2013年7月21日日曜日

戒律ずくめでは息が苦しくなります

ローマの信徒への手紙4・13~17

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」

今日の個所でパウロが語っていることの要点は、人が救われるのは神を信じる信仰による、ということです。そして、そのような信仰による救いの模範を示したのが、わたしたち自身を含むすべての信仰者の父であるアブラハムである、ということです。

初めに申しておきたいことは、パウロあるいは聖書が「人が救われるのは神を信じる信仰による」ということを書いている場合の「信仰」の意味は「信頼」であるということです。その意味は「神を信頼すること」です。ですから、もしそのように言い換えるとしたら、「人が救われるのは神に対する信頼による」ということになるでしょう。

そして、その意味での「信頼」は、肩や体全体から力が抜けています。気楽ですし、のんびりしています。がんばって、気張って、一生懸命、熱心に、というようなことではありません。そのような力の入り方は「信頼」とは正反対の方向を向いています。

私ががんばって、がむしゃらに、猛烈に、食いついて、しがみついて、ではなく、神はいつも私と共にいてくださると安心していられるような関係。それが、パウロが「人が救われるのは神を信じることによる」という場合の「信じる」の意味です。それは「信頼」です。

このことを理解していただくためのたとえとして思い当たるのは、わたしたち人間の親子や夫婦の関係の中で求められる「信頼」です。そのことを考えていただけば、私の意図を理解していただけるのではないかと思います。

ぜひ実際の場面を想像してみていただきたいのです。たとえばの話ですが、子どもが親を信頼するとか、親が子どもを信頼する。そのことを口に出して言う場合に、「子どもが親を熱心に信頼する」とか「親が子どもを一生懸命信頼する」と言うのは、どう考えてもおかしいわけです。

夫婦の関係についても同じです。「夫が妻を熱心に信頼する」とか「妻が夫を一生懸命信頼する」とか言うのは、明らかにおかしい言い方です。

なぜおかしいのでしょうか。そのような場面で「熱心に」とか「一生懸命」とか言えば言うほど、その関係は危機的な状況にあるということを強調しているかのように響いてしまうからです。実は全く信頼しあえない関係になっている。不信感が募るばかりである。それなのに無理やり信頼している。だから「熱心に」信頼するとか、「一生懸命」信頼するとか言っているかのようです。

神と人間との関係について語る場合も同じことが当てはまります。わたしたちは「熱心に信じる」とか「一生懸命信じる」とかいう言葉を必ず使わなければならないかのように、どこかで思いこんでしまっているかもしれません。しかし、考えてみれば、そのようなことを言えば言うほど、かえっておかしいのです。神と人間の関係はそのようなものではありません。握りこぶしも力こぶも要らないのです。

これはよく用いられる比喩なのですが、人間を動物にたとえるのは嫌かもしれませんが、神と人間の関係は猿の親子ではなく、猫の親子であると言われます。猿の子どもは、親猿にしがみつきます。しかし、猫の場合は、親猫が子猫の首根っこをくわえて運びます。猫の子どもはぶらさがっているだけです。パウロが書いている「信仰」とは、そのようなことです。肩からも、体全体からも、力が抜けているのです。

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」(13節)とあります。「その約束は律法に基づいてではない」とあるのは、もう少し噛み砕いておく必要があるでしょう。

パウロが書いていることは、神とアブラハム、また神とアブラハムの子孫との間に交わされた約束は、もしアブラハムたちが律法を完璧に守るならば、彼らに世界を受け継がせることにする。しかし、もしそうでないならば、彼らに世界を受け継がせることはしない、という約束ではないということです。律法を完璧に守るかどうかは、その約束を履行するかどうかの条件ではない、ということです。

なぜそれが条件ではないのでしょうか。その答えははっきりしています。そのような条件は、だれもクリアすることができないからです。律法を完璧に守ることができる人は、誰一人いないのです。ですから、完璧な人間でなければ世界を受け継ぐことができないというならば、世界を受け継ぐことができる人は誰もいないと言っているのと同じなのです。

