2016年7月27日水曜日

読解力の問題

教務教師現況報告在中
話の勢いだかなんだか「だったら新しい教会作ればいいじゃん」みたいなことを言われた。いやいやいや。あのねそゆこと急に言わないでくださる心臓止まるからね。こういう軽薄なノリで書いていいようなことですらないし。そんな教会だれもこないし。軽薄派教会だよねそれ。ケイハクハキョウカイ。あっ。

昨夜「日本基督教団教務教師現況報告」をやっと書きおえた。教団年鑑の基礎資料になるらしい。今日投函した。教団事務局総務部教務係の担当者様、ご査収いただきたく、どうかよろしくお願いいたします。

そこに「ドグマ」があって初めて「ドグマ」を解体し、無効化するための「批判」の意義と役割が遺憾なく現れると思うのだが、そもそもそこに「ドグマ」はもはや存在していないのに、それがまるで存在するかのように「仮想敵」として想定する「批判」が独り歩きし、跋扈する状態は、いかがなものだろう。

人生に「リセット」はないという言説はまあ正しいと思うが、私の現実を言わせていただけば、学校教員歴1年目、日本基督教団教師復帰後歴1年目の「新入り」50歳だったりするので、感覚的には「ほぼリセット」に限りなく近い。「右も左も分からぬペーペーでございます。よろしくお願いしまっす」感。

「あのー私関口と申します。歳とりすぎて、高校生のみなさまのお気持ちをさっぱり理解できなくて悩んでいまっす。高校生のみなさま本当に申し訳ありません。初心にたちかえって勉強しなおしますので、夏休み明けはせめて授業中は目を覚ましていただきたく、なにとぞどうかよろしくお願いします」。

教員が100パーセント低姿勢という「土下座教育」というのを新しい教育理論として採用してもらえないだろうかと思ったりしなくもない。

「あのー私関口と申します。19年も離れてしまい、日本基督教団のみなさまのお気持ちをさっぱり理解できなくて悩んでいまっす。日本基督教団のみなさま本当に申し訳ありません。初心にたちかえって勉強しなおしますので、なにとぞどうかよろしくお願いします」。

牧師が100パーセント低姿勢という「土下座伝道」というのは、新しい伝道理論でもなんでもない。ややもすれば「アタマの下げ方が足りない」みたいなことを暗に言われる。

べつに書いていいと思うし、文句でも批判でもないが(断じて)、今年6月に行われたはずの「日本基督教団新任教師オリエンテーション」の案内が、私には届かなかった。転入者は参加することになっているはずだが、「2回めの参加はない」という判断だったのだろうか。もし案内くれば有給とる気でいたが。

そうだ、思い出した。今日、職員室隣席の英語の先生から「関口先生、今日は毒気が強いですね。ポイズンが」と言われた。なんで分かったの。笑。

2016年7月25日月曜日

本当に「君の名は希望」なのか

4年2ヶ月使用してきた私のケータイ(まだまだ使える)
ぎゃあああ。仕事終わって借家に帰って書斎の座椅子に座ったら、後ろからカール・バルトの教会教義学の原著第三巻第二分冊のぶっといのがすううっと滑り落ちて来て、背中にぶつかって来たああ。八百頁もあるうう。嘘八百かああ。八百万のなんとかかあああ。痛てええ。血が出るうう(血は出てません)。

大げさにいえば18世紀啓蒙主義以降「信仰と理性」だ「神学と学問」だと抽象的に表現されてきたことを学校界で実体的に認識させられている。否定的な意味ではない。学業成績を保つことと聖書をポジティヴに学ぶことは「両立」するかどうかという問いだと思えばよい。ナニ両立するに決まってるじゃん。

ぜひ次は「ドラクエGO」をお願いしたいです。なんといっても「教会」がありますからね。物入れ小怪獣探しでうろうろされるよりは「よみがえり」のために来てもらえるほうが、教会としては歓迎ムードかも(謎

そりゃ私は日本がキリスト教国になるまでがんばるに決まってるわけで、そこを言わずにむにゃむにゃ言ってカムフラージュして人畜無害のふりする意味が分からないわけで。しかもそれを「洗脳」なんていう非道な手段を用いずにやるという。電極埋め込みとかすることですよ「洗脳」。するわけないじゃん。

