2013年6月3日月曜日

クレムリンの夜景を見ながら

クレムリンの夜景を見ながら

「悲愴」第2楽章を聴いている

電池が切れた牧師がひとり

ぼく、なんで泣いてるんだろ?




【ネタバレ】

今夜、ベートーベンの「悲愴」の第二楽章を聴いて涙が出たのは本当です。

でも、You Tubeの動画ではなく、ほぼ毎日、教会にピアノの練習に来ている、長男の友人(高3)が練習していた「悲愴」第二楽章を聴いてのことです。

急に胸に迫るものがあり、感動しました。

この曲の魅力もさることながら、練習している彼のひたむきさを感じて、ぐっと来ました。

2013年6月2日日曜日

外見と内面は分裂しやすいものです


ローマの信徒への手紙2・25~29

「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはストレートです。「割礼」の話をしています。割礼はユダヤ人の男性が生まれてすぐ受けるものです。それはユダヤ人であることの外見上のしるしです。

しかし、パウロは言います。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」(25節)。これはどういうことでしょうか。ユダヤ人が割礼を受けることの意義は、割礼を受けなければならないと聖書が命じているとおりを行っていることを示すことにあるのであり、つまり聖書の教えに忠実であることのしるしであるはずである。ところが、実際の彼らはそうではないと、パウロは言いたいのです。

彼らは聖書の教えに忠実でない。至るところで違反し続けている。彼らの心の中は神に背く思いでいっぱいである。それなのに、彼らは外見上のしるしを持っていることを誇りにする。まるで自分は世界の中で最も聖書の教えに忠実であるかのように言う。しかし、実際はそうではない。もし彼らが聖書の教えに忠実でないならば、外見上のしるしは無効である。割礼を受けていないのと同じである。そのようにパウロは言いたいのです。

彼は逆のことも書いています。「だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の言葉を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから」(26~27節)。

割礼を受けていない人とは、ユダヤ人以外の人を指しますので、異邦人です。それは生まれたときから聖書に基づく宗教教育を受けるというようなことをしていない人です。両親または片親が、聖書の宗教とは異なる宗教を持っていたとか、あるいは何の宗教も持っていない人であり、子どもの教育において聖書の宗教の立場に立つということをしたことがなく、子どもたちもそのようなことを教えられたことがない。そして、割礼というような外見上のしるしを持っていない人、それが異邦人です。

しかし、たとえ、生まれにおいても育ちにおいてもそのような経験が全く無かったような人でも、聖書の教えを学ぶことはできます。そして、聖書に示されている神を信じ、神の教えに従って生きる決心と約束をし、そのような生活を始めることができるし、続けることができます。そういう人たちは、実際には割礼を受けてはいないけれども、神の目から見れば、事実上割礼を受けているのと同じ扱いを受けて然るべきでしょうとパウロは言いたいのです。かなり過激な言い方でもあると思います。

しかも、パウロは、とくに異邦人が割礼を受けるべきかどうかという問題については一家言持っている人でした。そのことが使徒言行録の15章に記されています。パウロのいわゆる第一回伝道旅行が終わった後、エルサレムで世界初の教会会議が開かれました。そこに集まったのは使徒たちでした。その会議にパウロも出席しました。

パウロとしては、異邦人たちにキリスト教を宣べ伝え、その人々がイエス・キリストを信じ、洗礼を受ける決心と約束をし、教会生活を始めた場合、その人々にそれ以上の負担をかけてはならないと考えていました。

ところが、そのパウロの考えに反対する人たちがいました。彼らの主張は、異邦人が洗礼を受けてキリスト者になった場合、その人はさらに割礼を受けなくてはならないというものでした。そうでなければ不十分である、洗礼と割礼はワンセットであると彼らは考えました。

なぜ彼らがそのように考えたのかは、はっきりとは分かりません。しかし、一つ思い当たることがあります。わたしたちが教会で受ける洗礼は、わたしたちの外見上のしるしにはならないという問題です。

西暦一世紀の教会の洗礼は、いまわたしたちの教会で行っているような形式とは異なるものでした。わたしたちの洗礼はいわゆる滴礼と言い、頭の上に少量の水を注ぐだけです。しかし、西暦一世紀の教会の洗礼は浸礼と言い、実際の川に行って全身を水に浸すというようなやり方でした。現代の教会の中にも、西暦一世紀の教会のやり方にならって、浸礼を行っている教会もあります。しかし、日本キリスト改革派教会で浸礼を行っている教会があると聞いたことはありません。

