2012年6月7日木曜日

「総選挙時代」をどう生きるか、みたいな話です。


GACKTって人が、Twitterで3月頃、いまぼくが考えてることを一字たがわず書いてました。

「秋元康さん押しだ。悪いか?」

ま、言ってみりゃそういうことです、ぼくも。

今さら「だれ萌え」とか無いですから。ぼくは妻にしか萌えません(笑)。

強いて言えば「ビジネスモデル」として関心があるだけです(これホント)。

46ですからね、25年前の秋元さんの「失敗」を学生時代に見た者です。

ほとんど無意識ですが、必ず比較しながら見てますよ、昔と今を。

よく反省され、改善されてますよ。単純な反復じゃないです。

もっと言えば、46のぼくは、さらに昔の「スター誕生」を小学生の頃に見てますから、さらに無意識な比較が働いてると思う。

「スター誕生」→「おニャン子」→「AKB」

みたいな系譜で、シロウトの子どもたちが世に出るまでの支援企画を見ていくと、反省と改善の流れが分かるような気がしています。

「総選挙は残酷だ」という見方があるかもしれませんが、数字が示すリアルは、勘違いしてる子たちにきっぱりあきらめさせる意味があると思うし、シメルとかハブルとか、恫喝とかインネンとか、その手のしょうもない支配術が成り立たないでしょ。

正確に48人じゃないのかもしれないけど(そのへん知らないです)、40~50人くらいの女の子ばっかの集まりって、ぼくの目から見れば、高校の吹奏楽部とかチアリーダー部みたいに見えるんです。

もちろん、その中のどの子がカワイイとかの関心が全く無いと言えばウソになりますが、ひとりだけが目立ってても仕方ないじゃないですか。

バランスというか統制というか、そういうのをちゃんと重んじたり保ったりしながらチーム全体に安心や躍動を与えられるリーダー格。

それが誰かっていうのは、ハタから見てればすぐ分かりますよ。

恫喝とかインネンとかでシメタリハブッタリしようとしても、ゼッタイ無理ですね。そういうやり方では全体を壊すだけです。そういうことする人は、「総選挙時代」には、センターにもリーダーにもなれません。

アイドルであるかぎり、絶えず順位とか評価にさらされる。そこに「痛み」が発生する。

順位や評価が嫌なら、アイドルっていう看板のほうはとりあえずおろして、もちっと普通の歌手なり俳優なりダンサーなりの道もあるんじゃないかなと、ぼくは思います。

あ、そうそう。

総選挙じゃないですけど、ちょっとだけ似てるのありますよ、牧師たちにも。

一つは、銀座・教文館の「月間ベストセラー20」(http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/ch_best20)。ここで、キリスト教系のどの本が売れてるかが分かります。

もう一つは、Googleで「説教」とかいう語で検索をかけて表示される順序は、人気なのか何なのかは分かりませんが、とにかく「何か」を物語っているものだと思います。

ちなみに、ぼくの説教のブログは、最近はちっとも更新できてないのですが、Googleで「今週の説教」という語で検索をかけると、今でもいちばん上に表示されます。これだけが、ぼくの自慢でした(笑)。

2012年6月5日火曜日

真昼の悪魔

二年ほど前にひとりの老練なフランス語学者から教えていただいた「真昼の悪魔」(démon de midi)という言葉は、旧約聖書(詩編91:6)を出典としながらも、そのうち聖書の原意からは離れて独り歩きし、「40代男性を襲う性的誘惑」を意味するようになったとのこと。

その方は、ぼくが「40代男性」であることを知っていて、なんだかさっぱり分かりませんが、ぼくのことを心配してこの言葉を贈ってくださったのですが、「まあ、ぼくにかぎってはその種の心配には及びませんよ」と、お答えしたものでした。

しかし、ぼく自身のことはさておき(幸いなことに昔から非モテ系なんでそういうのいまだかつて全く無いです)、同世代の人たちの(かつて親しい先輩だったり仲間だったりする人たちの)その種の話を漏れ聞くたびに、心底がっかりします。

使徒パウロの言葉を(原意どおりに)借りて言わせてもらえば、「いっそのこと切り取ってしまえ」(ガラテヤの信徒への手紙5:12)と言いたいですね。冗談じゃないですよ、マッタク。

2012年5月31日木曜日

進学先選びは「コンパスで」お願いします


自分のことしか考えてない、みたいに思われるのはツライのですが、早く「片付いて」ほしいのは、我が家のダブル受験生(高3男、中3女)です。

とにかく何とかなってもらわないと困る。学校なんかさっさと卒業して、即戦力になってもらわないと困る。

進学先選びは自分自身がすることですが、親が口出ししないわけには行かない。余裕ある家庭ではないし、余裕ある時代でもない。まして、新たな大震災の可能性まで考慮することが不可避的な時代なのだから、どうしても(またしても)「コストパフォーマンス」の追求を考えてもらわざるをえない。

