2015年4月3日金曜日

神学のブームを待望する

『ボンヘッファー選集』(全9巻)を初めて購入しました

「また古本が増えてるよ」と呆れられそうですが、人生初『ボンヘッファー選集』(全9巻、新教出版社)を落札しました。うんと低価格で叩き売られていました。 

「人生初ボン 叩き売り 神学デフレ とどまることなし」 

もったいないことだと最近しきりに考えていることは、今ほど世界的に「神学」がデフレの時代は過去に無かったほどだと思うのに、その「神学」に取り組もうとする人があまりにも少なすぎるのではないかということです。安くて誰でも手に入れられるものには価値がないと考えてしまうのか。もったいない。

時代錯誤だよと思われるかもしれませんが、日本の大学でも、中学・高校でも、とくに国公立の伝統校の最難関クラスというのが、もともとどうして最難関になったのかといえば、税金で勉強させてもらえる分だけ「安かった」からでしたよね。夕方のデリカコーナーのタイムセール状況(そういう話なのか)。

使い道が分からないほどの資産をおもちの方は激安品あさりの必要はないでしょうけど(またそんなイヤミったらしい言い方して)、「神学」の古書が激安ですから、どんどん買うべきです。引退者の死蔵書が大量に売却されているようです。しかし必ず枯渇します。引退者自体が激減します。今チャンスです。

べつに「神さまの叩き売り」しているわけではありません、「神学」は神さまではありません。話はむしろ逆で、神さまでないものを神さまだ神さまだと思いこませようとする魔力をはらうために「神学」があるので、「神学」自体も正直に「ごめんなさい、ぼくも神さまじゃないです」と自白しなくちゃです。

「自炊」するのがいいか悪いかという問題に踏み込むつもりはありませんが、大昔の「巻き物」の読み方に戻る感じになりますよね。同時に視野におさまるのは、画面に映っているところだけ。複数のページや複数の本を同時に開いて並べて見比べるというふうな、体系的な読み方をするのが難しいと思います。

「もう持っている」と思っている人も、古書購入を考えるといいと思います。まさに死蔵しておられるならともかく、手垢でよごれているようなら、「古書で古書をアップデートする」ことができます。いま市場に大量に出回っている「神学」の古書は、きれいなのが多いです。読まれた形跡がないものが多い。

「神学」のブーム、起こりませんかね。「ないなあ」と思いながら書いてますけどね。

2015年4月1日水曜日

桜満開、聖書研究に没頭しています

「シロ」とは何か

今日の祈祷会の聖書研究は、長老が担当してくださいました。興味深かったのは、創世記49:10の「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」の「シロ」の意味は不明だが、「シロ」をメシア(キリスト)と理解することによって、これをメシア預言であると理解する伝統的な解釈があるというお話でした。

今それを調べています。dr. A. van Selms(POT:1967)によると「シロ」は「サイ・ロー」(say lo)に分割できる。それで訳せば「王笏と統治の杖はユダから離れない。それゆえ《表敬の寄贈品》は彼に届き、諸国の民は彼に服従する」(創世記49:10)になるとのこと。

おひるは阿藤店長のコンビニ店(デイリーヤマザキ松戸小金原店)の「筍ご飯の味わい弁当」(税込450円)です。これびっくりするほど美味しいです。量もぴったりで大満足。ちまたは桜満開のようですが、書斎に引きこもって聖書研究に没頭しています。

2015年3月31日火曜日

なにもそんな本当のことを面と向かって言わなくても

「てめえみたいなブタ」と言われちゃった(涙)
さっきスーパーで、泥酔のうえレジが混んでいることに腹立てて騒いでいる70前後のおじさんの後ろに並んでしまった。「うちの地元じゃこんなに並ぶの考えらんねえ」とか言うから「ここは都会なんだよ。我慢するしかないね」と言ったら「てめえみたいなブタに何が分かる」とニラまれてしまった。

私も若干キレそうだったのですが、私の後ろに愛する妻がおりましたので。頭の先から足までをじどーっと見た上で「てめえみたいなブタ」と言いましたので、感じたままを正直に言ったのでしょう。だいぶ遠くから来た方のようでしたので、心情的には同情できるというか理解できるものがあるんですけどね。