しかし、滴礼にせよ浸礼にせよ、それを受けたからといって、わたしたちの体に外見上のしるしが残るということはありません。もしかしたら、西暦一世紀のエルサレム会議の中でパウロに反対して、洗礼だけでは足りない、割礼を受けなければならないと主張した人たちは、そのことを嫌がったのかもしれません。

洗礼は外見上のしるしにはならない。そうだとすれば、もし迫害を受けた場合、私は神など信じていないし、教会になど通っていないと、言い逃れることができるかもしれない。自分の都合で、自分の信仰を隠すことができるかもしれない。

しかし、もし彼らが洗礼だけではなく割礼をも受け、外見上のしるしを身に帯びることになれば、言い逃れはできなくなる。そこまで行かなければ、本物の信仰者とは言えない。このような理由から、すべてのキリスト者は割礼を受けるべきであると、その人々は主張したのではないでしょうか。これはあくまでも私の想像にすぎません。別の理由があったかもしれません。

しかしパウロはそのような考え方には立ちませんでした。すべてのキリスト者が割礼を受ける必要はないと主張しました。イエス・キリストに対する信仰をもって生きることに外見上のしるしは不要である。そのようなしるしを持っているということで安心してしまうことは危険であると考えました。

なぜ危険なのかといえば、そのような外見上のしるし自体が、一種の偶像になってしまうからです。このしるしがあるから、私はもう大丈夫。このしるしを持っていない人々は、しるしを持っているわたしたちよりも劣っている。このような考え方をしはじめた途端、その信仰は堕落しはじめるのです。

もっともパウロ自身は割礼を受けていました。彼はユダヤ人の家庭に生まれたからです。ですから、彼は自分自身の割礼を否定しているわけではありませんし、否定することはできません。割礼は一度受けると、二度と取り消すことはできないからです。

また、ユダヤ人である人が割礼を受けることに反対しているわけでもありません。割礼を受けた人は、割礼を受けていない人よりも信仰的に優れているという考え方を持っていなかっただけです。

パウロが批判しているのは、今はまだ割礼を受けていない異邦人がキリスト教の洗礼を受けた場合、それに加えて割礼をも受けなければならないと、異邦人キリスト者たちに要求するユダヤ人キリスト者たちの押しつけがましさです。それをパウロが嫌がったのです。

エルサレム会議の結果は、パウロの立場を認めるものでした。人はただイエス・キリストを信じる信仰のみによって救われるのであり、割礼を受けることはその人が救われているかどうかのしるしではない。そのように西暦一世紀の教会会議は決議しました。その決議は今に至るまで有効です。

しかし、この論争の火種は、エルサレム会議が終わってからもしばらくの間、くすぶり続けたのではないかと思われます。ローマの信徒への手紙はその会議のずっと後に書かれたものですが、今日の個所に書かれていることの中にも、その論争の残した禍根が反映されていると見ることができます。

わたしたちが忘れてはならないことは、パウロ自身もユダヤ人であったということです。しかし、彼は自らもそうであるユダヤ人に対して、たいへん厳しい言葉を書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(29節)。

ユダヤ人たちにとって割礼を受けているということは、誇りであるようです。どういうふうに誇るのか具体的な場面が思い浮かびませんが、とにかくそのようなものであるようです。しかし、外見を誇るだけで内面が伴わない人はユダヤ人ではない。自分たちが何ものかであるかのように誇る資格はないと、パウロは言っているのです。もっと謙遜になれと言っているのです。そのことは、もちろん私も賛成です。パウロの言うとおりだと思います。

しかし、ここで一つ考えさせられることがあります。

私自身は、キリスト者が割礼を受けるべきであるなどと言いたいわけではありません。全く違います。しかし、先ほど少し申し上げましたように、わたしたちが教会で受ける洗礼は、外見上のしるしにはなりません。わたしたちの頭や体に、洗礼の水が今でもついたままということはありません。

洗礼式の写真を撮れば、それが証拠になるということはあるかもしれません。あるいは、もちろん、わたしたちが洗礼を受けるということは教会の会員になるということを意味しているのであり、教会の会員名簿にわたしたちの名前が登録されますので、わたしたちが洗礼を受けているかどうかは、教会に問い合わせていただけば確認することはできます。

しかし、わたしたちの洗礼式に立ち会ったとか、教会の会員名簿を見たとか、そういうことをしたことがない人の前で、わたしたちが洗礼を受けているかどうかは、ある意味で全く分からない面があるということも否定できません。