で、取り出すのはコンパスです。

自宅から電車で片道1時間以内、交通費は片道500円くらいで行ける大学を選んでくれと長男に言い渡しています。

そのくらいの距離なら、なんとか自力で(徒歩で)帰って来れる、んじゃないかと。

大学は「ブランド」より「距離」が重要だと痛感。千葉から遠い「郊外型の大学」は、どうしても行きたいなら反対はしませんが、親としては対象外です。

まあ、こういうことは、ほんの一例です。子どもたちの受験のことだけで頭いっぱい、心一杯になってるわけではありません。

ありとあらゆることの前提に「その日の準備」の要素を加える必要が発生しています。

2012年5月11日金曜日

一麦出版社刊『改革派教会信仰告白集』を心から推薦いたします


各位

一麦出版社刊『改革派教会信仰告白集』(全六巻、別巻一、大崎節郎編)の別巻以外の配本がこのたび完了しました。

日本基督教団と日本キリスト教会の教職者を中心とする最適の訳者陣が、非常に平易でこなれた訳文を提供してくださいました。

素晴らしい本の完成をとても喜んでいます。多くの方々にお読みいただきたく心から推薦いたします。

2012年5月11日

関口 康

追伸

一麦出版社刊『改革派教会信仰告白集』(全六巻、別巻一、大崎節郎編)の各巻には「付録」が挟まれているのですが、「付録」の各号に2名ずつエッセイを書く場所が設けられています。

その「付録」の最終号となる第六巻の「付録」に、拙文が載りました。

このことは私にとっては非常な光栄です。

全六巻の「付録」の各号に、2名ずつのエッセイが掲載されたということは、6(号)×2(名)=12(名)の枠が設けられたことになるわけですが、そのいちばん最後の12人めのライターに私を選んでいただいた格好です(今回ばかりは私の持ち込み原稿ではありません)。

自己宣伝めいていてなんだか恐縮なのですが、喜んでいただけると幸いです。

「付録」の中に私がどんなことを書いたかについては、ぜひ本シリーズをご購入いただいた上で、手にとってお読みいただきたいと願っています。


コンビニの駐車場はぼくらの自室じゃないと思う


「自戒をこめて」と付けさえすれば、何を書いても許されるわけではない。まあ、でもちょっと、やっぱり書いておきます。

ここ2、3年の傾向のような気がします。コンビニの駐車場が、どこも、いつも、ほぼ満車状態です。

買い物してる人ばかりじゃないんです。目を凝らして見ると、半数を超える車の中に、運転席や助手席に人が乗っています。

買い物してる人を待ってる人ばかりじゃないんです。むしろ、そういう人は少ないように見える。

コンビニで買った弁当やパンやおにぎりを食べている。たばこを吸ってる。ケータイやスマホでメールを書いたりウェブを見たりしてる。テレビを見てる。イスを倒して爆睡してる。ほとんどがそんな感じ。

つまり、完全に自室状態。休憩所であり、レストランであり、ゲーセンであり、書斎。そういう車ばかりで、どのコンビニの駐車場も、埋め尽くされている。

ぼくも、たまにそういうことさせてもらうときありますから、一方的にとやかく言える立場にないことは重々承知しています。

でも、10台分のスペースの駐車場が満車状態のときに、その10台中の7、8台ほどの車内に人がいて、まるで自室でやるようなことをやっていて、それで後から来るお客さんたちの駐車スペースを奪っているというのは、やっぱり腹にすえかねるものがあります。

店は「帰れ」とは言えないでしょうしね。こういうの、何とかならないでしょうかね。

自戒をこめて

2012年5月6日日曜日

自分を頼りにする人生には限界があります



コリントの信徒への手紙二1・8~14

「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦痛について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人々のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを十分に理解してもらいたい。」

今日の説教に「自分を頼りにする人生には限界があります」というタイトルを付けさせていただきました。

このようなタイトルをご覧になりますと、ほとんどの方には、この次に私が何を言うかがお分かりになるだろうと思います。私の答えは、もちろん皆さんが予想しておられるとおりです。

わたしたちが頼りにするのは「自分」ではなく「神」である。そのようにパウロも書いています。「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(9節)。

私はいま、答えを言いました。答えは出ました。ですから、「今日の説教はこれで終わりにします」と言ってもよいほどです。私はこれ以上、何を言うことがあるのでしょうか。

しかし、これで終わるわけにも行きませんので、もう少しお話しさせてください。実を言いますと、この説教の準備をしているとき、今日の個所を読みながら、ハッと気づかされたことがあるのです。私だけの読み方かもしれません。しかし私は、そのことに気づいて、ある意味で安心しました。

私が気づいたことの一つ。それは、パウロが自分を頼りにすることをやめたのは、彼が生涯の間におこなったとされる三回の伝道旅行の中の第一回目ではなく、第二回目のときであると考えられるということです。つまり、第一回目の伝道旅行のときまでのパウロは、自分を頼りにすることをやめていなかった、ということです。

しかし、第一回目の伝道旅行をしているパウロは、もちろん言うまでもなく伝道者でした。あるいは伝道者である前に、キリスト者でした。救い主イエス・キリストを信じる信仰者でした。しかし、そうであるにもかかわらず、第一回目の伝道旅行をしていたときまでのパウロは、ある意味で自信満々でした。自分の力を信じて生きることを捨て切れていませんでした。

