以下、前稿「歴史は繰り返さない」の続きです。
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そして、もし許されるなら言わせていただきたいことは、88年前の日本と今の日本の決定的な違いは、「日本の教会」のかつてと今の違いです。
キリシタンは一度日本で(地下に潜った方々以外は)消し去られました。そのトラウマが日本でキリスト教信仰を持とうとする者の心に、いまだに刻みつけられています。
しかし、それでも、150年前にまがりなりにも日本の教会史が「再開」されました。しかし、88年前(治安維持法制定時)は、(再開後の)日本宣教(わずか)60年。今は150年。かつてと今の「教会」は同じでしょうか。
日本の「異物」である教会の信仰は「人を恐れない」。
国民の1%「しか」クリスチャンはいない、クリスチャンは日本では少数だ、少数だと繰り返し言われますけど、100万人も「人を恐れない」人が住んでいる国を、はたしてこれから現今の「ファシズム政権」は”鎮圧”できるでしょうか。
希望的観測すぎることは認めますが、過去80年間もカール・バルト、カール・バルトと「反ナチ神学者」を後追いし続けた日本の教会のことは、そう簡単には”鎮圧”できないと思いますけど。
そういえば、今の政府のほぼど真ん中にいる人もクリスチャンなはずだけど。
まあそれはともかく、歴史は繰り返していませんよ。
もし繰り返すのだとしたら、日本の教会は過去88年間、ただ惰眠をむさぼり続けただけだと謗られても仕方ありません。
2013年12月9日月曜日
2013年12月8日日曜日
歴史は繰り返さない
えっとですね、一応申し上げておきますと、
ぼくは「歴史」は「繰り返さない」という立場なんです。
1925年と2013年が同じなわけないです。
ぼくの考えは、「繰り返される」のは「犯罪行為」であって、
それを「繰り返している」やつらにレッドカードを突きつけて
「権力の座」から退場させなくてはならないというものです。
しかし、それは「権力の座」からの退場であって、
地上の世界からの追放ではありませんし、あってはなりません。
つまり、「歴史は繰り返す」のではなくて
「歴史そのものは犯罪者を絶滅させる役割を必ずしも持っていない」
ということだと、ぼくは思っています。
歴史から犯罪者がいなくなればすっきりする、という考えもあるでしょうけど、
それこそファシズムの一種です。
犯罪者を締め出し、絶滅させる役割を「歴史」そのものは持っていない。
「歴史は繰り返される」ではなく「犯罪は繰り返される」。
そのたびに我々は何を考え、何をなすべきか。それが重要だと思います。
屁理屈っぽくてすみません。
犯罪者の「手口」は昔も今も同じ。
ですが、まんまと逃げおおせることが、かつてはできたかもしれませんが、
今はもうできません。
その意味では、「歴史」は「繰り返さない」と思います。
逃げられるものなら逃げてみろ。
たまには牧師らしく、聖書の御言葉を引用します。
「人々を恐れてはならない。
覆われているもので現されないものはなく、
隠されているもので知られずに済むものはないからである。」
(新約聖書・マタイによる福音書10章26節)
ぼくは「歴史」は「繰り返さない」という立場なんです。
1925年と2013年が同じなわけないです。
ぼくの考えは、「繰り返される」のは「犯罪行為」であって、
それを「繰り返している」やつらにレッドカードを突きつけて
「権力の座」から退場させなくてはならないというものです。
しかし、それは「権力の座」からの退場であって、
地上の世界からの追放ではありませんし、あってはなりません。
つまり、「歴史は繰り返す」のではなくて
「歴史そのものは犯罪者を絶滅させる役割を必ずしも持っていない」
ということだと、ぼくは思っています。
歴史から犯罪者がいなくなればすっきりする、という考えもあるでしょうけど、
それこそファシズムの一種です。
犯罪者を締め出し、絶滅させる役割を「歴史」そのものは持っていない。
「歴史は繰り返される」ではなく「犯罪は繰り返される」。
そのたびに我々は何を考え、何をなすべきか。それが重要だと思います。
屁理屈っぽくてすみません。
犯罪者の「手口」は昔も今も同じ。
ですが、まんまと逃げおおせることが、かつてはできたかもしれませんが、
今はもうできません。
その意味では、「歴史」は「繰り返さない」と思います。
逃げられるものなら逃げてみろ。
たまには牧師らしく、聖書の御言葉を引用します。
「人々を恐れてはならない。
覆われているもので現されないものはなく、
隠されているもので知られずに済むものはないからである。」
(新約聖書・マタイによる福音書10章26節)
2013年12月7日土曜日
「この私が何者であるか知らないふりをなさるならば」
今週火曜日(12月3日)
北小金駅から国会議事堂駅までの電車の中で読んでいた本の中で、
最も感動した言葉を引用させていただきます。
ひとりで涙が止まらなくなり、隣の男子高校生に二度見されました。