私は基本が柔道系なので(中学・高校で部活やっただけですが)、向こうからかかって来ないかぎり、こちらから近づくことは、まずないですね。今年50の人生で一度もないです。ただ、向こうからかかって来る可能性が全くないとは限らないので、さっきもメガネを外すかどうかだけは、さすがに考えました。

メガネ壊されると直すお金ないし、ガラス割れて眼球から流血みたいなことになってもなあと。まあ、でも逆に言えば、私が自分でメガネを外したときはコワイでえ~(ということにしておきます)。

都会の人間だけが我慢してるわけじゃないですよ。だけど、いい歳して騒ぎなさんなと言いたかっただけです。

2015年3月30日月曜日

力尽きて粛々とツイートする

牧師になることを決心した理由:信者の日曜日が幸福でない理由は理解不能な説教にある。理解可能な説教できる人間になりたい(17歳)→理解可能な説教とは教派色鮮明な教会の論理と符合することを意味する(25歳)→それは一教派の内部論理であってはならず普遍性をめざすべき(←やっとイマココ)

いくつかの解決策の実例:信者に理解不能な説教でも短時間なら我慢してもらえる(可能性がある)ので説教時間を5分10分程度に短縮する。短所:これでは信者が一生かけてもキリスト教とは何かを論理的に理解できることはありえず、心地よいフレーズの断片(ないし愛唱聖句)の羅列で終始しかねない。

キリスト教の「教会」と「学校」と「施設」と「各種事業」を横並びにする考え方も分からなくはない。でも、後三者はキリスト教の看板おろしても一般ニードがあるかぎり続くと思うけど、キリスト教の看板おろした「教会」(名称はチャーチやチャペルやセンターでも)に意味あるのかと思わざるをえない。

「キリスト教の看板おろした『教会』」と書いたのは比喩として考えているだけのことだ。「あの教会のことだ」「うちの教会のことだ」という吊るし上げや自虐(のふりした他虐)に巻き込まれたくない。ただ、キリスト教の難しさは、教えの中に排他的な独善を許さない博愛主義の側面が確かにあることだ。

だから、我々(現代の教会人とでも言っておきます)の多くは、「特定の宗教を一方的に強要するようなことは決していたしません教会」を目指そうとする。自分が言っていることにあきらかに矛盾があることを知りながら、そういうことを大真面目に語り、そういうふうでありたいと願い、具体的に行動する。

しかし、「特定の宗教を強要しない教会」(?!)が概念矛盾であることは否定できそうにない。そのような教会を目指す思いや具体的な行動が真摯なものであればあるほど、矛盾は深まり、ペテンに近づく。教会の建物や土地の一般開放の話ではない(それは大昔からしている)。「教会の一般開放」の話だ。

そのこと(教会の一般開放)を私は「ペテンに近づく」とまで言ってしまいつつも、だからといって一方的にネガティヴな意味で言おうとしているのでもない。だから苦しいし、悩んでいる。反動的な「閉鎖教会」の内部腐敗が尋常でないことを知らないわけではないからでもある。しかし、それだけでもない。

そこから先の論理を緻密に整える力が私にないのが残念ではあるが、その分突然ぶっちゃけられるものがあるのでやらかします。「要するにキリスト教の教会とはそういうものなのだ。それでいいのだ」とバカボンのパパの口真似でごまかしたい。我々は「特定の宗教を強要しない矛盾した宗教」なのだ、はは。

まあでも、もうひと踏ん張りすれば、我々(現代の教会人)の多くが自覚している「特定の宗教を強要しない矛盾した宗教としてのキリスト教」について葛藤があるかどうかは問われるかもしれません。ただの開き直りでも構わないと思いますが、それだけだと深まっていかない。本物のペテンになりかねない。

しかしまた、自己矛盾を自覚しつつ葛藤しながら語る人の言葉は、深いかもしれないが、概して難解。退屈、熟睡レベル。本にしても売れない、敬遠される。「わが宗教に矛盾はない」と断定する葛藤なき確信に基づく、単純でストレートでキャッチーなフレーズのほうが「分かりやすい」に決まってるわけで。

今日は「牧師の定休日」を主張して朝から心身のスイッチを切っています。「粛々とツイートする」は概念矛盾かもしれませんが、「おごそかな」ではなく「ひっそりと静かな」のほうの「粛々」であれば当てはまります。「疲れて何もしたくない」とツイートする。ツイートは動詞でもあると思いますけどね。

