも多そうだけど、「だれそれ知らん」と言われる作家の研究なら研究会なくて寂しいけどライバルは少ないないしいない。すきま狙えるチャンスあり。

でも、ここから先のことはいま書いたことの逆面かもしれないが、その「だれそれ知らん」さんがあまりにも歴史にからまない珍奇すぎる存在だと、もしかしたらかえってマイナスのような気もする。歴史の主役につかみかかったけど敗北したが、そのとき主役に致命傷を与えた人みたいなのだと評価高いかも。

あとは、哲学や神学ならはっきり言えるが、プラトン「を」研究する、ヘーゲル「を」研究する、だけでなく、プラトンやヘーゲル「になる」的な。彼らの視点から世界や人間を見てみる。追思考(Nachdenken)することを経て、それでは見えないし分からないことがあるのに気づき、修正を加える。

プラトンやヘーゲル「を」研究することと、プラトンやヘーゲル「になる」のとではどちらが容易いか。私は前者のほうが容易いと思う。彼らのテキストはすでに存在するわけだから。そして前者なしに後者は成り立たない関係にもある。だから先に前者に取り組む。しかし、それをするのは後者に至るためだ。

とまあ、こんな感じのことをジンメルが『哲学の根本問題』の冒頭でえんえんと書いていたなあと今思い出す。そのことを忘れていたくらいジンメル「になっていた」書きっぷりだったわけだ。夏目さんでも芥川さんでも同じことが言えるのではないか。彼ら「を」研究するのは彼ら「になる」ためではないか。

聖書を読むことだって結局そうなので。聖書を読む人は結局いつかはイエス「になったり」パウロ「になったり」する。不遜なことを言っていると思わないほうがいい。「お前は水の上を歩けるのか」とか茶々入れされても無視。イエスにしろパウロにしろ、聖書の読者は彼らに憑依される。のりうつられる。

読書というのはそういうものだろう。映画やテレビなどはもっとそうだろう。最近の映画やテレビを観ていないので分からないが、ひと昔前「さてはこの人、昨日のテレビを観てたな」と分かる物腰や口ぶりになっている人に気づいたことがある。キムタク「になったり」織田裕二「になったり」している人に。

まあしかし、私がいつもつい書いてしまうのは、王道とはこういうものだろうということなので、いま困っている人、いま焦っている人には、何の答えにも解決にもならないことばかりだ。だから、がっかりされる。がっかりされることを苦にしない人間なので、なんともない。へへえだ。あっかんべー。笑。

西千葉教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年12月18日日曜日)は日本基督教団西千葉教会(千葉市中央区)の主日礼拝に初めて出席させていただきました。柏市の借家から片道40キロ(80分)でした。「ヨセフの決断」と題する木下宣世牧師の慰めに満ちたアドベント説教によって新しい力を得ました。ありがとうございました!

2013年3月の研究発表のレジュメを公開しました

(左から 田上雅徳 芳賀力 野村信 関口康)
2013年3月11日(月)立教大学池袋キャンパスで開催したアジアカルヴァン学会・日本カルヴァン研究会合同講演会での研究発表のレジュメを公開しました。

「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義(2013年)」

当日のプログラム

司会
田上雅徳(慶應義塾大学教授)

「カルヴァンの創造論の歴史的意義」
芳賀 力(東京神学大学教授)

「モーセの異邦人伝道(カルヴァンの創世記理解)」
野村 信(東北学院大学教授)

「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」
関口 康(ファン・ルーラー研究会代表)

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「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」(2013年)

関口 康



事前に芳賀力先生と野村信先生の講演レジュメを読ませていただく機会を得た。何を語るべきか考えあぐねていたが、ようやく心が定まった。

カルヴァンの学会でファン・ルーラーの神学についての研究発表をすることは「欄外注」以上ではありえない。問題は、カルヴァン学会の関心とファン・ルーラーの神学の接合点はどこにあるのかということであった。

しかし、芳賀先生は「カルヴァンの中にあった被造世界の肯定という萌芽はやがて一般恩恵論という形で大規模に開花することになる」という重要な命題を提示してくださった。そして一般恩恵論の弱点を克服する鍵は「三位一体論的創造理解」にあることを示唆してくださった。

また、野村信先生は、被造世界についてカルヴァンが、必ずしも明瞭に神の栄光を見ることはできないが、それをおぼろげには映していると見ていたことを「カルヴァンの自然神学」という言葉で表現してくださった。そしてカルヴァンが被造世界を「神の栄光の劇場」(theatrum gloriae Dei)として肯定的に見ていたことを紹介してくださった。