この読み方、どうでしょうか。それは無理だと叱られてしまうでしょうか。しかし、そのように読めることを、パウロ自身が書いていると、私は気づいたわけです。

私が気づいたことの二つめ。それは、おそらくは第二回目の伝道旅行の最中にパウロが味わったことが「生きる望みを失う」ということだったということです。まさに文字どおり「絶望」したのです。

そのとき何があったのかは分かりません。一つの解釈としては、使徒言行録19章に記されているエフェソでの騒動を指していると言われることがあります。そうかもしれません。しかし、そうであると断定することまではできません。はっきりしていることは、パウロがアジア州で味わった苦難は、彼自身の「生きる望み」、あるいは「生きる気力」を根こそぎ奪ってしまうほど激しいものであったということです。

しかし、この点についても、先ほど申し上げたことを繰り返すことになります。パウロがそのような「絶望」を自覚したのは、第二回伝道旅行の最中だったと考えられるわけです。そのときパウロはすでに伝道者でした。伝道者である前にキリスト者でした。救い主イエス・キリストを信じる信仰者でした。しかし、そのパウロが「絶望した」と書いているのです。

変なことを言うようですが、キリスト者だって、伝道者だって、絶望することがあるのです。私は今日の個所に、伝道者パウロが「絶望した」と書いていることに慰められました。牧師だって、絶望することがあるからです。皆さんだって絶望してもいいのです。「神を信じる人は絶対に絶望しない」と、そこまで言い切る必要はないのです。

私が気づいたことの三つめ。それは、パウロが「自分を頼りにする」のではなく「死者を復活させてくださる神を頼りにする」ようになったのは、「生きる望みを失う」ほどの圧迫を受け、「死の宣告を受けた思い」を味わった後である、という意味のことをパウロが書いているということです。

私が申し上げたいことは、パウロがそのときまで「死者の復活」についての信仰を持っていなかった、というようなことではありません。信じてはいた。しかし、彼自身が味わった絶望の体験によってその信仰が明確化した、あるいは深まったと考えてよさそうなのです。

そもそもキリスト教の信仰というのは、一つのことを信じればそれで終わり、というものではありません。いろいろなことを信じる宗教であるという面があります。この分厚い一冊の聖書の中に書かれていることを信じるのですから、信じるべきことはたくさんあるのです。「天地万物を創造されたのは神であること」を信じるとか、「恵みによる救い」を信じるとか、「罪の赦し」を信じるとか。「死者の復活」を信じるということは、いろいろある教えの中の一つなのです。

パウロは、アジア州で何らかの圧迫を受け、絶望し、死の宣告を受けた思いを味わうまで、死者の復活を全く信じていなかったと言っているのではありません。しかし、死者の復活についてパウロがコリントの信徒への手紙一15章に書いていたことは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(コリント一15・3)ということでした。

「わたしも受けた」とか「わたしがあなたがたに伝えた」とかパウロが言っているのは、教会の中で先輩から後輩への教えの伝授のようなことです。あるいは、キリスト者の家庭の中で親が子どもに対して施すキリスト教的教育の内容と言ってもよいかもしれない。あるいは、牧師たちのことでいえば、神学校の講義の中で教授から教えられた神学の命題のようなものだと言ってもよいかもしれません。

コリントの信徒への手紙一の学びの中で、私が皆さんに繰り返し申し上げたことは、「死者の復活」の根拠はイエス・キリストの復活だけですということです。イエス・キリスト以外の誰一人として現時点までに復活した人はいないし、復活した人を見たことがある人もいないのです。ですから、その意味では「死者の復活」という点の信仰は、わたしたち自身の体験に基づく体験的な信仰であるというよりも、抽象的で観念的な教えであるという面をぬぐいきれないところがあるのです。

こういうことを考えてみるときに、パウロにとっても、あるときまでは「死者の復活」については、全く信じていなかったということでは決してないのですが、しかし抽象的な観念論として受け入れていた可能性があることを否定できません。しかし、そのような信じ方とは根本的に違う信じ方に変わった瞬間がある。それが、アジア州での絶望的な苦難の体験であった。そのときを境に、「死者を復活させてくださる神を頼りにする」生き方へと変わった。このように読むことができるのではないかと、私は気づかされたのです。

ぜんぶ違うと言われてしまうかもしれません。そういうのはあなたの思い込みだ、勝手な解釈だと言われてしまうかもしれません。そうかもしれません。しかし、私の気持ちとしては、いま申し上げたような読み方の可能性が少しでも残されているなら、私自身はとても慰められるものがあると申し上げたいのです。

キリスト者になっても、牧師になっても、自分を頼りにし続けることがありうるし、絶望することがありうるし、死者の復活を信じきれないことがありうるのです。

そのことは、どこかの誰かの話にしなくてもよいでしょう、他ならぬ、わたしたち自身のことを考えてみれば、答えははっきりしているはずです。

皆さんは、自分を全く頼りにしていないでしょうか。絶望したことがないでしょうか。皆さんは、死者の復活という教えを何の躊躇もなく信じることができているでしょうか。そのようなことは、ちょっと考えられないことなのです。