今日のおひるは、うどんにしました。冷凍讃岐うどんを使いました。お汁の味付けはわりとパーフェクト。ごくうまです。春休み中の大学生と高校生と私の3人。妻(保育士)は児童養護施設の勤務。お疲れさまです。私は関口学院(架空)の学食のコック長。

そういえば最近、うどん頻度高いな。カレー頻度に匹敵しそうな勢いだ。


2015年3月28日土曜日

よく分からない人たち

古本ばかり増え続ける本棚

「牧師さんはしゃべりのプロだと思いますけど」という枕詞をつけたうえで話したことに文句付けられることがたまにありますけど、はて「牧師さん」は「しゃべりのプロ」なんですかね。素朴な疑問。その枕詞を聞くたびに、いやーな気分になるんですよね。はいはい、まあそれでもいいですけどね、ははは。

もう時効なほど昔の話になったので書いていいと思いますが、原稿とか録音とか依頼してくるので受けて書いたりしゃべったりしたら書き直せ録り直せと言われたり、全く違う文章に書きなおされてこれでいいですねとか言われたら「もうしませんので二度と依頼しないでください」と誰でも普通言いますよね。

依頼というのは、そういうものでしょうに。もちろん立場は尊重しますよ。私の書くことしゃべることが違うと思うなら、お気に入りのことを書いたりしゃべったりしてくれる人たちにやってもらえばいいだけのこと。それでいいじゃないですか。でも、そういう態度が気に食わないのか。よく分からないです。

まだいますね、よく分からない人。他人のブログの編集長になっちゃう人。あれは書くべきでないこれは書くべきでない。誤字脱字とか差別語不快語とか事実誤認などの指摘であれば真摯に耳を傾けますが、思想信条レベルのことで編集長のように振る舞われてしまうと、腹は立ちませんが、ひたすら呆れます。

昔は、雑誌や紀要の編集長は大権力者だったかもしれませんけどね。古い感覚なら、苦労して書いた論文やエッセイをあの雑誌あの紀要に載せてもらえて初めてデビューなのかもしれない。でも今は自分のブログに書いてfacebookやツイッターで広報して「いいね」押してもらうほうがよほど名誉です。

ある雑誌(名前は伏せます)は全国の店頭で5冊売れたそうです。作った人たちは「5冊も売れたとも言える」とか苦しいことを言っておられましたが、私はぞっとしました。ブログに書いてfacebookやツイッターで広報すれば、全く同じ内容のものを少なくとも100人200人に読んでもらえます。

ブログに何千万字だか何億字だか書いてもそれがお金になることはありません。でも自費でやるか会費を集めるかして、雑誌の印刷に多額のお金を注ぎ込んで、でも売れず、自宅の倉庫か自室のダンボールの中に眠らせたままであるのと、どっちが得か、よ~く考えてみよう(大昔の欽ちゃんのCMの口真似)。

結局なんなんですかね。「お前がデビューできるかどうかの鍵はおれが握っているんだから、おれの言うこと聞け」みたいなことでも妄想しているのか。要らないし、そういう鍵は。その扉もう開いてるし。というか、そんな扉もうないし。逆に、だれにも読まれない雑誌や紀要に埋もれるほうが、むしろ悲劇。

いま書いているのは喩え話ですからね。比喩の一種です。どの雑誌だろうか、どの紀要だろうかというような詮索は無用です。たぶんすべてハズレです。たぶん知らない方だと思います。だからもう時効だと最初に書いたとおりで、ずっと昔の話ですので、差し障りのない範囲内で書かせていただいたまでです。

2015年3月26日木曜日

教会の一致をめざすことが徒労に終わることはありません

日本の教会が取り組むべき課題はたくさんあります
18世紀英国の「ウェスレー」と20世紀オランダの「ファン・ルーラー」を関係づけて論じることが強引すぎるのは分かっています。しかし、「カルヴァン」と「ウェスレー」の関係の場合と同じ論理が当てはまることは事実です。

「カルヴァンはウェスレーを知らないが、ウェスレーはカルヴァンを知っている」のと同様に「ウェスレーはファン・ルーラーを知らないが、ファン・ルーラーはウェスレーを知っている」のです。これは両者の関係を論じるための手がかりになります。

