2013年9月13日金曜日

「第15回 カール・バルト研究会」開催のお知らせと、少々の蛇足

今日は午後9時(日本時間JST)から

「第15回 カール・バルト研究会」です。

グーグルプラス・ハングアウトで行います。集合場所は各人のPC前。

研究会の(唯一の)入会条件は「バルト主義者にならないこと」です。

ご関心のある方はご参加ください。無料です。

以下、蛇足。

過去「バルト主義者」(バルティアン)と呼ばれた人は多くいましたが、

「ファン・ルーラー主義者」(ファン・ルーラリアン、ですかね)

という呼称は、ぼくはまだ、寡聞にして知りません。

かくいうぼくも

「ファン・ルーラリアン」(ですかね)になったことはないし、

なりたいとも思いません。そういうのは「無い」からです。

ですが、「バルト主義者」には一定の思考パターンがあると思います。

そして、その「バルト主義者」の一定の思考パターンを

ファン・ルーラーは嫌いました。そして、方向転換や修正を求めました。

その結果として、

一定のものに対する一定の反応(リアクション)という形のパターンが

ファン・ルーラーの側にあったことは、どうやら認めざるをえません。

簡潔に言えば、

バルト主義の側に見られる「キリスト論的集中」に対して、

ファン・ルーラーは「三位一体論的にフル展開すること」を求める

というパターンです。

ですが、

ファン・ルーラーにおいて「三位一体論的にフル展開すること」の意図は、

難解きわまりない思弁の世界に読者を連れ込んでケムに巻いてやろう

というようなことではありえず、

むしろ単純化です。

「キリスト論的集中」のフレームの中では

「人間」と「人間性」は、最終的には常にネガティヴな評価しか受けえない。

しかし、それだけが(「人間」と「人間性」をネガティヴに評価することだけが)

キリスト教のすべてではありえない、と言っているだけです。

「人間は邪悪で、うじむしで、ごみくずで、どうしようもない」

と唾棄し、拒絶し、否定するだけが、キリスト教であるはずはない。

罪や堕落や悪や死を軽く見ようというのではないです。

しかし、人間の根本評価において、人間が「人間以下」であることはないし、

「人間以上」であることもない。

人間は「人間」なんだから、人間が「人間的」で何が悪いの?

「それは人間的な考え方だ!」(ガミガミ)みたいな腹の立て方って

自分で言ってて、おかしくないですか?

と、まあ、そういうようなことを冷静に指摘する神学です。

逆に言えば、

ファン・ルーラーの神学の特質はその部分に集約されると言ってもいいので、

「人間であること」と「人間的であること」と「人間的なるもの」が

教会と神学において当たり前にポジティヴに評価される状況になれば、

「ファン・ルーラリアン」(ですかね)の出る幕は無くなるのです。

朝っぱらから、ながなが、だらだらと、すみません。

2013年9月11日水曜日

「終活」について考えてみませんか 秋の特別集会のご案内


松戸小金原教会 秋の特別集会2013 ご案内

テーマ:「終活」について考えてみませんか

日時 2013年10月20日(日)午前10時30分~12時
      (第二部 講演 午後1時~2時30分)
場所 松戸小金原教会(住所は下記)
お話 関口 康 松戸小金原教会牧師 

人生をどのように締めくくるかについて悩んでおられる方が多くいます。

自分ひとりで悩みを抱え込むより、相談相手がいるほうが、心の支えになります。

教会で「終活」を考える集会を行います。

午後1時から、キリスト教専門葬儀社の講演もあります。

いま悩んでおられる方も、まだ悩んでおられない方も、

ぜひ特別集会にご参加くださいますよう、ご案内いたします。

子どもたちのために別プログラムがあります。小さなお子さまとご来会ください。

日本キリスト改革派松戸小金原教会
〒270-0021 千葉県松戸市小金原7-21-11
TEL・FAX 047-342-1576
牧師 関口 康

電子メール  matsudokoganehara@rcj-net.org
ホームページ http://www2u.biglobe.ne.jp/~matudo

2013年9月9日月曜日

午後は急にやる気が出てきました

今日は月曜日でぼくの休みの日、ということで、

午前中はだらだらしていましたが、

午後は急にやる気が出てきて、Excelで名簿とか作っていました。

名前のふりがなを自動的につける関数とか、

年齢の自動計算の関数とかを駆使して作りました。

かなり、はかどりましたよ。午前中の借りを「倍返し」しました。

人間ね、

だらだらすることも大切ですよ。

緩急ってやつですね(エラそうに言ってますね。すいません...)