これらの問題についてファン・ルーラーはどのように考えていたのだろうか。この問いに光を当てることで「欄外注」の務めに仕えることにした。そのうえで表題に掲げたとおり、ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義を明らかにしてみたい。

(続きはここをクリックしてください)

2016年12月17日土曜日

クリスマスを間近にして思うこと

家族それぞれ学校やら職場やらいろいろなので、昨夜はひとり激辛カップ麺「蒙古タンメン中本」で空腹を満たす。年末まであとひとふんばり。うちの人たちも似たような状況なのだろう。基本がリア充なので週末に不意にぼっちにされると軽く落ち込む。ボッティチェリ。とか書いているうちに、ぼっち終了。

一夜明けて「睡眠の質」という検索語で最初に出てきた記事を読む。睡眠の質を悪化させる原因に「仕事や心配事を考える」とある。「明後日説教しなければ」と悩みながら休む金曜の夜は睡眠の質が下がる。「明後日説教しないでいい」ときの金曜の夜は質が上がる。それを今朝実感した。すっきりさわやか。

数日前から「しゃべる目覚まし時計」というフリーソフトを利用させていただいている。これはいい。スリープ状態のPCを自動的に立ち上げてくれて、ロボ声やおっさん声で「朝ですよ!起きてください!」と大騒ぎしてくれるので起きざるをえない。しかし今朝は目覚ましなしだった。だって土曜日だもの。

初めて明かすが、ちょうど1年前の今日(2015年12月17日木曜日)立ち寄った「サイゼリヤ高田馬場南店」は当時の「日本基督教団東京教区事務所」の斜向かいにあった(現在は後者が移転)。サイゼリヤのランチでしっかり腹ごしらえしてから私の教師転入願に関する東京教区三役との面接に臨んだ。

書斎のベランダから見える快晴の富士山の今日(2016年12月17日土曜日)。昨年のクリスマスイヴ(2015年12月24日木曜日)に今の借家に引っ越したばかりのころ毎日のように写真を撮っていたのがもはや懐かしい。来週の土曜日か。腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして、急いで食べたのは。

西洋起源の哲学や宗教を考える場合、紛らわしい日本語は西洋の言葉に戻して考える必要があろう。カルヴァン的な意味の「予定」はpredestinationだが、ライプニッツ的な意味の「予定調和」はpre-established harmonyなので、同じ「予定」でも意味も内容も全く違う。

書いても仕方がないことだが、何度も書いてしまう。外国から伝来した宗教を教える者の外国経験が人生51年で20日なのは、まあ仕方ない。いつまでもうさんくささがつきまとうのはそのせいかもしれないが、ごめんなさいと謝るしかない。地味に生きる道が、少なくとも私にはふさわしいと自覚している。

わしは今日もリア充じゃ。お昼はもんげーうめーナポリタンじゃった。妻が作ってくれたし、みんな揃っとったけーな。朝ほど富士山は見えんよ―になってしもーたけど、天気はえーし、気持ちえーが。明日は教会どけー行こーか。アドベントじゃしな。遠くの教会に行っちゃろか。そういう気分じゃが。なー。

(訳)私は今日も人生の幸せを味わっている。昼食は愛妻の絶品ナポリタンを家族みんなで堪能した。遠景の富士山は昼過ぎにはかすみに隠れてしまったが、大空は雲ひとつなく爽快だ。明日はどこの教会のアドベント礼拝に出席させていただこう。久しぶりに遠くまで車を走らせるとするか。そういう気分だ。

もとからクリスマス騒がない系だが、ますますそうなった感あり、ブキミなほど静かだ。教派や教会の系統の話ではなく個人的な話。偉い先生が書いておられたが、キリスト誕生の祝いはキリストにプレゼントする日ではあっても、我々がプレゼントをもらう日ではないだろうと幼いころから信じてきたくちだ。

前世紀「最大の神学者」と称された人に対して個人的に批判的な立場だが、その人が「サロン的教会」を「ブルジョア的」などと批判していたのは胸がすいた。クリスマス騒ぐ系の教会さんはこれからもその線でがんばられたらいいと思うが、個人的には今年からそういうのなくなったので正直ほっとしている。

教会こそ毎年毎年飽きもせずキリストは飼い葉桶に寝かされた飼い葉桶に寝かされたと説教し続けているのに、教会こそぬくぬくとクリスマスにこそごちそうを頬張るというのは結局なじめなかった。キリストはそうだったが我々は違っていいという論法も耳にしたが、得心はしなかった。主張もしなかったが。

