2013年6月24日月曜日

「誰から勧められたわけでもない」のに「誰にも相談せずに」決めました

夕食後、気を失っていたのですが(ねてただけです)、

22時頃、電話で起こされて、

なんだか不自然な覚醒状態のまま、

ねむいような、ねれないような。

そういうときに書く文章はろくなものではないのですが、

あしたの朝にはもう忘れていそうなので

覚えているうちに書き遺しておきます(ゆいごん)。

考えてみれば、ぼくは

「誰から勧められたわけでもない」のに

「誰にも相談せずに」

決めたことが3回あるな、と気づきました。

それは

(1)洗礼を受ける決心(6歳)

(2)牧師という仕事をする決心(17歳)

(3)日本キリスト改革派教会の教師になる決心(31歳)

です(現在47歳)。

だから、ぼくは常に(過去の全人生において)

不安を抱えて生きてきました。

上記三つのことについては

「誰から勧められたわけでもない」ので(ホントです)

自分が「ふさわしい」かどうかが分かりません。

「○○さんが、○○先生が、

ぼくに○○を勧めてくださった”ので”

決心できました」

と語ることができません。

傲慢のキワミのような気がするんですよ、

「すべて自分で決めた」みたいな感じがして。

まあ、でも、人のせいにしなくて済む、という気楽さはあります。

だから、ぼくは感謝しています。

ぼくが洗礼を受けることと、

牧師という仕事をすることと、

日本キリスト改革派教会の教師になることを

ぼくに勧めて”くださらなかった”皆さまに感謝しています。

本当にありがとうございます。

2013年6月23日日曜日

教会の責任は重いものです


テモテへの手紙一5・17~25

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています。長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です、そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。」

こういう個所をどのように読むかは、本当に悩むところです。

パウロは非常に率直に書いています。ちょっとストレートすぎです。しかしそのことも、この手紙の宛て先がパウロの親しい後輩伝道者テモテであると考えれば、納得できます。ごく個人的な関係の中でのやりとりであることは明白です。

パウロとしては、このやりとりが自分が亡くなった後に公になるとは考えていなかったのではないでしょうか。しかも、それが新約聖書に収められ、二千年後の今でも読み継がれるものになるとは。

この個所でパウロが何を言っているのかを説明させていただきます。しかし、最初にお断りしておきたいことは、これは私の意見ではないということです。パウロの意見です。どうか誤解なさらぬようにお願いいたします。

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たち」(17節)というのは、御言葉と教えのためにがんばっている長老と、サボっている長老とがいるという話ではありません。

「御言葉を教えのために労苦している長老」とは、日本キリスト改革派教会における職務名で言えば、「教師」のことです。わたしたちの言うところの「宣教長老」です。「宣教長老」に対して「治会長老」がいます。治会長老がいわゆる「長老」です。

ですからパウロが書いているのは、「宣教長老」である「教師」は「二倍の報酬を受けるにふさわしい」ということです。ここで「報酬」とは、明らかに給料のことです。わたしたちの教会では「謝儀」と呼んでいますが、「給料」と呼んでも間違いではありません。

そのあとに続く「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という文章の意味は、牛は人間の畑仕事を手伝いながら畑のものを食べている、ということです。要するに、腹が減っては仕事はできない、という意味です。牧師の仕事も牛と同じである、ということです。

それを「二倍」受けるにふさわしいというのは、他の仕事に就いている人たちの二倍という意味だと思います。しかし、これは厳密な話ではなく、大雑把な話です。それは具体的にどの職業の人たちの二倍なのかとか、それは具体的に言うといくらぐらいになるのかというように、神経質に突き詰めるような読み方は間違っています。これは具体的な話というよりも、気持ちの問題ではないでしょうか。

また、この個所を読む際に重要だと思われることは、これを書いているパウロも、この手紙の宛て先であるテモテも「教師」であるということです。その教師同士が「ぼくたちの仕事は他の人の二倍の報酬を受けるにふさわしい」と言い合っているのですから、これは要するに愚痴です。実際に人の二倍の謝儀を受けとっているわけではなかった可能性のほうが高い。

先ほど私が「これは私の意見ではなくて、パウロの意見である」と申し上げたのは、パウロの権威を借りて私が皆さんに何ごとかを要求しているわけではありませんという意味です。

