2013年7月9日火曜日

ただ積んでおいただけの本を、これから読む



自慢する思いなどは持っていませんが

ぼくはもう何年になるのか分からないくらい、キリスト教書店に足を運んでいません。

最近の様子が全く分かりません。

それでも全く不自由していないので、それはそれで問題だと認識しています。

その昔に買った本ばかりを読んでいます。20年前とかに買ったものです。

当時はほとんど読む力がなく、ただ積んでおいただけの本を、これから読む。

そういう感じでしょうか。

本て、ある年齢に達するとか、ある経験を経なければ、決して理解できないものって、ありません?

逆に言えば、それを経験した瞬間に、それまで理解できなかったことが急に理解できるようになる、とか。

なんか、いま、ぼくそういう時期なんだと思います。

やっと著者たちと同じくらいの年齢になった、とでも言うのでしょうか。

偉い人と自分を並べて言うのはおこがましいかぎりですが、

今のぼくが47歳ですが、昨年46歳になったときに友人の牧師から

「カール・バルトが『教会教義学』を書き始めた年齢になられたのですね」

とか言われて、どっきりしました。

だからナニと言いたいのではありませんが(ぼくには本は書けません)、

その年齢に達して、やっと「ああそういうことか」と分かるようになった部分が、

たしかにあると言えば、ある。

「新しい本を買って情報をアップデートする」というのとは違うと思うのですが、

「これまで読めなかった本が少しは読めるようになった」というのは、

結局これまでは本を持っていても理解できていなかったということ以外に意味しえないわけだから、

新たに本屋に行くのと大差ないんですよね、実は。

でも、今日は、ダメダメ状態です。

午前中からずっと、パネンベルクの『キリスト教社会倫理』(聖学院大学出版会、1992年)の

「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」という論文を久しぶりに読んでいるのですが、

(トレルチの倫理はぼくの修士論文のテーマでした)

アタマに入ってこないというか、思考停止の感じです。

気が散ってるのかな。きっとそうだな(にがわらい)。

2013年7月7日日曜日

努力や業績の追求では救われません


ローマの信徒への手紙4・1~12

「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」

いまお読みしました個所には、先週までの個所に書かれていることとは“ちょうど正反対”のことが書かれています。そのように申し上げることができます。先週までの個所に書かれていたことは、ユダヤ人と異邦人の違いはどこにあるのか、ということでした。しかし、今日の個所に書かれていることは、その反対です。ユダヤ人と異邦人の共通点はどこにあるのかという問題です。そういう言葉や問いそのものが直接出てくるわけではありませんが、内容をよく考えてみれば、なるほどそういうことが書かれているということを、きっとお分かりいただけると思います。

何度も繰り返して申し上げてきたことですが、また繰り返しておきます。この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と書いているとき、その意味は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人のことであると考えることができます。彼らが幼い頃からそのような教育を受けることができるのは、彼らの親や先祖が同じ信仰を受け継いできたからです。つまり、彼らは先祖代々の信仰者です。

それに対して、パウロが「異邦人」と書いているとき、その意味はユダヤ人とは異なる、ユダヤ人とは反対のタイプの人のことです。それは、幼い頃は聖書や教会に触れる機会がなく、聖書に基づく宗教教育とは無縁の生活を送ってこられたような、そういう人のことです。異邦人の信仰は、先祖代々受け継がれてきた信仰ではなく、その人自身が家族の中ではいちばん最初に与えられた信仰です。

どちらがいいとか悪いとか、どちらが上だとか下だとか、パウロ自身はそんなことを言いたいのではありません。全く違います。それどころかパウロは、両者の違いを明らかにしたうえで両者の共通点を指摘します。それは両方とも罪人であるという共通点です。どちらも罪深いと言っているのですから、ユダヤ人のほうが上だという話であるはずがないのです。神の前ではどちらも罪深いのです。

これで分かることは、どんなに幼い頃からそのような教育を受けていようとも、先祖代々の信仰を受け継いでいようとも、だからと言ってその人には罪がないということは言えないとパウロは考えていたということです。いま私は、教育には効果がないという話をしようとしているのではありません。そうではなく、教育という方法によっては、誰か一人でも、完璧に罪がない、人生で一度も罪を犯すことがありえない、そのような人間を生み出すことは不可能であるという話をしているのです。