世界を受け継ぐ人がだれもいないとしたら、人間は世界の外に出ていかなければならないと言っているのと同じことになります。しかし、わたしたちは世界の外に出ていくことはできません。それは死ぬことを意味しています。神はわたしたちが死ぬことを望んでおられません。生きることを望んでおられます。わたしたち人間は、だれひとり律法を完璧に守ることはできません。それでも生きろと、神がわたしたちにおっしゃっているとしたら、わたしたちが律法を完璧に守れるかどうかを神は問わないとおっしゃっているのと同じことになるのです。

人間が守ることもできないような律法を、神はなぜ人間に対して教えようとなさるのでしょうか。この問いに対する答えについてお話しする時間はありませんが、ハイデルベルク信仰問答(問115の答え)に書かれていますので、ぜひご参照ください。

「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります」(14節)とパウロは続けています。この「律法に頼る者」とは、自分は律法を完璧に守ることができると思いこんでいる人のことです。実際には不可能なのに、可能であると言い張っている人です。あるいは、実際にはいろんな面で律法を守れていないのに、私は守っている、だれからも、神からも責められたりとがめられたりする筋合いにはないと言い張っている人です。

そのような人が世界を受け継ぐのであれば、なるほど信仰は無意味です。できないことを「できます」と言い張り、できていないことを「できています」と言い張る人がいれば、うそをついているか、勘違いしているか、そのどちらかです。そのようなデタラメが通用するなら、信仰は要らない。パウロはそう言っているのです。

「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」(16節)と話は続いています。これがパウロの結論であり、聖書の結論です。ぜひご理解いただきたいのは、この結論はわたしたちの慰めになるということです。なぜ慰めでしょうか。神はわたしたちに、できもしないことを無理やり押しつけられるようなお方ではないということを、わたしたちが百パーセント信じることが許されているということを意味しているからです。

戒律ずくめでは息が苦しくなります。できないことを押しつけられて、できないと罵られ、貶され、見捨てられる。もし神がそういうお方だとしたら、わたしたちの心は決して休まることも安らぐこともありません。そういうのはブラック会社と同じです。しかし、神はブラックなお方ではありません。失敗を許してくださる、完璧さなどはお求めにならない、心の広い寛大なお方なのです。

わたしたちは完璧でなければいけないのでしょうか。一番でなければダメでしょうか。なぜ二番ではいけないでしょうか。そもそもわたしたちは、どんなことでも勝ち負けを決めなくてはならないのでしょうか。競争しなければ気が済まない、競争に勝たなければ気が済まない。そのようにどんどん自分を追い込んで、追い詰めて生きていくことは、つらいでしょうに。

なんでもかんでも勝負事として考えようとする人たちがいます。勝ったときは狂喜乱舞かもしれませんが、負けたら地獄です。まだ若くて元気なときはそれでもよいかもしれません。しかし、肉体的にも精神的にも衰えていく。勝つことはほとんどなく、来る日も来る日も負け続きになる。そうすると、どんどん気持ちが萎えてきて憂うつな日々を過ごさざるをえなくなる。わたしたちの心に喜びも平安も無くなってしまいます。

パウロは続けます。「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」(17節)。

ここで言われている「死者に命を与える」というのは「死者の復活」の意味にもなりますが、旧約聖書の創世記に書かれている、粘土をこねて人間の形にこしらえたその鼻の中に神が息を吹き入れてくださると、その粘土が人間になったというあの話を思い起こさせる言葉でもあります。

問題は、創世記に書かれていることをわたしたちがどのように理解し、受け容れるかです。人間は永遠に存在してきたわけではなく、人間が最初に生み出された瞬間がある。その人間に最初の命を与えてくださったのは神である。そのようなことを聖書は語ろうとしているのです。

