2013年11月23日土曜日

みなさん、オランダ語を勉強しましょう!

前の記事にアップした本棚の写真の下の三段分がすべて

カール・バルトの本と、バルトについて書かれた本です。


「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」

という言葉は、バルトにも当てはまると思います。ビビるほどの量ではありません。

我々が一人の学者を偶像にしないためにできそうなことは、

複数の神学者たちの本を「揃える」ことかもしれません。

日本では知られていない神学者たちが、

カルヴァンやバルトほど本を書きました。我々が知らないだけです。

複数の神学者の本を「揃える」ことで、何が起こるのか。

メディアなどが作りだした「偉大な」神学者の相対化です。

日本で知られている「偉大な」神学者の代表は

アウグスティヌス、トマス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルトでしょうか。

彼らを相対化することができるようになります。

ベルカウワーもファン・ルーラーも、ドイツ語でも書きましたが、

二人ともオランダ人ですので、著作の大半はオランダ語です。

オランダ語はドイツ語に似ています。ドイツ語の基礎が分かれば、すぐ読めるようになります。

講談社オランダ語辞典は画期的でした。これなしには、ぼくは読めません。

みなさん、オランダ語を勉強しましょう!

どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません

ふいに思い出したのは、学生時代の先輩の言葉です。

三鷹の学生寮のぼくの部屋の本棚を見て

 「きみは揃いものが好きなんだね」

と言われたことがあります。

その先輩が誰だったのかは覚えていません。その人の顔が思い浮かびません。

でも、先輩のおっしゃったこと、当たっていました。

ぼくは揃えたくなる人間です。「収集癖」のようなものが、たぶんあります。

なぜ揃えたくなるのかは分かりません。その理由を知りたいわけではありません。

ただ、分かったことがあります。

それは、どんなに偉大な先生でも  一生の間にできる仕事は限られている、ということです。

当たり前のことですが、揃えてみて納得できました。


この写真の上の段は、ベルカウワー(1903-1996)の本とベルカウワーについて書かれた本です。

下の段は、ファン・ルーラー(1908-1970)の本とファン・ルーラーについて書かれた本です。

いずれもパーフェクトなコレクションではありませんが、かなり網羅できていると思います。

ベルカウワーとファン・ルーラーは二人ともオランダの改革派神学者でした。

ほぼ同時代に活躍しましたが、所属教団が異なるため、主張に違いはありました。

二人の関係を研究することは、大きな意義があります。

それよりぼくがいま言いたいことは、二人の著作の量です。

「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」

ということです。

どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません。人間です。

人ひとりの一生の間に書き残しうる言葉には、限界があります。

「揃えて」みて初めて、そのことが分かりました。

それでぼくは、ほっとしたのです。

神学をなめてはいけません。しかし、むやみに恐れることもありません。

何を言ってるのか分からなくなってきましたので、このへんで終わります。

2013年11月22日金曜日

ぼくに安住の地は無いような気がします

いま気づきました。

ぼくは今週月曜日のブログ

「まあ、ぼくは『岡山県人』ですから、

 千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。」

と得意気に書きましたが、

その三日後の、昨日木曜日のブログには、

岡山の空気をけがすようなことを書いてしまっています。

あーあ、こうしてぼくは日々、世間を狭くしています。

外国語できないから「日本から出て行け」とか言われても無理だし。

ぼくに安住の地は無いんですね、たぶん。

しゅるしゅる(煙)。

2013年11月21日木曜日

違憲状態国会が決めた法律に逆らうと禁固刑何十年という話になるのはグロテスクすぎます

違憲状態選挙で選出された(確定)

違憲状態議員による(確定)

違憲状態国会で(確定)

明白に違憲的ななんちゃら法案が審議され(いま)