日本の教会の牧師たちの生活がいま非常に深刻な状態にあることは事実です。しかし今日の個所のようなところは、しかめっつらしながら読むような個所ではありません。教師たちは、愚痴をこぼしながらも、何とかかんとかやっています。

「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります」と書かれています。

この「長老」は、わたしたちでいえば宣教長老と治会長老の区別のない、両方を合わせた「長老」のことです。それは教会の運営責任者です。小会・中会・大会の人たちです。この人々は教会運営の全責任を負っています。「責任」という漢字は「責められることを任される」と書きます。責任者とは、内外からのいろいろな苦情や批判を聞き、重く受けとめ、改善する立場の人です。

たとえば、教会の中に問題が起こった。そのことを小会に訴える人が、小会自身の責任も同時に問うことがありえます。「牧師や長老たちがちゃんとやってくださらないから、こういうことになった」と言われます。それだけではなく、牧師や長老は教会の中では目立つ場所にいますので、長所だけではなく、短所や欠点がよく見える。批判の対象にされやすい立場です。

だからこそ、教会の中で長老たちに反対する訴えは、「二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません」という話になります。個人的な恨みが教会で公の問題にされるようなことがあってはならないということです。そういうことをしはじめると、教会が壊れてしまうからです。

「神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい」(21~22節)。後輩テモテに対する親心を感じます。

そして、次の個所は、なんと聖書の中に「お酒を飲みなさい」という言葉が明言されている(!)個所があるということで有名です。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(23節)。

しかし、この個所は変なふうに悪用されてはならないと思います。どんどんお酒を飲みましょうと、そのようなことをパウロが言っているわけではありません。また、ぶどう酒に病気(病名不明)を治す薬効があるのかどうか、また本当にそのような(ぶどう酒には薬効があるというような)意味でパウロが書いているのかどうかも分かりません。私は違うと思っています。

パウロが言いたいことは、教会の仕事はたいへんなのだから、あまり神経質にならずに大らかにやりましょう、お酒の少しくらい飲んでもいいんじゃないの、というくらいのことを言って、気分が沈みがちの後輩を励まそうとしている、ただそれだけではないかと、私は思う。そのくらいの、のんびりした言葉として読むくらいでちょうどよいと思います。

パウロが言いたいことは、教会の責任は重いということです。教会の責任だけが重いということではありません。また、牧師の責任だけが重いということでもありません。長老・執事の責任とか、小会・執事会の責任とか、そういうことだけでもない。一全体としての教会に与えられた責任は重いのです。

神が地上に教会をお立てになったのは、教会の存在と働きを通して、神御自身が働いてくださるためです。教会の働きが、神のみわざなのです。神は教会の働きを用いて、地上でお働きになるのです。

ですから、そのようにして神のみわざに参加する教会の働きは、光栄な職務であり、働きなのです。喜んで感謝して神に仕えることが、わたしたちにふさわしいことです。

じくじくと恨みつらみを言い、口を開けば愚痴だ批判だ、というのは暗い。

明るく楽しい教会、そして、公明正大な教会として歩んで行くことが、わたしたちに最もふさわしいことです。

(2013年6月23日、松戸小金原教会主日夕拝)

胸裂けるばかりに罪を悔い、キリストにすがれ


ローマの信徒への手紙3・21~26

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

最初に申し上げておきますが、今日の個所は非常に難しいところです。しかし、非常に大切な個所でもあります。この個所にローマの信徒への手紙の心臓があると言っても決して過言ではありません。この個所の難しさは、短い言葉で書かれていることに関係していると思われます。詳しく丁寧に説明する必要がある、奥深い内容を持つ真理が、簡潔な言葉で要約されているのです。

ですから、ご安心ください。さっぱり分からないとお感じになる方は御自分を責めないでください。パウロの言葉が足りていないのです。たくさんのことがぎゅっと詰まった言葉が書かれているのです。そういうふうに考えてくださって構いません。勇気づけられるのは、そのように解説している注解書があることです。「この個所は難しい」と書いています。だから、どうかご安心ください。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と書かれています。「ところが今や」という言葉に、パウロは深い意味を込めています。その意味を説明するために何ページも割いている注解書があるほどです。私自身には、それほど深い意味を読みとる力はありませんので、単純なことを申し上げておきます。

それは、「今」という言葉が一つの時間を表わす言葉であるとしたら、「今」と対比されるのは「昔」であるということです。あるいは「現在」に対する「過去」です。そのような意味での「昔」あるいは「過去」に対する「今」あるいは「現在」のことをパウロは書いているのです。