しかし、両者の共通点はいま申し上げていることだけではありません。どちらも罪人であるということだけが共通点であるわけではありません。もう一つの共通点があります。それが、今日の個所に書かれていることです。それは、先祖代々の信仰を受け継いできたユダヤ人といえども、彼ら自身の信仰の歴史をいちばん最初までさかのぼれば、信仰を与えられた最初の人は事実上異邦人と同じ状態であった、ということです。

ユダヤ人の信仰の歴史の出発点はアブラハムです。アブラハムは先祖代々の信仰を受け継いだわけではなく、いわば彼が家族の中では初めて真の神を信じる信仰を与えられました。「『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』と書いてあるとおりです」(3節)とパウロが書いています。

アブラハムは、生後まもなく割礼を受けた人ではなく、成人してから割礼を受けた人です。それが意味することは、アブラハムにも割礼を受けていなかったときがあるということです。しかしだからといって、割礼を受けていなかった頃のアブラハムはまだユダヤ人ではなかったということにはなりません。かなり理屈っぽく聞こえてしまう話かもしれませんが、ここでパウロが言っていることは、アブラハムには「割礼を受けていないユダヤ人」だったころと、「割礼を受けたユダヤ人」だった頃とがある、というふうに、彼の人生は二つに分けることができるものである、ということです。

まさにこの点、つまりアブラハムという存在が、過去においては「割礼を受けていないユダヤ人」でもあったというその歴史的事実が、ユダヤ人と異邦人のもう一つの共通点であると言えます。このことを突き詰めて言えば、割礼を受けているかどうかという点こそが、その人がユダヤ人であるか、それとも異邦人であるかということを区別するための唯一の印であると考えることは、必ずしも正確な理解であるとは言えないということになります。そのように言える根拠は、信仰の父アブラハムの人生の中にも「割礼を受けていないユダヤ人」だった頃がある、ということです。

それで、今日の個所でパウロが問題にしていることは、アブラハムが神の義を与えられ、神の救いの恵みによって救われたのは、「割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか」(10節)ということです。

この順序は重要です。アブラハムは割礼を受けたから救われたという順序であれば、割礼を受けることは人が救われるための条件であるということになります。しかし実際の順序はそれとは逆でした。アブラハムは神を信じました。だから彼は救われました。そして彼は救われた後に割礼を受けました。つまり、割礼を受けることは人が救われるための条件ではない、ということをアブラハム自身が証明したのだ、ということをパウロは言いたいのです。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」(11節)とパウロが書いているとおりです。

そして、パウロはこのことを異邦人の救いという問題に当てはめています。異邦人は割礼を受けていません。しかし、彼らは割礼を受けなくても、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって神の義を与えられて、救われるのです。なぜなら、割礼は人が救われるための条件ではないからです。

そしてパウロは、まさにそのことを根拠にして、割礼を受けないまま信仰によって救われた異邦人は、アブラハムのように、あるいはユダヤ人のように、自分が救われたことの証しとして、救われた後に割礼の印を受けるということは、もはやしなくてもよいと主張しました。パウロが主張したのは、人が救われることにとっての条件ではない割礼を、まだそれを受けていない人々があえて受ける必要はないということでした。

ですから、パウロにとっては、ユダヤ人と異邦人の違いは、割礼を受けているかどうかにあるのではない、ということになります。アブラハムとは、ユダヤ人にとっての信仰の父であるだけではなく、異邦人にとっての信仰の父でもあるということになります。いま申し上げたことはパウロが次のように書いているとおりです。「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」(11節)。

だいぶ理屈っぽい話になっているかもしれません。しかしこれは、わたしたちにとって重要な事柄です。アブラハムまでさかのぼれば、ユダヤ人と異邦人の違いはない。少なくとも割礼の有無という点は問題ではなくなる。ユダヤ人にとっても異邦人にとっても、彼らが救われるために必要なのは信仰だけである。割礼は信仰と救いの付録のようなものだということになります。そして、その付録は絶対に必要なものではなく、無くてもよいものだという話になるのです。

その人がユダヤ人であるか異邦人であるかにかかわらず、つまり、先祖代々の信仰を受け継いできた人であるか、それともその人が家族で初めて信仰を与えられた人であるかにかかわらず、すべての人間にとっての救いの条件は信仰だけであるということになるのです。