その法案が「数の力で」成立した場合でも(?)、

その法律に従わなければ、禁固刑何十年(ええーっ?!)という話、

バカバカしすぎて、グロテスクすぎて、ついて行けないです。

ただちに解散総選挙すべきだと思います。

ただし、一票の格差の問題は解決したうえでの再選挙です。

または、なんちゃら法案は審議未了廃案とする。

どちらかです。

ぜひお願いいたします。

【追記】

ぼくごときの意見を無視するのは、そりゃいとも簡単なことですよ。

だけど、ぼくが書いたことは、ごく普通の庶民感覚だと思いますよ。

まさか強行採決するんですか。

違憲状態国会の強行採決。ずいぶんアナーキーですね。前代未聞ですな。

そういうことすると、皆さんの輝かしい経歴に傷がつくんじゃないですかね。

もう二度と法律だの憲法だのという言葉を口にできなくなるんじゃないですか。

恥ずかしいと思わないのかな。結局、権力の亡者だったのか。がっかりですね。

2013年11月20日水曜日

2012年12月衆議院議員選挙「違憲状態」についての最高裁大法廷判決に寄せて

1票の格差:12年衆院選は違憲状態 最高裁大法廷(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/m20131120k0000e040232000c.html

ついに最高裁判決出ました。

竹崎博允裁判長は、ぼくらの高校、岡山朝日高校の先輩だったんですね。知りませんでした。

竹崎博允 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹崎博允

今日の判決によると、選挙そのものは有効だそうですので、

せめて「違憲状態議員」と「合憲議員」の区別はされるべきだと思います。

この判決が出ても議席に堂々と座れる人の神経を、ぼくは疑います。

「違憲状態議員」は自主的に傍聴席に座るべきです。

それが不服なら自主的に議員バッジを外すべきです。

考えてもみてください。

「違憲状態議員」を含む国会で決められた法律に、

ぼくらは、どの顔して従えばいいのか。

冗談じゃない。

「違憲状態議員」たちを、どの国民が尊敬できるのか。

ぼくには無理です。

というか、その人自身、国会議員としてのプライドを持てるのか。

ぼくには甚だ疑問です。

早く解散総選挙してあげるほうが、その人たちの尊厳を守れると思います。

松戸小金原教会の月報『まきば』最新号が完成しました


松戸小金原教会の月報『まきば』2013年11月号が完成しました。

巻頭言 今月の言葉

 「被造物だけではなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます」 (ローマ8:26)

牧師 関口 康

わたしたちは教会のために産みの苦しみを続けているでしょうか。教会に通うことは自分の満足や安心を求めるためであるというだけでは済まないのです。

わたしたちは自分のことで精一杯です。他人の世話までできる余裕はありません。しかし、わたしたちが悩んだり困ったりしたときに教会が助けになった経験をもっているなら、同じような悩みや苦しみを今味わっている人たちのためにも教会が必要だということが分かるはずです。遠くの教会まで苦労して通っていた人たちにとって、自分の家の近くに教会があることの意味や価値が分かるはずです。

いや、今は自動車・バス・電車でどこでも行ける。近所の教会などなくてもよい。もしそのような考え方が、教会も伝道もすっかりあきらめた結果として出ているものだとすれば、反省し、悔い改めなければならないことです。

パウロは教会をあきらめませんでした。どんなことがあっても伝道を続けました。パウロの言う「目に見えないものへの希望」とは伝道の希望です。まだ存在しない教会が、新しく生み出されることの希望です。まだ洗礼を受けていない人が、教会に通い、神の前で喜びと感謝をもって生きはじめることの希望です。

東関東中会の教師会を行いました

茨城県立県民文化センターのイルミネーション

今日(2013年11月19日火曜日)は、ひたちなか教会(茨城県ひたちなか市)で東関東中会の教師会を行いました。

開会礼拝の説教は勝田台教会の坂井孝宏先生でした。素晴らしい説教でした。

その後、日本キリスト改革派教会『教会規程』とカルヴァン『キリスト教綱要』を学びました。有意義な時間でした。

帰りに見かけた茨城県立県民文化センター(水戸市)のイルミネーションが美しかったです。

2013年11月18日月曜日

千葉の東京 Tokyo in Chiba

東京ディズニーランドが千葉にあることが「偽装」だというなら、東京大学(柏)も、東京歯科大学(千葉)も、東京電機大学(千葉NT)も、東京基督教大学(印西)も、千葉にあるのはすべて「偽装」ですかね。