「過去」においてはどうだったのかについては、すでに学んだ個所に書かれていました。特に今日の個所に直接関係しているのは直前の次の御言葉です。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3・20)。

繰り返し申し上げてきたことですが、この手紙の中でパウロが「律法」と書いている言葉は、ほとんど「聖書の御言葉」という言葉で言い換えることができます。そのルールはここでも当てはめることができます。次のように言い換えることができます。「聖書の御言葉を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。聖書の御言葉によっては、罪の自覚しか生じないのです」。

このように言い換えますと驚かれる方は必ずおられると思います。「聖書の御言葉を実行することが間違っていると言いたいのか」と反発されてしまうかもしれません。その反発は、ある意味で当然のことだと思います。

しかし、「聖書の御言葉を実行すること」が間違っていると言いたいのではありませんが、「律法を実行すること」と結果は同じであると言わざるをえません。律法を実行することも、聖書の御言葉を実行することも、その結果として生じるのは罪の自覚だけだからです。

それは「やってみれば分かる」としか言いようがありません。聖書に書いてあることをそのとおりに実行してみてください。それで分かるのは、聖書のとおりに実行することは不可能であるということです。もしそれが不可能であることが分からないとしたら、その人は聖書のとおりに実行していないのです。

なぜ結果が同じになるのでしょうか。わたしたちが聖書の御言葉を実行しようとすると、罪の自覚が生じます。その自覚の内容は、書いてあるとおりを守ること、遵守することは難しいことであり、できないことであるということです。

なぜ難しいのでしょうか。なぜ不可能なのでしょうか。何か例を挙げてお話しすれば、少しは話が分かりやすくなるかもしれません。聖書の御言葉そのものでなくてもいいです。最も単純で簡単なことでもいいです。たとえば、「私は毎朝5時に目を覚まします」と誓いを立てるとします。その誓いを何があっても守る。自分が病気になろうと、家庭や仕事との関係で生活上の変化や困難が起ころうと、天変地異が起ころうと、自分で立てた誓いを自分で破ることができない。それを守り抜こうとする。

しかし、それは実際には不可能であるということはお分かりになるはずです。さまざまな悪条件が重なることは人生の中にはいくらでもあります。天変地異もある。家庭や仕事との関係で悩むことはいくらでもあります。どちらが優先されるべきかと選択を迫られ、苦しむことはいくらでもあります。

そして、その場合はどちらを選んでも、罪の自覚が生じることになるでしょう。自分の誓いのほうを優先すれば、家族や仕事を犠牲にしてしまったことに苦しむでしょうし、家族や仕事を優先すれば、自分の誓いを裏切ったことに苦しむでしょう。しかし、それがわたしたちの現実なのです。

今申し上げたことはほんの一例です。しかし、これだけでも、わたしたちにとっては「時間を守る」というような単純で簡単な誓いを守ることさえ難しいことであるし、できないことであるということをお分かりいただけるはずです。

しかし、まだ納得していただけないかもしれません。今あげた例は「自分で立てた誓い」であると言いました。しかし、聖書に書かれていることは、神との約束であり、誓いである。人間の誓いは、神との約束とは次元が違うことである。神との約束は絶対に破ってはならない。次元が違う話を持ち込んで一緒くたにするのはけしからん、というふうに叱られてしまうかもしれません。

しかし、そのことについても私は、結果は同じであると言わざるをえません。神との約束であろうと、人間の誓いであろうと、それをわたしたちは完璧に守ることはできません。できると思い込むこと自体が間違いです。なぜ間違いなのかといえば、そこには必ずごまかしがあるからです。「完璧」の意味を自分流に広げたうえで、「自分は完璧である」と言い張っているだけです。

そしてそれは、他人に厳しく自分に甘い生き方にもなっていくでしょう。それは考えれば考えるほど最悪の結末でもあります。パウロが書いている「律法によっては、罪の自覚しか生じない」というのが自分自身の罪の自覚であれば、まだましです。しかし、完璧主義的な生き方を他人に押しつけることをしてしまいますと、他人に罪の自覚を生じさせるだけで、自分は少しも悪くないと思い込むことにもなります。

