2013年6月7日金曜日

「第10回 カール・バルト研究会」報告(ニコ生神学部生出演)

「第10回 カール・バルト研究会」(グーグルプラス ハングアウト)は

無事終了しました。

「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!

(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063

(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766

※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。

「デフレか、リフレか」と言われても「はぁ?」なぼくです


これは昨夜の食事です。

妻(保育士)は保育園の夜勤。三人で食べました。

用意したのはぼくですが、自作してません。すいません。

サラダ以外はスーパーのお総菜です。

サラダもすでに千切りされているパックものです。

ぼくがしたのは、トマトを切ったことだけです。

おっと、とんかつも切りました。ソースかけた。

経済学は分かりません。

「デフレか、リフレか」と言われても「はぁ?」です。

でも、そうね、

ものが安いと、自作が億劫になるかもしれませんね。

モチベが上がらないです。

2013年6月6日木曜日

日本に「宗教ブーム」が起こってもキリスト教への順風にはならないだろうと痛感する今日この頃です

ぼくが最近、痛感(?)していることは、

もし仮に、21世紀の日本で「宗教ブーム」なるものが起こっても、キリスト教への順風にはならないでしょ、ということです。

何十年か前までのヨーロッパの教会のように税金(教会税)で支えられてきたのではない、

信者の純粋に自発的な参加によって営まれる教会形態をもつ、

アメリカ経由の日本教会は、

その歴史のほぼ初めから、一種の自由競争原理が事実上持ち込まれた形で営まれてきたわけですから、

ブームが来ると、必ずや「勝ち負け」が問題になりはじめる。

だけど、この自由競争原理における「勝敗」という事の決め方が、どうにもこうにも教会にそぐわない。

うちの教会の年間予算規模はいくら、会員数いくら、教会の歴史何年。

ぼくらは上から何番目。

だから、何?

そういうこと言わなきゃ、まだいいんですけどね。互いが互いを尊重しあう自由選択原理ならば。

でも、そういうふうにはなりにくいですよね。数字はリアル。無視はできない。

「それは宗教です」というのが、今ではほとんど悪口の意味でしか言われなくなっていることを、ぼくはやっぱり悲しいと思っています。

教会というかキリスト教が「宗教」というラベルでカテゴライズされることには釈然としないものが、ぼくにもあります。

でも、その思いはたぶん、

仏教や神道やその他の教義・教説とはクオリティが違うので、というような(鼻もちならない)発想から出ている可能性があります。ぼくの場合は、です。

「宗教じゃない」と言ってみたところで、じゃあ何なのかと、看板をいろいろ掛け替えてみても、

結局、仏教や神道、あるいはイスラム教やヒンズー教と同じあるいは近接したラベルを貼られることになるだろうと思います。

オランダの大学の例で言えば、

やってることは結局「神学部」と同じだと思うんですけど、

faculteit van godgeleerdheid(神学部)のgodgeleerdheidは「宗教」(religie)の意味でもあるので、

キリスト教以外の宗教も含めた「宗教学部」になりました。

それは19世紀くらいの話です。

20世紀になると、事実上同じ内容のことをlevens- en wereldse beschauungen(人生観・世界観)とか呼び替えてみたり、

さらに最近では、geesteswetenschap(精神科学)をやってます、というような看板の掛け替えをやっているところもあるようです。

でも、発想の根本は古代からほとんど変わっていないので、なんだかな、と忸怩たる思いが残り続けます。

「宗教ブーム」が眉唾ものだと言いたいのではありません。

キリスト教への順風にはならないでしょと、上に書いた文字どおりのことを、ただ考えているだけです。

2013年6月5日水曜日

大学の教壇にゲストで立たせていただけることになりました


どうなることやら予測がつかないので、成り行きに任せていました。

いえ、その、まあ、今年度の(やや個人的なほうの)予定の話です。

PTA関係の活動はすべて引退。大会は無役。中会もわりとのんびり。

今月末と来月初めの2回、

人生初の(そして最後の)大学の教壇にゲストで立たせていただけることになりました。

あとはじっくり腰を据えて、ローマの信徒への手紙の連続講解説教でしょ、

そしていよいよファン・ルーラーの翻訳だなあ、と思っていた...