たとえばこういうのはどうでしょうか。「私はしょっちゅう絶望しますけどね。でも、牧師さんたちには絶望してもらいたくありません」というような理屈が成り立つでしょうか。そんなのはずるい話ですよと申し上げておきます。

今日の個所から分かることは、パウロ自身もまた、キリスト者になり、教会の牧師となり、伝道者となってから、そして、そのような者として度重なる苦労を味わい、死の宣告を受ける思いを体験していく中で、彼自身の信仰の内容がより確固たるものへと成長して行ったのだということです。

だから、私は繰り返し皆さんに言ってきたのです、「わたしたちの信仰生活は一生ものである」と。わたしたちの信仰は、一生かかって成長していくものなのです。教会のみんなも、牧師たちも、今でも毎日成長しているのです。

そういうものですから、一回や二回、教会をちょろっとのぞいてみたという人たちから、「ああ、教会なんて、こんなものか」とか「クリスチャンなんて、こんなものか」と言われたり、愛想を尽かれたりすると、私はちょっとムッとしてしまうのです。

ただし、わたしたちの信仰に何らかの成長が起こるのは、信仰者として苦労するときであるという点も、どうやら事実です。

世の中で苦労してきた人が、逃げ場所と慰めを得るために教会に来てみたら、教会でも苦労しろ苦労しろと言われる。こういうのは、しんどいことかもしれません。苦労なんか、本当はしたくないのです、だれでも、私でも。

しかし、わたしたちには苦労しなければ分からないことがあるのです。信仰者として、死ぬほどの苦労を味わうときに初めて、「神」の存在が現実味を帯びてわたしたちに迫って来るのです。そのとき初めて、「神にもっと頼ってみよう」という思いが、わたしたちの中に芽生えるのです。

(2012年5月6日、松戸小金原教会主日礼拝)

2012年4月21日土曜日

「Facebook依存症」を云々するのはまだ早いと思う

「Facebook依存症」のことがメディアで話題になり始めているようですね。

ぼく自身は、その話題を持ち出すのはまだ早すぎるし、「あの人はFacebook依存症よ。やーね」みたいに牽制ないし軽蔑しあう段階に至るまでに、いろいろ考えるべき点が残っているのではないかと考えています。

まあ、ぼくも相当ヘビーに使っているほうだという自覚がありますので、自己弁護的な意図も、あると言えばあるのですけどね。

ぼくの場合、子どもの頃から、手書きの手紙というのがひどく億劫でした。日記もダメ、三日坊主。手書きの手紙は、年3通も書けばヘトヘトでした。

そんなぼくにとって、インターネットのやりとり(ぼくの最初は「パソコン通信」)というのは、天地がひっくり返るような変化だったわけです。今では少なくとも年1000通は、電子メールを書いています。

そして、その後、パソコン通信→電子メール→メーリングリスト→ブログ→フェイスブックという流れで、「年3通も書けばヘトヘトだった」手書きの手紙の代わりのやりとりをしてきました。

ぼくの場合、過去に書いたメールのすべては、GoogleのG-Mailにアーカイブしていますが、12500通ほどあります。こんなのは別に珍しい話ではないと思います。こういうふうに変化してきたのです、ぼくらのコミュニケーションの方法が。

ぼくが年1000通くらいのメールを書き始めた頃は「メール依存症」という叩き用語が人口に膾炙されたものでしたが、いまそんなこと言ったら、誰の仕事が成り立つのでしょうか。

ブログが流行れば「ブログ依存症」、フェイスブックが流行れば「フェイスブック依存症」。名付けるのは簡単ですが、やっすい話ですね。安易すぎます。

みんな手探りで、この道具を使うとどんなことができるのか、ポテンシャルを調べている段階ですよね。いわばみんなが「FB学校の新入生」。

ワケが分からないものだから放置、という人もいるし、いてもいいと思う。

ですが、ワケが分からないものだから本腰入れて手なずけてみようと時間をかけて集中、という人もいるし、いてもいいと思う。

あんまり軽蔑しあわないで、やりたいこと、やってみましょうよ。模範解答とか、理想像とか、まだどこにもないですよ、たぶんね。

2012年3月23日金曜日

福澤諭吉『学問のすゝめ』(21世紀版 超訳)

【21世紀版 超訳】

『ガクモンしようぜ』 ユキチ・F著/関口康 訳

「学問する」でもいいけど、「勉強」でもいいでしょ。あのね、「勉強」っていうのはね、難しい本を読むとかね、常人には解読不可能なヘブライ語とかクサビ形文字とかさ、あと韻文だの散文だの、そういうのを読めるとか、書けるとか、あと歌えるとかね(笑)、そういうことができるようになる、っていうことだけじゃないんですよ、マジで言っときますけどね。

そういうのは、まあ後回しでもいいですよ。やんなくていいってことじゃないですよ。でも順序ってものがある。そういうのよりも、まず先に勉強しなくちゃならんことがあるんですよ、人間としてね。