まあもうでも、どうでもいい。昨年のクリスマスイヴを経て、この日に新しい意味が個人的に与えられた。だれも巻き込んでいない。小さな記念日となった。「どういう意味があるのか」と尋ねられたら、少しかっこつけてこう応えることにしよう。「これは過越だ!解放の祝いだ!」と。だれも文句は言えまい。

2016年12月15日木曜日

ゼレの神学を読むとファン・ルーラーの神学の限界が見える

ドロテー・ゼレの神学に感じる魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係がある。1929年生まれのゼレは1928年生まれのモルトマンやパネンベルクと同世代。1886年生まれのカール・バルトと1908年生まれのファン・ルーラーの年齢差と、ファン・ルーラーとゼレの年齢差が、ほぼ同じ。

バルトとファン・ルーラーの間も、ファン・ルーラーとゼレやモルトマンやパネンベルクの間も、ほぼ20歳ずつ離れている。バルトの世代とゼレの世代は40年差。その中間にファン・ルーラーが立つ。神学原理の問題までを世代論に還元すべきではないが、神学の文脈の違いは世代と無関係ではありえない。

どのようにいえば今書いていることを感覚的にご理解いただけるだろうか。たとえば私は現在51歳。その私をあくまでも仮にであるが「ファン・ルーラー」の位置に置くとしたら、今の70歳さんたちが「バルト」で、今の30歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」という関係になる。

またこれも仮の話、51歳の私を51歳の「バルト」の位置に置くとしたら、今の30歳さんたちが「ファン・ルーラー」で、今の10歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」になる。感覚は人それぞれだろうが、50代の人にとって「かわいい」のは30代ではなく10代のほうだろう。

「かわいい」かどうかなどははっきり言えばどうでもいい話だし、定義不能で意味不明だということも分かっているつもりだが、神学も人のすることである以上、人間固有の感覚や感情と無関係でもない。自分がしてきた仕事を受け渡す次世代の相手はだれかを選ぶときなどに、その手のことが作用したりする。

逆の視点はどうだろう。10歳さんから30歳さんと50歳さんが、あるいは30歳さんから50歳さんと70歳さんがどう見えるだろうか。たとえばどちらに「権威」を感じるだろうかとか、どちらに「模範」を見出すだろうかとか、どちらに「魅力」を覚えるだろうかとかを考えてみるとよいかもしれない。

ほぼ最初から脇道にそれていたので、もう戻れそうにない。ゼレの神学に感じている魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係ある。ファン・ルーラーがカール・バルトの神学と全面的に対決した(それはナチスに与することを意味しない)第一波だとすれば、ゼレやモルトマンやパネンベルクは第二波。

その闘争においてファン・ルーラーはもっぱら孤軍奮闘だったのに対し、ゼレやモルトマンやパネンベルクはかなり支援者を集めえた世代と言える。偉大な世代の人々が大学や教会の要職を引退する。彼らの功罪の「罪」の面に悩まされ抜いた人々が、新しい偉大な世代となる。中間世代は悩み抜く仕事を負う。

ようやく入手しえたゼレの何冊かの著書の日本語版を見るかぎりファン・ルーラーからの引用は見当たらない。しかしゼレがファン・ルーラーを知らないことはありえない。同世代のモルトマンやパネンベルクはファン・ルーラーを読んだし、引用したし、評価した。そのことをゼレが知らなかったわけがない。

ただゼレはファン・ルーラーに言及しない。もしかしたら興味がない。あるいは反発か無視か。理由は分からない。ただ私にある程度分かるのは、ファン・ルーラーは教会と神学の専門用語(ジャーゴン)にとどまり続けたのに対し、ゼレは教会と神学の外に向かう言葉を用いたことに違いがあるということだ。

ファン・ルーラーの神学の限界は、彼の神学では教会と神学の内部にいる人のことはある程度説得できるとしても、外部に持ち出すことはほとんど全く不可能である点にあると思う。そこがゼレの神学は圧倒的に違う。ゼレの神学は教会と神学の外部にいる人にも必ず届く。その信頼に足りる十分な内容がある。

以上、半分ねながら書いた駄文なので、ご放念いただきたい。

2016年12月12日月曜日

新しい時代の到来(千葉英和高等学校)

ルカによる福音書2章8~12節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

今日の説教に「新しい時代の到来」というタイトルを付けたのは、「アドベント」という言葉の意味が「到来」だからです。「待つ」という意味はありません。「待つ」ではなく「来る」です。救い主イエス・キリストの誕生は「新しい時代の到来」を意味する。それが「アドベント」の意味です。

私の妻は保育士です。子どもたちが小さい頃は子育てに専念していました。息子が中学校に入学し、娘が小学校の高学年になったときから保育士の仕事を始めました。ちょうど10年前です。