意地悪な言い方かもしれませんが、隠す気になれば隠せます。自分の心の中で無かったことにすれば、そういうふうにしてしまうことも全くできないとは言えないのです。

それが何を意味するのかということは、今日は申し上げないでおきます。しかし私は、そのことを悪いことだとは思っていません。

わたしたちの洗礼は外見上のしるしにならない。わたしたちが信仰をもって生きているかどうかは、割礼や入れ墨、あるいはネックレスやペンダントや服装のようなもので見せびらかすことはできない。

だからこそ、わたしたちに徹底的に問われるのは、わたしたちの内面であるということは、わたしたちにとって悪いことではなく、良いことであると私は思うのです。

わたしたちにとって重要なことは徹底的に内面性であるということを明らかにするために、パウロの言葉を次のように言い換えてみるとよいのです。

「外見上のキリスト者がキリスト者ではなく、また、肉に施された外見上の洗礼(そんなものはないのですが!)が洗礼ではありません。

 内面がキリスト者である者こそキリスト者であり、文字ではなく“霊”によって心に施された洗礼こそ洗礼なのです。

 その誉れは人からではなく、神から来るのです」。

(2013年6月2日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年5月31日金曜日

我々人間のすっきり感というのは、けっこう残酷な面があると思うんです

暗喩的に書きますが、

我々人間のすっきり感というのは、けっこう残酷な面があると思うんです。

だんしゃりだかナニしゃりだかぼくには分かりませんが、部屋の中に何も無くなればそりゃすっきりするでしょうけど、そんなにすっきりさせたければ、いっそ真空の中に生きられたら、と言いたくもなる。

そりゃ孤独になると思いますよ。だって、この世界はすっきりしたい人の思いどおりになんかならないもの。「ぼくら邪魔なのね」と感じた人たちは、みんな去っちゃう。

「そ し て、だ れ も い な く な っ た」

孤独でもいいんならいいですけど、そうでもないんでしょ。人恋しさはある。だけど、すっきりしたい、させたい。そりゃ無理ですよ。

どっちかですよ。自分はすっきりしたいけど、孤独もイヤなんて、贅沢贅沢。

孤独がイヤなら混濁。すっきりしたいなら真空。

だけど、教会はひとに「真空生活」(バキュームライフ、ですかね)を勧めたりすべきじゃないです。

それだけははっきりしてると思いますよ。

暗喩です、暗喩。これ。

斬って済むなら簡単ですわバルト先生

以前はスカイプ、現在はグーグルプラス(ハングアウト)で続けている「カール・バルト研究会」(原則各週金曜日)で読んでいる『教義学要綱』から現時点までに得てきた印象をひとこと。

『教義学要綱』といい、カール・バルトの文章といい、今回初めて読んだというわけではないのですが、改めて読み直してみて思うことは、

良い意味でも、またあまり良くない意味でも「すっきりさせようとした神学」だな、ということです。このことは研究会のみんなと共有している思いです。

教科書通りに言えば、19世紀の文化的プロテスタンティズム(福音のサロン化、でしたっけ)へのアンチテーゼとして登場したバルト。「斬る」んですよね、斬(ざん)ていう字を使いたくなる、ぶったぎり。

こんなふうに、だれもが言えたら、気持ちいいだろうに。

でも、ぶったぎりの爽快感だけが、神学の醍醐味なわけでもない。

いろんなことを考えながら、みんなでバルト読んでます。

2013年5月28日火曜日

ポエムの続きを書きました。「続・無題(笑)」

ポエムの続き。これもフィクション。就寝前の儀式(子どもか)。

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「続・無題(笑)」

                   関口 康


勝ち負けを決めなくてはならない世界が、とにかく嫌いでした。

何ごとも遅かったので、やんやと急き立てられ、結局中断を余儀なくされました。

かろうじて人並みになれたのは、給食を食べる速さくらいでした。

牛乳を飲む速さまで

競って勝って「へへぇ」という顔をしたがるやつはいました。

勝ちたいとは思いませんでした。どうでもいいわ。

困りはじめたのは、勉強に関する闘争心が皆無であることを自覚した頃です。

それは今も続いています。

競争相手が多そうな分野には手を出さないようになりました。

「ここにはそういう相手はいないだろう」と思うところを探すようになりました。

○ん○くとか、オ○ン○語とか、○ァン・○ー○ーとか。

すべての競争から逃避した結果、

たぶん国内では未開拓の分野に辿り着きました。

「すきま産業」とはよく言ったものです。

「すきま人生」はエキサイティグです!