自分には自分流の「完璧」でいいのだと、自分を甘やかす。しかし、それは聖書の基準からはかけ離れている。それでいて他人には聖書の基準の「完璧」を押しつけているだけです。そういうことをしはじめると、その人はもはや、他人を地獄の苦しみに突き落とすだけで自分は平気な顔をしている邪悪な存在でしかありません。

しかし、いまお話ししていることは、先週学んだ個所までに書かれていたことです。それは「昔」であり、「過去」です。「ところが今や」(21節)と、パウロは続けているのです。

「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)。この文章も難しいです。しかし、難しいのは複数の文章が入り組んでいるからです。理解可能な文章にするためには、入り組んだ複数の文章を切り離す必要があります。していただきたいことは、「しかも律法と預言者によって立証されて」という一文を隠して「律法とは関係なく」と「神の義が示されました」を続けて読んでみることです。

これでもまだ分かりにくいでしょうか。「律法(聖書と読み替えることができる)とは関係なく」とは、噛み砕いて言えば「聖書の御言葉を完璧に実行することによってではなく」ということです。

「神の義」という言葉の意味も説明する必要があります。これは神だけの話ではなく、神と人間との関係の話です。神とわたしたち人間との間の正常な関係のことを指しています。

正常な関係があるということは、異常な関係もあるということです。ノーマルに対するアブノーマルです。しかし、最初から異常な関係だったわけではありません。最初は、そして本来は、正常な関係でした。しかし、正常な関係が壊れました。人間が罪を犯して神に背いたときに壊れました。正常な関係が罪によって異常な関係になりました。しかし、その関係がもう一度正常な関係へと回復されること、これが「救い」です。その神と人間との正常な関係のことを、パウロは「神の義」と呼んでいるのです。

しかし、その「神の義」、すなわち神と人間との間の正常な関係が回復されることがどのようにして起こるのかという問いに対するパウロの答えは、わたしたちが「律法」、すなわち聖書の御言葉を完璧に実行するという方法によってではないというものです。それが「律法とは関係なく、神の義が示された」と言われている意味です。

そういう方法ではない、別の方法が神御自身によって備えられた。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(22節)と書かれている方法です。

ここでご理解いただきたいことは、パウロの言う「イエス・キリストを信じる信仰」は、私が申し上げている意味での「完璧主義」とは対立するものであるということです。完璧主義がわたしたちを自由にすることはありません。完璧主義は、わたしたちを追い詰め、心も体も破壊します。

しかし、だからと言って私は、聖書を読まなくてもよいというようなことを申し上げているのではありません。聖書は読むべきです。聖書に書かれていることを完璧に守ることができなくても、聖書は読むべきです。しかし、この本を読むとわたしたちはどうなるのかといえば、この私がいかに神の言葉を実行することができないか、神との約束を守ることができないかを自覚することができるだけです。そのことを自覚できるまで徹底的に聖書を読み、聖書の御言葉を実行することが必要です。

しかし、それではわたしたちは、自分の罪を自覚した後、どうすればよいのでしょうか。罪を自覚したうえで開き直りなさいと言っているのではありません。自分の罪深さを胸裂けるばかりに悔いる必要があります。しかしそれは、「自分は駄目だ駄目だ」と自己卑下し、自分を責めるだけの憂うつな人生を送りましょうという意味ではありません。自分の罪を自覚するということは、この私を罪の中から救い出してくださる方(それが「救い主」)が必要であると自覚することです。

救い主であるイエス・キリストを信じ、すがる。それが新しい道です。それによってわたしたちは神との正常な関係に戻ることができます。そのとき神は、もはや怒っておられません。明るく笑っておられます。温かい笑顔でわたしたちを見つめてくださっています。

(2013年6月23日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月21日金曜日

立教大学でのゲスト講義が来週に迫りました

本番まで一週間を切ったので、そろそろ告知します。

来週6月27日(木)と再来週7月4日(木)の

いずれも午後3時から、

立教大学(池袋キャンパス)で

鈴木昇司先生(立教大学)の講義シリーズ

「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」の

ゲストスピーカーとして

ぼくが講義させていただくことになりました。

立教大学の教養課程(宗教)の講義であるとのことで、

「文学部キリスト教学科」の学生さんたちだけではなく

いろんな学部・いろんな学年から集まるそうで

200人教室で行われている、とのことです。

ぼくは大学の教養課程どころか、

神学部・神学大学・神学校の講義すら、

いまだかつて行ったことがありません(招いてもらえません)ので、

47歳にもなっての未体験ゾーンへの突入を前にして、

今から緊張しまくっています。

そんな情けないぼくのために、お祈りください。

それだけで、しもべは満足です。

どうかよろしくお願いいたします。

立教大学講義「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」
http://wwwj.rikkyo.ac.jp/kyomu/gakubu/00zen/F00/006_0_1.html