それは、昔でいえば断然「読み・書き・そろばん」なんでしょうけどね。今でいえばパソコンとか携帯とかスマホとかを自由に使いこなせるようになるとかね、あと、せめてワードとかエクセルとかができるようになるとかさ、あとはなんだろね、いろいろあると思うけどね。自動車の免許を取るとか、せめて自分の分くらいは炊事・洗濯・掃除ができるようになるとかもそうかな。

そういうことができるようになるってことが「実学」ということであってね、その基本は「読み・書き・そろばん」なんだからね、形ややり方はデジタル化しちゃったけど、やってることは、おんなじよ。スピードが遅いか早いかの違いくらいだね。えっと、脱線しそう(笑)。

だからさ、要するに「読み・書き・そろばん」なのよ。それができるようになるってことには身分が高いとか低いとか関係ないじゃんと、ぼくは思うし、みんなができるようになるほうがいいに決まってるんだからさ。

自分の職場というか立場というか、そういうところで、パソコンでもスマホでもいいし、木でできたそろばんでもいいし、鉛筆とかでも何でもいいや、とにかく「読み・書き・そろばん」がちゃんとできるようになって、自分の仕事をやる。

そんでもって、自分のことは自分でやる。家のことも、自分たちで何とかやりくりできるようになる。そういう人が少しずつでも増えていけば、この国も自立できるようになるんですよ。というか、逆の筋書きは無いんです、この話には、てことで。

自立するってことは、自分のことくらいは自分で何とかできるようになる、ってくらいの話ですよ。他人に依存しなければ生きていけないと思いこんでしまわない、ってことですかね。

いろんなことの是非の判断を自分でできるようになる、処置も自分で何とかできるようになる。そうすれば、他人の知恵を借りないで済むじゃん。それがぼくの「自立」の定義ですよ。自分で苦労して自分の生計を立てられるくらいの稼ぎがあれば、他人のカネを当てにしなくて済むわけだしね。

完全に自立している人、というか、誰の助けも要らないっていう人なんかいませんよ、たぶんね。そういう人がいたらいたで、どうかと思うしね。

だけど、「自立しよう」という気持ちというか考え方というか心というか、そういうものを全く放棄してしまって、完全に他人の力に依存するだけになってしまってもいいじゃ~んっていう話になって、この国の全員がそういう考えをもって、完全な依存体質になってしまうと、支える側というか助ける側の人がいなくなってしまうじゃないですか。それじゃあ、国ってものが全く立ち行かなくなってしまいますよ、っていう話をしてるんです、いまぼくはね。

自立するつもりが全く無いって人は、必ず他人に依存しますよ。で、他人に全面的に依存してしまう人は、必ず人を恐れるようになるんだ、これが。で、人を恐れる人は必ず人にへつらうようにもなる。

で、こういう感じの連鎖がズルズルとどこまでも続いて、そういう人たちがどんどんそういう状態に慣れていくと、面の皮が厚くなるっていうかね、恥ずかしいことを恥ずかしいと思わなくなるとか、いまそれについて主張しなかったらいつするんだよというような大切な場面で何も言えなくなっちゃったりね。人をみればへーこらへーこら。そういうのが、もうクセになっちゃってるんですね、そういう人は。変わりませんよ、そうなったら、なかなか簡単には、もうね。

まあ、いいんですけどね、この時代に生きている者としてさ、ぼくらのことだけどね、「愛国」とか言うとオエッていう気分になる人多いと思うけどね、まあでも、とりあえず日本という国はあるわけだし、この国が嫌いっていうより好きなほうがいいんじゃないかと思うっていう程度の話でもいいわけでね。

そういう気持ちを持っている人たちは、方向を換えてね、やっぱり自立できるようになるに越したことはないわけですよ。

せめて自分のことくらいは自分でできるようになる。余力があれば、他の人の自立を助けてあげる。親は子どもに自立を教える。先生は生徒に自立を勧める。いろんな仕事の人たちは、各分野で自立する。そうやってこの国を守っていくしかないんですよ。

まとめていえばね、自分のことばかり心配してガクガクブルブルふるえあがって、まわりに対して要求がましくなって、かまってちゃんになってしまうくらいならね、もっと他の人の自由を尊重するとか、あの人もこの人も人知れず苦労してるんだろうなとか理解し合いながら生きていくということが、じつはいちばんいいことなんですよ。ぼくはそう思います。以上

【原文】

福沢諭吉『学問のすゝめ』

「学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実(じつ)のなき文学を言うにあらず。」

「されば今かかる実(じつ)なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。」

「右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商各々その分を尽し銘々の実業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。」

「独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。自ら物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵に依らざる独立なり。自ら心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財に依らざる独立なり。人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて、これを引受くる者はなかるべし。」

「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諂(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諂う者は次第にこれに慣れ、その面の皮鉄の如くなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる習い性になるとはこの事にて、慣れたることは容易に改め難きものなり。」

「今の世に生れ苟(いやしく)も愛国の意あらん者は、官私を問わず先ず自己の独立を謀り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守らざるべからず。概してこれを言えば、人を束縛して独り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与(とも)にするに若(し)かざるなり。」