いま願っていることは競争相手が出てくることです。

そうしたら「どうぞどうぞ」と譲ります。

終生ぼくは楽な人生です。らくちん、らくちん。

(完)

2013年5月27日月曜日

進化論に対して教会はどのように答えるのか

Facebookでご質問をいただいたことに、コメント欄でお応えしました。せっかくですから、ブログに貼りつけておきます。

■ ご質問(要旨):

「『日本キリスト改革派教会では進化論に対してどのように答えるのか。先日、求道者が進化論を否定するキリスト教につまずいて教会に来なくなったので、改革派教会ではどう考えるか聞きたい』と問われたことにどう答えたらよいか。この分野で論じている資料でいいのはないか。こういう問題について説得を努力しても、それで信仰に入ると言うことはあまりないと思っている」

■ なんら権威のない関口康の応え:

ご質問ありがとうございます。実は私も最近、いろんな場所でその話題になり、そのたびに頭をひねっています。

私は、高校時代から理科系はからきしで、赤点常連者でした。しかし、神学の言うところの「弁証学」も、私は弱いですね。キリスト教の真理を固く護ろうとしても、たぶんすぐに言い負かされてしまいます。頼りない牧師です。

そんな感じですので、納得していただける答えのようなものは書けそうにないのですが(申し訳ありません)、創造論と進化論、というか、神学と物理学、というか、信仰と科学、というか、の関係については、ごくシンプルで大雑把な考えをもっています。

それは、ちょっとかっこよく哲学用語っぽくいえば、「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」の関係、だと考えています。

雑に訳せば「ア・プリオリ」は「前から」、「ア・ポステリオリ」は「あとから」。

進化論なり物理学なり科学なりの認識は、すでに存在する事物を「あとから」調査・観察・分析したデータに基づき、事物の発生起源や発展過程について「あとから前へとさかのぼって」推論することにおいて得られる認識、ですよね。

その意味で、進化論なり物理学なり科学なりの認識は「ア・ポステリオリ」だと、私は思います。

しかし、創造論なり神学なり信仰なりの認識は、そういうものとは違う。全く違うとも言い切れないのですが、順序が逆さまな感じです。

「ア・プリオリ」、つまり「前からあとへと」考えていく思考回路があると思います。信仰を前提にして世界を見る感じです。

この件に関する最近の本をご紹介したいところですが、申し訳ないことに、私は全くフォローできていません。ちょっと調べてみますね。

私が「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」という整理の仕方を学んだのは、記憶が間違いでなければ、T. F. トーランス『空間・時間・復活』(小坂宣雄訳、ヨルダン社、1985年)という本だったと思います。

この本の日本語版が出版された直後に、早稲田大学のキリスト者学生たちの自主ゼミ(指導教授 岩波哲男先生)に混ぜてもらって読みました。

トーランスはスコットランドのプロテスタント神学者で、カール・バルトの『教会教義学』を英訳したことで知られる人です。しかし、科学と神学の関係についてはバルトとは異なる考え方をもっていたと言われています。私はトーランスのことをそれほど詳しく知っているわけではありません。

おっしゃるとおり、この問題について説得を努力しても、それで信仰に入る、ということはあまりないことは確かだと私も思います。

ただ、私がこれまで出会ってきた方々とのやりとりの中から得たごく素朴な印象からいえば、

進化論なり物理学なり科学なりを専門的に研究してこられた方々の立場を、教会が創造論の立場から非難・攻撃・罵倒・中傷する、というようなことをすると、その方々が教会に来たくても来れなくなってしまう(居場所を奪ってしまう)ということがあるように思います。

もちろん逆のケースもありましたし、今もあります、よね。

ドーキンスさんとかのようにキリスト教はいかに間違っているかを「証明」するために科学なり物理学なり進化論を持ち出すというような仕方で、教会と教義を攻撃してくる人々もいます。そんなことをあからさまにしてくる人たちと教会はうまくやっていけるとは思いません。

妥協とか折衷とか中庸とか、そのようなことを私が考えているわけではないのですが、共存は可能であると思っています。一つの大学の中に神学部と理工学部や医学部が共存することは十分可能です。

ただし、「共存」の可能性を探る場合、理工学部や医学部のキリスト者学生たちは「キリスト教的物理学」や「キリスト教的医学」なるものを考えなくてはならないのかということは、おそらく必ず問題になると思います。

たとえば、キリスト教の洗礼を受けた人がおこなう計算や実験と、洗礼を受けていない人がおこなう計算や実験とが異なる解や結果を出すということがありうるのだろうか、というような問いの立て方がありうると思います。「異なる」と言い切る人もいますし、「同じじゃないか」と答える人もいます。

