2013年8月26日月曜日

金銭の欲がすべての悪の根です

テモテへの手紙一6・6~10

「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」

いまお読みしましたこの個所に書かれていることは、かなりストレートな書き方でもありますので、疑問の余地がないと言いますか、読んで字のごとくそのままの意味でだれでも容易に理解することができるものだと思います。

しかしまた、別の言い方をすれば、身も蓋もないという感じがなくもない。強く批判的な態度を示すタイプの人たちにすれば、あまりにも言葉が露骨すぎて、いろいろな立場にある人たちへの配慮が足りないのではないかと言いたくなるようなことかもしれません。

しかしこれは、これまで何度も繰り返し申し上げてきたことですが、(いろんな解釈の可能性があることは存じておりますが)、この手紙はパウロからテモテに対してごく個人的に送られたものであるとみなして読むと、いちばん腑に落ちるものがあると、私は考えています。

彼らは教会の牧師であり、伝道者です。同じ仕事に就いている先輩と後輩の関係です。時間的順序からすれば、後輩が先輩の苦労を知っているということは通常ありません。しかし、先輩には後輩の苦労が分かります。

厳密に言えば一つ一つの苦労は内容が違いますし、状況や年代の違いがありますので、後輩の苦労のすべてが先輩には分かるわけではありません。先輩づらは禁物でしょう。

しかし、同じ仕事に就いている先輩と後輩の関係の中で先輩にできることがあるとすれば、それは、苦労している後輩のその苦労を理解し、受け容れること。そして、慰め、励ますことです。そういうことを、パウロがテモテにしているのです。

ここに書かれていることは、要するにお金の問題です。あるいは、生活の問題です。衣食住の問題であると言ってもよいでしょう。しかし、「住」の問題は、触れられてもいません。住むところなんてどうだっていい、と言わんばかりです。

しかもこれは、教会の牧師どうしの会話として書かれていることですから、これは間違いなく教会内部の話です。牧師の生活の話であり、はっきりいえば牧師が教会から受けとる給料の話です。こういうふうに言ってしまいますと本当に身も蓋もなくなってしまうものがあるのですが、そうであるとしか言いようがないことが書かれています。

その中にとにかくはっきり書かれていることは、「食べる物と着る物があれば、わたしたち(パウロとテモテ?)はそれで満足すべきです」(8節)ということです。

ここに書かれていることの意味は、「贅沢な食べ物と贅沢な着る物があれば、わたしたちは満足することができます」というようなことではありえません。そういうことではなく、とりあえず生きることができればそれで十分だ、というような話です。

パウロに限っては、贅沢なものを食べ、贅沢な服を着るなどということは考えたこともないようなこと、脳裏をかすめたことすらないようなことなのではないかと思うくらい、そういうものから無縁です。

そのことは、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。」(9節)と書かれていることからも分かります。

誤解がないように申し上げておきますが、この個所でパウロは金持ちになることが悪いと言っているのではありません。誘惑や罠や欲望に陥る、または陥りやすくなると言っているだけです。どんな誘惑にも罠にも欲望にも陥らない強靭な心をもっていると言える人であれば、その人はある意味で、お金持ちになっても構わないのです。

しかし、それほど強い人は存在しない、ということもパウロは考えているようでもあります。そして、そのことは、教会の牧師、伝道者も同じであるとパウロは考えています。

というか、そもそもパウロが書いていること自体は、教会の牧師、伝道者の話です。教会の牧師がお金持ちになろうとするということがあるとしたら、それは教会員の献金を当てにした話にならざるをえませんので、それが何を意味するのかということは、よく考えなくてはならないことです。

教会の献金によって教会の牧師、伝道者の生活が支えられていたのは、今に始まったことではありません。二千年前の教会から始まっていることです。そして、今日の個所に書かれていることを読むかぎりで分かることは、二千年前の教会から牧師の生活にはお金の苦労が伴うものだったらしい、ということです。

以前、朝の礼拝でお話ししたことがありますが、パウロはかつて結婚していた可能性があります。その根拠になる聖書個所があります。「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」(コリント一9・5)。

この個所にパウロが「私にも妻がいた」と書いているわけではありません。しかし、他の伝道者たちのように自分の妻を連れて歩く権利が、わたしたちにはないのか、と言っていることは間違いありませんので、古代教会以来の解釈として、パウロには過去に妻がいたが、伝道旅行に連れ歩くことになるのを避けて別れたのだ、というふうな理解の仕方があるのです。

実際それは、よく分かる話でもあるわけです。結婚すれば、子どもが生まれたり、家族が増えたりします。牧師一人の生活と活動ならば教会は支えることができる。しかし、家族は別であるという話になることもありえます。パウロにも人に言えない苦労があったのではないかと思うのです。