お友達から教えていただいた「ポケストップGO」サイトによると、今のうち(借家)の向かいのマンションや最寄りの特定郵便局がポケストップになっているらしい。そういえばクチ半開きで歩きスマホしてる人いるいる。うちが7階建ての6階なので、上から見ると笑える。これがホントの「上から目線」。

自分にとっては文字通り死ぬか生きるかで恥も外聞もブライドも捨てて必死に得たし守ろうとしているものを、自己都合でひょいと捨てようとしているように見える人がいると、けっこう心理的にダメージ受けるものだなと思った。いやまあ、ありもしないことまで詮索されても困るので、一般論として書くが。

衝動的に入札ボタンを押してしまった本を、ライバルがひとりも現れぬまま今夜落札した。エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(深井智朗訳、春秋社、2015年)。この論文の白水社版(森田・高野訳)はコピーしか持っていなかった。ああまた背後から滑り落ちてくる物体が増える。

昨夜から今日にかけて何度となく思い浮かぶメロディが何の曲かを思い出せず、ミドミ(http://www.midomi.co.jp/ )に鼻歌を吹き込んでも判明せず、一日考え込んでいたが、それが今やっと分かった。なんのことはない、なんとか46(また思い出せない)の「君の名は希望」だった。

ふだん社会的な発言が多く、人権やジェンダーに鋭い感覚を持っているように見える人が、牧師家族の話になり、なかでも牧師が夫側にいる妻の立場にいる人のことになると「それは別の話」のようになっていくのは歯がゆいし、不可解でならない。そういうところで、なんちゃって社会派であることがバレる。

教会を求める祈り


不遜な意味ではないつもりですが、私の心の奥底に押しても引いても、自分でも他人にも動かすことができないチャーチマンシップのようなものがどんと腰を据えてしまっているので、どんなに忙しくてもたとえやや死にそうでも、なんとかして教会に行きたいし、御言葉の奉仕をしたいという願いがあります。

就寝前の祈り。私にいくらチャーチマンシップがあるといっても、他に誰もいない「ひとり教会」を言い張るつもりはない。二人三人のいるところに、と言われても、たとえば家族だけで「教会」を言い張るつもりもない。それは「教会」ではない。ネット越しで。違う。教会を。教会を。教会を。笑うでない。

2016年7月24日日曜日

主日礼拝(出席/説教)についての今後の予定


親愛なる各位

私は現在「日本基督教団教務教師」の立場にあり、担任教会がありません。そのため、松戸市内の日本基督教団の教会を中心にいろんな教会の礼拝に出席しています。

依頼に応じて教派を超えて説教奉仕をさせていただいています。今後の予定は下記のとおりです。説教予定のない日曜日はすべてフリーです。貴教会の主日礼拝の説教者として小さなしもべを用いていただけますと幸いです。

2016年7月24日

日本基督教団教務教師 関口 康(yasushi.sekiguchi@gmail.com

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主日礼拝(出席/説教)についての今後の予定(関口 康)

【2016年】

 7月31日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
 8月 7日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 8月14日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 8月21日(日) 日本基督教団阿佐ヶ谷東教会(説教)
 8月28日(日) 日本基督教団千葉北総教会(説教)
 9月 4日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 9月11日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 9月18日(日) 未定
 9月25日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
10月 2日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
10月 9日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
10月16日(日) 未定
10月23日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
10月30日(日) 未定
11月 6日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
11月13日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
11月20日(日) 未定
11月27日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
12月 4日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
12月11日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
12月18日(日) 未定
12月25日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)

【2017年】

 1月 1日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 1月 8日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(説教)
 1月15日(日) 未定
 1月22日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 1月29日(日) 未定
 2月 5日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 2月12日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(説教)
 2月19日(日) 未定
 2月26日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 3月 5日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 3月12日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 3月19日(日) 未定
 3月26日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)

【参考リンク】

関口 康 2016年度礼拝説教予定
関口 康 2016年度教会出席記録

千葉北総教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年7月24日日曜日)は日本基督教団千葉北総教会(印西市)の主日礼拝に出席させていただきました。大串眞牧師のいつもながら丁寧な説教で心満たされました。千葉英和高校の生徒たちが教会訪問に来ていました。ありがとうございます。