2012年2月12日日曜日

なぜ愛が最も大いなるものなのか


コリントの信徒への手紙一13・13

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」

東関東中会伝道委員会が主催の「平和の集い」は、今年で四回目となりました。毎年恒例の行事となりましたことを、とてもうれしく思っています。今日の集いが祝福に満ちたものになりますようにと、お祈りしています。

さて、開会礼拝で開かせていただきましたのは、皆さんがよくご存じのみことばです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」。このように使徒パウロが書きました。パウロはこの三つを、わたしたちの神がキリスト者に与えてくださる多くの「霊的な賜物」の中で特に大切なものであると述べています。

他の「霊的な賜物」は大切ではないと言いたいのではありません。この手紙の中でパウロが「霊的な賜物」と呼んでいるものの中には、たとえば「知恵の賜物」があり、「知識の言葉」があり、「病気をいやす力」があります。あるいは「奇跡を行う力」であるとか、「預言する力」であるとか、「霊を見分ける力」などです。

そのような賜物が大切でないはずがありません。一つだけ取り上げますと「預言」とは今のわたしたちの教会で言うところの「説教」のことです。神のみことばを預かって人に向かって語ることです。「説教」は教会の中できわめて重要なものであると、わたしたちは繰り返し教えられてきました。

しかし、パウロが書いているとおりに言えば、「預言」よりも、つまり説教よりも「愛」が重要であるという話になります。

なぜ説教よりも愛が重要なのでしょうか。パウロは「愛は決して滅びない」と断言しています。しかし「預言は廃れる」と言っています。つまり、わたしたちの説教は「廃れる」ものなのです。なぜなら、「預言は一部分だから」です。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れる」のです。

これは終末論的な話です。終末の日が来ると、神と人間は「顔と顔とを合わせて見る」関係になるのです。そのときは神御自身が直接わたしたち人間にみことばを語ってくださいますので、説教者は用済みになるのです。終末には説教者の仕事は無くなるのです。牧師たちは全員引退しなければならないのです。

しかし、終末の日を迎えても残るものがある。それが「信仰」であり、「希望」であり、「愛」であると言われているのです。

ところがパウロは、そこで話を終わりにしません。この三つを比較した上で、順位をつけています。その第一位が「愛」であると言っています。信仰よりも、希望よりも、愛が偉大であると言っているのです。

これはやはり驚くべきことばです。わたしたちは信仰によって救われると教えられています。「信仰のみ」は宗教改革の三大原理の一つです。その「信仰」よりも偉大なものがあると言われると、びっくりしてしまうでしょう。今日の集会のテーマは「信教の自由」です。その集会の開会礼拝の説教者は「信仰こそが最も重要である」と言わなければならないのかもしれません。

しかし、わたしたちはパウロのことばを重んじるべきです。「最も大いなるものは愛である」と書いてあるとおりに受け入れるべきです。

それでは、なぜ愛は最も大いなるものなのでしょうか。これが今日、皆さんに考えていただきたい問題です。パウロは理由を書いていません。そうであると、ただ断言しているだけです。ですから、わたしたちは、その理由をわたしたちの頭でよく考えてみなければなりません。

皆さんは、それぞれの教会でこの問題の答えを聞いておられるでしょうか。なぜ愛は最も大いなるものなのでしょうか。残念ながら、私はどうも想像力に乏しい者であることが分かりました。自分の頭で考えても、その答えを見つけることができませんでした。そこで一つの解説を頼りにしました。それを読んで、なるほど、そういうことかと、納得しました。

その解説によりますと、信仰と希望は人間が持つものです。神御自身が「信仰を持つ」ということはありません。神御自身が「希望を持つ」こともありません。信仰も、また希望もわたしたちが持つものです。わたしたちが、このわたしが信じるのです。わたしたちが、このわたしが願い、望み、祈るのです。

しかし、愛は違うというのです。「愛は神のものである。愛は神が行ってくださることである。ここに違いがある」と解説されていました。

別の言い方をすれば、愛の出発点は神御自身であるということです。わたしたちが神を愛するよりも先に、神がわたしたちを愛してくださったのです。しかし、だからと言ってわたしたちはだれも愛さなくてよいというわけではありません。神が愛してくだされば人間は愛さなくてもよいということではありません。神がイエス・キリストにおいてわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも神と隣人を愛さなければならないのです。

また、その解説には、もう一つのことが記されていました。「わたしたちが誰かを愛するとき、神に似た者になるのである」。その意味は、わたしたちが神を愛し、隣人を愛している姿は、神がわたしたちを愛してくださる姿に似ているということです。そのときわたしたちは、神に最も近づくのです。「この点こそが、パウロが信仰よりも希望よりも愛が偉大であると述べている理由である」。私はこの解説で納得できましたので、皆さんにも紹介させていただきます。

わたしたちが教会でいつも教えられていることは、神と隣人を愛しなさいということです。しかし問題は、わたしたちは神と隣人をどのように愛したらよいのかということでしょう。イエスさまのお答えを、皆さんはよくご存じです。「わたしの隣人とはだれですか」と質問してきた人に対してイエスさまがお話しになった「善いサマリア人のたとえ」(ルカによる福音書10章)を思い出してください。