2013年6月19日水曜日

教会堂で二つの小さな工事を行いました


これは教会堂の一階と二階をつなぐ「L型階段」です。

新会堂建築(2000年)以来、今まではなぜか外回りだけに手すりが付いていたのですが、「内回りにも手すりを付けてほしい」という要望がご高齢の教会員から出されましたので、取り付けました。

ずっと前から付いていたかのように馴染んでいます。

プロの仕事、さすがです。ありがとうございました。


これは教会堂の外側の非常階段です。

このたび頑丈な「門扉」を取り付けました。これまではありませんでした。

しょっちゅうというわけではありませんでしたが、たまに近所の子どもが、管理人(ぼく)が留守にしている間に、この非常階段を上り下りして遊んでいるのを見ました。

対策を考えていたところ、「門扉をつけましょう」という名案を出してくださった教会員がおられましたので、実現しました。

また、その名案を出してくださった方が「そのための献金は惜しみません」と教会の月報の投稿記事で明言してくださいました。

日本のほとんどの教会同様、わたしたちの教会には公的助成や他からの援助はなく、すべて教会員の献金で運営されていますので、とてもありがたいお言葉でした。

少しずつであっても教会の設備が整っていくのは感謝なことです。

ありがとうございます!

2013年6月16日日曜日

わたしたちの体は自分の思うように動きません


ローマの信徒への手紙3・9~20

「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。この手紙の1章18節から今日お読みしました3章20節までの個所にパウロが書いていることのほとんどすべては、わたしたち人間はとにかくひたすら罪人である、ということです。それ以外のことは言っていないと断言できるほどです。

ユダヤ人がどうした、異邦人がどうした、という話は出てきました。しかし、それらの話題の結論は、わたしたち人間はとにかくひたすら罪人であるということに尽きます。

最初に少し、これまでのおさらいをしておきます。「ユダヤ人」と「異邦人」の区別は、聖書の御言葉を神からゆだねられているかどうかという点にあります。幼い頃から聖書を学んできた人のことを「ユダヤ人」と言い、そうでない人のことを「異邦人」と言うのです。

聖書を学んだことがない異邦人は、神の御心は何であるかということを、聖書という書物を通して、その中に書かれている文字を通して確認したことがあるわけではないので、それはある意味で、神の御心など全く知る由もないという立場にあると言ってもほとんど間違いないわけです。

しかし、パウロはその異邦人に対しても、厳しい態度をとります。聖書を読んだことがなくても、神の御心を書かれた文字で確認したことがなくても、わたしたち人間は神から良心を与えられているので、たとえおぼろげではあっても善悪の判断くらいできる、とパウロは主張します。聖書を読んだことがないから、神の御心など知らないから、だから善悪の判断ができなかった。私は知らないうちに罪を犯してしまいましたなどという弁解は全く成り立ちようがない、と言っているのです。

聖書を読んだことがない異邦人に対してさえこれだけ厳しいのですから、聖書をいつも学んでいるユダヤ人に対しては、パウロは容赦ありません。聖書を知っている人たちに、善悪の判断ができないはずがないからです。それなのに、彼らは罪を犯し続けている。彼らは、知らないうちに罪を犯しているのではなくて、それがいかに罪深いことであるかを十分に知った上で、あえてその垣根を越えて罪を犯している。「確信犯」とはまさにそのような人のことを言うのです。

しかし、そのような状態にあるユダヤ人たちが自分たちの立場を弁護し、かつ異邦人に対する自分たちの優位性を主張するために、自分たちは聖書の教えに忠実であるということを示すための「割礼」を受けていることをひけらかす。しかしパウロは、外見上の割礼などどうでもよいものであると言います。神が問題にされるのは、わたしたち人間の内面です。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2・29)と書いてあるとおりです。