午後は千葉英和高校軽音楽部の引退ライブに駆けつけました。会場はチャペル。3年生部員たちにとっての最後のステージ。プロ並みの大迫力の生演奏を堪能しました。けいおん部のみなさん、ありがとうございます。

2016年7月18日月曜日

姦通を犯した女性の物語について

記事とは関係ありません
姦通を犯した女性を前にイエスが「あなたがたの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい」と言い、そこにいた人が一人また一人と去ったあと「わたしもあなたを罪に定めない」と言ったのはイエスの思想である以上にイエスの実践だった。考えただけではなく、女性の生命を守るための行動だった。

内容の軽重はともかく罪を犯した者の罪を無条件に赦してしまえば社会の秩序は保てないし、被害者の無念は晴れないので、イエスの思想に反対であるという立場はよく分かる。しかし、イエスはどんなに反対されても姦淫を犯した女性の生命を守る側に立った。それはイエスの思想ではなく実践だったからだ。

イエスはマッチョだった論を展開したいのではない。だけど、頭より口より体が先に動いた人だったのではと思う。論より実践が先。なんだかんだ言っている相手を無視するために(としか言いようがない)地面に何かを書いている姿はユーモラスでさえある。相手の論に乗らない。屁理屈に屁理屈で返さない。

その意味ではイエスは野球部向きかもしれない。もちろんスポーツ全般なんでも。相手バッターがボールを打った瞬間にダッシュ。全速で走りながらボールの落下点を予測、ジャンプしながらキャッチ。スポーツ音痴の私には全く不可能だが、球技の選手はそれをいつもする。立ち止まって考えるヒマなどない。

自分の目の前で今まさに処刑されようとしている人がいて、なおかつ、その人の生命を守らなければならないという判断をした場合、立ち止まって考えるヒマはたぶんない。えっと、法に照らし合わせてどうだろう、論理的整合性はどうだろう、などと考えているうちに、その人の処刑は終わってしまうだろう。

どうするか。野球部作戦だ。相手バッターがボールを打った瞬間にダッシュ。全速で走りながらボールの落下点を予測。ジャンプしながらキャッチ。相手の屁理屈が始まった瞬間にダッシュ。処刑する人とされる人の間に体をはさみながら議論の落下点を予測。話が飛躍していようとお構いなしに逃げ道を確保。

だれかの生命を守り、そのだれかの未来を生み出す努力には、その人の側に立ってその人を守ろうとする人自身の生命が脅かされるという皮肉な側面が絶えずある。その脅威に耐えられるようになることが、人としての成長ではないか。人を生み(狭義の出産に限らず)育てる役割を担いうる大人になるための。

しかしイエスは、だからといって、どんな人でも自分と同じようにできるとは考えていない。人をかばうどころか自分のことも持て余すほど余裕がない我々人間の現実を、イエスは熟知している。だからイエスは我々の屁理屈を無視する。たいていそれは我々の自己弁護にすぎない。傾聴に値しない戯言なのだ。

「紙の本」をめぐる心境の変化

自分なりに苦労してきたつもりですが
だめだ、今日もまだ本調子ではないようだ。血圧降下剤は飲んだがまだ高いのか、他の人が書いた「データベース」という字が「ダースベイダー」に見えて見えて仕方がない。胃と肝臓から悲鳴が聞こえる。脇腹がじくじく痛い。あと半日ゆっくりしていよう。明日からの勤務に支障が出ないようにしなくては。

あれほどこだわっていた紙の本の出版(「日本語版ファン・ルーラー著作集」)への関心を失っている自分に気づく。紙の本の数でポイント稼ぎする仕事ではないし、議論の場はネットで事足りる。オランダ語独習者の訳書など不買運動でも起こればたちまちアウト。絶えず新訳を打ち出せるのはネットならでは。

紙の本の需要と供給は、雲上人の「先生」が存在し、なおかつ、きちんとお支払いして「先生」のお言葉を押し頂き、拝読し、反芻したいと願う「読者」がいて成り立つ。だれが雲上人かはともかく、そういう関係性が日本のキリスト教界に見当たらない以上、紙の本は消える。上下関係を嫌忌する文化圏だし。