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総督は、なおも執拗に、「カェサルの守護霊にかけて誓え」と迫ったが、
ポリュカルポスは答えた。
「私が、あなたの言うとおりにカェサルの守護霊にかけて誓うだろう
などという空しい考えを持ち、
この私が何者であるか知らないふりをなさるならば、
心を広くしてお聞き下さい。
私はキリスト教徒です。
キリスト教の教えの内容を学びたいならば、
一日の猶予をお与え下さい。
そうすればお話し致します。」
「聖なるポリュカルポスの殉教」(土岐正策・土岐健治訳)より引用。
『キリスト教教父著作集22 殉教者行伝』教文館、1990年、11頁。
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みなさま、それではおやすみなさい。
ゆっくり休むことが明日の力になります。
「第20回 カール・バルト研究会」報告
(日付が変わってしまったので)昨日、
2013年12月6日(金)
午後9時から7日(土)午前0時すぎまで
「第20回 カール・バルト研究会」を
グーグルプラス・ハングアウトで行いました。
テキストはカール・バルト『教義学要綱』
(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の
「11 救い主にして神の僕」の前半部分でした。
日付が変わるくらい盛り上がりました。面白かったです。
神学の学びをしているときも
国会前のデモ参加者と祈りで連帯しています。
今が「信仰告白的事態」(status confessionis)でなくて、
いつがそうなのでしょうか。
ぼくらはべつに、神学ごっこしてるわけじゃないんだ。
そのへんはね、なんとかお伝えしたいところです。
2013年12月4日水曜日
2013年12月3日(火)参議院前のデモの様子です
2013年12月3日(火)午後2時頃の参議院前のデモの様子です。 ぼくのガラケーで撮りました。 どこに「テロ」の要素があるんだか、さっぱり分かりません。 一般市民をこれ以上バカにしないほうがいいと思いますよ。 軍事オタク政権の皆さまへ。
無理な採決、もうやめましょうよ
軍事オタク政権に戦勝妄想から覚めてもらうための一つの方法として、
デモは確かに有効かもしれません。
40年前ならね、
鉄パイプとか火炎瓶とか迫撃砲を持ってるんじゃないかとか、
でたらめな嫌疑をかけて、警官隊に実弾こめさせる、
みたいなことが可能だったかもしれませんが、
今は無理です、それは。
最大でプラカード一枚持ってるだけです。
あ、太鼓持ってた人もいたな。
全員が全員、丸腰の一般市民。
ぼくなんかガラケーと財布と本しか持ってなかったし。
あ、ボールペンもあったか。
そのボールペン、スパイ道具みたいな仕掛けとかないですよ。
ないない。アホか。
ぼくらテロリストですか。違うと思うけど。
そんなぼくら相手に実弾こめれますか。
こめれたとしても、それどうにかできますか。
そんなことさせてしまうのは、
善良な警察のみなさんに対して、むしろ申し訳ないですよ。
させられるか、そんなこと。
ちっちゃい子どもさんいる警察の人たちもたくさんいるでしょうし、
首都圏だって線量、十分高いし、
今の国を動かしてる人たちに向かって言いたいこと、山ほどあるはず。
本心では制服ぬいでデモに参加したいけど、
それやると家族を食わせることができなくなるので我慢してるだけ。
違憲国会で決めたことになんか、だれも従えないって。
無理な採決、もうやめましょうよ。
2013年12月3日火曜日
国会議事堂まで行きました
本日12月3日(火)午後1時から3時まで国会議事堂の前にいました。
違憲国会での特定秘密保護法案の採決に反対します。
デモをテロと同一視し、民主主義に反するとみなす与党幹事長に抗議します。
以上、よろしくお願いいたします。
2013年12月3日
関口 康
違憲国会での特定秘密保護法案の採決に反対します。
デモをテロと同一視し、民主主義に反するとみなす与党幹事長に抗議します。
以上、よろしくお願いいたします。
2013年12月3日
関口 康
2013年11月29日金曜日
二重予定論をファン・ルーラーはどのように受けとめたか
つい先ほどのことですが、京都在住の神学生の方からツイッターでご質問をいただきましたので、ツイッターでお答えしました。
質問は「二重予定論をファン・ルーラーや現代の改革派神学者はどのように受けとめているか」です。ぼくからの返信内容を以下にまとめておきます。ツイッターの性質上、粗い回答であることは、どうかお許しください。
----------------------------------------
ご質問ありがとうございます。
二重予定論は、バルト(主義者)と非バルト的改革派神学者とで、思想構造が全く違うことは明白です。ご承知のとおりバルトは「神は、イエス・キリストを遺棄に定めることによって、人間(全人類)を救いに定めた」という二重予定的万人救済論です。