しかし、いま申し上げていることは、私が言っていることではありませんので、あしからず。今日の個所でパウロは何を言おうとしているのかを考えてみているだけです。

私自身は、結婚しました。子どももいます。そのことを悪かったと後悔したことは一度もありません。

私にとって家族はかけがえのない存在です。結婚や出産や子育てが「伝道」にとってマイナスだと考えたことは一度もありません。むしろプラスではないでしょうか。

それに、日本だけではないと思いますが、今の教会は牧師が結婚することや子どもがいることを、むしろ積極的に奨励する方向にあるのではないでしょうか。いつまでも独身のままの牧師がいると、「早く結婚しろ、結婚しろ」と周りから催促されるほどではないでしょうか。

お金の苦労だとか、結婚や子育ての苦労だとかいうのは、あまりにも人間くさすぎて、神に仕える者としてふさわしくないという話になるのでしょうか。そうかもしれません。

しかし、少なくとも、話のタネにはなります。町の人たちと仲良くなれます。「ああ、なんだ、我々と同じなんだ」と思ってもらえます。PTAの仲間に加えてもらえるチャンスもあります。教会の敷居を低く感じてもらえ、親しみを感じてもらえます。それも「伝道」ではないでしょうか。

そのように、私は自分に都合よく解釈しています。

(2013年8月25日、松戸小金原教会主日夕拝)

2013年8月25日日曜日

教会と国家の関係についての捉え方の違い

話を単純化しすぎかもしれませんが、

20世紀ドイツの(健全な)神学の課題が

「ナチス国家との対峙」にあったとすれば、

20世紀オランダの(健全な)神学の課題は

「ナチスの蹂躙からの自国の解放」にあったと、

ぼくはとらえてきました。

目標は同じであるようでもあり、

違うようでもあります。

20世紀オランダの(健全な)神学にあるのは、

「国家=悪」VS「教会=善」

という構図ではなく、

「国家にいくらか寄り添い、助ける教会」

という構図だと思います。

また話を単純化しすぎかもしれませんが、

そこにあるのは

「預言者的」というよりは「祭司的」な何かです。

「甘い!」とか「権力志向だ!」とか

批判されてしまうかもしれませんが、

「けんか腰では伝道はできない」と、ぼくは思うので、

その種の批判は、

理解できる面があることを十分に感じながらも

やや甘受する姿勢で

進んで行こうと考えています。

「甘くて」すみません。

2013年8月24日土曜日

夏休み、終了しました

えっと、ぼく

今日で夏休みが終わりました。

明日から通常モードに戻ります。

何もしなかったようでもありますが、

多くの収穫があった夏休みでした。

たったの一週間、

何も変わってないようでもありますが、

ぼく的には

過激に、飛躍的に、前進した

夏休みでした。

ありがとうございました。

2013年8月19日月曜日

夏期休暇中のご挨拶とお断りです

ネットつながりのお友達のみなさま

残暑お見舞い申し上げます。

立秋をすぎたとはいえ連日の猛暑の中、いかがおすごしでしょうか。

えっと、ぼくは今週(8月18日~24日)、夏期休暇中です。

本来なら、という言い方はおかしいかもしれませんが、

メールやブログやFacebookやTwitterも休むべきかもしれませんが、

まあ、ぼくの場合、メールもブログもFacebookもTwitterも

どこまでが仕事で、どこからは仕事でないかの区別が難しい状態ですので

閉じたり開いたりしています。

でも、これまた、ぼくの場合ですが、

メールやFacebookのメッセージに返信することや、

Facebookのお友達の書き込みやぼくの書き込みへのコメントへの返信に

「いいね!」を押すことについては、

毎回、細心の注意を払い、神経をすりへらしながら行なっていますので、

(身も心もガクガクブルブルふるわせながら、ポチッと)

これらに関しては、休ませていただくことになるかもしれません。

ですから、今週のぼくは、

どなたの書き込みにも「いいね!」を押さないかもしれませんし、

(押すかもしれません)

メールやFacebookのメッセージやコメントに返信しないかもしれませんが

(返信するかもしれません)