このようにしてパウロは、ユダヤ人と異邦人の両方の問題を取り上げて、両方とも罪深いと言っています。どちらのほうがより罪深いだろうかと問うことは難しいかもしれません。しかし、先ほどもちょっと触れましたが、知らずに犯す罪と、知っていて犯す罪とでは、どちらのほうが悪意性が強いかということは考慮に値することです。悪意というのは心の中の事柄ですので、体の外からはっきり見えるものではありませんが、いろいろな仕方で証拠を見つけていくことは可能です。

しかし、そうは言いましても、わたしたちは、まさか毎日毎日、凶悪犯罪を実行に移しているわけではありません。そのようなことをしながら、日常生活をごく普通に平凡に送っていくことは不可能です。凶悪犯罪をもてはやす意図はありませんが、あれは一つの仕事です。用意周到な計画性なしには決して成し遂げることができません。平凡な日常生活を犠牲しなければ実行不可能です。その意味でも、わたしたちは普通の生活をしているかぎり、凶悪犯罪を行うことは無理だと思います。

「あなたの存在そのものが罪である。あなたには生きている価値もない。いまただちに生きるのをやめて死になさい」。そのような激しい罵声を常に浴びせられ続けなければならないほどの罪をすべての人間が抱えているというようなことではありません。私は今、そのような話をしているのではありませんし、パウロもそのようなことまで書いているわけではありません。

もし百歩譲って、そういうことをパウロが書いていると考えなければならないということを客観的に認めざるをえないことになったとしても、だからといって、あなたは罪深い存在である。それゆえ、あなたは生きること自体、存在すること自体を否定されなければならないというようなことを言われなければならないのは、だれか特定の人ではなく、すべての人間であると言わなくてはなりません。

いま申し上げていることの意味は、わたしたちは今日の個所のパウロの言葉を用いて自分以外の誰かを批判することはできません、ということです。すべての人間の中には、あなた自身も含まれているからです。私もあなたも、すべての人も、神の前で「私には罪がない」と言い張ることはできない、ということをパウロは述べているのです。

そのことをパウロは改めてはっきりした言葉で書いています。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない』」(9~10節)。ここでパウロが引用しているのは、旧約聖書の詩編14編です。

パウロが詩編14編を引用している理由は、書かれていません。しかし、この引用によって分かることは、すべての人間が例外なく罪人であるという思想は旧約聖書の時代からすでにあり、かつそれが新約聖書に受け継がれたものでもあるということです。そしてこの聖書の教えをキリスト教会も受け継いでいます。すべての人間は例外なく罪人です。しなければならないことをせず、してはならないことをして、自分の身に正しい裁きを招いてきました。そのことをわたしたちは聖書に基づいて告白してきたのです。

しかしまた、私はここで、いくつか別の視点から考えておかなければならないことがあると思っています。そのことを申し上げますと、私の話がかえってややこしくなってしまうかもしれませんが、それはやむをえないことです。

パウロが書いているのは、すべての人間は例外なく罪人であるということです。しかし、それは決して単純な話ではありません。非常に複雑な話です。このことについて単純な結論を出してしまうことができるのであれば、パウロはこの手紙を長々と書く必要はなかったでしょう。3章20節までで終わりにすればよかったでしょう。しかし、この手紙は16章まで続きます。それはパウロが人間の罪について、まだ書くことが山ほどあると考えていた証拠であると言えます。

そして、ここでわたしたちが考えなければならないことは、すべての人間が例外なく罪人であるという聖書の教えは、わたしたちにとって慰めの言葉ではないということです。

それはどういう意味か。すべての人が罪人であるならば、どうせみんな同じなのだから、わたしたちは自分の罪を避けがたい運命としてとらえればよい。そこから逃れることができる人は誰もいないのだから、せいぜいお互いの傷を舐め合うか、お互いに慰め合うか、お互いの足を引っ張り合って生きていけばよい。そのようにして、みんなが罪にまみれた生活を続けていけばよい。これは完全な開き直りです。

しかしパウロは、そういう結論を考えているわけではありません。すべての人間は罪人であるという聖書の教えを、わたしたちはそのような考え方のために悪用してはならないのです。

実際問題としてわたしたちは、罪の状態のままでとどまっていて、よいことは一つもありません。やはりわたしたちは、その状態から救い出されなければなりません。だれかと自分を比較して、自分のほうがまだましだと分かったところで、わたしたちがまだ罪の中にとどまっているなら問題は解決していません。パウロはわたしたちを罪の中にとどまるように導こうとしているのではないのです。