ところで、最初のご質問にお答えしていませんでした。「改革派教会ではどう考えるのか」ですよね。

どうでしょうか。私の印象では、20年くらい前(1980年代)までは「対立・対決」という姿勢がわりと鮮明にあったのではないでしょうか。その頃の私は日本キリスト改革派教会のメンバーではありませんでしたが。

しかし、1990年代以降あたりから「対立・対決」の姿勢は緩和・後退し、少なくとも共存模索の方向はあるのではないかと思います。

この問題については、聖書論を扱った「日本キリスト改革派教会 創立40周年宣言」(1986年)が教派全体に与えた影響は大きいと思います。いわゆるファンダメンタリズムからの脱却の方向が出たと思います。

しかし、私は1997年4月に改革派教会に加入させていただいたルーキーですので、「40周年宣言」のことなどは、伝聞以上のことは知りません。

2013年5月26日日曜日

教会にできることは何か

テモテへの手紙一5・3~16

「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。」

この個所は、現代の社会の中で読まれるとき、ほとんど堪えがたい思いを持ちながら読む人たちも少なからずいるに違いない、そういう部分を含み持っている個所であると、私自身は認識しています。たとえ聖書の御言葉であっても、わたしたちがこういう個所を不用意に持ち出して、女の人はどうのこうの、独身の人はどうのこうの、というような話を軽々しくすべきではありません。私はそのように考えます。

また、この個所には明らかに、パウロの口が滑りすぎというべき、かなり行き過ぎた言及があると言わざるをえません。もしかしたらパウロが現実に知っている何人かの人たちがここに書かれているようなタイプの人たちだったのかもしれないという可能性まで否定することはできません。しかし、そのような話をすべての人に当てはまる話であるかのように引き延ばして語ることは危険です。そのようなことをすると、多くの人の心を傷つけてしまうことになります。

しかしまた、逆の見方もできるかもしれないと、このたび考えてみました。それは、今申し上げたことを逆の順序で考え直してみるだけです。

ここに書かれていることをすべての人に当てはめるのは、とんでもないことです。しかし、パウロが知っている何人かの人々はこういう人々だったということは、語っても構わないわけです。それが歴史的な事実であるとすれば、わたしたちは非常に貴重な歴史資料を手にしていることになります。西暦一世紀の教会の内部の様子が非常によく分かります。当時の教会の中にはなるほどこういう感じの人たちがいたのかというようなことが、手に取るように分かります。

第一に分かることは、当時の教会に入会する際の登録内容の中に、自分が「やもめ」であることを明記する仕組みがあったということです。「やもめ」とは、パウロがこの個所に書いていることによりますと、結婚経験があり、かつ配偶者と死別して独り身になった、60歳以上の女性のことであるようです。
そのような人々に、教会に「やもめ」として登録してもらうことの理由は、この個所の中に言葉として明記されてはいません。しかし、ヒントはたくさんあります。それは「身寄りのない」人であるということや、子や孫や親族がいる場合は、その人々が世話をすべきであると書かれていることなどです。

これでほとんどはっきり分かることは、当時の教会は、身寄りのないやもめの生活を保護するために、今でいうところの高齢者福祉施設のようなものを作って、共同生活を営んでいたに違いないということです。

しかしそれはあくまでも、自活できなくなった人たちの生活の保護です。もっとはっきりいえば、それは、生きていくためのお金の問題です。自分で稼ぐ力がない人々を助けるために、教会が経済的に支援していたのです。だからこそ、自活する力がある人や、蓄えがある人や、家族や親族がいる人は、自分たちで何とかしなさいという意味のことを、パウロは書いているのです。

しかし、これは二千年前の教会も今の教会も同じだと思いますが、教会がそのような人々の生活を助けるとか支えるとかいっても、それは要するに、そのための献金を集めるというような形でするしかないわけです。しかし、今の教会のことを考えても、牧師家庭の生活や中会や大会の負担金を支払うことでほとんど精一杯です。

そのような教会がさらに高齢者たちの生活を支えたいというようなことを考えたとしても、明らかに限度があるわけです。「来る方は拒みません、何人でもどうぞ来てください。すべての方の面倒を見させていただきます」というようなわけには行かない。ある程度、基準を定めて、対象人数を絞る必要が生じます。だからこそ、9節以下のような話になっているのです。

「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」。

しかしこれは、いま申し上げましたとおり、このような基準が設けられた理由として考えられるのは、教会側の経済的な限度という面が大きいと思われますので、逆に言えば、教会がもっと成長し、このような人々を助けられる力が増してくれば、基準を緩和していくこともありうるのだと思います。

