2013年11月11日月曜日

茶坊主、お見合い、どうぞどうぞ

先週の「第19回 カール・バルト研究会」で結構盛り上がったのは、

「茶坊主」の話でした。

その内容を書くと角が立つので、書きませんけどね。

今の日本の(プロテスタント)教会は、

バレーボールの「お見合い」状態なのかもしれません。

ていうか、ダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」だな。

発信力が強かった世代の人たちがほとんど引退状態にあり、

発信力が弱い、または発信力が無い人たちが、ど真ん中に居座っている。

引退状態にある世代の人たちの発信力にいつまでも期待し、ぶらさがる。

そういうの恥ずかしいと思わないのかな。ぼくは恥ずかしいんだけど。

2013年11月9日土曜日

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

--------------------------------------

ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ/著  関口康/超訳


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartは「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」だろうか


サブタイトルは、Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartだったのか。初めて知りました。

それが「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」と訳されています。辞書的意味に忠実に訳されてはいるということは、よく分かります。

しかし、ちょっと厳しすぎる言い方かもしれませんが、訳者の視線は、この本をまだ読んだことがなく、ドイツ語を読むことができない人たちに、ではなく、この本をドイツ語原著で熟読していて、ドイツ語の構文を知っている「身内」に向かっているのではないかと、なんとなく訝しく思えてきます。

いま書いていることは誤訳の指摘ではないし、訳者に対する批判でも攻撃でもありません。ただ、いろいろ感想を述べているだけです。

とはいえ、Konfliktは「闘争」だろうか。「の中における」という日本語に奇妙さはないだろうか。inを間に挟んだ二つの文は、いつでも後者を先に、前者を後に訳さなければならないか、などなど、いろいろ考えさせられています。

たとえばの話、「キリスト教的人間論の今日的議論」と訳すのは間違っているでしょうか。原著者がサブタイトルに込めている意味は、その程度のことだと思うのですが。

この訳書が出版された時期の背景的なことを想像すれば「闘争」と訳したかったのかもしれないことは分からなくもないですが、最大で「葛藤」くらいではないでしょうか。

なんか、そんなことを考えました。

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

--------------------------------------

ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ著/関口 康「超訳」


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

2013年11月8日金曜日

「第19回 カール・バルト研究会」報告


好例の集合写真を撮り忘れましたので、

代わりに本の写真を。

今日(2013年11月8日金曜日)21時から23時30分まで

「第19回 カール・バルト研究会」を

グーグルプラス・ハングアウトで行いました。

今日のテキストは

カール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の

第10章「イエス・キリスト」の後半部分でした。

ここに来てバルト神学の問題性が一気に噴出するといった感じで、いろいろと考えさせられました。

本日の参加者は下記(五十音順、敬称略)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)途中まで
藤崎裕之(北海道亀田郡)

次回は、な、なんと「第20回」です。

「第20回 カール・バルト研究会」は11月29日(金)21時から23時までです。

どなたもぜひご参加ください。

2013年11月7日木曜日

ぼくは「プア充」です

http://www.kotomatome.net/archives/33810872.html

島田某氏(面識なし)の書きっぷりは

あんまりぼくの好みじゃないんですけど、

「プア充」という言葉の流行源になっておられるらしいと、

FBのお友達から今日教えていただき、微妙な気持ちでいます。

ぼくは自他ともに認める(かどうかは不明)「プア充」の体現者です。

生涯2回経験した「海外旅行」は、すべて他の方のお金で行かせてもらいました。

ぼくの年収をFBとかに書くと教会の名誉にかかわるので書きませんが、

たぶん驚かれるほどです。

そういう人間なのですが、

ぼくを見て「かわいそう」と哀れんでくださる方はいないですね。

それは「プア充」だからだと思いますよ。自慢じゃないですけどね。

「プア充」、ですか、あはは。大笑いですね。ナニ言ってんだか。

それ、ぼくらのことですよ。

ぜひ「牧師」になってください。

よろしくお願いいたします。

土下座。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(3)

「現代神学」という四文字熟語を使用することにぼくは心理的抵抗があります。なぜなら、神学が現代において営まれているかぎり、それは「現代神学」だからです。たとえテキストが過去の神学者の著作であっても、それを現代人が読み、現代人に理解できる言葉を用いて解釈している時点で「現代化」が起こっています。