こういうことをあんまりうるさく言い過ぎると、ギスギスしそう。ネット時代に地名の意味はだんだん薄れてきている気がします。

「新東京」とか「新都心」とか「副都心」というのは、まだちょっと遠慮がある感じですよね。堂々と「東京」を名乗りながら千葉、というのは、ぼくはもう慣れましたが、いまだにネタにされ続けられるところがありますね。

柏・松戸が十分東京であることはぼくもそうだと思います。が、それでどうなるかっていうと、柏・松戸在住の「若い元気なクリスチャン」は、柏・松戸にある教会の前を華麗にスルーして、自動車・バス・電車で東京の教会まで行っちゃうんですよね。悲しい、悲しい、悲しい、悲しい現実です。

しかし、その「若い元気なクリスチャン」だった人たちも、やがて華麗に加齢する。その頃になってやっと、「ああ、しんどい。遠くまで行くの、やんなっちゃった。苦労して東京の教会まで行っても、東京の教会は若い人たちばっかりで、ぼく/あたしの居場所が無くなっちゃったわ。...あれ?よく見ると、うちの近くにも教会あるじゃない、気づかなかったわ(50年くらい前から同じ場所にあるんですが...)。ま あ、仕 方 な い、こ こ で も い い わ。」(ゲシュペルトは筆者)とか言って、来てくれたりします。

これは教会だけの話でなく、病院や商店や学校なども基本的にだいたい同じことが当てはまります。ちょっと大きめの手術をすることになった人は、ほぼ必ず、東京の有名な病院のスーパードクターにやってもらうために、何日でも何か月でも待ちます。松戸・柏にも名医はたくさんいると思うのですが、病院や医師までブランドものです。

商店も基本的に同じことが当てはまると思います。全国チェーンのタコ焼き屋の「松戸小金原店」と、東京の「原宿店」とで、タコ焼きの味が違うとは考えにくいのですが、松戸・柏の「若くて元気な」人たちは、「松戸小金原店」の前を華麗にスルーして、「原宿店」のタコ焼きをハフハフしたりします。

学校も然り。場合によっては小学校くらいから、何時間もかけて東京の有名校に通わせられている子どもたちがいます。それが悪いとは思いませんが、「地元の学校は荒れている」という神話を信じるゆえにそうする、という親もいます。しかし、それは神話です。べつに荒れてません。

こういうことを書くと嫌われることは分かっているのですけどね。

まあ、ぼくは「岡山県人」ですから、千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。

ネット時代の教会と牧師

以下、思いつくままに書きます。

注意していただきたいのは、これはぼく自身の直接的な体験ではないという点です。あくまでも可能性であり、一種のフィクションです。悪しからず。

(1)教会関係とネット関係

毎週日曜日に教会に集まる同士(とくに牧師と教会員)と、牧師自身のネット関係の仲間は、別々のほうがいいような気がします。

なぜなら、教会の中にはネットを使わない人がいますので、いわば必然的に、教会員「の一部」と牧師がネット関係にあることになるからです。

そうなりますと、牧師の言葉や牧師経由の情報が「伝わっている人」と「伝わっていない人」が教会の中に併存する格好になることは、必然的です。

それは、教会の中に不信感、不和、対立を引き起こす遠因ないし直接の原因になりかねません。

(2)ネット経由の情報は「パソコン(モバイル含む)の前」でしか得られない

ネット時代の牧師は、(ぼくら日本キリスト改革派教会でいえば)大会や中会の委員会や、その他ありとあらゆる方面からの情報が、今やメールはじめネット経由で送られてきています。

「ネット経由で送られる情報」を入手するための「唯一の」方法は、「パソコンの前に座ること」です。他にどうすることもできません。

しかし、「パソコンの前に座る牧師」の姿が、見る人によっては、非常に「不愉快な存在」に見えてしまうらしいのです。その感情たるや、「人間を相手にするのではなく、パソコンを相手にしている不埒な牧師」だ、みたいな感じのようです。

イヤ、違うんですが。「大昔の」手旗信号とか、モールス信号とか、交換電話とか、わりと最近のファックスとかと、ネットは、基本何も変わらないんですが。

「パソコンの画面を見つめるだけで、ぼく/あたしの顔を見てくれない」とか文句言いたい気持ちも、まあ分からないでもないですが、それ、毎日通っておられる病院のお医者さんへの不満ですよね。そのお医者さんたちに文句言ってくださいね。