しかし、パウロが「若いやもめは登録してはいけません」と書いていることの理由の部分については、さすがに、いくらなんでも言いすぎだと感じなくもありません。しかし、すべての人に押し並べて当てはまるのはとんでもないことですが、人間についての描写力は目に浮かぶようでもあり、文章として面白いとは思います。

しかしまた、パウロを弁護しておきたいと思う面もあります。それは、パウロが書いていることの中でおそらく最も大事なことは、「わたしが望むのは…反対者に悪口の機会を一切与えないことです」という点であるということです。

問題は、ここでパウロが「反対者」と呼んでいるのは、何に反対する人々のことなのかということです。考えられることは次のようなことです。当時の教会の中や外から、教会でそのような支援事業を行うこと自体についての反対の声があったのです。

そうでなくても弱く小さな教会なのに、そんなことのために力を注ぎ、お金を使うべきではない。もっと別のことに、力を注ぎ、お金を使うべきであるというような批判の声があがっていた。そのような非難・中傷・反対の中で、やもめたちの行状を見て、「ほらやっぱり」と非難され、妨害を受ける可能性があった。

そのような中で、パウロは、この事業は続行されるべきであると言いたかったのです。やもめたちの生活を教会が守らなくて、ほかのどこが守ってくれるのかと。ただ、力のない教会が行うことには限度があるので、いろいろと非難を受けて事業がストップしてしまわないように、気をつけてほしいと、パウロはテモテに伝えているのです。

現代社会においては、社会や政治の中に社会福祉の仕組みが整備されていますので、高齢者の福祉事業などに関して、教会がいろいろと抱え込まなくてもよいようになっています。しかし、社会福祉からも締め出されてしまい、最終的にどこにも頼るところが無くなって、教会に助けを求めてくる方もおられます。そのとき教会は何をすることができるでしょうか。そのような課題を考えていくときに、この個所に書かれていることは、大いに参考になると思います。

(2013年5月26日、松戸小金原教会主日夕拝) ※夕拝の説教題は、ブログ用に変更しました。

矛盾だらけの人生でも誠実でありたい

ローマの信徒への手紙2・17~24

「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と書いてあるとおりです。」

今日もローマの信徒への手紙を開きました。いまお読みしました個所に書かれているパウロの言葉は、たいへん厳しい内容をもっています。あなたはユダヤ人と名乗り」(17節)と書かれてあるとおり、直接的にはユダヤ人に対する批判の言葉であると言えます。ユダヤ人は「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえて」(17~18節)いる人たちです。

しかし、前回もお話ししたとおり、この文脈でパウロが「律法」と書いている言葉はそのほとんどすべてを「聖書」という言葉に読み替えることができます。ユダヤ人は聖書に頼り、神を誇りとして生きている人々です。そしてもしそうであるならば、わたしたちキリスト者も同じです。わたしたちには新約聖書がありますので、新約聖書にも頼って生きているという点でユダヤ人とは異なる、という言い方もできなくはありません。しかし、わたしたちキリスト者は旧約聖書にも頼って生きています。わたしたちにとっては旧約聖書と新約聖書を合わせて聖書です。

ですから、今日の個所でパウロが批判している相手がユダヤ人であることは間違いありませんが、その批判の矛先にわたしたちキリスト者は含まれていないと考えることはできません。わたしたちのことも批判されていると読むべきです。

しかしまた、この言葉を書いているパウロ自身がユダヤ人であり、かつキリスト者であるという点が、おそらく最も重要です。パウロは聖書に頼って生きている人々が抱え持つ矛盾に注目し、その点について厳しく批判しています。その場合の聖書に頼って生きている人々の中にはユダヤ人だけではなく、わたしたちキリスト者も含まれています。しかしまた、その人々の中には必ず、パウロ自身が含まれています。

つまり、パウロは悪い意味で自分のことを棚に上げて批判の言葉を書いているわけではないのです。自分の身を切るような言葉を書いています。このことを言えば確実に自分自身の身にも返ってくるようなことを、あえて書いています。

私が言うのはおかしいかもしれませんが、おそらくパウロは、そうとう真面目な人です。自分自身にとって不利になるようなことも書いたり語ったりすることができる人です。自己弁護をしません。問題がある人々を批判もしますが、同じ言葉で自分が批判されることになることを恐れません。そういうことができる人は物事を勝ち負けで考えない人だと思います。ディベートが好きな人々がいます。その中に、議論に勝つか負けるかだけが問題である人がいます。パウロはそういう人ではないと申し上げたいのです。