「存在しないものを呼び出して存在させる」とは天地創造のことです。わたしたちの神は、そのようなことをなさった偉大な力をお持ちの方です。そもそもわたしたちは元々は存在しませんでした。私は47年前には存在しませんでした。70年、80年生きられた方でも、70年前、80年前は存在しませんでした。わたしたちはまるで、自分が存在しなかったことはいまだかつてなかったかのように思い込んでいるかもしれませんが、それは錯覚です。

わたしたちの命は、わたしたちが一生懸命がんばった結果として与えられたものではありません。わたしたちが努力したから、わたしたちが生まれたわけではありません。それと同様、わたしたちの努力の結果としてわたしたちが救われるというなら、神の恵みは要りません。神は要らないのです。

しかし、そういう話になっていくのは、そもそもの前提が間違っているからです。わたしたちの命も、人生も、そして救いも、すべて神からいただいたものなのです。わたしたちにそれを、感謝して受けとればよいのです。

(2013年7月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

死力を尽くして一票を投じるぞ


あ、でも、選挙の前に腹ごしらえだ。

腹が減ってはいくさができぬ。

死力を尽くして一票を投じるぞ。

待ってろよ、投票所。

「不愉快な」投票所にそろそろ行くか


もうずいぶん古い本になってしまった。

選挙のたびに読み返したくなるのは、筑紫哲也編『〈政治参加〉する7つの方法』(講談社現代新書、2001年)だ。

一冊まるまる読み返すわけではない。本書の編者である筑紫さん自身が書いた「プロローグ」の中の、わずか数行の文章を見に行くだけだ。そこにはこう書いている。

「一言で言えば、これ〔=民主主義。ー関口〕は『不愉快な制度』なのである。教育水準が上がり、個人として行動する自由が拡がり、自我が育っていけばいくほど、その自分が投票所に出かけていくと他の有象無象(と、それぞれの「自分」には思える)と同様に『ただの一票』にすぎない、という“屈辱”を覚悟しなくてはならない。しかも、その『一票』は、何十万、何百万もの票の中の一滴でしかない、という自分の『小さな存在』を思い知らされる機会でもある...」(20ページ)。

おお、もう12年前になるのか。本書が発売されてすぐに買い、冒頭の「プロローグ」のこの文章に首肯せざるをえなかった。

「そんなこと知ってらあ」と思わず叫びたくなる、このわたしという存在の耐えられない軽さを否が応でも思い知らされる、不愉快極まりない場所、それが「投票所」ということか。

あー、不愉快だ、不愉快だ。そろそろ選挙いこ。

2013年7月19日金曜日

だれも尊敬しない・されない社会なんでしょうかね、今の日本て

ついさっき、Twitterで

「日本では政治家がバカにされすぎ」とか

「ネガキャンばかりだと若者が選挙に行かなくなるのも当然だと思える」とか

そんな書き込みを見て、そのとおりだよねと納得しているところです。

でも、じゃあ、日本ではだれが尊敬されるんでしょうか。

宗教関係者でないことだけは確実ですが、じゃあだれ?

テレビに出る人?資産家?CEO?社長?会長?オリンピック出た人?