...のですが、

う~ん、ちょっと方向が変わって来たかも。

今年の後半も楽しくなりそうです。

(でも気が重い。うぅ)

幕の内弁当 398円 676キロカロリー


2013年6月4日火曜日

「今の日本ではキリスト者だからという理由で迫害されることはない」のですが


「今の日本ではキリスト者だからという理由で迫害されることはない」という言葉は、人口に膾炙していると思うし、ぼくもまあ、たまに言います。

で、そういう言葉を口にしているときのぼくたちは、だいたいちょっとヘラヘラ笑っている。

それが悪いわけではない。

ですが、どう言ったらいいのか、表現しにくいのですが、なんとも言えない違和感が、いつもつきまといます。

「人畜無害ですね」と言われているのとほぼ同義語だよな、と思うのに。

「あなたがたが何を言っても、何をしても、大勢に影響はありませんね」と見られていることを意味しているんじゃないかなと思うのに。

「まあ、今ぐらいの程度でやめといてね。それ以上になると叩くからね」と、ほとんど無言で警告されている面もあると思うのに。

まあ、人畜無害ですよ。大勢に影響ない。各個人の心の中の、密やかな趣味の範囲内。

でも、そこでなんとなくヘラヘラ笑ってしまう、ぼくたちのその顔が、ちょっとだけ悔しい気がしなくもありません。ぼくはね。

真剣でないという意味ではないんですけどね。真剣にヘラヘラ笑っている?という感じですかね。

あくまでもぼくの感覚です。

言い方を換えれば、今の日本でキリスト者や教会が迫害を受けないのは、今のまま放置しておいてもこの国を動かす力にはなりえないと思われているからじゃないでしょうか、という意味です。

Facebookのお友達が紹介しておられたので知りましたが、この国の「宗教分布図」は参考になると思います。

この分布状況は、これから100年経っても200年経っても変わらないだろうと思われているから、日本では今のところ迫害もされない。

今でも教会が迫害を受けている国や地域は、教会を放置するとその国を変えてしまうのではないかと思われているから、迫害を受けている。

違いますかね。

迫害は無いほうが、それは有難いし、助かります。

ですが、「かすりもしない」と思われている状態で(ヘラヘラ)笑っているのもどうなんだろうと考え込んでしまった、朝っぱらから憂うつな書き込みでした。

2013年6月3日月曜日

クレムリンの夜景を見ながら

クレムリンの夜景を見ながら

「悲愴」第2楽章を聴いている

電池が切れた牧師がひとり

ぼく、なんで泣いてるんだろ?




【ネタバレ】

今夜、ベートーベンの「悲愴」の第二楽章を聴いて涙が出たのは本当です。

でも、You Tubeの動画ではなく、ほぼ毎日、教会にピアノの練習に来ている、長男の友人(高3)が練習していた「悲愴」第二楽章を聴いてのことです。

急に胸に迫るものがあり、感動しました。

この曲の魅力もさることながら、練習している彼のひたむきさを感じて、ぐっと来ました。

2013年6月2日日曜日

外見と内面は分裂しやすいものです


ローマの信徒への手紙2・25~29

「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはストレートです。「割礼」の話をしています。割礼はユダヤ人の男性が生まれてすぐ受けるものです。それはユダヤ人であることの外見上のしるしです。

しかし、パウロは言います。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」(25節)。これはどういうことでしょうか。ユダヤ人が割礼を受けることの意義は、割礼を受けなければならないと聖書が命じているとおりを行っていることを示すことにあるのであり、つまり聖書の教えに忠実であることのしるしであるはずである。ところが、実際の彼らはそうではないと、パウロは言いたいのです。

彼らは聖書の教えに忠実でない。至るところで違反し続けている。彼らの心の中は神に背く思いでいっぱいである。それなのに、彼らは外見上のしるしを持っていることを誇りにする。まるで自分は世界の中で最も聖書の教えに忠実であるかのように言う。しかし、実際はそうではない。もし彼らが聖書の教えに忠実でないならば、外見上のしるしは無効である。割礼を受けていないのと同じである。そのようにパウロは言いたいのです。