(3)ネット時代の「忙しい」牧師は、ハタから見ると、「何もしていない」ように見える

教会は、いますでに、あらゆる情報をネット経由でやりとりしはじめています。

たとえば、ぼくら日本キリスト改革派教会の「東関東中会」では、

中会の会議や各委員会の開催通知、議案書、会議録略報、あるいは緊急連絡や訃報などはPDFやワード文書形式でメールに添付されて送られてきます。プリントアウトやファイリングは各人に任されています。

他にも、多くの委員会が各自のメーリングリストなどを設けて日常的に議論が交わされていますし、最近はfacebookなども積極的に利用されるようになりました。

あるいは、これは大会や中会のケースではありませんが、個人的なグループなどでは、スカイプやハングアウトなどのビデオ通話で、会議や勉強会が行われるようになりました。

このような動きはネットコミュニケーションの発達に連動しているものでもありますが、同時にそれは「教会の伝道不振」という時代的背景を持っています。

それはどういうことかといえば、早い話、各個教会も中会も大会も献金収入が減る一方で、経済的に追い詰められているため、会議や委員会のたびに支出される「日当、交通費、食事代、宿泊費」といったものを切り詰めることに必死です。

その中でのネットコミュニケーションの活用は、きわめて危機的な財政難にある各個教会、中会、大会を「助ける」意義もあるのです。

ところが、ここに大きな問題が発生します。

上記のような多岐にわたるネットコミュニケーションは、すべてパソコン(モバイル含む)の前で行われます。

そして、その姿を「客観的に見れば」、

牧師が書斎にひとりで引きこもり、パソコンの前に座って、目と指を不断に動かし続け、独りごとを言い、時々爆笑したり、大きな声でしゃべっている、

というふうな絵になります。

しかも、多くの牧師は、教会に近接した場所に自宅(牧師館)があり、長時間の通勤などをしていません。

そのため、「ネット時代の忙しい牧師」は、ハタから見ると、「自室に引きこもってパソコンをいじっているだけのヒマな人」に見えてしまうのです。

すると、どうなるか。

「ヒマそうな牧師」は、教会からの尊敬の対象にはなりにくくなります。

「ぼくたち/あたしたちは、毎日毎日、汗水たらして長時間の通勤を耐え、

ひどい人間関係の中でもみくちゃにされ、イヤな仕事をこなしている。

それなのに、うちの牧師は、自室にこもってパソコンをいじっているだけ。

冗談じゃないわ。あんな牧師に耐えられるか」

というような話になりかねません。

イヤイヤ、そんなことないから。

めっちゃ忙しいですよ、まあたしかに「パソコンをいじっている」だけですが。


2013年11月17日日曜日

神に計画があり、万事が益となります

ローマの信徒への手紙8・28~30

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に記されているのは多くの人の心を慰めてきた有名な御言葉です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と記されています。

「神を愛する者たち」と言われているのが、被造物がその出現を待ち望んでいるとパウロが書いていた「神の子たち」(19節)のことです。それはわたしたちです。イエス・キリストと結ばれるために洗礼を受けた者たちです。それは教会です。

しかもそれは、教会という団体を指していると同時に、この団体の中にいる一人一人のキリスト者を指しています。その場合の個人と団体との関係は、「鶏が先か、卵が先か」という問題ほどには難しくありません。教会の場合は個人が先です。個人としての一人一人のキリスト者が集まって教会をつくるのです。その逆はありません。そこに一人もキリスト者はいないけれども、教会が存在するということはありません。

しかし、パウロは「神を愛する者たち」とは「御計画に従って召された者たち」であると、ただちに言い換えています。「御計画」とは神の御計画です。わたしたちの神は心をもっておられる存在です。その神が、御自身の心の中に、この地上に教会をつくる計画をもっておられるのです。その意味は、神がこの世界に教会が必要であると信じておられるということです。そして、その神が御自身の必要と御計画に基づいて、神を愛する者たちを神のみもとに召し集められるのです。