「現代神学の元祖はシュライアマハーである」というシナリオは、いつ誰が書いたのでしょうか。おそらくそれを書いた人の「現代」は今の我々の「大昔」です。タイムラグというのは、時間の微妙なずれを指す言葉ではないでしょうか。「現代神学」という語のずれまくり感は、ハンパないレベルです。

神学エンチュクロペディーを学んだ人は、神学に聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学の四部門あり、組織神学は「現在」にかかわる部門であるという事情をご存じでしょう。そして言わずもがなですが、論者の「現在」が論者の「現代」です。つまり「組織神学」が「現代神学」であるとも言えるのです。

しかし「組織神学」は現代的な学問であるというようなことを仮にぼくがどこかで語ったとして、それをどなたがまともに聞いてくださるだろうかと考えるだけで頭が痛い。そもそも神学そのものが現代社会から失われている。まして「組織神学」など見る影もない。意図的に看板を下げる大学が増えている。

そんなこんなを考えているとき、ずっと前に買い集めたまま、ほとんど全く読まずに放置していた数冊の本に目がとまりました。新教出版社の「現代神学の焦点」シリーズです。ぼくが持っているのは9冊だけです。このシリーズが完結したのかどうかさえ知りません。

巻数順に並べた「現代神学の焦点」シリーズ

ぼくは「現代神学の焦点」シリーズの価値が分かりませんでした。とりあえず買いました。しかし、どう読んだらいいのかが見えませんでした。十巻を超えるシリーズのわりに、テーマの並べ方がランダムで、全体の統一性が全くない気がして読みづらかったです。

しかし、わりと最近(時期の特定はできないです)、「現代神学の焦点」シリーズの並べ方の順序を、何気なく変えてみたのです。あくまでも一つの可能性としてではありますが、伝統的な教義学ロキの順序を真似て、本棚上で並べ変えただけです。

ぼくがやったことは、「現代神学の焦点」シリーズの並べる順序を変えてみたことだけです。巻数順なら「理性、復活、未来、人間、新約聖書、平和、神、苦しみ、旧約聖書」の順ですが、「理性、旧約聖書、新約聖書、神、人間、苦しみ、復活、平和、未来」の順にしてみました。

伝統的な教義学の順序に並べ変えた「現代神学の焦点」シリーズ

すると、どうでしょう。ただシリーズ本の並べ方を変えてみただけなのに、これまでは買ったはいいけど本棚の埋め草になっているだけで何の興味もわいてこなかったこの新教出版社「現代神学の焦点」シリーズが、急に生き生きと立ちあがった気がしました。「ああ、これは一線級の教義学だ」と思いました。

もちろんぼくは、このシリーズの複数の著者のうち何人かは、自分の著作を「教義学呼ばわり」されることを快しとしないであろうことを分かっているつもりです。「ぼく/あたしの本はヴィッセンシャフト(学問)だよ。ドグマティーク(教義学すなわち独断論)ではないよ」と猛然と反発するに違いない。

でも、それは「組織神学」ないし「教義学」の本質を根本的に誤解しているゆえに生じる反発なのだと、ぼくには思えてなりません。今は「組織神学」と「教義学」を交換可能な同義の概念として用いますが、その意味の「教義学」は本質的に、本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものなのです。

「教義学とは本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものである」と書いた点について、これ以上広げる予定はない。ネガティヴな意味で書いたわけではないし、皮肉でも自虐でもないです。「本の並べ方」を軽んじるなかれ。それは今や「図書館情報学」等の名称で自立した一大学問になっています。

「図書館情報学」の中身をぼくは知らないので、クマンバチの巣に手をつっこむのはやめておきます。くわばらくわばら。ただ、「組織神学」と同義語として用いる意味の「教義学」は、知の全体系をトータルに把握しうるキャパシティをもつ巨大図書館の「本の並べ方」を研究することに似ています。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(2)

しかし、本当に難しいのはここから先です。「解説」とは意味不明の言葉を理解可能な言葉へと置き換えることを意味すると考えた上で、そのことをキリスト教の教義学にも当てはめて考えようとするとき、非常に難しい問題にぶつかります。それは「教義学」そのものが現代社会から失われているという問題です。

ただし、それはとても難しい問題ですので、ぼくが今ここでスラスラと論じることができるようなことではないです。ただ、現象としてはかなり既出であり、ほとんど自明でさえあることなので、ちょっと例を挙げるだけで「あああ」という声が上がるのではないかとも思っています。

ぼくがすぐ思いつく代表的な「現象」は、たとえば聖書の言葉や神学の概念を「現代的な学問」である心理学や社会学や歴史学などの各領域で固有な定義づけがなされている言葉へと「翻訳」することで、「はは、なるほど」と納得するという流れです。でもそういうのはぼくが求めていることではありません!