日中のスーパー店内の8割が男性客

松戸市に来て、来年3月でちょうど10年になります。

同じ町で「10年」じっとしているというのは、

生まれたときから高校を卒業するまで過ごした岡山市を除けば、

最長です。過去最長が「6年」でしたので、記録更新中です。

「ほぼ10年」じっとしていたことで見えてきたことがあります。

10年前は、この町で日中にスーパーに買い物に行く男性は、

年齢・世代問わず、ぼくくらいでした。

しかし、今。

日中のスーパー店内の8割が男性客です。

はっきり違います。

ぼくの興味は、

このような変化がなぜ起こったか、ではなく

(そんなのだいたい予想がつきますわ)

これからどうなっていくか、です。

ま、ぼくはおひるを買いに来ただけですけどね。

ちらしずし 398円


今日は「遠慮なく」無駄なことを考える日です

基本的に月曜日は教会から休みをもらっているのですが、

ちゃんと休んだためしはなく、

夏休みさえどこも行かない人間なので、どうしようもないんですが、

休みの日かビジーの日かの違いは、

無駄なことを考える時間をとるのが、少しだけ遠慮ないというだけです。

休みの日は「遠慮なく」無駄なことを考えているけど

ビジーの日は「遠慮しながら」無駄なことを考えている。

う~ん、あまり違いはない。

数年前から、スケジュール管理はGoogleカレンダーで行っています。

Todoリストの今日の仕事は、えっと1、2、3...。8項目ありますね。

まあ、でも、長期計画・中期計画・短期計画、ごちゃまぜです。

ぜんぶ明日しようかな。ははは。

半沢直樹!

半沢直樹がぼくにとって面白いと思えるのは

いかにも憎らしそうに「倍返しだっ!」とか言いながら

なんか、そうでもなくて、

実に我慢強いし、「倍」どころか半分も返せていないようでもある。

(なるほど剣道の達人らしく)敵から距離をとって冷静に見ているし、

やけくそに口汚く相手を罵るようなところが皆無で

言葉も態度も、一貫して基本が礼儀正しくフェアなところです。

だけど

(なるほど剣道の達人らしく)渾身の一太刀で敵を倒す。

青島俊作(踊る大捜査線)も久利生公平(HERO)も好きでしたが

三人目ですね、半沢直樹。

2013年9月8日日曜日

大切な自分の体を傷つけないでください


ローマの信徒への手紙6・12~14

「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」

先週は日曜学校との合同礼拝でしたので、いつもより短く、子ども向けにお話ししました。「洗礼を受けてください」というお話でした。先週お読みしました個所にパウロは次のように書いていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(3節)。

これで分かることは、洗礼を受けるとはイエス・キリストと結ばれることであるということです。パウロの言う「結ばれる」とは、結婚することとほとんど同じであると考えていただいて構いません。だからこそ、7章1節以下に「結婚の比喩」が出てきます。

しかし、その意味はあやしげなものではありません。生涯を共にすることを決心し約束するということです。そして、結婚の場合でも、決心と約束は結婚式だけで終わるわけではありません。結婚式は結婚の始まりであって終わりではありません。洗礼もまた、イエス・キリストと生涯を共にすることの決心と約束の始まりです。わたしたちに求められることは決心し続けることであり、約束し続けることです。

しかし、パウロが書いていたことには続きがあります。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、「またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」と続けられていました。