「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(19~20節)と続いています。最後に「教師」と書かれていることは無視できません。なぜなら、いくらなんでも、パウロが「ユダヤ人」のすべてを「教師」であると考えていたとは思えないからです。むしろ考えられることは、パウロが批判しているのは、聖書に頼って生きている人々であるという以上に、聖書の御言葉に基づいて人を教える教師たちであるということです。

その教師の中に「長老」は含まれていないのかという疑問が生じるかもしれません。あるいは教会役員や教会員。含まれていると読むこともできますし、含まれていないと読むこともできるでしょう。私が重要だと思いますことは、「ああ、パウロが書いていることは教師だけの問題なのか。それならば、わたしたちには関係ないことだ」というふうに考えないほうがよいという点です。なぜその点が重要なのかといえば、パウロがあえて自分自身の身を切るような苦しい言葉を書いている意図は、それはやはり、彼の言葉を読む人たちに反省を促すことに他ならないと思われるからです。

彼は明らかに自分自身が矛盾に苦しんでいます。彼の心と体には激しい痛みがあります。彼の痛み苦しむ姿を読者に想像してもらいたいと願っているように、私には読めます。そしてパウロとしては、おそらく読者にも彼が味わっているのと同じ痛みを味わってもらいたいとも願っています。おそらく彼は読者にも苦しんでもらいたいのです。パウロはいじめっ子ではありません。しかし、神に逆らい、罪を犯すことは、これほどまでに自分自身を苦しめ、周りの人々を苦しめるものであるということを、自分自身も苦しみながら訴えているのです。

「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか」(21~22節)。このようにパウロが書いていることを「矛盾」という言葉で説明するのは間違っていると思われてしまうかもしれません。矛盾というよりも虚偽ではないか。うそをつき、人をだましているのであって、つまりそれは詐欺である。そのような読み方も可能かもしれません。

かりにも教師を名乗り、聖書の御言葉に基づいて人を教えようという人間であるならば、「盗むな」と説いた後に盗むな。「姦淫するな」と言った後、その舌の根も乾かぬうちに姦淫するな。そのように厳しい裁きを受けなくてはならないのが教師であるということは間違いありません。まさにいま私が申し上げたことがそのまま当てはまる言葉が、新約聖書の中にはっきりと記されています。ヤコブの手紙の次の言葉です。

「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」(ヤコブ3・1~2)。

ご存じの方もおられると思いますのでほんの少しだけ触れておきますが、ヤコブの手紙は16世紀の宗教改革者マルティン・ルターが「藁でできた手紙」と呼び、価値がないとみなしたものです。なぜルターがヤコブの手紙には価値がないと考えたのかを詳しく説明することは今日はできませんが、ひとことだけ言えば、パウロの教えとヤコブの手紙は矛盾するというふうに、ルターには読めたようです。パウロの教えを重んじたいルターにとっては、それと矛盾するヤコブの手紙は、新約聖書に収められたこと自体が間違いだったと言わなければならないほど無価値であると見えたようです。

しかし、それはルターの立場ではありますが、わたしたちはそのような立場は採りません。ヤコブの手紙にも価値があります。とても厳しい言葉が多く書かれていますが、まさに真理と思える言葉が書かれています。「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」。これは、すでに教師の働きに就いている人々こそが聞かなくてはならない言葉です。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」。

しかし、ヤコブもまた「わたしたち教師」と書いていることが重要です。ヤコブは教会の中に教師という職務が置かれること自体が間違いだと言っているのではありません。ヤコブが書いていることはそういう意味ではありません。また、私は立派な教師だが、あなたがたは教師になる資格はないというようなことでもありません。そんなことではありえない。それではヤコブの意図は何なのかといえば、それが、今日開いていただいているローマの信徒への手紙の個所にパウロが書いているのとほとんど同じことであると考えることができると思うのです。

ヤコブが書いているのは教師制度の否定ではなく、自分の身を切る言葉を書いているのです。聖書に基づいて人を裁く仕事をする人は、その人自身も同じ言葉で必ず裁かれることになるし、「教師」という立場にあればもっと厳しい裁きを受けることになる。そのことを十分に自覚した上で教師になるなら、なりなさいと、ヤコブは逆説的なことを書いているのです。そしてパウロが書いていることも、趣旨においては、それと同じことなのです。