しかも、その場合、「信仰」とは何を意味するのかが問題になります。パウロにとって信仰は「信仰」という名がついているだけの、しかし結局それは自分の行いや努力や業績であるというようなものではありません。自分ががんばって信じたとか、信仰という努力を重ねたとか、そういうことがその人を救うという話になるのであれば、結局、すべての人は自分の努力で自分を救うという話になります。神の恵みは不必要です。しかし、パウロの理解はそうではありません。信仰は神の恵みです。自分で手を伸ばして奪い取るものではなく、神から賜物として与えられるものです。それは、がんばった人への報酬ではなく、まだ何一つがんばっていない人へのプレゼントなのです。

そのことをパウロは「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(5節)という言葉で表現しています。

「不信心な者を義とされる方」とは神のことです。パウロが言っていることは、わたしたちの神は、深い信仰をもって生きている真面目な人だけを救ってくださる、そういう方ではない、ということです。順序が逆です。神を信じる信仰など全く持っておらず、信仰に基づく善き生活など全く送っておらず、真面目か不真面目か、どちらなのかと聞かれたら不真面目であると言わざるをえないような生活しか送っていない、そのような人を神は救ってくださるのです。それが正しい順序です。

「ずるい」などと言わないでください。わたしたちが教会に初めて来たときは「異邦人」の姿をしていました。パウロが描く「異邦人」は、わたしたちのことです。

もし「ずるい」と感じるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。しかし、やがて、病気や怪我や加齢等で体力や気力が衰え、「働きがなくなる」ときが来ます。そのとき、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」神の存在は、わたしたちの大きな慰めになるでしょう。

そして、もしそうでないならば、人が神によって変えられたということになるはずがないのです。救われる前に真面目な生き方が既にできているならば、神の力など不必要です。聖書も説教も不必要だし、教会も牧師も必要ありません。教会は真面目な人だけの集まりではありません。順序が逆です。教会の中で、人は神の力によって変えられていくのです。

(2013年7月7日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年7月5日金曜日

ほっと一息、すべては日常に戻る


すべては40代後半に突入してからです。

PTA会長だとか、大学のゲスト講義とか。

目立つことするのイヤ~ンなぼくが。

「遅ればせながら生まれて初めて系の仕事」

もう、死ぬまでこういうのは無い感じです。

ほっと一息、すべては日常に戻る。

幸か不幸か

生まれたときから7日刻みで人生を送ってきました。

何があろうが日曜日は教会。

こういう(単調な)リズム感覚が

骨身を粉砕する碾き臼のように感じたこともありました。

でも、この(単調な)リズム感覚のおかげで、

突発的なことや、非日常のことが襲いかかっても、

実はあんまり動じないで済んでいる。

ああ、これなのか。

プロテスタンティズムの世俗内的禁欲が

蓄財を生み出す、という理屈の根拠は。

蓄財は、無いけどね。

ぼくに無いのはそれだけだな(ちくざい)(笑)。

2013年7月3日水曜日

同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね

何年か前の高橋哲哉氏の本や、

読書会で読んでいる青野太潮先生の『十字架の神学をめぐって 講演集』や、

ファン・ルーラーの論文やで、

「贖罪論一元主義」というべきものへの批判が語られるのを読むたびに、

我が意を得たりとぼくは思う。

先日の読書会でも(問われたので)お答えしたが、

「贖罪論一元主義」になってしまうと「教会が胡散臭いものになる」と、ぼくは考えている。

個別の問題にかかわるのを面倒くさがっているだけのように見える。

宗教の欺瞞性が露骨に顔をのぞけているように見える。

どれほど涙を流しながら「贖罪」を説教していようと、ね。

教会を去る人が多いのは何故かとか、

日本の教会が広がらないのは何故かとか、

そういう言説が「流行る」今日この頃。

個別の問題に興味を持ってもらえない。

具体的な問題解決にかかわってもらえない。

不思議な話と不思議な儀式してるだけ。

ぼくもやだな。行きたくないね。時間の無駄と思うわ、たしかに。

牧師が「口動かしてるだけのヒマ人」なのは、個別の問題にかかわるためでしょ?