いつまで経っても「バルト、ティリッヒ、ブルトマン」と言い続けるのは、ふつうにそこいらに佇んでいるおばあさんおじいさんおばさんおじさんおねえさんおにいさんである日本の牧師や神学教師や教務教師がつまらない存在にしか見えず、そういう人の言葉は「研究する」価値がないと感じるからだろう。

前にも書いたが、今年(2016年)20歳の人(1996年生まれ)にとってのバルト(1886年生まれ)は110歳差。バルトにとってのシュライアマハー(1768年生まれ)の118歳差とほぼ同じ。徹底的に批判すべき存在以外の何ものでもありえないほど過去の人だという認識がどれほどあるか。

2016年7月17日日曜日

神さまごめんなさい

震度4で一冊も滑落しなかった神学書ジェンガ
今日は朝から体調不良で、思うように身動きがとれず、まことに申し訳ないことに、朝の礼拝はどこにも出席できませんでした。夕拝が行われる教会をネットで探しましたが、千葉県柏市から遠い教会が多くて、出席が叶いませんでした。神さま今日は本当にごめんなさい。火曜日までには必ず体調を戻します。

特に昨年の半ばからですが、かなり深刻に胃をやられていることはほぼ間違いないのですが、肝臓もヤバめだと自覚(まるでのんべみたいですが実態は決してそんなでないです)。ヘパリーゼのドリンク剤はけっこう効きますね。かなり安らげます(のんべじゃないです)。対人恐怖かも(どんな高校教師だ)。

血圧降下剤は朝飲みましたが、胃と肝臓を休めるためにユーチューブで「帰ってきたウルトラマン」のベムスター編を見ました。ウルトラセブンは出てくるわ、ウルトラブレスレットはもらえるわ、マット(モンスターアタックチーム)のかっこいい自動車は出てくるわで、血圧上がりました(んなことない)。

それにしても、私にとって日曜日の礼拝を欠席することは、「死にそうな体を引きずってでも聖日礼拝を守れ。講壇で尽き果てるのは本望だ」系の教えの流れをわりと生まれた時からずっと受け継いで来たところがあるので、なんとも言えない気持ちです。そういうのを人に強要したことは一度もありませんが。

今日13時24分に発生した地震(震源地:茨城県、千葉北西部:震度4)で、借家もかなり揺れました。ズッサズッサ揺れ始めてすぐに書斎から脱出しましたが、書斎の平積みの本(推定1トン強)は、一冊も滑落しませんでした。多少ピョンピョン飛び跳ねてはいましたが。神学書ジェンガの奇蹟バランス。

4月からの新しい生活の中、なんだかすっかり世事に疎くなってしまいましたので、欅坂46(けやきざかフォーティーシックス)の「サイレントマジョリティー」を、これもユーチューブで聴きました。おかげで、だんだん元気になってきました(なんて現金なボディー&ソウルなのだ)。

電車の駅から近くて(実利)、落ち着いているが停滞していなくて(要望)、聖書そのものと神学に飽くなき興味を持っていて(無謀)、偏執的でなくて(大事)、普通の(てナニ)教会、ないですかね。そういうのを目指していたはずだったけど。あ、この続きを書こうとすると泣きそうになるのでやめよう。

授業中に「日曜日以外の牧師さんの仕事ってなんですか」と聞かれたので「結婚式とかお葬式とかするよ」と答え、「自分の葬式は自分でするからね」と言ったら、けっこうウケて、「それ寂しいっすね」と言われた。私はネット葬でいいや。生中継流すんで。いいね押してね。「キター」とかコメントしてね。

夕方3時間ぐっすりねかしてもらった。ユーチューブの自動再生を流しながら安眠。ガーネット・クロウさんの「夢を見たあとで」からスタート。「君という光」「夏の幻」と続き、そのあたりでスヤスヤ寝落ち。目を覚ました頃は小松未歩さんの「謎」、ZARDさんの、って全部コナン主題歌じゃないか。

まるで自分たちの終わりと共に世界も教会もきっと終わるし、むしろ終わってほしいと願っているかのようにふるまう人がもしいるなら(いますね)、ただちに退散してほしいとひたすら望む。世界も教会もあなたたち自身の業績ですらない。もっとずっと前から世界も教会も存在するよ。何の勘違いなんだか。