言わなければならないことは、まだあります。パウロが詩編14編から引用していることについて、先ほど私はこれが旧約聖書の教えであり、新約聖書とキリスト教会が受け継いでいると説明しました。それはそのとおりです。しかし、誤解しないでいただきたいのは、わたしたちが罪人なのは、聖書と教会がそのように教えているからそうである、というふうな事情であるというわけではない、ということです。

それはどういうことか。わたしたちは本当は罪人ではないのに、聖書と教会がわたしたちに一方的に無理やりそのようなレッテルを貼っているだけだ、ということではないという意味です。大したことでもないことを聖書と教会がやたらと大げさに言い立てて、わたしたちに罪の濡れ衣を着せようとしている、とかなんとか、そんなふうに思われると困るのです。

それは順序が逆です。正しい順序は、聖書と教会がそのことを教えるよりも前から、わたしたちは罪深かった、ということです。わたしたちは教会に通い、聖書を読むよりも前からすでに、しなければならないことをせず、してはならないことをしてきたのです。しかし、わたしたちは聖書を読むことによって、それに気づかされたのです。自分の罪を自覚したのです。

今日の個所の最後に「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)と書かれています。ここでも「律法」とは聖書のことです。聖書を読むと、わたしたちは神の前でいかに罪深いかを自覚させられます。なぜなら「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」(20節)。

今日の説教の題に「わたしたちの体は自分の思うように動きません」と書かせていただきました。その意味は、わたしたちは良いことをしようとしても、わたしたちの心の中の罪が邪魔をして罪深いことをしてしまう、ということです。

この手紙の中のもう少し後に出てくる言葉を先取りしていえば、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7・18)ということが、わたしたちの身に起こるのです。