私はファン・ルーラーが「メソジストのキリスト者」に言及している個所を一つだけ知っています。その部分だけ訳して紹介してもあまり意味はないし、ただ誤解を生むだけであることを避けられそうにないのですが、以下、ご参考までに、訳出します。

「たとえば興味深いのは、ウルトラ改革派のキリスト者とメソジストのキリスト者の出会いに立ち会うことである。私はヒルファーサムの教会協議会で何度か体験した。メソジストのキリスト者も、個人的回心とその絶対的な必要性を盛んに語る。恥じることなく、ときに厚かましく自分の回心について語り、これまで自分が歩んできた道について語る。その時点ですでに、教会に対して同情的な、改革派的な考え方をするキリスト者たちは機嫌が悪い。しかし、そういうとき、ウルトラ改革派の人たちは、相手がいかに浅薄で深みがないかを哀れむそぶりで、首を左右に振りつつ立っている。そして、メソジストのキリスト者仲間に次のように語る。『兄弟よ、あなたが持っているのは言葉だけである。しかし、言葉の中に、あなたがまだ見ていないものがある。それを体験しなさい』。そのようにしてウルトラ改革派の人たちは、教会の庭に生えた霊的な生命の若葉を乱暴に蹴り殺す。これは専制支配(tirannie)の深刻な一形態である。」[1]

[1] A. A. van Ruler, Ultragereformeerd en Vrijzinnig [1970], in: Verzameld Werk IV-B, Boekencentrum, Zoetermeer, 2001, p. 751)

「ウルトラ改革派」とは、ファン・ルーラーが所属していたオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の中の極端なタイプの人々を指している言葉ですが、悪口の一種であることは確実ですので、気に障る方がおられるかもしれません。その点はファン・ルーラー先生に(勝手に)代わってお詫びします。

また、メソジストの方々についてもずいぶんひどい言い方になっているようでもありますので、この点も私が(勝手に)代わってお詫びします。

ファン・ルーラー先生が「ヒルファーサム」の改革派教会の牧師だったのは1940年2月から1946年12月までの6年11ヶ月です。その時期に行われた「ヒルファーサムの教会協議会」(kerkenraad van Hilversum)のことであるとまで断定するのは無理かもしれません。しかし、おそらく今から70年くらいは前の、しかも「オランダのメソジスト」の人々のことを言っていますので、今の日本のメソジスト系の教会の状況とはずいぶん違う、大昔のことだということで大目に見ていただけると幸いです。

ただ、いま申し上げた点を勘案していただいたうえで、ぜひご理解いただきたいのは、ファン・ルーラー先生が、メソジストの方々のことを「尊重する」立場でこの文章を書いておられることは間違いない、ということです。

改革派の(極端な)立場からメソジストの人々を軽蔑する態度をとることはもはや間違っていると言わんがために書かれた文章であることは間違いありません。

私が過去17年ほどファン・ルーラーを学んできた感覚から言わせていただけば、「改革派・長老派VSメソジスト」という図式は過去のものになっています。

そして、ここから先はやや売り込み口調ですが、メソジストの皆さまにおかれましては、ファン・ルーラーの本(キリスト教書店にあるのは「ファン・リューラー」です。どちらでも構いません)を、どうぞ安心してお読みいただきたいですと、心から願っています。

また、改革派・長老派の皆さまにおかれましては、ウェスレーやメソジストの人々が書いた本を、どうぞ安心してお読みいただきたいです、と申し上げたいです。

私の書斎に昨日届いた『標準ウェスレイ日記』(山口徳夫訳、1984年)を、これから真剣に読もうと思っています。

私見によれば、ファン・ルーラーの神学は、(政治的な意味ではなく神学的な意味での)右にも左にも与しない「第三の道」ではなく、むしろ逆で、右と左に分かれて争ってきた者たちの「和解と統合」をめざす道です。それを、神学的論理を徹底的に突き詰める方法で行う道です。

「教会の一致」をめざすことが徒労に終わることはありません。どんどん進めて行きましょう。

2015年3月25日水曜日

もしかして水曜日の私がいちばん牧師らしいかもしれません

今日のおひるは海苔弁当にしました
毎週水曜日の午前中は祈祷会(きとうかい)です。今日の出席は10名でした。内容は賛美、聖書の学び、お祈りです。シンプルですが、元気になります。みことばの糧の味わいを実感できます。午後は有志で会堂清掃。加えて今日は月報の印刷作業をします。