「善いサマリア人」は、おいはぎに襲われて半殺しにされたまま倒れていた人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに載せ、宿屋に連れて行って解放し、翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡し、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言いました。愛とはこのようなものであるとイエスさまがお話しになりました。

倒れていたその人を見過ごした祭司も、レビ人も、イエスさまにとっては愛が足りない人々でした。彼らがどれほど信仰深い人たちであったとしても、愛がないような信仰は空しいものであるということをはっきりお示しになりました。

イエスさまがお教えになった愛のあり方は、どう考えても、キリスト者同士の間だけで完結するものではありません。信仰が違う人のことは愛さなくてもよいという考えは、イエスさまにはありません。愛はもっと広いものです。教会の枠を超えていくものです。

わたしたちが神と隣人を愛しているとき、そのわたしたちの姿は神に似ているのです。

教会の対社会的活動も、神の愛の模範に従っていくことが大切です。

(2012年2月11日、第4回「東関東中会平和の集い」開会礼拝、日本キリスト改革派船橋高根教会)

2012年1月29日日曜日

愛があふれる教会をめざします


コリントの信徒への手紙一12・31b~13・7

「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

いまお読みしました個所の最初に「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12・31b)と書かれています。「最高の」と言いますとそれ以上のものが存在する余地が無くなってしまいますが、原文にそこまでの意味はありません。「非常に優れた」とか「飛び抜けて優れた」というくらいの意味です。「非常に優れた道」、それは「愛」であるということが今日の個所に記されています。しかし、愛以上のものはどこにも存在しない、というような排他的な意味ではありません。

実は、愛にも弱点があります。愛の始まりは、また始まってから後も、かなりの面で一方通行的なものだからです。「片想い」という言葉があるではありませんか。片想いは未完成で不完全な愛です。しかし、愛であることに変わりはないのです。それは痛みを伴います。悲しみや切なさがあります。弱点だらけです。しかし、それが愛なのです。ですから、愛以上のものが存在しないというわけではないのです。パウロもそんなことを言っているのではありません。愛は「非常に優れた道」、あるいは「飛び抜けて優れた道」であると書いているのです。

しかし、今日の個所でパウロがたしかに強調していることは、愛の重要性です。しかも、私が重要だと思いますことは今日の個所が置かれている文脈です。この個所は明らかに、12章の初めから書かれてきたことの続きです。それが意味することは、今日の個所もまた、「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」(12・1)という言葉から始まっている話の流れの中で理解されなければならないということです。つまり、今日の個所でパウロが強調している「愛」は、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きているわたしたちキリスト者に与えられる「霊的な賜物」の一つであるということです。

しかも、「霊的な賜物」とは、聖霊なる神がわたしたちの存在の内部に新しく与えてくださる性質のことです。それが意味することは、「霊的な賜物」としての「愛」は、わたしたちが生まれつき持っているものではないということです。先天的・遺伝的に「霊的な賜物」を初めから持って生まれた人はいません。すべては生まれた後に与えられるのであり、イエス・キリストを信じる信仰と共に与えられるのです。

ですから、今日の個所にパウロが書いているような意味での「愛」を今はまだ自分は持っていないというような自覚がある人でも心配することはありません。これから身につけることができるのです。

前置き的な話を、もう少しだけ続けさせていただきます。今日の個所を理解するための前提として、もう一つ重要な点があります。それは何かと言いますと、今日の個所に「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも」(1節)とか「預言する賜物を持ち」(2節)とか「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも」(2節)とか「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも」(3節)とか「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」(3節)とか書いていますが、これらのことはすべて、先週までに学んだ12章の内容と非常に深く関係しているということです。

もう少し具体的に言います。12章に「ある人は霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(12・8~11)と書かれていました。この中に「知恵」「知識」「信仰」「異言」などの言葉が出てきます。これらはすべて霊的な賜物なのですが、たとえこのようなものをいくら持っているとしても、もしそこに「愛」が無いのであれば、すべては空しいかぎりだと、パウロは書いているのです。別の言い方をすれば、「知恵」や「知識」や「信仰」や「異言」などと「愛」とを比較したうえで、これらのものよりも「愛」のほうが上であると言っているのです。

重要な点はまだあります。12章にパウロが書いていた「霊的な賜物」を与えられた人々というのは、すべて教会につながっている人々のことだったわけです。そのような「霊的な賜物」を与えられた人々が教会の中でいろいろな仕事をする、という話でした。教会の中の一人の人、あるいは特定の少数の人々だけが、教会の中のすべてを何もかも一手に引き受けるのではなく、教会のみんなで役割分担をしていくのだ、という話でした。それで「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」といった具合に、教会の中にいろいろな職務を担う人々がいる。そのようないろいろな働きをなす人々が寄り集まってひとつのキリストの体なる教会を造り上げていくのだ、という話でした。