カラダ動かしてるかどうかは無関係。

カラダ動いてなくても、「個別の問題にかかわること」はできるから。

そもそも「偏執」や「同語反復」って、ぼくらの仕事ですかね。

同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね。

2013年7月2日火曜日

価値観の違い


心晴れない事情や悩みを抱え、かつどこにも持って行く場所が無くなり、いわば最後の最後に「教会」に頼ってくださるという方は、いまでも少なからずおられる。

最近もそういう方(面識ない)からのかなり長時間の電話をいただいた。

まあぼくは、口しか動いてないヒマ人なので、けっこう付き合うことはできる。専門的と言えるレベルではないが、ある程度のカウンセリングの手ほどきは受けた。

当然守秘義務があるので、詳しいことは書けない。家庭内の問題についての悩みだ。はっきりいえば「夫婦」の問題だ。

話を聴いているうちに、両者に明確な価値観の違いがあるようだ、しかし、相談者自身はその違いに気づいていないようだ、と分かった。

そのことを率直に告げた。びっくりされたようだったが、感謝してくださった。

参考までに、個人情報に触れない範囲で書いておこう。

価値観の違いとは、お金の使い道の話だ。

どちらかが贅沢をしている、という話ではない。

なるべくお金を使わずに、あるいは、最小限の支出で済ませる方法を考えようともせずに、まるで脊髄反射のように、口を開けば「だったら病院行けば~?」「だったら薬買えば~?」と言いだすことだ。

「その治療代、その薬代は、誰が稼いでると思ってるの?」と言いたい気持ちを飲み込んでおられるのではないか。

いま何時間働いたらいくらもらえるか、分かってるよね。それを病院だ、薬だに使うくらいなら、小さな子どもと貴方のために使ってもらいたい。そう思えるから働けるのに。

仕事で疲れ果てて帰宅して、家で疲れた顔していると「病院行けば~?」「薬買えば~?」「マッサージ行けば~?」

そりゃ相手も腹立ちますよねと、ぼくには思えた。

もちろん病院や薬局が悪いわけじゃなくて(たぶんね)、不況の世の中が悪いのだろうけれど、

まるで脊髄反射的に「病院行けば~?」「薬買えば~?」「マッサージ行けば~?」と言いさえすれば、相手をいたわる善意の言葉をかけている気になれる、世の中の風潮は、何とかしなくてはならないかもしれない。

「教会」は、病院でも薬局でもないし、会社でも学校でもない。

他の牧師たちは全く違うが、ぼくは口しか動いていないヒマ人なので(関グチなだけにね)、

何の役にも立たないし、悩みを抱える人に具体的な問題解決策を提示することすらできそうもない。

ぼくに言えることといえば、病院と薬局とマッサージ室の営業妨害することくらいだな(笑)。

2013年6月30日日曜日

有限は無限をとらえることができません

ローマの信徒への手紙3・27~31

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27節)と書かれています。これはどういう意味でしょうか。その説明から始めます。

先週の個所でパウロは、わたしたち人間が罪の中から救い出されるために唯一残された道を教えていました。それは、わたしたちが神の言葉である聖書の教えを完璧に実行するという道ではありません。そうではなく、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる道です。それは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」(24節)与えられる神の義です。

「無償で与えられる」ということは、人間の側からのいかなる支払いも、神はお受け取りにならないということです。神は人間のいかなる買収にも応じられません。人間がどれだけ支払ったから、どれだけがんばったから、どれだけたくさんのささげものをしたから、だから神は人間を救うということではありません。たくさん支払った人にはそれなりの見返りがあるということであれば、神と人間の関係は商売の関係になります。商売が悪いと言っているのではありません。神とわたしたち人間との関係はそのようなものではないと言っているのです。

わたしたちの支払いの多寡に応じて神の態度が変わるということであれば、神がわたしたち人間に与えてくださる救いの恵みには松・竹・梅の三種類か、それ以上の種類があるということになります。天国が、ものすごくがんばった人用の部屋と、少しがんばった人用の部屋と、がんばらなかった人用の部屋に分かれていることになります。

しかし「何の差別もありません」(22節)。支払う力のない人にも多く支払うことができた人と全く同じ部屋が用意されています。神の御子イエス・キリストが父なる神のみもとから地上の世界に遣わされて行ってくださった贖いの御業は、イエス・キリストを信じるすべての人に平等の神の義を約束してくれるのです。