あ、やっぱりお医者さんですかね。痛いのをたちどころに治してくれるスーパーマン。

あ、だけど、「のどもと過ぎれば熱さ忘るる」って言うくらいですから

お医者さんを尊敬したくなるのは、痛いのを治してもらった直後だけかも、とかね。

やっぱり学校の先生ですかね。有名な大学の。さっぱり分かりません。

だれも尊敬しない・されない社会なんでしょうかね、今の日本て。

それって戦前日本の「反動」のような気がしますが、

ずいぶん長期の反動ですよね。「は~~~~~ん、ど~~~~~」ってくらい長い。

嫉妬と足の引っ張り合いばっかりの、低空飛行社会ですかね。

まあ、それもいいかもしれませんね。

ぼくが尊敬しているのは妻です(対外向けコメント)。

明日は臨時中会です。今日中に終わらせられることを終わらせたくて朝から必死です。

2013年7月17日水曜日

まさか「自民党には票を入れるな」と幹事長が公の場で言うはずはないと思うのですが



彼をかばう気持ちとかは無いです。

しかし、「逆説的な」発言ではないだろうかという気がしてならないのです。

ごく普通の日本人(ぼくもです)なら誰でも反発するに違いないことを言ったわけです。

そんなことは、言った本人自身が誰よりもよく分かっているはずです。

「軍法会議」だ「死刑」だと、国民感情を意図的に逆なでしているとしか思えない発言は、

自民党にとっては、一種の自爆テロに近い結果になるのではないでしょうか。

国民感情を敵に回して票をとれるほど選挙は甘くないことくらい、

何十年この国の与党をしてこられたのかという(なんかそのこと、もう忘れられてますよね、笑)

老舗政党が、

分かっていないはずはありえない。

それを、あえて、明らかに意図的に、やっちゃったわけです。

まさか「自民党には票を入れるな」と幹事長が公の場で言うはずはないとは思うのですが、

なにかしら秘められたメッセージがあるのではないでしょうか。

石破さんは愚鈍で軽率な人ではないので(それはよく知られていることです)、

何事か死ぬほど考え抜いた結果の発言であることは間違いないとは思うのですが。

ぼくの考えすぎでしょうか。

ちょっと気になっているのは、

彼の発言を「キリスト教的ではない」と評価しておられる複数の方々の意見です。

もちろんぼくも、結論は全く同じと言ってよいほどですが、

その結論に至るプロセスの点で、もうちょっとだけ様子を見てみたい気がするのです。

ぼくは、石破さんは良い意味で「論理の人」だと思っています。

支離滅裂の人や、ワンフレーズ・ポリティックスの人や、付和雷同・風見鶏の人よりは、

はるかに「信頼」できると思っています。

それは、突然襲い掛かってくるモンスターにはなりそうにない、という意味での「信頼」です。


2013年7月14日日曜日

慰めの声こそ旅路ゆく人の力


ローマの信徒への手紙8・31~39

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

おはようございます。松戸小金原教会の関口です。今日は東関東中会講壇交換です。稲毛海岸教会の朝の礼拝で説教させていただくのは、10年ぶりくらいです。どうかよろしくお願いいたします。

今日開いていただきました聖書の個所は、ローマの信徒への手紙の8章が終わる直前の部分です。文脈がある話ですので、この部分を正しく理解するためには、ローマの信徒への手紙の1章から8章までについて解説する必要があるかもしれませんが、時間の関係で割愛します。しかし、ある程度大づかみのことは申し上げておきたいと思います。

この手紙にパウロがとにかく書いていることは、御子イエス・キリストにおいて父なる神の御心が明らかにされたということです。イエス・キリストを信じるすべての人に神の救いの恵みが与えられ、罪赦され、けがれをきよめられ、永遠の命が与えられます。その人は罪の中から救い出され、新しい人生を始めます。全く自由に生きられるようになります。

しかし、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われ、洗礼を受けても、罪を犯し続けます。大きな罪、小さな罪を犯します。人間は弱い存在です。そのことをパウロは知っています。そして、その弱いわたしたちを助けてくださるのは「聖霊」であるということを直前の個所で教えています。

「聖霊」について聖書はどのようなことを教えているでしょうか。聖霊は、わたしたちの存在の内側に「注ぎ込まれる」方であると言われます。またわたしたちの内部に「住みこんでくださる」方でもあります。そして、聖霊はわたしたちにとって端的に「神」です。父・子・聖霊なる三位一体の神です。

ですから、わたしたちは次のように語ることができます。

わたしたちは「神に祈る」と言いますが、どこに向かって祈るのでしょうか。父なる神のイメージは、天地万物の創造者です。天地万物よりも巨大で、なおかつ宇宙の果てに住んでおられる存在ではないかと思えます。そうすると、宇宙の果てまで届くほど大きな声で祈らなければならないような気がしてきます。