この「召された」という点は重要です。わたしたちは自分で教会を探して、ここに来たと思っています。電話帳を調べたかもしれませんし、最近ではインターネットで調べたという方も多いでしょう。チラシを見てくださった方もおられるかもしれませんし、聖書を本屋で買って読んだ、キリスト教の本を読んだ、キリスト教のラジオ番組を聞いたという方もおられるかもしれません。あるいは、教会の人から誘われた。親に連れて来られ、自分も信じるようになった。そのように、わたしたちが教会に通いはじめるまでには、いろいろなきっかけがあったと思います。

しかし、それがどのようなきっかけだったにせよ、わたしたちは、とにかく自分でここに来たのだと、最初は誰でもそう思います。遠くの町から引っ越してきたとき、いくつかの教会をまわってみて、自分にいちばん合いそうな教会はここだと思って通うことにした。そのように最初は誰でも思います。そのように考えること自体が間違っているわけではありません。当然のことです。

しかし、そのわたしたちが教会に通いはじめて、しばらくすると、分かって来ることがあります。それは、わたしは自分で教会に来たと思っていたけれども、実はそうではなかったということです。神がわたしを教会へと召されたのだということが分かってきます。神御自身があらゆる手段を用いて、わたしたちを教会へと導いてくださったのだ、ということが分かってきます。

それはよく考えてみれば、ものすごく分かりにくい、めちゃくちゃに現実離れした考え方ではないということをお分かりいただけるはずです。先ほど電話帳だ、インターネットだ、チラシだ、本だ、ラジオだと言いました。あるいは教会の人から直接誘われた。それらはすべて教会自身ができるだけ多くの人たちに教会の存在を知っていただきたいという強い願いをもって行っていることです。ここに教会が存在していること自体も、教会の建物も、ずっと前からここにあったわけではなく、教会のみんなで力を合わせ、献金を集めて作っているものです。

そういうことは、教会に初めて来たばかりの頃のわたしたちには分からなかったことです。最初はみんなお客さんでした。お客さんであることが悪いわけではありませんが、だんだん教会の内部事情が分かってくるときが来ます。

神を信じることも、教会に通うことも、自分で始めた、自分で決めたと、最初はみんなそう思うのです。しかし、実際はそうではなく、わたしたちは招かれ、召され、集められたのです。すべての人、すべての生き物が自分で自分を生み出すことはできず、必ずその親から生まれるように、わたしたちの信仰も、教会生活も、自分で生み出したものではなく、神が生みだしてくださったものなのです。

もちろん、いま申し上げていること自体が信仰です。わたしたちは神を信じる信仰へと導かれないかぎり、そのような考え方をもつことができません。信仰がなければ、わたしたちはあいかわらず、自分でここに来た、自分で教会を選んだと思うでしょう。しかしその思いは、信仰を与えられたときに初めて、実はそうではなかった、神が私をここへと召し集めてくださったのだという思いへと置き換えられるのです。

いま、少し長く説明させていただいたのは「召された」という言葉の意味です。パウロが言いたいことは、教会は神がつくってくださったものであり、わたしたちは神によって教会に集められたのだ、ということです。それは神がこの世界に教会が必要であるとお考えになったからです。

それでは、なぜ神はこの世界に教会が必要であるとお考えになったのでしょうか。その答えはこうです。神は、御自身の手によって創造されたこの世界と人間から、御自身が愛される存在でありたいと願われたのです。神は「神を愛する者たち」をこの世界に生み出すことを願われたのです。

人間の親子の関係を考えてみれば、いま申し上げていることは、ある程度はご理解いただけるはずです。親が自分の子どもたちに願うことは、それはやはり自分のことを愛してもらいたいということだと思います。自分の子どもに嫌われたい、憎まれたいと願う親は、通常はいません。全くいないとは言い切れませんが、多くはないと思います。ほとんどの親は子どもから愛されたいと願うでしょう。

もちろん、そのように、親が子どもから愛されるために親がしなければならないことは、子どもを愛することです。自分が愛した分だけ、相手から愛してもらえるでしょう。親は子どもを愛さないが、子どもからは愛されたいというのは虫が良すぎます。親と子どもの関係は、ギブアンドテイクです。親から子どもへの愛は一方通行の場合もあると思います。しかし、親から愛されなかった子どもが、それでも親を愛するということは通常ないと考えるべきです。