こういう話をした後にパウロは「人の誇りは取り除かれた」(27節)と書いていますので、どういう意味であるか、もうお分かりでしょう。「人の誇り」とは人間の努力の証しです。しかし、その努力の多寡は、人が神に救われるかどうかに関係ないことだとパウロは言う。そのように言われると、私はこれまで一生懸命がんばって生きてきた、誰にも負けないほどの努力をしてきたと思っている人たちは傷つくのです。「もうやってられない」と自暴自棄になり、投げやりになることがありうるのです。

人の誇りが取り除かれる、つまり、わたしたちが神に救われることに関して努力の価値が失われるのは、「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)とパウロは続けています。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(28節)。

神はわたしたちの買収に応じる方ではありません。天国の問題はお金で解決することはできません。また、これは私にとっても厳しい話になるのですが、この地上において神を信じて生きる信仰生活を何年続けてきたかは、天国においては関係ありません。教会において多くの奉仕をなし、献身した人と、今際の床でわずか数分、わずか数秒、イエス・キリストを信じる信仰を告白した方とは全く同じ天国に受け入れられるのです。

47歳の私は47年教会生活を送ってきました。6歳のクリスマスに成人洗礼を受けましたので、洗礼を受けてから41年経っています。しかし、神は「だから何なのだ」と私に問いかけます。そのようなことを私のプライドにすることを神御自身が許してくださらないのです。

教会生活を長く続けることには意味はないと申し上げているのではありません。意味はあります。ないはずがありません。しかし、その意味は、ただひたすら、これからイエス・キリストへの信仰をもって歩みはじめる人たちを歓迎し、受け入れ、祝福し、心から喜ぶことにあるのです。

なぜパウロは、このようなことを言わなくてはならないのでしょうか。人間はもっと努力すべきである。「神と教会にたくさん奉仕し、ささげものをし、やるべきことをしっかりやらないと、天国には行けません」と教えるほうが教会にもっと人が集まるのではないでしょうか。「がんばらない人は地獄行きですよ」と威嚇するほうが、不安や恐怖心にかられて教会生活を熱心に続ける人たちが増えるのではないでしょうか。

しかし、パウロの考えはそのようなものではありません。真の教会はそのような方法を選んではいけません。悪質な宗教ビジネスの手口です。そのようなやり方を神が許してくださいません。神が求めておられるのは、脅しや不安や恐怖に怯えて集まって来る人ではありません。全くの自由において神を愛し、隣人を愛して生きる、喜びと感謝にあふれている人をお求めになるのです。

「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に神は唯一だからです」(29~30節)とパウロは続けています。話が突如として飛躍して、ユダヤ人と異邦人の関係の問題が出てきたようでもありますが、もちろん関連があります。

繰り返し申し上げているとおり、パウロが言う意味での「ユダヤ人」とは幼い頃から聖書に基づく教育を受け、安息日のたびに神殿や会堂に集まり、礼拝をささげ、奉仕を行ってきた人々です。そのこと自体は素晴らしいことですし、人から責められるようなことではないし、自分自身の誇りにすることが許されることでもあります。しかし、だからといって、「神はユダヤ人だけの神でしょうか」、そうではないでしょうと、パウロは言っているのです。ユダヤ人だけが「神」を専有すること、独り占めすることはできません。

この「神」を「教会」と言い換えてもほとんど同じ結論になると思います。教会はユダヤ人だけの教会でしょうか。教会は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人たちだけの専有物でしょうか。初めて教会を訪ねる人、これからイエス・キリストを信じる信仰を求め、そういう人生を今から始めたいと願っている人のための教会でもあるのではないでしょうか。そして、そのような人のための神でもあるのではないでしょうか。そのようにパウロは言いたいのだと思います。なぜならパウロは「異邦人のための伝道者」であろうとしましたから。

「異邦人」とは異教徒です。幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けるどころか、そういうことは何も知らない、習ったことも触れたこともない人々です。軽んじる意味で言うのではありませんが、聖書の宗教に限って言えば、その人々は“子ども”です。誰からも教えてもらったことがないのですから仕方がありません。

その人々が聖書を読んだとき、いろいろと素朴な疑問が出てくるのは当然です。教会生活が長い人々が聞くとびっくりするような誤読や誤解をすることがあるのは当然です。あるいはまた、その人々が教会に通い始め、聖書を読み始めるより前から信じていたことや受け容れていたことを抱えたまま、引きずったまま、教会に通い、聖書を読むことになりますから、その人たちの心の中で聖書の教えとそれ以外の教えが混ざり合い、混乱・混同し、どこまでが聖書の教えで、どこからはそうでないかの区別がつかない状態になることも当然です。