このバルトの二重予定的万人救済論は、説教とかでしゃべりやすいし、とっても耳触りがいいので、20世紀の中盤から終盤にかけて、すっかりもてはやされましたが、どうも詭弁くささがぬぐえません。非バルト的な改革派神学者は、彼の二重予定論に立つことはできません。
さりとて、現代の(非バルト的な)改革派神学者は、16世紀のカルヴァンの「プリミティヴな」二重予定論のテキストをコピーして配布して、「これを受け容れなさい。そうすれば、きみも改革派教会のメンバーになれるからね」と言っているだけでもありません。
カルヴァンのいわゆる絶対的予定論(神が仁王立ちして人をヤギとヒツジに分けるの図)の危険性を最も早期に認識し、立ち向かう必要を自覚したのは、アルミニウスとその支持者(レモンストラント)です。レモンストラントとの論争の中で改革派教会は二重予定論の改善を続けてきました。
それで質問への答えですが、たとえばファン・ルーラーは二重予定論をどう考えたか。カルヴァン同様、あの人この人が選ばれているかどうかは「経験」で認識できるという立場でした。しかし、彼にとって重要な問題は、「永遠の選び」の永遠性は時間性とは矛盾するものだ、ということです。
我々がしばしば陥る罠は、「永遠の選び」と言いながら、それをまるで時間的な大昔のことであるかのようにイメージしているということです。ですが、「永遠」には過去も現在も未来もありません。「永遠」と「時間」は根本的に次元が違うのです。
ですから、ファン・ルーラーは先輩神学者ノールトマンスの「神はいちばん最後の瞬間に永遠のご決意をなさるのだ」という言葉に同意します。時間的な大昔に、ではなく、「いちばん最後の瞬間」に神の定めが明らかにされる。これはア・プリオリな決定論や運命論・宿命論とは異なる話です。
ぼくに分かるのはファン・ルーラーくらいです。他の現代の改革派神学者の二重予定論は分かりません。ファン・ルーラーの予定論テキストの一つを拙訳で公開していますので、ご一読いただけますとうれしいです。
「神の選び」(1958年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1958.html
ファン・ルーラーの二重予定論に対する見解を垣間見ることができるテキストの拙訳をもう一つ公開していますので、こちらもご一読いただけますと幸いです。
「ウルトラ改革派とリベラル派」の「3、予定理念からの論理的演繹」
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html
とりあえず以上です。長々とすみませんでした。
お答えになっていないようでしたら、どうかお許しください。
神学の勉強がんばってください。心から応援しています。ご質問ありがとうございます!
質問は「二重予定論をファン・ルーラーや現代の改革派神学者はどのように受けとめているか」です。ぼくからの返信内容を以下にまとめておきます。ツイッターの性質上、粗い回答であることは、どうかお許しください。
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ご質問ありがとうございます。
二重予定論は、バルト(主義者)と非バルト的改革派神学者とで、思想構造が全く違うことは明白です。ご承知のとおりバルトは「神は、イエス・キリストを遺棄に定めることによって、人間(全人類)を救いに定めた」という二重予定的万人救済論です。
このバルトの二重予定的万人救済論は、説教とかでしゃべりやすいし、とっても耳触りがいいので、20世紀の中盤から終盤にかけて、すっかりもてはやされましたが、どうも詭弁くささがぬぐえません。非バルト的な改革派神学者は、彼の二重予定論に立つことはできません。
さりとて、現代の(非バルト的な)改革派神学者は、16世紀のカルヴァンの「プリミティヴな」二重予定論のテキストをコピーして配布して、「これを受け容れなさい。そうすれば、きみも改革派教会のメンバーになれるからね」と言っているだけでもありません。
カルヴァンのいわゆる絶対的予定論(神が仁王立ちして人をヤギとヒツジに分けるの図)の危険性を最も早期に認識し、立ち向かう必要を自覚したのは、アルミニウスとその支持者(レモンストラント)です。レモンストラントとの論争の中で改革派教会は二重予定論の改善を続けてきました。
それで質問への答えですが、たとえばファン・ルーラーは二重予定論をどう考えたか。カルヴァン同様、あの人この人が選ばれているかどうかは「経験」で認識できるという立場でした。しかし、彼にとって重要な問題は、「永遠の選び」の永遠性は時間性とは矛盾するものだ、ということです。
我々がしばしば陥る罠は、「永遠の選び」と言いながら、それをまるで時間的な大昔のことであるかのようにイメージしているということです。ですが、「永遠」には過去も現在も未来もありません。「永遠」と「時間」は根本的に次元が違うのです。