保育士の仕事にもいろいろあります。現在は発達障がいを持つ子どもたちの施設で働いています。その前は児童養護施設で働いていました。複雑な事情の子どもたちの世話をしています。

しかし、妻の仕事の具体的な内容については、私は何も知りません。いろんな仕事に当てはまることでもありますが、妻の仕事には「守秘義務」があります。仕事上知りえたことを第三者に漏らしてはなりません。それは夫婦であっても親子であっても同じです。

学校の先生も同じです。学校の先生にも「守秘義務」があります。私も家でもどこでも学校のことは何も話しません。ですから、私と妻が家にいるときは、お互いにずっと黙っていることが多いです。それでいいのです。そういう仕事なのですから。

こういう話をするのは、皆さんの将来の進路選択や職業選択の参考にしてほしいという願いがあるからです。直接的な意味で保育士になってほしいという意味ではありません。私が言いたいのは、日本の中にも、小さいときから親子の関係や自分自身の体や心のことで激しく悩み苦しんでいる子どもたちがたくさんいるということを知らずにいないでほしいということです。そして、もし可能なら、そのような子どもを何らかの仕方で助ける仕事をぜひ目指してほしいということです。

先々週の礼拝にお招きした日本国際飢餓対策機構の方の話には、心を激しく揺さぶられました。飢餓で命を失う子どもたちが日本国内に大勢いるとは言えないでしょう。しかし、日本には問題がないということはありえません。人に言えない事情も多くあるのですが、だからこそ人知れず多くの子どもたちが小さいときから激しく苦しみ悩んでいます。

その中には皆さんと同世代の子どもたちがいます。皆さんの弟さんや妹さんの世代、あるいはもっと小さな子どもたちもいます。その子たちのことを他人事だと思わないでほしいです。きつい言い方になりますが、「そういう家庭環境に生まれてしまった子どもたちは、はい残念でした。でも、ぼくは、私は、ラッキーでした」というような考え方は捨ててほしいです。

「ノブリス・オブリージュ」というフランス語の言葉を皆さんはご存じでしょうか。英語でいえば「ノーブル・オブリゲーション」です。日本語には訳しにくい言葉ですが、その意味は「恵まれた人こそが社会的に果たすべき義務が重い」ということです。税金の額だけの問題ではありません。もし皆さんが「ぼくは、私は、ラッキーでした」と思うなら、そのような人こそが、そのようなことを考えることすらできない苦しい立場にいる人々のことを助けることについて大きな義務を負うべきです。

進路選択や職業選択について私が何か言うと、それは押し付けだ、指図するな、個人の自由だとお叱りを受けることがありますので、このことも慎重に言わなければなりません。押し付けるつもりも指図するつもりも全くありません。ただお願いしたいだけです。

今月初めに行われた学校のクリスマス祝会の「ページェント」(キリスト降誕劇)は本当に素晴らしかったです。感動しました。私は昨年までは在校生の保護者として毎年参加していましたので、4年連続で観させていただきました。どの年の作品も素晴らしかったですが、年々パワーアップしていると思います。

しかし忘れてはならないのは、ページェントが教えてくれたのは「最初の」クリスマス、つまりイエス・キリストの誕生の日の出来事は、本校のページェントの盛大さとは全く正反対と言えるほど寂しいものだったということです。

ヘロデを上手に演じてくれた名役者を悪者にする意図はありません。しかしイエスが生まれたのは裕福で贅沢なヘロデの側ではありません。正反対です。「こんな服で、こんな身なりで救い主に会いに行ってもいいのだろうか」と悩む羊飼いたちに涙が出ました。人の心の叫びが聞こえました。

しかしまた、そのような人々のもとでこそ、そのような人々のためにこそ救い主がお生まれになったのだと天使が教えてくれました。そうであることのしるし、その証拠は、幼子イエスが家畜小屋の飼い葉桶に寝かされていることであると教えてくれました。

その幼子イエスの姿は、裕福と贅沢のまさに正反対です。裕福と贅沢が悪いと言っているのではありません。しかし、世界には、そして今の日本にも、そうでない人が大勢いるし、多くの子どもたちが苦しんでいるということを深く考え、真剣に向き合うことなしに自分の裕福と贅沢だけを追い求めようとするならば悪いです。いいわけがないではありませんか。

そのことをクリスマスが、そして幼子イエスが、今日あなたに問いかけています。そのことを覚えて過ごすクリスマスでありたいと願います。

(2016年12月12日、千葉英和高等学校 学校礼拝)