ですから、そのような人々に対して教会がしなければならないことは、混合・混乱・混同した状態にあるその人々の心の中にあるものを、解きほぐすことです。それは、もつれあい、からみあった糸をほぐすようなことです。そして、先ほど申した意味での聖書的な宗教教育については“子ども”の状態の人々に、時間と労力を惜しみなく注ぎ、手とり足とり教えていくしかありません。そういうことを面倒くさがるような人は「異邦人のための伝道者」にはなれません。

だから私は、依然として圧倒的な「異邦人の国」である日本の教会がなすべきことは、子どもたちの先生のような仕事であるととらえています。何も知らない“子ども”に手とり足とり、そもそもの物事の成り立ちから、噛んで含んで教え、伝える仕事です。

パウロが言いたいことは、わたしたちにとって厳しい話なのだと思います。わたしたちは、イエス・キリストの教会に来る前から聖書の知識を持っていて、そんなことはもう分かっている、耳にたこができるほど聞きました、というような人々だけを集めて、それで教会にたくさん人が集まったということで満足しているようでは足りないのです。「伝道」とは、全くの異邦人、全くの異教徒をイエス・キリストを信じる信仰へと導き、洗礼を授けることです。そのことがわたしたちにできているだろうかと自らに問わなくてはなりません。

有限なる人間、有限なる教会は、無限の神をとらえることができません。天地万物の創造者である全能の神は、宗教的に熱心な人たちだけの専有物ではありません。わたしたちは世に出ていく必要があります。そこで「伝道」する必要があるのです。

(2013年6月30日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月29日土曜日

うんと長生きしてほしいのは、子どもたちのほうです


うちは、もう何とかするしかないし、

ある意味で開き直りましたけど

「これから」の人たちのことを、ぼくは心配しています。

子どもを産んで育てるということに、

親の心に後悔や罪悪感を覚えさせてしまうような社会はまずい。

「子どもなど産むんじゃなかった」と。

あるいは

「子どもがこれ以上進学すると家が破産するからやめて」と、

心の中で親が祈らざるをえなくなるような社会はまずい。

子どもはいつまでも「子ども」じゃあない。

「少子化」って、ですね、

半世紀くらい前は(もう「半世紀くらい前」です)

どこの教会の日曜学校にも100人くらい集まっていたちびっこたちが

今は来なくなったねえ、日曜学校が寂しくなったねえ、

という話ではないです。

「少子化」は人口減少です。人がだんだんいなくなることです。

今の10代、20代の子たちが絶望死していく報道を横目で見ながら

あと10年の命を悠々自適に暮らそうとしている社会はまずい。

うんと長生きしてほしいのは、子どもたちのほうです。

嫌われる言葉かもしれませんが、

ぼくには、そうとしか言いようがないです。

2013年6月27日木曜日

今夜はマカロニグラタンを作りました

文句なし!「マカロニグラタン」~\(^o^)/

マカロニ、牛乳、鶏もも肉、チョリソー、ほうれんそう、アスパラガス、長ねぎ、ぶなしめじ、粉チーズ、(お好みでタバスコ)。

マカロニグラタンは、疲れた日に簡単にできる最高のごちそうです。

妻は今夜も保育園の夜勤です。おつかれさま。


立教大学「キリスト教の歩み」ゲスト講義


立教大学 全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み」ゲスト講義

日時 2013年6月27日(木)午後3時
    2013年7月 4 日(木)午後3時

場所 立教大学池袋キャンパス 11号館 A203教室

主題 「現代プロテスタント神学の一断面 カール・バルトの神学をどう乗り越えるのか」

講師 関口 康(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)

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画像は、今日の様子です。ほぼ満席でした。

素晴らしい学生さんたちでした。熱心に聴いてくださいました。ご清聴ありがとうございます。

これは本当にやりがいがある仕事だと実感。ぼくの子どもと同世代の方々です。楽しかったです。

まあ、でも、生まれて初めての大学の教壇なのに、いきなり二百人教室とは...。

心臓が口から出そうでした。