神学の概念を心理学や社会学や歴史学の概念へと全く置き換えてしまうのであれば、それは「神学を放棄すること」であり、「神学が心理学や社会学や歴史学へと吸収されること」をやはり意味せざるをえません。それでよいなら「神学」は不要です。神学部・神学大学・神学校などは、もちろん不要です。

しかし、「神学部・神学大学・神学校などは、もちろん不要です」は、その前の「それでよいなら」という仮定の話の続きです。このような仮定はぼく自身も不快なので、自分で不快だと思いながら書くべきではないのかもしれません。神学は不要とは思っていないから、ぼくは神学にとどまり続けてきました。

ぼくに「神学者」を名乗る資格はないです。しかし、カール・バルトが使った言葉をそのまま借りて言えば「自分が神学者であることをはずかしいと思うような小児病」をバルト自身は「ある程度脱却したつもり」だと書いたのとよく似た心境を今のぼくが持っていることは、なんと驚くべきことに、事実です。

「現代人に納得できる教義学」を「求めている」ぼくが「求めていないこと」は、神学という学問が心理学や社会学や歴史学などへと吸収されてしまうことです。そのことを、ぼくは全く求めていません。神学の問題は神学が解決しなくてはなりません。教義学の刷新の結果が神学の喪失であってはなりません。

だからこそ、ぼくは「現代人に納得できる教義学の実現は非常に難しい」と言っているのです。問題は、どうしたら神学を喪失しないで教義学を現代的なものへと刷新しうるか、です。心理学や社会学や歴史学をワルモノにするつもりはありませんが、これらの学問と神学とは、厳密に区別されるべきなのです。

その意味では「神学」と「キリスト教学」も、やっぱり違うものなのだと思います。いっそ、キリスト教学が「現代的な装いへとカムフラージュされた神学」であればよいのに!しかし、どうもそうではなさそうです。キリスト教学は、意図的に、全速力で神学のもとから走り去ろうとしているように見えます。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(1)

ぼくくらいの年齢になれば、全く新しいことを考えて書くことよりも、「事実上長年それを続けてきたが、しかし、それを字に書いてまとめたことはまだない」というようなことを、字に書いてみるという感じのことのほうが多くなってくるのではないかと思います。

実は、また新しい論文を書こうとしています。

具体的にどのような論文を書こうとしているかについては、まだ十分には考え抜いてはいませんが、キリスト教の教義学の方法論に関することになるだろうと言っておきます。

早い話にしてしまえば、「現代人に納得できる教義学」です。キリスト教の教義をビジュアルに表現するとどうなるか、というあたりが特にツボです。

というようなことを、若い友人の牧師と夜遅くまで話していました。ぼくが気になるのは「天使」とか「キリストの昇天」などです。「復活」は微妙です。

ぼくの問題意識は、たとえば映画やアニメでそれらを表現する場合、わりと従来なされてきたように、SFチックな描き方で本当によいのだろうかということです。

古い教義学は聖書の出来事を「超自然」(スーパーナチュラル)と表現します。しかし、それを映画やアニメで表現すると、やたら荒唐無稽になります。そういう映画やアニメを見れば見るほど、あまりにもアホらしく感じて愛想をつかす人が続出します。スペクタクルな描き方であればあるほど信仰の対象になりにくいです。

「『復活』は微妙です」と書いたのは、復活の事実性を否定したくないからです。だけど、キリストの復活や人類の復活を、ゾンビのように墓穴からズズズと這い出てくる血まみれの死体のようなものをイメージすべきとは、たぶんだれも考えていない。だけど、だったら何をイメージすればいいのでしょうか。

ぼくのイメージする「現代人に納得できる教義学」の20世紀的前例はブルトマンの「非神話化」です(ブルトマンは教義学者ではなく聖書学者ですが)。聖書は古代の神話的表象で書かれているが、現代人はそれを受け継いでいない。現代人に固有の表象へと聖書を「翻訳」しなおすことが「非神話化」です。