この矛盾した状態からわたしたちは救い出される必要があります。その突破口は、イエス・キリストを信じる信仰であるとパウロは続けます。この続きは次回お話しいたします。

(2013年6月16日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月14日金曜日

「(笑):カッコワライ」とか書かなくても笑顔が見える距離でいられるなんて恵まれたことですよ


二泊三日の大会役員修養会が終わりました。

毎年恒例の日本キリスト改革派教会の教師・長老の研修会。

会場は静岡県浜松市。浜名湖畔の「カリアック」。

残念ながら、今秋閉館だそうです。来年からは別の会場(未定)です。

ところで。

弱音を吐くのは得意です。みっともないけど、しょうがない。

ほんとに楽しかったです。安心しました。

ずっと続けばいいのに、と思いました。

優しくて、親切で、誠実な人たちの、真摯で活発な対話と討論。

ぼくの生きている世界のすべての人がこうであればいいのに、と。

インターネット要らないな、と。

ああ、日本キリスト改革派教会は素晴らしい。

ですが。

ぼくはまた、現実に引き戻されました。

インターネットが必要な現実に、です。

まあ、仕方がない。フカイタメイキ(ふはぁぁぁ...)。

心にもない「いいね」も

芝居がかった「いいね」も

悪意ある「いいね」も

なるべく(なるべく?笑)押さないできたつもりです。

どうせ押すなら、心のこもった「いいね」を押したい。

いま書いてることはみんなジョークですけどね。

「(笑):カッコワライ」とか書かなくても笑顔が見える距離でいられるなんて

恵まれたことですよ。

まあ、でも、ぼくらの人生に恵みは少ないほうがいいかもしれない。

恵みありすぎると、麻痺状態で、かえって文句ばっかり言ってるとかね。

たまーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーの恵みが、ありがたい。

一年一度の「うなぎパイ」とかね。

あ、買うの忘れちゃった。うなぎパイ。

2013年6月11日火曜日

ファン・ルーラーを尊敬する理由

「新約聖書は旧約聖書の巻末語句小辞典にすぎない」

「終末においてイエス・キリストは受肉を解消する」

「共産主義はキリスト教よりもブルジョア的である」

どれも60年くらい前(1950年代~60年代)のファン・ルーラーの発言です。

失言や軽口やジョークではありません。

用意周到に、神学的に徹底的な熟考を経たうえで語られたものでした。

しかし、当時はずいぶん叩かれたようです。

まあ、仕方ないですね。

彼はもちろんこれらのことを意図があって言っています。

ある特定の言説に対する明確な批判をこめて、これらの命題を主張しました。

60年前のオランダにインターネットがあったら、

ファン・ルーラーのブログやツイッターは

しょっちゅう「炎上」していたことでしょう。

最近は「炎上ビジネス」というのもありますね。

でも、ファン・ルーラーは、その種の悪どい仕掛け人ではありませんでした。

1970年12月に62歳で亡くなりました。生前は神学者としては孤立無援でした。

でも、今は違います。

今では、オランダでは20世紀の「三大」神学者の一人と呼ばれています。

「炎上」や孤立を恐れず、真理を追い求め、揺るがなかったからではないか。

ぼくはこういう人を尊敬します。オランダにかぶれているのではありません。

2013年6月10日月曜日

医薬品のインターネット販売については、全面解禁でいいと思いますよ

医薬品のインターネット販売については、全面解禁でいいと思いますよ。

一般市民としては、とにかく安きゃいいんですよ。

不況の中、どれだけ追い詰められた生活をしているか、分かってるんでしょうかね。

医者も薬局も、病院も製薬会社も、その人たちの利益を守って来た政治家たちも、もう十分すぎるほどもうけたでしょ。これ以上どれだけもうけたいんでしょうかね?

もうけてもうけて、持ってない人間を見くだして。なにが楽しいんでしょうかね。

要らない医者とか、要らない薬局とか、少し淘汰される必要もあるんじゃないでしょうかね。

そりゃおカネ持っている人は長生きするでしょうよ。手厚い医療と、手厚い看護を受けられますからね。

そういう人たちだけが特権的に生き残る社会になっていくことがお望みなら、まあ別にそれもいいんでしょうけどね。

でも、上の人たちだけが生き残った社会は、競争もっと激しくなりますよ。

「下には下がいる」とか言いながら、下の人たち見て、見くだして、慰められることなんて、無くなりますよ。

ほんと、たいへんですな、上の人たちは。

ぼくらは、早く死ねますよ。ありがたや、ありがたや。

自主オフ日は「自叙伝ツイート」

「自叙伝ツイート」と呼んでおきます。とくに脈絡はありません。

だけど、逆に言わせてもらえば、

ソーシャルで「自分のこと」を書くのを自主規制してしまうと、

書けること何が残るんだろ?と思いますけどね。

個人情報保護の観点からいえば、自分以外の人について、めったなことは書けない時代です。

唯一残るとしたら「公人の批判」かな。だけど、それだけに限定した使い方というのも味気ない。

というわけで、今日は自主オフ日です。気分はかなり逃避気味。デトックス。

自己中で申し訳ありません。

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関口 康 @ysekiguchi
ぼくは相当すきま人生だと思ってきたけど、すきまの探し方に二種類あるとふと気づきました。その区別を字にするのは難しい。従来「ノーマル」とされてきた領域の外にすきまを見つける人もいるけど、ぼくはそうじゃない。月並みだけど「灯台下暗し」。陳腐すぎて誰も寄りつかないからすきまの宝庫です。

関口 康 @ysekiguchi
こういうの書くと、心理学とかやってる方には、ぼくの性格や背景などをすぐ見抜かれちゃうのかもしれませんが、ぼくは子どもの頃からほとんど常に、修学旅行とかに行くと、最後の一人が寝落ちするまで起きて話し、いちばん最後に寝るタイプでした。それが何を意味するのかは、ぼくには分かりません。

関口 康 @ysekiguchi
「根拠のない自信をもっていて、どうにもならないくらい高慢臭を放っているんだけど、生き方はヘタで行き当たりばったりな人」か、それとも「物腰ソフトなベビーフェイスで近づいてくるので軒先を貸すと戦術的・戦略的に根こそぎ母屋をもって行く人」か、どちらか選べと言われると、う~んどっちかな。

関口 康 @ysekiguchi
数ページならともかく一冊の本を翻訳するとなると、切れ目ない数週間・数か月の「作業に没頭できる時間と空間」が不可欠と痛感。毎週日曜日の説教をしている牧師は、翻訳は定期的に中断せざるをえない。両立できる人は、脳内の「メモリ」のサイズが相当大きいのでしょう。ぼくはすぐ固まっちゃいます。

関口 康 @ysekiguchi
質問を受けたのでそれに答えるべく話しはじめると、ぼくが話しはじめた途端、チラチラ時計を見る人がいる。それも一人二人ではなく、けっこういるような気がするので、質問を受けるたびに「もう答えまい」と決意する。ぼくの答え方が悪いんでしょうけど、そんなにつまんない?(汗)