神は世界と人間を心から愛してくださっています。わたしたち一人一人を愛してくださっています。しかし、親から子どもへの愛は一方通行である場合もあると、たったいま申し上げました。そのようなことが神とわたしたち人間との間にもありえます。そのようなことが現実にあります。

わたしたちの命は神が創造されたものです。わたしたちの存在と人生を創造されたのは、神です。そして、わたしたちは生きている間、あらゆる種類の恵みと祝福、楽しみと遊びを神から与えられています。

しかし、そのようなことは全く考えたこともないという人は、残念ながら少なくないのだと思います。わたしたちは神から愛されているとか、神の恵みをいただいているとか言われても、その意味がよく分からないと感じる人は、おそらく多いのだと思います。神からどれだけ愛されていても、その愛に気づくことがなく、ありがたいとも思わないので、「神を愛する」ということの意味が分からないのです。

教会とか牧師とか、そういう人たちが、聖書の言葉に基づいてそのようなことを言っていることについては、それを全く知らないわけではないし、少しくらいは耳を傾けることもやぶさかではない。しかし、だからといって、それを信じなさいとか受け容れなさいとか言われても困る、と感じる人は、多いのだと思います。

なぜ困るのでしょうか。その理由は分かります。なるほどたしかにわたしたちには恵みというようなものも与えられているのかもしれない。しかし不幸もたくさんあるではないか。わたしたちの人生は苦労だらけ、不幸だらけではないかと考えてしまうからだと思うのです。神が世界を愛し、人間を愛しておられるというなら、なぜこの世界と人間には苦労があり、不幸があるのか。それを説明してくれなければ納得できないし、信じなさいと言われても不可能だ。そのようにはっきりおっしゃる方もおられます。

その言い分を、私自身は全く分からないと感じるわけではありません。ある意味で、よく分かる話です。しかし、ここから先は少しだけ、私の考えを言わせてください。私はいま、牧師という立場で教会に関わらせていただいています。その私が知っていることは、いま教会に集まっておられるみなさんがどういうきっかけで教会に通うようになられたのか、ということです。

私はみなさん全員のことを何もかも知っているわけではありません。また、私が知っていることをべらべらしゃべることはできません。しかし、はっきり言えることは、ほとんどの人は、「私は幸せな人生を送ることができています。だから神を信じます」という理由で教会に通い始め、信仰をもって生きるようになったのではない、ということです。「私は幸せだから、神を信じます。不幸だから神を信じることができません」とおっしゃる方は、ほとんどいません。私自身はそのような方と出会ったことがありません。

現実はむしろ正反対です。多くの人は、不幸のどん底にいたときに救いを求め、助けを求めて教会に来られたのです。大切な家族を失った。自分が病気になった。人生に空しさを感じた。世間に絶望した。何が真実で、何が嘘っぱちかが分からなくなった。そのようなときに、聖書を読みたい、神の御言葉を知りたいと願って、教会に来られたのです。

そうでもないという方がおられるかもしれません。それはそれで問題ありません。人生に不幸など無いに越したことはありません。しかし、不幸を体験したことがないという人は、どこにもいないのです。病気になったことがないという人はいません。苦しんだことも泣いたこともないという人など一人もいません。わたしたちが人間であり、傷つきやすい肉体をもつ存在であるかぎり、ほとんど毎日のように疲れを感じ、不満を抱え、助けを求めて生きているのです。

それこそが今日の個所でパウロが言っている「万事」の具体的な内容です。わたしたちが人生の中で体験するあらゆることが「万事」です。世界に起こるすべての不幸、すべての絶望を含むあらゆる出来事が「万事」です。

その「万事」が「益となるように共に働く」のだとパウロは書いています。わたしたちの人生に襲いかかる不幸が、かえってわたしたちを、神を信じ、神に依り頼む信仰に導き、教会へと招き入れるのです。そのような方法で神はわたしたちを「神を愛する者」へとつくりかえてくださいます。神がこの私を心から愛してくださっていることが分かるようにしてくださるのです。

(2013年11月17日、松戸小金原教会主日礼拝)