「こひつじ新聞」3月号
2015年1月創刊、松戸小金原教会日曜学校発行「こひつじ新聞」3月号です。すべて小学生が企画・制作しています。号を重ねるたびに紙面のクオリティがアップしています。ご家庭の皆さまと学校の先生がたの日々の苦労の結晶を見る思いです。お見事。

『まきば』第418号と「教会カレンダー2015年4月」
教会月報『まきば』第418号(2015年3月号)と「教会カレンダー2015年4月」が完成しました。編集も印刷も牧師はノータッチです。すべて教会の方々がしてくださっています。私が松戸に来た11年前(2004年4月)からずっとそうです。

祈祷会で配布した聖書研究のプリント
教会の方々が月報などを制作してくださっている間、私は何をしているかといえば、午前中の祈祷会で配布した聖書研究のプリントを清書して、そのPDF版をネットで公開するといったことです。

もしかして水曜日の私がいちばん牧師らしいかもしれません。

午前中の祈祷会で配布した聖書研究のプリント(清書済み)はここをクリックしてください。タイプとしては信仰感話のようなものです。



2015年3月24日火曜日

『標準ウェスレイ日記』ついに到着しました

『標準ウェスレイ日記』全4巻(山口徳夫訳、1984年)

2015年3月24日(火)午前11時現在、千葉県松戸市、晴れ、風速10メートル、湿度44%、気温7度。けっこう肌寒い。体重(非公開)、血圧(非公開)、お腹すいた(非公開)。生ゴミ出し完了。今夜は湖北台教会で東関東中会2014年度第二回臨時会。前向きで建設的な議題ばかりで感謝です。

『標準ウェスレイ日記』(山口徳夫訳、1984年)がついに到着。4,000円で落札。1984年初版もの。1984年は東京神学大学に入学した年。31年前だ。当時から欲しかったのですが、全4巻で定価16,000円。憧れつつ見上げていました。

中身を読んでいないのでコメントは控えるべきですが、18世紀のウェスレーにとっての『日記』は、16世紀のカルヴァン『キリスト教綱要』に匹敵する存在ではないかという期待があります。21世紀の「ブロガー」がただ思いつきの雑談をしているわけでないのと同様に。たかが日記、されど日記なのだ。

2015年3月23日月曜日

ジャーナリストとは毎日日記を書く人のことか

「2015年3月23日(月)正午、千葉県松戸市、晴れ、風速5メートル、気圧1010.10ヘクトパスカル、湿度38%、気温13度」という感じのが「日誌」で、「昨日は楽しい出会いがありましてね、むふふ」という感じのが「日記」かな。使い分け、難しくはないですよね。うん、まあ、だいたい。

先週末ネットのお友達に教えていただいてヤフオクで入落札した『標準ウェスレイ日記』について、営業日三日内に発送しますという通知が古書センターからいま届きました。原著タイトルはJournal of John Wesleyだそうで。ジャーナリストとは毎日日記を書く人のことか(ちがう)。

「あの人の神学はジャーナリスティックだからな」といえば、だいたい見くだす意味がありますよね。ジャーナリストの皆さまに失礼な言い方ではありますね。何さまなんだよと、ちょっと思い出しギレ(笑)。あとは昔からよく聞くのが「サラリーマン牧師」。それが見くだす意味になる。それ失礼だからね。

あるある~とか反応しないでくださいね。あるあるネタ探してるわけではないです。気持ちとしては厳正なる抗議のつもりなのですが。でも、けんかは弱いし、逃げ足速いし、ほぼ優柔不断で、へらへら笑ってごまかすのが得意かも。そういうところがますます激怒を買ってしまう。どうにかならないですかね。

2015年3月20日金曜日

置戸教会の皆さまありがとうございます!

北海道登呂郡置戸町の「オケクラフト」素晴らしいです!
2015年2月22日(日)ビデオ説教をさせていただきました日本基督教団置戸教会(北海道登呂郡)の皆様から、寄せ書きカードと共に素晴らしい贈り物「オケクラフト」をいただきました。置戸教会の皆さま、お気遣いいただきありがとうございます。置戸教会と置戸町の発展のために心よりお祈り申し上げます。

2015年3月20日  関口 康