パウロが言っているのは、イエス・キリストと生涯を共にするということは、イエス・キリストと共に死ぬことを意味している、ということです。しかし、この場合の「死ぬこと」は、特別な意味です。イエス・キリストはすでに死んだ方です。しかし、わたしたちはまだ死んでいません。それなのに、イエス・キリストと共に死ぬとは、どういう意味でしょうか。

パウロは次のように書いていました。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(4節)。

これで分かることは、わたしたちがイエス・キリストと共に死ぬとはどういう意味なのかということです。なぜわたしたちはイエス・キリストと共に死んだのに、まだ生きているのでしょうか。それについてパウロは、イエス・キリストが死者の中から復活されたからであると信じています。

わたしたちは、洗礼によってイエス・キリストと結ばれました。イエス・キリストと生涯を共にする決心と約束をしました。だからわたしたちはイエス・キリストの死と共に死ぬのであり、イエス・キリストの復活と共に復活するのであるとパウロは言っているのです。

もちろん、このようなことを言いましても、何を言っているのかさっぱり分からないと思われる方もおられるに違いありません。パウロは信仰の話をしています。これは宗教の話です。うんと冷めた言い方をする人たちから「へえ、キリスト教ではそういう考え方をするのですか。面白いですね」と受け流されてしまうようなことでもあります。

しかし、これはわたしたちにとっては考え方の問題というよりも生き方の問題です。わたしたちはまだ死んでいません。生きています。しかし、生まれたときから今に至るまで、全く同じで何の変化もないというわけではありません。

人生の途中に、イエス・キリストとの出会いがありました。そして、イエス・キリストと結ばれました。そのとき人生に大きな転機が訪れました。

結婚の場合もやはり、それが大きな転機であることは間違いありません。もちろん、結婚したからといって人格そのものが変わってしまうとか、性格や趣味まで何もかも変わってしまうということは、通常ありません。しかし、何も変わらないということもないでしょう。生活が変わります。自分のために生きることだけで済まなくなります。家族のためにも生きるという態度が少なくとも求められます。あるいは、自分の考えで何もかも押し通すだけでは済まなくなります。家族の考えにも従わなければならないという面が必ず出てきます。

その点は洗礼も同じです。教会の一員になるということですから、自分のために生きることや自分ひとりの考え方を押し通すことだけでは済まなくなります。わたしたちはもはやイエス・キリストと共に生きているのですから、イエス・キリストのために生きることが求められます。そしてイエス・キリストの教えに従うことが求められるのです。

そして、その場合、特に重要な点は、罪との関係をどのように考えるかという問題です。パウロは次のように書いていました。「わたしたちの古い自分がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(5~6節)。

理解が難しい点は、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」と書かれているところです。

わたしたちは十字架にはりつけになったことはありません。しかし、パウロはそうだと言っています。ですから、これも信仰の話であり、宗教の話です。わたしたちが洗礼を受けたときに、わたしたち自身が十字架にはりつけになったのだと信じるほかはありません。

実際の洗礼式は、牧師の手からみなさんの頭に数滴の水が注がれただけです。しかし、そのとき、その瞬間にとんでもない出来事が起こったのだと信じることが求められるのだというのです。なんと、そのとき、わたしたち自身が十字架にはりつけになったというのです。そして、そのとき、わたしたちの古い自分が死にました。そして、次の瞬間、新しい命、新しい人生が始まったのです。

その「わたしたちの古い自分」とパウロが呼んでいるのが、罪に支配されていたわたしたちの過去のことです。それでは洗礼を受けてキリストと結ばれた後のわたしたち、今の自分は罪に支配されていないのでしょうか。パウロの答えは、そのとおりだということです。今のわたしたちは、罪に支配されていません。

そんなことはない、今でも毎日のように罪を犯し続けています、と言いたくなります。それも事実です。しかし、そこでわたしたち自身も自覚できることは、なるほどたしかに、パウロの言うように、昔と今とで全く同じというわけではないような気がする、ということです。