19年ぶりに戻ってきた教団で「ちゃんと」教師をやるためには、学校の教員免許更新制度と同じように更新講習を受けて神学的知識をアップデートする必要がありそうだが、19年前とどのあたりが変わっているのだろうか。教務教師はよほど自分でアクションを起こさないかぎり誰も教えてくれないようだ。

2016年7月16日土曜日

教室の様子

イラストはイメージです
ネットで自分の身近な人たちへの批判や不満や愚痴を書けば、同じ境遇の人はほぼ必ずいるので共感を得やすく、記事として面白くなりやすく、書き手側にとっては手っ取り早く鬱憤の発散ができるかもしれない。でも、みっともないやり方だとは思う。私は、共感を得にくい、面白くない記事を書き続けたい。

仲良くなってくれた生徒が、私の授業が「弱腰だ」と言ってくれた。「そうだよ弱腰だよ。だって、受験生向けの学校案内パンフレットで、押しつけないと約束しちゃってるからね。手もみしながら、あのーみなさま、もしよろしければ興味を持っていただけませんでしょうかと言いたい気持ちだよ」と答えた。

一週間かけて担当クラスの答案返しをしたが、論述問題で私の採点に不服の意思を表わして教壇に詰め寄ってくれた生徒が数名いたので「ちょっと考えさせてほしい。とにかく自分の席に戻ってほしい」と言って考える時間を与えてもらって点の付け直しをした。その不服の意思表示自体が素晴らしいと思った。

見えていないわけでも言えないわけでもなく言わないでいるだけだが、授業中堂々と数学や英語の内職をしている生徒にこれからどう言うか考えている。「そういうことしていると将来社会に出たとき宗教の問題で悩んでいる人から相談を受けても心ここにあらずで内職してるんだろうな」とかイヤミ言おうか。

実際に教壇に立てば分かるが、試験監督の仕事を何度かやらせてもらってはっきり分かるのは、教室内で生徒がしていることはほぼすべて見えるということだ。生徒の目の動きや手の位置がおかしければ瞬時に分かる。授業中に内職している生徒も分かる。動きがおかしいもん。学校の教室とはそういうものだ。

しかし、だからこそ赦しが必要だ。「自分の意見に賛成する者に加点し、反対する者は減点する。それをファシズムという。そういうことを私は絶対にしない。なので、逆に言わせてもらえば、私がきみたちの答案につけたマルは、きみたちの意見への賛同の意思表示ではない」と昨日の授業で言ったばかりだ。

2016年7月11日月曜日

「採点の祭典」実行委員に加えていただきました

なんとも情けない50歳。夕方過ぎから脳内にブルースクリーンが出はじめたので、仕事の仕上げのクオリティがイマイチのまま放置して帰宅。ぐっすり休めばブルスク消えるので。いや、そんなに甘くないかも。脳内にブルスク出るの初めてじゃないし。脳の再起動ってどうやってやるんだっけ。気合いかな。

まあでも、毎日とっても幸せなので大丈夫。楽しくて楽しくて仕方ない。とっくに消費期限切れたポンコツ脳なんだから、ブルースクリーン出るの当たり前だし。もっと自覚しろよと自分に言いたい。というわけで、「幸せの黄色いハンカチ」改め「幸せの青いスクリーン」なので、ご心配には及びません。笑。

そう。私も遅ればせながら「採点の祭典」実行委員に加えていただいたのだった。全国の学校関係の諸先輩がたの「祭典」の様子をフェイスブックで拝見するたびにうらやましかった。よしいつか私も、と思っていた。今、その「祭典」開催中。終わったら後夜祭だな。行くぜ、ゲリラライブだ。どわっはっは。

土砂降りでもカンカン照りでも自転車やバスや徒歩で遠くから集まってくる生徒の姿に涙が出る。本当に(「本当に」などと書くこと自体失礼きわまりない)真剣に勉強しに来ているし、自分と世界の将来を目指している。くたばりぞこないの手負いの熊が、いつも応援している。もちろん「お祈り」している。

画像はイメージです