しかし、どうでしょう、20世紀においてブルトマンの「非神話化」は聖書学の枠内にとどまってしまい、教義学の刷新には至らなかったのではないでしょうか。「聖書学VS教義学」という不幸な対立図式もありました。しかし、今は21世紀です。「非神話化された教義学」が求められていないでしょうか。

一例:「イエスは聖霊によって、肢である私たちに、天の賜物を注いで下さいます。聖霊降臨は、イエス昇天後の神の恵みの第一の現われです」。

これは、ある文章を分かりやすく解説するのを目的として書かれた文章です。しかし今日では、この解説文を分かりやすく解説する文章が必要であることは明白です。

平たく言えば、言葉が足りていないと言わざるをえません。解説が解説になっていない。今日では意味不明の文章の解説文を、今日では意味不明の単語やセンテンスを用いて書いている。それを読んだり聞いたりする側の人に理解できないことは当然であるばかりか、おそらく語る者も意味を理解していない。

英英辞典というのがありますよね。オランダ語にも蘭蘭辞典あります。日本語で言えば、国語辞典。同じ言語の中でより難解なほうの言葉をより平易な言葉で解説している辞書。どれもとても便利なものです。しかし、時々「解説になっていない解説」がありますよね。ちょっと笑ってしまうようなケースです。

「A」という単語があり、その意味解説のところに「B」と書いてある。つまり、「AはBである」と説明されている。しかし、「B」の解説内容がイマイチよく分からない。それで同じ辞書の「B」の項をめくってみると、その解説文に「BはAである」と書いてある。つまり、何の解説もできていないのだ。

同じようなことが、従来のキリスト教教義学の中で繰り返されてきたと、ぼくは考えています。一方に「AとはBである」と書いてある。そのBの意味が分からないのでBとは何かを同じ本の中で調べてみると、「BとはAである」と書いてある。結局AもBも意味不明のままである。ケムに巻くとはこのことを言うのです。

意味不明の言葉で意味不明の言葉を解説すべきではありません。それは読者を迷路に陥れるのを楽しむタイプの人の趣味かもしれませんが、それは一種の異常心理のようなものです。そんなのは「解説」ではありません。それは当たり前のことなのだけど、そういうことを堂々とやっている人を見ると、ぼく的にはぞっとします。

「解説」というのは、読者に理解できない言葉を、理解できる言葉へと置き換えることでなければ、無意味ですよね?

教会の説教が「聖書の解説」という側面を持ち、教義学が「古代宗教思想の現代語での解説」という側面を持つのであれば、それは現代人に理解できる言葉で書かれる必要がありますよね?

「神学者の哀歌」というタイトルの本を書いてみたいです

嗚呼、堂々めぐり。

神学者の生涯とか、その神学者の著作を紹介しようとする場合、

「本がたくさん売れた!」とか「時代を動かした!」とかみたいな

サクセスストーリーっぽいのなら、ある意味で書きやすいわけです。

サクセスでなくても、アンサクセスストーリーであっても、

とにかく「動き」があると紹介しやすいです。

ですが、神学者は思想家なのだと思います。

「実践を伴わない思想」は見向きもされないのかもしれませんが、

その批判にあまりにも強迫観念を持ちすぎて、

「書斎に不在の思想家」ばかり増えてしまうのは、どうなのでしょうか。

「他人の本を読まない神学者」とか、ちょっと笑ってしまいます。

神学者は書斎に引きこもることを恥じるべきではないでしょう。

あなたがそれを恥じると、他のだれも書斎に引きこもれなくなりますよ。

しかし、「思想」でサクセスするというのは、よほどのことです。

「思想家のサクセスストーリー」というのは、世にも恐ろしい話です。

ファン・ルーラーのことを考え続けています。

彼にはサクセスストーリーがないんですよ。だから困っています。

ヨーロッパのキリスト教国家体制がどんどん崩壊していく最中で

オランダの国立大学神学部教授として「神学」を守るため奮闘しました。

しかし、それは

全体的で長期的で不可逆的な下降線の中での最終防衛戦のようなもので、

結果は敗北でした。彼の最期の思いは無念ではなかったかと思います。

こういう敗者の紹介というのは、どのようにしたらよいのでしょうか。

「神学者の哀歌」というタイトルの本を書いてみたいです。