イエス・キリストのイメージも同じです。十字架につけられた方が三日目によみがえられて、その四十日後に天に昇られました。イエス・キリストはどこに行かれたのでしょうか。天の父なる神の右に座っておられると告白します。父なる神と同じ場所におられるなら、やはり宇宙の果てに住んでおられる存在ではないかと思えます。ですから、祈るときは宇宙の果てに届くほど大きな声で祈らなければならないような気がします。

しかし、聖霊なる神は違います。聖霊はこのわたし、そこのあなた、わたしたち一人一人の心と体の中に住んでおられるのです。そして、わたしたちの中に住んでおられるこの聖霊が、端的に「神」なのです。ですから、わたしたちはその神に祈るときは大きな声で祈らなくてもよいのです。むしろ小さな声で、ひそひそ声で、自分の胸に言い聞かせるように祈ってもよいのです。

わたしたちの中に住んでおられるその聖霊なる神が「弱いわたしたちを助けてくださる」(26節)とパウロは書いています。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)と続けています。

わたしたちは、自分のこと、個人的なことで苦しみます。家族のことで苦しみます。会社のことや社会のことで苦しみます。そして教会のことで苦しみます。「これからわたしたちの教会はどうなっていくのだろうか」と考えるだけで不安になります。心配になります。涙が出てくることもあります。そのようなとき、わたしたちは「どう祈るべきか」が分からなくなります。

そのような場面で、聖霊なる神御がわたしたちの中で「言葉に表せないうめき」を発してくださるというのです。まるで神が絶句なさっているかのように。まるで神が理路整然とした言葉を語れなくなってしまわれたかのように。

「絶句する神」というのは、理屈の上では明らかにおかしい話です。しかし、わたしたちの神は、そのような方です。わたしたちの神は、悩み苦しみ、深く傷ついている人たちの前で、一方的な正論を押しつけがましく語り続けるような方ではありません。わたしたちが絶句しているときには、神も絶句してくださるのです。わたしたちが泣き叫んでいるときは、神は黙って見守ってくださるのです。

そのような方のことをパウロは「わたしたちの味方」(31節)と呼んでいます。次のように書かれています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか」(31~32節)。

「敵」だ「味方」だという字を見ますと、わたしたちはつい争いや戦争の場面を思い起こします。なんとなく物騒でキナ臭い様子を思い浮かべてしまいます。しかし、パウロが言おうとしていることは、戦いの状況に関することだけではありません。戦時だけではなく平時の状況でも当てはまることです。

パウロが言いたいことは、とにかく神はわたしたちの側に立ってくださる方であるということです。ただし、イエス・キリストによる贖いのみわざは必要です。イエス・キリストを通してわたしたちは神と和解していただいた関係にあります。神と人間とを仲保してくださるイエス・キリストを信じる信仰があるからこそ、神がわたしたちの側に立ってくださることを信じることができる、という事情でもあります。しかし、そのことを踏まえたうえで、とにかく神はわたしたちの側に立ってくださり、わたしたちの味方でいてくださるということをパウロは強く語っています。

そのときに、「だれがわたしたちの敵でありえようか」と続けています。「もし~ならば、だれが~でありえようか」とたしかにパウロは言っていますが、仮定の話をしたいわけではありません。敵はいない、いるわけがない、と言っているのです。我々は無敵だと言いたいだけです。

そういうことを言いますとすぐに批判が出てきます。「わたしたちは無敵だ」などと言い張るパウロは傲慢だとか、クリスチャンは傲慢だとか。すぐにそういう話にされてしまいます。しかしパウロはそういうことを言いたいではありません。

パウロの言いたいことは、35節以下に端的に語られています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」そのどれでもないとパウロは言いたいのです。キリストの愛からわたしたちを引き離すことができる力は何もありません、と言いたいのです。わたしたちが「キリストの愛から」離れることはありえません。いえいえ、わたしたちは「キリストから」離れることはないのです。

38節以下にも同じ趣旨の言葉が出てきます。「いかなるものも、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(39節)と言っています。どんなことがあっても、わたしたちが神の愛から離れることはありえないと、言っているだけです。離れないのは「神の愛から」でもありますが、それは「神から」離れないと言っているのと同じです。