彼は逆のことも書いています。「だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の言葉を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから」(26~27節)。

割礼を受けていない人とは、ユダヤ人以外の人を指しますので、異邦人です。それは生まれたときから聖書に基づく宗教教育を受けるというようなことをしていない人です。両親または片親が、聖書の宗教とは異なる宗教を持っていたとか、あるいは何の宗教も持っていない人であり、子どもの教育において聖書の宗教の立場に立つということをしたことがなく、子どもたちもそのようなことを教えられたことがない。そして、割礼というような外見上のしるしを持っていない人、それが異邦人です。

しかし、たとえ、生まれにおいても育ちにおいてもそのような経験が全く無かったような人でも、聖書の教えを学ぶことはできます。そして、聖書に示されている神を信じ、神の教えに従って生きる決心と約束をし、そのような生活を始めることができるし、続けることができます。そういう人たちは、実際には割礼を受けてはいないけれども、神の目から見れば、事実上割礼を受けているのと同じ扱いを受けて然るべきでしょうとパウロは言いたいのです。かなり過激な言い方でもあると思います。

しかも、パウロは、とくに異邦人が割礼を受けるべきかどうかという問題については一家言持っている人でした。そのことが使徒言行録の15章に記されています。パウロのいわゆる第一回伝道旅行が終わった後、エルサレムで世界初の教会会議が開かれました。そこに集まったのは使徒たちでした。その会議にパウロも出席しました。

パウロとしては、異邦人たちにキリスト教を宣べ伝え、その人々がイエス・キリストを信じ、洗礼を受ける決心と約束をし、教会生活を始めた場合、その人々にそれ以上の負担をかけてはならないと考えていました。

ところが、そのパウロの考えに反対する人たちがいました。彼らの主張は、異邦人が洗礼を受けてキリスト者になった場合、その人はさらに割礼を受けなくてはならないというものでした。そうでなければ不十分である、洗礼と割礼はワンセットであると彼らは考えました。

なぜ彼らがそのように考えたのかは、はっきりとは分かりません。しかし、一つ思い当たることがあります。わたしたちが教会で受ける洗礼は、わたしたちの外見上のしるしにはならないという問題です。

西暦一世紀の教会の洗礼は、いまわたしたちの教会で行っているような形式とは異なるものでした。わたしたちの洗礼はいわゆる滴礼と言い、頭の上に少量の水を注ぐだけです。しかし、西暦一世紀の教会の洗礼は浸礼と言い、実際の川に行って全身を水に浸すというようなやり方でした。現代の教会の中にも、西暦一世紀の教会のやり方にならって、浸礼を行っている教会もあります。しかし、日本キリスト改革派教会で浸礼を行っている教会があると聞いたことはありません。

しかし、滴礼にせよ浸礼にせよ、それを受けたからといって、わたしたちの体に外見上のしるしが残るということはありません。もしかしたら、西暦一世紀のエルサレム会議の中でパウロに反対して、洗礼だけでは足りない、割礼を受けなければならないと主張した人たちは、そのことを嫌がったのかもしれません。

洗礼は外見上のしるしにはならない。そうだとすれば、もし迫害を受けた場合、私は神など信じていないし、教会になど通っていないと、言い逃れることができるかもしれない。自分の都合で、自分の信仰を隠すことができるかもしれない。

しかし、もし彼らが洗礼だけではなく割礼をも受け、外見上のしるしを身に帯びることになれば、言い逃れはできなくなる。そこまで行かなければ、本物の信仰者とは言えない。このような理由から、すべてのキリスト者は割礼を受けるべきであると、その人々は主張したのではないでしょうか。これはあくまでも私の想像にすぎません。別の理由があったかもしれません。

しかしパウロはそのような考え方には立ちませんでした。すべてのキリスト者が割礼を受ける必要はないと主張しました。イエス・キリストに対する信仰をもって生きることに外見上のしるしは不要である。そのようなしるしを持っているということで安心してしまうことは危険であると考えました。