ですから、ファン・ルーラーは先輩神学者ノールトマンスの「神はいちばん最後の瞬間に永遠のご決意をなさるのだ」という言葉に同意します。時間的な大昔に、ではなく、「いちばん最後の瞬間」に神の定めが明らかにされる。これはア・プリオリな決定論や運命論・宿命論とは異なる話です。
ぼくに分かるのはファン・ルーラーくらいです。他の現代の改革派神学者の二重予定論は分かりません。ファン・ルーラーの予定論テキストの一つを拙訳で公開していますので、ご一読いただけますとうれしいです。
「神の選び」(1958年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1958.html
ファン・ルーラーの二重予定論に対する見解を垣間見ることができるテキストの拙訳をもう一つ公開していますので、こちらもご一読いただけますと幸いです。
「ウルトラ改革派とリベラル派」の「3、予定理念からの論理的演繹」
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html
とりあえず以上です。長々とすみませんでした。
お答えになっていないようでしたら、どうかお許しください。
神学の勉強がんばってください。心から応援しています。ご質問ありがとうございます!
2013年11月28日木曜日
ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由
言い訳は見苦しいかぎりですが、
ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由。
ファン・ルーラーは深い人なんです。
徹底的にどこまでも掘り下げようとする人です。
そのファン・ルーラー先生にすっかり触発されて、
ぼくまで掘り下げたくなってしまうんです。
書き方がけっこうアフォリズムで、
短くて鋭い言葉をパッパッパッと提示していくところは読むたびにうなるのですが、
説明も注釈もなしにパッパッパッとテンポよく来るもんだから、
日本人読者、というのはぼくのことですが、ぜんっぜん分かんないことだらけなんです。
とくに歴史上の人名とか、過去の神学概念。
それが注釈なしに出てくるもんですから、イチイチ調べなくちゃならない。
調べなくちゃならないって言っても、ぼくも怠慢なのが悪いんですが、
いろんな図書館を探し回るほどの機動力があればいいんですが、
それよりもネットで探して買っちゃう。
だけど、お金もかかるし、外国の書店から本が届くまでに時間がかかる。
今は子どもたちの教育費にお金がかかる時期なので、新しい本は全く買えない。
たとえば、この写真の本ですが、
左から
コクツェーユス『契約論』(現代オランダ語版)
ファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)
『リュースブルク全集』全四巻
ファン・ニーウェンホーフェ『リュースブルク研究』
シュレーダー『ファン・ローデンステイン研究』
ファン・ヘンデレン他編『第二次宗教改革研究』
みたいなものを集めてきましたが、これらの本は、
ファン・ルーラーの論文の中に「コクツェーユスは」とか「リュースブルクによると」とか「ファン・ローデンステインの言葉で言えば」とか「第二次宗教改革」の話がパッパッパッと出てくるので、
仕方なく購入したものです。
だって、訳書だって責任は重大ですよね。
訳者には意味も内容も分からないけど原著者が書いているから、そのまま「横のものを縦にしました」というわけには行かない。
ぼくは自分のブログには「そんなの知らねーよ」くらいの乱暴な言葉はいくらでも書いてきましたが、
もし将来、自分の訳した本が出版される日が来て、それを買ってくださる方がいて、その方から質問を受けたときに「そんなの知らねーよ」とお答えしたりは、ぜったいしません。そんな感じになるくらいだったら、出版しないほうがいいんです。
だけど、コクツェーユスも、リュースブルクも、ファン・ローデンステインも、第二次宗教改革も、一つ一つがものすごく深い思想世界を持っていますので、
そこにも引き込まれながら、それでもなお「本題の」ファン・ルーラーにぼくの集中力を戻していくというのが一苦労なんです。
たとえば、ぼくが持っている『リュースブルク全集』(写真中央の四巻本)は、とても美しい状態で保存されていた古書なのですが、
それは1940年代に出版された古い全集だったことが購入後に分かり(だから購入を後悔しているという話ではありません)、
今ではもっと新しい全集が出版されている、とか、
そういう情報を得ると、ファン・ルーラーとは全く無関係の問題なのですが、それはそれで興味がわいてきますし。
左から二番目のファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)についても、
この本の原著オランダ語版の原題はAmicitia Deiというのですが、
このラテン語の読み方をぼくらはアミキティア・デイだと思っていたら、