しかしまた、神の側からのアクションの価値だけを認めて、人間のアクションの価値は認めないということでなくてもよいと思います。信じるのは、わたしたちです。どんな迫害があっても、信仰を捨てることはありえないのです。

そのように言えるのは、パウロが強いからではありませんし、傲慢だからではありません。そうではなくて、パウロは、神によって助けていただかなければならないほどに自分の弱さを自覚していました。パウロは弱いからこそ信仰を捨てることはありえないのです。

神が共にいてくださる、これこそがわたしたちの慰めです。いろんな苦しみの中にあっても、神は傍らにいてくださいます。共に苦しんでくださいます。共に悩んでくださいます。このことがわたしたちの慰めです。

もし神が、わたしたちががんばった分だけ支払ってくださるというお方であるならば、わたしたちは神に雇われた賃金労働者です。もしわたしたちの働きが無くなれば、即刻わたしたちは解雇です。しかし、もしそうだとしたら、わたしたちには慰めがありません。なぜなら、わたしたちは、遅かれ早かれ、働きがなくなるからです。

いつまでも元気でいられると思わないほうがいいのです。私は若い若いと言われます。47歳ですが、最近目が悪くなりました。昔はよく見えていた目が、最近は見えにくくなりました。わたしたちの体は確実に衰えます。みなさんを脅しているのではありません。事実を申し上げているだけです。

わたしたちの働きが無くなるときは必ず来ます。しかし、「働きが無くても、(わたしたちの)信仰を義と認めてくださる神」がわたしたちと一緒にいてくださることが、わたしたちの慰めなのです。

皆さんにとって、教会はどのような存在でしょうか。牧師はどうでしょうか。

金銀財宝がザクザクあふれていて、困った人がいればお金をさっと出して助けてくれるような教会のほうが信頼できるでしょうか。

牧師がムキムキマッチョで怪力のスーパーマンのような人であれば信頼してもらえるでしょうか。

私は違うと思います。むしろわたしたちは、わたしたち自身が怪力のスーパーマンではないということに感謝すべきなのです。

教会の強さ、牧師の強さは、自分がいかに弱いかを知っていること、どれほどまでに神の助け、救い主の助けが必要であるかを自覚し、信頼しているかにかかっているのです。

わたしたちと共にいてくださる神は、わたしたちの弱さをよくご存じです。わたしたちが弱いからこそ、助けてくださり、かばってくださいます。

その方をこれからも信頼し続けていこうではありませんか。

(2013年7月14日、稲毛海岸教会主日礼拝)

2013年7月13日土曜日

白熱教室!

去る2013年7月4日(木)、立教大学(池袋キャンパス)全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」でのゲスト講義の第二回目の写真を公開させていただきます。

二回の講義を通じてのテーマは、「現代プロテスタント神学の一断面 カール・バルトの神学をどう乗り越えるか」でした。学生さんたちは熱心に聴いてくださいました。ありがとうございました。

当日配布した資料はここにあります。→ レジュメ  付録

大学だけでなく、小学校でも中学校でも高校でも、日曜日以外なら、どこでも行きます。

ぜひぼくを使ってください!よろしくお願いいたします。(怒涛の売り込み)

講義開始前。真面目で熱心な学生さんたちでした
やっと講義が始まりました
なにやら「神学」について話しているようです
おや?笑ってますね、余裕でしょうか(それはないです)
90分は短くもあり、長くもあり。大学の先生たちを尊敬します!
終了後、鈴木昇司先生と。ありがとうございました!
カメラマンは畏友・山本信太郎先生(神奈川大学)。ありがと!



いいぞ、半沢直樹!