どこが違うのでしょうか。パウロが問題にしていることは、わたしたちが「罪に支配されている」かどうかです。「罪の奴隷」であるかどうかです。もはやわたしたちは罪の奴隷ではないのです。罪の支配の下から解放されているのです。言いなりではありません。引きずり回されていません。抵抗や拒否を始めています。罪との戦いが始まっているのです。

それは本当のことでしょうかと、また問いたくなります。わたしたちは、自分の姿をかえりみると、心もとなくなります。しかし、パウロは、そのようなわたしたちの心配を強く退けます。その言葉が今日お読みしました個所に記されています。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(14節)。

パウロが書いていることは、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれた者たちは罪の支配の下にはいないということです。その理由として「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」からだと書いています。

これだけでは分かりにくいかもしれません。もう少し分かりやすく言い直すなら、わたしたちの支配者が変わったのだ、ということです。昔は罪が支配者だったけれども、今はイエス・キリストが支配者であるということです。罪の力もたしかに強いけれども、イエス・キリストの救いの力は、もっと強い。だから、わたしたちは罪の力よりも強い力をもっておられるイエス・キリストの下にいるのだ、ということです。

話を難しくしているのは、罪の話と律法の話がからみあって出てくることです。律法とは、聖書の御言葉のことであり、明文化された神の戒めのことであると申しました。聖書の御言葉の支配の下にいるならば、罪の奴隷ではないのではないかと言いたくなります。しかし、パウロは人間の心の深い闇の中に、あえて立ち入ろうとしています。

「律法」という字は、法律という字を逆さまに書きなおしただけです。律法は法律です。法律の話であると考えれば、「法律には穴がある」ということにお気づきになるはずです。明文化されたルールには、必ず弱点があります。それは、そこに書かれていないことならば何をやってもよいと考える人が必ず出てくることです。あるいは、書かれていることを自分に都合よく解釈して抜け穴や抜け道を見つけようとする人が出てくることです。

しかし、パウロが問題にしていることはそれだけではありません。ある意味で最も恐ろしい弱点をパウロは見抜いています。それは、明文化されたルールとしての律法を、書かれている文字どおりに厳格に守り、神の御心を正しく忠実に守っているという確信をもっている人たちこそが陥る罠です。

それは、そういう人に限って、まるで自分自身が神であるかのように、人を裁きはじめることです。人の罪を赦すことができない。弱い人や間違った人を憎み、退け、呪ってしまう。それも罪なのです。最も厳格で正しく生きている人が、最も恐ろしい最も間違ったことをしてしまう。そのような激しい矛盾が起こってしまうのが、明文化された神の戒めとしての律法の落とし穴です。

そのことをパウロは考えています。だから、「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」と書いているのです。洗礼を受けてイエス・キリストに結ばれたわたしたちは、そういう罠や落とし穴からも解放されているのです。

パウロが書いている重要な言葉は、「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」(12節)です。わたしたちの支配者は変わったのです。今の支配者は、罪でもなく、律法でもなく、イエス・キリストです。

そういうことなのですから、わたしたちがいつまでも罪の下にとどまり続けることは、イエス・キリストに結ばれた者にふさわしくないのです。

わたしたちを誘惑する罪の力は強いものです。すぐに思い浮かぶのは、お金や異性関係など。そういうものの罠に陥らないように、気をつけましょう。

大切な自分の体を傷つけないでください。わたしたちの体は、義のための道具として神にささげることが求められているのです。

(2013年9月8日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年9月7日土曜日

敗戦処理投手は堂々たる戦力だ!

ぼく自身が敗戦処理投手だと書いたわけではないのですが

(におわせつつも)

当然のことながら「敗戦処理投手」は

「死に体」でも「レームダック」でもありませんからね。

「次の試合に勝つために主力投手を温存する」という

実に光栄なミッションのために出させていただけるという、

実に光栄なる非主力投手の仕事です。

それは「戦力外通知」であるどころか(冗談じゃない!)