「あ、そーいえば、あいつは休暇中だったな」ということで、

お見逃しいただけますと幸いです。

パソコンそのものも、

スイッチを切っているかもしれませんし、

つけっぱなしかもしれません。

というわけで、

苦しい言い訳ばかりの「残暑お見舞い」になりましたが、

皆さまのご多幸をお祈り申し上げて、筆を擱きます。

それでは、また。

主の2013年8月19日

関口 康

2013年8月9日金曜日

「スマホ後の教会」はどうなるか

(IT!おまえはどこへ)久多良木氏「スマホ後の世界」(朝日新聞デジタル、2013年8月8日)

http://www.asahi.com/business/update/0807/TKY201308070342.html?ref=reca


興味深く読みました。後半も(無料で読めるところまで)読みました。

ぼくの関心はどうしても、「スマホ後の教会」はどうなるか、ということです。

教会に対するネットの「甚大な」影響が明白であることは、そろそろ認めましょう。

ネガティヴな面ばかりであるはずがない。十分に有効活用されています。

「仮想世界」とも、もはや言いがたい。

十分にリアルな言葉が取り交わされています。

一度も会ったことがなく、声を聞いたこともないのに、

お互いの性格や人柄をすでによく知り合ってもいると思う。

嫌なこともあり、致命的な対立に陥ることもあるけど、

顔と名前を出している以上、「絶交」は回避したいという心理も働く。

十分にリアルではありませんか。

ネットで伝道するつもりはないと、以前書きました。

しかし、Facebookに移行してからは、少し方向が変わってきました。

現実に人が教会を訪ねてくださるようになりました。

「メーリングリスト参加してます」

「メールマガジン購読してます」

「ブログ読みました」

を理由に教会に足を運んでくださる人は、ぼくには一人もいませんでしたが、

Facebookは違います。

「ホームページ見ました」

ということで教会に来てくださる方は多いですが、

地図や集会案内を調べるためにご覧になっただけです。

しかし、Facebookは違います。

めっちゃリアルです。

「信頼」のようなものを感じて、足を運んでくださる方が増えてきました。

「スマホ後の教会」、どうなるのでしょうか。将来が楽しみです。

「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました

「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました。

ファン・ルーラーが母校フローニンゲン大学で、

『ホモ・ルーデンス』のヨハン・ホイジンガ教授から(たぶん直接)「遊び」(spel)の概念を教えられ、

それを神学の中に持ち込もうとしたんです。

それをモルトマンやボーレンが、ファン・ルーラーから受け継いだ面があると、ぼくは見ています。

ぼく自身は、ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という言葉を著書や論文で多用するのを、

最初は面白がっていました。

しかし、それが「遊びの神学」だ「喜びの神学」だ、

それがファン・ルーラー神学の特質だ、みたいな取り上げられ方になっていくのが、

だんだん嫌になってきました。

そんなふうにファン・ルーラーをイロモノ扱いして、結局はファン・ルーラーを軽蔑している

そういう人たちの心の中身が透けて見えるような気がして、つまらなくなりました。

あとは、日本語の語感だけの話かもしれませんが、

「真剣に遊ぶ」とか「一生懸命遊ぶ」というのは、ありだとは思いますけど、

「真剣に」とか「一生懸命」とか言った時点で、

プレイしている本人自身は、心理的には「遊んで」ないですよね、日本人は。

「遊ぶこと」と「真剣であること」が対立・矛盾しているかのような言語体系の中に、

やっぱりぼくらは生きているような気がする。

あるいは、「遊んで暮らす」という言葉に代表されるように、

「遊ぶこと」は賃金労働に従事していない状態(だけ)を意味している場面も少なくない。

ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(講談社学術文庫)も読みました。

「遊び」という訳語が悪いのか、別の言葉で訳せば問題は解決するのかは分かりませんが、

「遊び」を軽蔑する人たち独特の冷たい視線というか、鼻で笑うあの感覚は、

笑われている側にははっきり分かります。

だから、「自分は笑われている」と、いったん看取した人は、過剰防衛を始めることにもなる。

ぼくだけの感覚かどうかは分かりませんが、

日本人が「遊び」を軽蔑してきた姿をよくあらわしているような気がするのは、

ほら、あれですよ、

映画「火垂るの墓」の清太と節子が、親戚のおばさんから言われたキッツイ言葉。

「お国のために働いてる人らの弁当と 一日中ブラブラしとるあんたらと なんでおんなじや思うの」というセリフ。

「一日中ブラブラしとるあんたら」というあのおばさんのセリフに、全くギクッとしなかった牧師がいるでしょうか。

福音とイデオロギー

ただ、つと最近悩ましく思っていること、ディレンマは、

改憲反対「運動」や反戦「運動」の人たちとの関わり方や距離感がつかめない、ということです。

その「運動」を継続していくためには、

(べつにぼくは悪い意味で使うのではないのですが)一定の「イデオロギー」の肩口から投げ出され、正確にピンポイントに同じ結論へと投げ込まれる、バッティングセンターのピッチングマシンさながらのような言説と行動が必要であり、それがその「運動」の特徴でもあり、売りでもあります。