「半沢直樹」の第一話。ぼくも見ました。

小説は読んでなくて(たぶん読まないと思う)、初回を見ただけの印象ですが

徒党を組まず、なにも持たず、

単身で敵地に乗り込み、タイマン張りに行くあの感じが痛快ですね。

自分の立場や所属ばかりが気になり、

自ら率先して「口封じ」に応じ、

かつ「口封じ」の片棒を担ぎ、

やがてはその親玉になる。

くっだらねえですよね、そういうの。

そういうんじゃない人を時代が求めているんじゃないでしょうか。

まだ続き、見てませんけどね。ゼンゼン違う方向に進んで行ったりして。

2013年7月12日金曜日

車載CD一覧


ぼくが車の中で聴いている音楽は、こんな感じ。

オムニバス「70’s ディスコ・ヒッツ」
(君の瞳に恋してる、スカイハイ、ジンギスカン...)
スペクトラム「スペクトラム伝説」
倉木麻衣「Wish You The Best」
中島美嘉「NANA」
コブクロ「MUSICMANSHIP」
コブクロ「NAMELESS WORLD」

なかなか新しいものが加わらないのですが、

同じ曲を何百回も聴きこんで来ましたので、

イントロバトル番組に出られるレベルです(笑)

日本にキリスト教主義政党があれば「妥協という言葉は使うべきではない」とストレートに語ることができる

一昨日(2013年7月10日)の記事でぼくが、パネンベルクのトレルチ論まで持ち出して、

「妥協」(Kompromiss)という言葉を、神学的なコンテクストでポジティヴな意味で用いてよいかどうかについて書いたのは、

否定的な意見があることを重々承知しつつの問題提起でした。

これは教義の問題でもありますが、それ以上に生理的嫌悪感を表明する人が出てくる問題になりうることも承知しています。

しかし、現実には「妥協」は避けられないし、打ち消しがたいと言わざるをえない面もあります。

ところが、教会に行くと生理的嫌悪感をもって退けられる。

そうすると、どうなるか。それで教会を去る人もいると思いますが、教会に残る人もいる。

「妥協」は公言すると生理的に嫌悪される。百歩譲ってもらえて「語ることはやむをえなくても、その場合はネガティヴな意味でのみ語れ」と言われる。

そうすると、どうなるか。教会の中で妥協が「地下に潜る」と思うんです。

教会の闇の部分(というのがもしあるとしたら)に「妥協」が隠れる。

「妥協」を禁じれば、教会は、より胡散臭い団体になり下がる可能性が出てくるのではないかと、ぼくには思えるのです。

ぼく自身も、「妥協」の無際限な肯定を推奨ないし是認すべきであると言いたいわけではありません。

「寸分の妥協も許さない」というのは、モットーやスローガンとしては成り立ちえますし、好ましいことでさえあると思える。

しかし、現実には、パーフェクトには不可能。

だとしたら、「妥協」の事実を公開し、公の目で監視・管理すべきではないだろうかと、そういうことを考えているだけです。

「正々堂々と妥協する」というのは、言い方としては明らかにおかしいわけですが、

しかし、これは宗教と政治の関係、教会と国家の関係といったコンテクストの話として、理解してもらう必要があります。

日本の教会が自前のキリスト教主義政党を持っていない以上、

たとえばの話、どこかの政党と「(妥協的に)協力」しなければならない場合が、あるかもしれません。

ドイツのように、キリスト教主義政党があれば、

パネンベルクのように「妥協という言葉は使うべきではない」とストレートに言いうる、かもしれない。

だけど、日本にはそれがない。

「宗教」の団体である教会が「宗教の倫理」としてのキリスト教倫理を政策的に実現するために、

政党は不要であるという理屈が成り立ちうるか。ぼくには「否」と思える。

しかし、我々のパートナーは、自民党なのか、公明党なのか、社民党なのか、みんなの党なのか、共産党なのか、もろもろの党なのか。

政党の支持は各個人の事項なのだから、いかなる意味でも教会は教会員に「呼びかけ」をしてはならない、という話になるのか、ならないのか。

こういう感じの問題群にかかわる問題提起のつもりです。

「胡散臭く」はないと思いますが、「キナ臭く」はなるかもしれません。