なぜ危険なのかといえば、そのような外見上のしるし自体が、一種の偶像になってしまうからです。このしるしがあるから、私はもう大丈夫。このしるしを持っていない人々は、しるしを持っているわたしたちよりも劣っている。このような考え方をしはじめた途端、その信仰は堕落しはじめるのです。

もっともパウロ自身は割礼を受けていました。彼はユダヤ人の家庭に生まれたからです。ですから、彼は自分自身の割礼を否定しているわけではありませんし、否定することはできません。割礼は一度受けると、二度と取り消すことはできないからです。

また、ユダヤ人である人が割礼を受けることに反対しているわけでもありません。割礼を受けた人は、割礼を受けていない人よりも信仰的に優れているという考え方を持っていなかっただけです。

パウロが批判しているのは、今はまだ割礼を受けていない異邦人がキリスト教の洗礼を受けた場合、それに加えて割礼をも受けなければならないと、異邦人キリスト者たちに要求するユダヤ人キリスト者たちの押しつけがましさです。それをパウロが嫌がったのです。

エルサレム会議の結果は、パウロの立場を認めるものでした。人はただイエス・キリストを信じる信仰のみによって救われるのであり、割礼を受けることはその人が救われているかどうかのしるしではない。そのように西暦一世紀の教会会議は決議しました。その決議は今に至るまで有効です。

しかし、この論争の火種は、エルサレム会議が終わってからもしばらくの間、くすぶり続けたのではないかと思われます。ローマの信徒への手紙はその会議のずっと後に書かれたものですが、今日の個所に書かれていることの中にも、その論争の残した禍根が反映されていると見ることができます。

わたしたちが忘れてはならないことは、パウロ自身もユダヤ人であったということです。しかし、彼は自らもそうであるユダヤ人に対して、たいへん厳しい言葉を書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(29節)。

ユダヤ人たちにとって割礼を受けているということは、誇りであるようです。どういうふうに誇るのか具体的な場面が思い浮かびませんが、とにかくそのようなものであるようです。しかし、外見を誇るだけで内面が伴わない人はユダヤ人ではない。自分たちが何ものかであるかのように誇る資格はないと、パウロは言っているのです。もっと謙遜になれと言っているのです。そのことは、もちろん私も賛成です。パウロの言うとおりだと思います。

しかし、ここで一つ考えさせられることがあります。

私自身は、キリスト者が割礼を受けるべきであるなどと言いたいわけではありません。全く違います。しかし、先ほど少し申し上げましたように、わたしたちが教会で受ける洗礼は、外見上のしるしにはなりません。わたしたちの頭や体に、洗礼の水が今でもついたままということはありません。

洗礼式の写真を撮れば、それが証拠になるということはあるかもしれません。あるいは、もちろん、わたしたちが洗礼を受けるということは教会の会員になるということを意味しているのであり、教会の会員名簿にわたしたちの名前が登録されますので、わたしたちが洗礼を受けているかどうかは、教会に問い合わせていただけば確認することはできます。

しかし、わたしたちの洗礼式に立ち会ったとか、教会の会員名簿を見たとか、そういうことをしたことがない人の前で、わたしたちが洗礼を受けているかどうかは、ある意味で全く分からない面があるということも否定できません。

意地悪な言い方かもしれませんが、隠す気になれば隠せます。自分の心の中で無かったことにすれば、そういうふうにしてしまうことも全くできないとは言えないのです。

それが何を意味するのかということは、今日は申し上げないでおきます。しかし私は、そのことを悪いことだとは思っていません。

わたしたちの洗礼は外見上のしるしにならない。わたしたちが信仰をもって生きているかどうかは、割礼や入れ墨、あるいはネックレスやペンダントや服装のようなもので見せびらかすことはできない。