堂々たる戦力です。

それは「王将」ではなく「歩兵」や「桂馬」の仕事かもしれませんけど、

盤の上には確実に乗っている存在です。

がんばれば主力投手になれるかどうかは、はっきり言って分かりません。

なれないんじゃないかな。

でも、「敗戦処理投手」なしには、長いペナントレースを乗り切ることはできないんだから、

やっぱり必要不可欠な貴重な存在なんです、

その意味での主力投手の影(シャドー)かもしれませんよね。

と、わけのわからんことを書いてケムに巻かせていただきます。

「逆境のときも」と教えてきたのは教会じゃないか!

神学にせよ哲学にせよ、思想なるものが

それを唱える人の生涯の営みと噛み合っていない場合は、

歯の浮くような話になるか、単にひたすら眠い話になる。

護教的な意図から書くのではないつもりであるが、

「順境のときも、逆境のときも」

とか

「健やかなときも、病むときも」

と教える教会に、純粋にほっとする。

敗戦処理投手だって、途中でマウンドを降りられない。

「黙って耐えろ」とは言えない。痛みと血には、ぼくも弱い。

「分かってくれとは言わないが~、そんなにおれが悪いのか」

と歌いたい気持ちも、まあ分かる。

だけどさ

「右肩上がりでなければ続ける意味ない」ことはないわけだし。

でも、ぼくらは死ぬために生きているという葉隠っぽい話も好きでない。

「死ぬために生きて」なんかないよ、ばかあ。

あ、でも

「生きるために死ぬ」というのも、なんかやめてほしい感じ。

どす黒い過去は明るい将来で上書き保存、できるかな。

完全に消去できなくてもね、

あと、毎日「痛た痛た」言いながらでも、

「神を呪って死ぬ方がましでしょ?」とか言われても

さほどキレずに穏やかでいる

ヨブたんのような(やめろその呼称)人でありたいかもしれない。

周りからは相当ビミョウな存在に見えるかもね。まあ、しゃあないよ。

敗戦処理投手は一人じゃないしね。

同じ状況にいる者だけに分かるプライドもあるよ。

たぶんね(自信なし、笑)。

2013年9月6日金曜日

昨夜、Facebookをやめた友達がいます

名前とか所属とかの詮索が始まるのは困りますけど、

昨夜、Facebookをやめた友達がいます。牧師です。

「楽しすぎるからやめる」(大意)という趣旨でした。

お引きとめする立場には無いし、気持ちも分かるので、

寂しさを紛らすために、古い歌を口ずさみました。

「さよならは別れの言葉じゃなくって~♪」(後略)

「楽しすぎるからやめる」というのは、

ぼくもほぼ同じ気持ちなので、

ぼちぼちですが、あとかたづけを始めようとしています。

ぶっちゃけますが、ぼく

Facebook始めた頃は、神学の仲間だけの狭い使い方をしてました。

2年前の震災から教団・教派を超えた連絡関係がどっと来て、

さらに選挙関係で中高時代の旧友との連絡関係が加わって、

あとは「友達の友達」に関心を寄せていただけたり、

ぼくの子どもと大差ないくらい若い世代の方ともつながったりして、

今日を迎えます。

たしかに「友達」は増えましたが、その増え方は、

なんだかタイムマシンで現在から過去へと戻るに似た感覚でした。

「旧悪」を暴かれる恐怖に怯えながら、ね(これは誇張)。

みなさん全員に喜んでもらえることばは、書けないですね。

これはギブアップ宣言をせざるをえない。

ある方々に喜んでもらいたいと思いながら書くと、

他の方々に怒られてしまう感じ。

ぼくが多重人格なのではないんですよ(汗)。

友達のグループ分けをすればいいとか、

ネットに書いてあるようなことはひととおり考えてみましたが、

どうも難しいですね。

前にうっかり手が滑ってグループ分けを失敗したら、

「私の所属は○○ではなく△△である」と抗議の連絡が来たりしました。

本人に通知が行くみたいですね。面倒に巻き込まれたくないです。