ですが、教会が宣べ伝える「福音」は、そのような意味での「イデオロギー」とは全く異なるものであり、似ても似つかぬものです。

「福音」と「イデオロギー」の区別と関係について、我々は正確に把握できているでしょうか。そのへんが一緒くたになっていて、不毛な混乱を招いている面はないでしょうか。

ぼくは「運動」を否定しているわけではないし、非協力的であるつもりもありません。

ただ、「福音」の自由に生きようとすると(「福音」は、なんら金太郎飴ではありえません!)、特定の「イデオロギー」の人たちから、これまた一定の(ピッチングマシンのような)攻撃を受けるというのは、しんどいことです。

2013年8月8日木曜日

「忍耐」はやっぱり必要だぜ

負け惜しみだかなんだか分かりませんけど

経済的に豊かでないとか、生活が必ずしも安定しないとか、

いろんな点で追い詰められた状態にあるときは、

そういうときこそ、ぼくは、

なんだかものすごく真剣に物を考えているし、やたら饒舌になる、

というか、ぼくは口や舌はあんまりうまく動かないけど、

とにかくたくさん字を書きたくなるし、何かを告白し、訴えたくなる。

人によるとは思いますよ。苦労が、練達や希望につながらない人もいる。

それは、字にするとキツいけど、

苦労を持続する「忍耐」が欠けている状態なわけですよね、セオリーどおりで言えば。

でも、まあ、その苦労を忍耐している最中に

「プハア、うめえ」とか言いながら快適ライフを送ってるっぽい雰囲気の人たちの

冷たい視線とか感じると、心折れそうになりますよね。

ぼく自身は、どっちでもありうると思ってるんですよ、

「く、苦しい」って言っているときもあるし、

「プハア、うめえ」って言ってるときもある。

陰鬱な「禁欲主義」よりは快活な「快楽主義」のほうがましだとも思う。

辛気くさい顔して社会悪を裁き続けることをアリバイにしながら、

「おいおい、人のことを言えるようでもなさそうだぜ」

と思われてしまうような人間にだけはなりたくない。

だけど、「忍耐」はやっぱり必要だぜ。それができなければ成長はない。

ぼくがいつまで経っても成長できないのは、その「忍耐」が足りないからだけどね。

「デイリーヤマザキ松戸小金原店」を応援しちゃうぞ!

なかよしのイケメン店長アトウさん率いる

「デイリーヤマザキ松戸小金原店」

応援しちゃうぞ!企画

同店は、コンビニエンスストアです。

しかし、店内でパンを焼いて販売しています。

それがウマイ!ほっかほかです。

ぜひみなさん、

「デイリーヤマザキ松戸小金原店」

お立ち寄りくださいね。

ぼくはただの通りすがりの客なだけですけどね。

デイリーヤマザキ松戸小金原店 開店(2013年7月31日)

「千葉県松戸市小金原6丁目11−5」

で検索すれば、地図が出てくると思います。

Googleの地図は、まだ昔の

「スリーエフ松戸小金原店」のままですけどね。

店長は変わってませんからね。

昔ながらのイケメンのままですよ。

いらっしゃい、いらっしゃい\(^o^)/

イケメン店長 阿藤さん(左)

2013年8月7日水曜日

ゲオルク・ヴォッベルミン(1869年~1943年) ~ナチス政権に協力したドイツのプロテスタント神学者~


ゲオルク・ヴォッベルミン(Georg Wobbermin [1869-1943])は、高校卒業後、プロテスタント神学を学んだ。博士論文は組織神学部門に関するもので、神学博士号を取得した。1922年以来、ゲッティンゲン大学で組織神学の部門長を歴任した。

ヴォッベルミンは若い頃から国家主義的知識人だった。ナチス政権を最初から支持した。1933年11月にはドイツの大学教授によるアドルフ・ヒトラーとナチス国家に対する宣誓に署名し、ナチスの反ユダヤ主義を共有し、喧伝した。1939年には、ドイツ人の教会生活に対するユダヤ人の影響力の調査とその除去のために、アイゼナハ研究所に協力する意思をあらわした。

ヴォッベルミンの神学的構想(『宗教心理学的方法に基づく組織神学』第一巻1913年、第二巻1922年、第三巻1925年)は、宗教の心理学的解釈に基礎づけられていた。それによって彼はシュライアマハーの継承者であることを証明したが、ウィリアム・ジェームズの著『宗教体験の多様性』(そのドイツ語版)の影響も強く受けていた。それは宗教生活の心理と病理の資料および研究であった。(拙訳)

出典 Georg Wobbermin (Wikipedia)
http://de.wikipedia.org/wiki/Georg_Wobbermin