だからこそ、わたしたちに徹底的に問われるのは、わたしたちの内面であるということは、わたしたちにとって悪いことではなく、良いことであると私は思うのです。

わたしたちにとって重要なことは徹底的に内面性であるということを明らかにするために、パウロの言葉を次のように言い換えてみるとよいのです。

「外見上のキリスト者がキリスト者ではなく、また、肉に施された外見上の洗礼(そんなものはないのですが!)が洗礼ではありません。

 内面がキリスト者である者こそキリスト者であり、文字ではなく“霊”によって心に施された洗礼こそ洗礼なのです。

 その誉れは人からではなく、神から来るのです」。

(2013年6月2日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年5月31日金曜日

我々人間のすっきり感というのは、けっこう残酷な面があると思うんです

暗喩的に書きますが、

我々人間のすっきり感というのは、けっこう残酷な面があると思うんです。

だんしゃりだかナニしゃりだかぼくには分かりませんが、部屋の中に何も無くなればそりゃすっきりするでしょうけど、そんなにすっきりさせたければ、いっそ真空の中に生きられたら、と言いたくもなる。

そりゃ孤独になると思いますよ。だって、この世界はすっきりしたい人の思いどおりになんかならないもの。「ぼくら邪魔なのね」と感じた人たちは、みんな去っちゃう。

「そ し て、だ れ も い な く な っ た」

孤独でもいいんならいいですけど、そうでもないんでしょ。人恋しさはある。だけど、すっきりしたい、させたい。そりゃ無理ですよ。

どっちかですよ。自分はすっきりしたいけど、孤独もイヤなんて、贅沢贅沢。

孤独がイヤなら混濁。すっきりしたいなら真空。

だけど、教会はひとに「真空生活」(バキュームライフ、ですかね)を勧めたりすべきじゃないです。

それだけははっきりしてると思いますよ。

暗喩です、暗喩。これ。

斬って済むなら簡単ですわバルト先生

以前はスカイプ、現在はグーグルプラス(ハングアウト)で続けている「カール・バルト研究会」(原則各週金曜日)で読んでいる『教義学要綱』から現時点までに得てきた印象をひとこと。

『教義学要綱』といい、カール・バルトの文章といい、今回初めて読んだというわけではないのですが、改めて読み直してみて思うことは、

良い意味でも、またあまり良くない意味でも「すっきりさせようとした神学」だな、ということです。このことは研究会のみんなと共有している思いです。

教科書通りに言えば、19世紀の文化的プロテスタンティズム(福音のサロン化、でしたっけ)へのアンチテーゼとして登場したバルト。「斬る」んですよね、斬(ざん)ていう字を使いたくなる、ぶったぎり。

こんなふうに、だれもが言えたら、気持ちいいだろうに。

でも、ぶったぎりの爽快感だけが、神学の醍醐味なわけでもない。

いろんなことを考えながら、みんなでバルト読んでます。

2013年5月28日火曜日

ポエムの続きを書きました。「続・無題(笑)」

ポエムの続き。これもフィクション。就寝前の儀式(子どもか)。

------------------------------------------------------------------

「続・無題(笑)」

                   関口 康


勝ち負けを決めなくてはならない世界が、とにかく嫌いでした。

何ごとも遅かったので、やんやと急き立てられ、結局中断を余儀なくされました。

かろうじて人並みになれたのは、給食を食べる速さくらいでした。

牛乳を飲む速さまで

競って勝って「へへぇ」という顔をしたがるやつはいました。

勝ちたいとは思いませんでした。どうでもいいわ。

困りはじめたのは、勉強に関する闘争心が皆無であることを自覚した頃です。

それは今も続いています。

競争相手が多そうな分野には手を出さないようになりました。

「ここにはそういう相手はいないだろう」と思うところを探すようになりました。

○ん○くとか、オ○ン○語とか、○ァン・○ー○ーとか。

すべての競争から逃避した結果、

たぶん国内では未開拓の分野に辿り着きました。

「すきま産業」とはよく言ったものです。

「すきま人生」はエキサイティグです!

いま願っていることは競争相手が出てくることです。

そうしたら「どうぞどうぞ」と譲ります。

終生ぼくは楽な人生です。らくちん、らくちん。

(完)