これで分かることは、今日の個所に記されている「愛」の話も教会の話であり、教会の中での愛の話であるということです。教会の活動の話であり、あるいは教会の組織とか制度の話です。教会から切り離しても成り立つような、一般的な愛の話ではないのです。パウロがしているのは教会の話です。教会を成り立たせる根拠もしくは土台は愛であると言っているのであって、それ以上のことは語っていないのです。教会の中にたとえどれほどたくさんの人が集まっていても、どれほど活発な活動がなされていても、どれほど整った組織や制度があっても、どれほど立派な建物があっても、そこに「愛」が無いような教会は空しいかぎりだと言っているのです。教会とは無関係な、あるいはまたキリスト教信仰とは無関係な、一般的な愛の話をしているのではないのです。そのことをぜひご理解いただきたいと願っています。

しかし、もちろん、このようなことをパウロは教会を裁くためにだけ書いているのではありません。「教会よ、あなたがたには愛が無い、愛が無い、愛が無い、愛が無い」とただ責め立て、あげつらい、ぐうの音も出ないほど締めつけるために書いているわけではありません。そういうのは教会に対する拷問です。パウロという人が物腰においても、言うことにおいても、書くことにおいても厳しい人であったことは否定できません。しかし、「あなたには愛が無い」というのは、殺し文句です。パウロの意図は、教会を否定することではなく、肯定することであり、励ますことです。「愛があふれる教会をめざしましょう」という呼びかけであり、自分自身もこの愛に生きていきますからという決意表明でもあるのです。教会に向かっては「あなたがたには愛が無い」と言いながら自分自身は誰も愛そうとしないというのでは何の説得力もありません。「他人に厳しく自分に甘い」というのは最悪のパターンです。パウロはそういう人ではなかったと思います。

4節以下に、「愛」とは何なのかについて具体的に記されています。しかしこれも、くどいようですが、すべて教会の話であるということが忘れられてはなりません。教会に連なっているわたしたちに、教会の中で求められる「愛」の形はどのようなものなのか、ということが記されているのです。

しかし、もちろん、そうは言いましても、わたしたちが愛さなければならない存在は、教会の中にいる人たちだけではなく、教会に通っていない人たちも当然愛さなければなりません。キリスト者はキリスト者だけを愛すればよいのであって、キリスト者でない人たちのことは憎まなければならないというのは明らかに異常な話です。そういうことを今日私は話そうとしているのではないし、パウロもそういうことを言っているのではありません。ただ、今日の個所に書かれていることの趣旨は教会の中の話であるということを言いたいのです。一般的な愛については、この個所に書かれていることの応用で対応していくことができるでしょう。文脈がある話なのですから、その文脈を無視しないでくださいと言いたいだけです。

しかしまた、もう一回ひっくり返して考えてみますと、パウロが書いている趣旨からしても、また、わたしたち自身の教会の中で味わってきたことの実感からしても、教会の中での、キリスト者同士の愛と、一般的な愛とでは、何とも言葉に表現しづらい質的な違いというものがあるということも私は否定することができません。それは、教会というこの場所には、まるで自動給湯機のようにスイッチを入れるだけで、あとは放っておいても自動的に愛があふれているというような意味ではありません。正反対です。教会こそは非常にデリケートな場所であって、ある意味で他の場所以上に丁寧かつ慎重に愛を注ぎ、その愛を手塩にかけて育て、守っていかなければならない。そうしなければ、あっけなく壊れてしまうところなのです。

どうしてそうなのかといえば、いちばん単純なところを言えば、教会にはいろいろな人が集まっているからです。ここには、いろんな種類の心の傷を持った人がたくさんいるのです。教会は神さまがたててくださったところなのだから、どんなに乱暴なことをしても、びくともしない強いところなのだというのは誤解です。教会は神に助けを求めて集まっている弱い人間の集まりです。私自身も、他の牧師たちも、もちろんみんな弱い人間です。教会は、自分は神なしには生きていくことができない人間であることを自覚し、認め、神の助けのもとで、神と共に生きていくことを決心し、約束している者たちの集まりなのです。そのような壊れやすいデリケートな存在である教会を大切に守り、支えていくために必要な「愛」とは何なのか、ということをパウロは書いているのです。

もう時間が無くなってしまいましたので、4節以下の「愛」の説明の詳細に立ち入ることはできなくなりました。来週もう少し詳しくお話しいたしますので、今日は特に印象的な言葉を一つだけ拾っておきます。それは最初の「愛は忍耐強い」という言葉です。

それは要するに、我慢するということです。忍耐という形の愛をパウロが最初に取り上げていることは、やはり理由があることなのです。教会は自分の思いに任せてどんなに乱暴なことでも言いたい放題に言ってもいいとか、したい放題にしてもいい場所ではありません。わたしたちは教会では少し黙っていなければならないのです。教会は憂さ晴らしの場所ではないのです。そういうことをする人がいると、教会の中で必ず傷ついている人がいます。教会においてこそ、我慢が必要です。しかし、その我慢ないし忍耐がわたしたちを鍛えるのです。「忍耐は練達を生む」のです(ローマ5・4)。

(2012年1月29日、松戸小金原教会主日礼拝)