それは平たく言えば、教師も人間であるということになります。しかし、人間だから必ず罪を犯すという言い方は間違いです。だから人間は罪を犯すものなのだ、罪を犯してもよいのだ、それが自然な姿なのだなどと居直ることは間違っています。罪に市民権を与えてはなりません。しかし、人間には弱さがあり、欠けがあるゆえに、罪の誘惑に負けてしまう傾向があるということは、聖書が至る所で教えていることです。

そして、いずれにせよそのような罪の前で弱さを持つ人間が、教師になるのです。犬が教師になるわけではないし、牛が教師になるわけではありません。そういうのは通常ありえない話です。人間が教師になるのです。

そして、その人間である教師が「盗むな」と説きながら盗み、「姦淫するな」と言いながら姦淫し、偶像礼拝を禁止しながら偶像を拝むことにもなる。ただし、その場合の盗むとか姦淫するとか偶像を拝むというのは、だれの目から見ても明らかに犯罪であるような公然たるものである場合とは限りません。

キリスト者にとっての律法解釈の基準はイエス・キリストの教えです。それは、兄弟に「ばか」という者はその兄弟を殺したのと同じであり、みだらな思いで他人の妻を見る者は、姦淫を犯したのと同じであるというあのイエス・キリストの教えです。

その基準に当てはめたときに、いかなる意味でも罪を犯すことはありえないと言い張れる人がいるでしょうか。もしかしたらいるのかもしれませんが、何人くらいいるでしょうか。そのような、いかなる意味でも罪を犯さない人だけが教師としてふさわしいという話になるのだとすれば、だれが教師になれるでしょうか。一握りの人も、いや一人も残らないのではないかと思われます。

その意味で、パウロが書いていることは、やはり矛盾です。それはなるほど虚偽でも詐欺でもあるかもしれませんが、それ以上に矛盾です。「他人に教えながら、自分には教えない」と批判されながら人を教える仕事に、だれかが就かなければならない。それは、やはり矛盾なのです。しかし、矛盾だらけの人生でも誠実でありたい。そのような思いがパウロの中にあったと思うのです。

(2013年5月26日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年5月24日金曜日

「第9回 カール・バルト研究会」を行いました

予定どおり、本日(2013年5月24日金曜日)午後9時から11時30分まで、「第9回 カール・バルト研究会」を行いました。

出席者を五十音順で紹介します(敬称は略させていただきます)。

小宮山裕一(茨城県)


関口 康(千葉県)


中井大介(大阪府)


藤崎裕之(北海道)


毎回のことながら非常に盛り上がり、楽しかったです。

テキストは『教義学要綱』の「5. 高きにいます神」の後半部分でした。しゃべり疲れましたので、議論内容のレポートは別の機会にします(レポートしないで忘れてしまう可能性のほうが高いです)。

次回は、記念すべき「第10回」です。6月7日(金)午後9時から11時までの予定です。

キリ番にふさわしい特別企画を考えていますので、どうかお楽しみに。

ポエム書きました。「無題(笑)」


以下、ポエムです。フィクションです。つくりばなし。

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「無題(笑)」

                   関口 康

物心つく頃から、

何をやっても、どんなことでも、実際に競うと必ず負けるので、

競うのが嫌でした。

スポーツだめ。ゲームだめ。楽器弾けない。

学業だめ。語学だめ。日本語もっとだめ。

「負けず嫌い」というレッテルは貼られたくないです。

「勝つのが好き」だったわけじゃないですからね。

負けたくもないし、勝ちたくもない。

勝って「へへぇ」っていう顔をしているやつの、

その顔が嫌いだったから。

あれと同じ顔になるなら、いっそ勝ちたくないと思っていました。

「へへぇ」っていうその顔に

マジックで「バツ!」とか書きたい衝動ありました。

誰とも競わずに済むのはどんな生き方かと考えて、

これなら競わずに済むと気づいたのが○○の仕事でした。

だけど、そうでもないのかなと。

こんなところで勝った負けたみたいなことを

口に出さずとも、顔に出さずとも。

昨日・今日とか、最近とか、

べつに何かあったわけではありません。

むしろ何も無い。何も変わらない。もううんざりなんですけどね。

ずずんと重い、ぼくの宿題です。

勝負の無い世界って死ぬことなのかな。

正しい間違ってるは、あると思いますよ。それは、あるある。

だけど自分の間違いを認めることは負けですかね。

「株、あがるんじゃない?」と思うんだけど。

だけど、周りもだめなのか。

ひとの間違いを指摘するひとが「へへぇ」っていうあの顔してるから。

自分の間違いを認めたくなくなるんだね。

たぶんね。知らんけど。