5年前に石原知弘先生と一緒にファン・アッセルト先生ご自身から「いやいや、その発音はアミシティア・デイだ」と教えていただいたり。
それで、また調べ直したら、同じラテン語でもキリスト教用語限定の発音方法があり、その場合はciはキではなくシだということが分かるとか。
もう、それはそれで面白くて仕方ないのですが、「本題の」ファン・ルーラーはそっちのけになってしまいます。
出版関係の方々にとっては、ぼくのような人間のすることは、利益には全くつながらないものなので、もうどうしようもないですね。
ぼくはスピードとか成功とか成果とか、そういうものとは全く無縁な人生です。マッドですね。松戸のマッド。
ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由。
ファン・ルーラーは深い人なんです。
徹底的にどこまでも掘り下げようとする人です。
そのファン・ルーラー先生にすっかり触発されて、
ぼくまで掘り下げたくなってしまうんです。
書き方がけっこうアフォリズムで、
短くて鋭い言葉をパッパッパッと提示していくところは読むたびにうなるのですが、
説明も注釈もなしにパッパッパッとテンポよく来るもんだから、
日本人読者、というのはぼくのことですが、ぜんっぜん分かんないことだらけなんです。
とくに歴史上の人名とか、過去の神学概念。
それが注釈なしに出てくるもんですから、イチイチ調べなくちゃならない。
調べなくちゃならないって言っても、ぼくも怠慢なのが悪いんですが、
いろんな図書館を探し回るほどの機動力があればいいんですが、
それよりもネットで探して買っちゃう。
だけど、お金もかかるし、外国の書店から本が届くまでに時間がかかる。
今は子どもたちの教育費にお金がかかる時期なので、新しい本は全く買えない。
たとえば、この写真の本ですが、
左から
コクツェーユス『契約論』(現代オランダ語版)
ファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)
『リュースブルク全集』全四巻
ファン・ニーウェンホーフェ『リュースブルク研究』
シュレーダー『ファン・ローデンステイン研究』
ファン・ヘンデレン他編『第二次宗教改革研究』
みたいなものを集めてきましたが、これらの本は、
ファン・ルーラーの論文の中に「コクツェーユスは」とか「リュースブルクによると」とか「ファン・ローデンステインの言葉で言えば」とか「第二次宗教改革」の話がパッパッパッと出てくるので、
仕方なく購入したものです。
だって、訳書だって責任は重大ですよね。
訳者には意味も内容も分からないけど原著者が書いているから、そのまま「横のものを縦にしました」というわけには行かない。
ぼくは自分のブログには「そんなの知らねーよ」くらいの乱暴な言葉はいくらでも書いてきましたが、
もし将来、自分の訳した本が出版される日が来て、それを買ってくださる方がいて、その方から質問を受けたときに「そんなの知らねーよ」とお答えしたりは、ぜったいしません。そんな感じになるくらいだったら、出版しないほうがいいんです。
だけど、コクツェーユスも、リュースブルクも、ファン・ローデンステインも、第二次宗教改革も、一つ一つがものすごく深い思想世界を持っていますので、
そこにも引き込まれながら、それでもなお「本題の」ファン・ルーラーにぼくの集中力を戻していくというのが一苦労なんです。
たとえば、ぼくが持っている『リュースブルク全集』(写真中央の四巻本)は、とても美しい状態で保存されていた古書なのですが、
それは1940年代に出版された古い全集だったことが購入後に分かり(だから購入を後悔しているという話ではありません)、
今ではもっと新しい全集が出版されている、とか、
そういう情報を得ると、ファン・ルーラーとは全く無関係の問題なのですが、それはそれで興味がわいてきますし。
左から二番目のファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)についても、
この本の原著オランダ語版の原題はAmicitia Deiというのですが、
このラテン語の読み方をぼくらはアミキティア・デイだと思っていたら、
5年前に石原知弘先生と一緒にファン・アッセルト先生ご自身から「いやいや、その発音はアミシティア・デイだ」と教えていただいたり。
それで、また調べ直したら、同じラテン語でもキリスト教用語限定の発音方法があり、その場合はciはキではなくシだということが分かるとか。
もう、それはそれで面白くて仕方ないのですが、「本題の」ファン・ルーラーはそっちのけになってしまいます。
出版関係の方々にとっては、ぼくのような人間のすることは、利益には全くつながらないものなので、もうどうしようもないですね。
ぼくはスピードとか成功とか成果とか、そういうものとは全く無縁な人生です。マッドですね。松戸のマッド。
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