2012年5月6日日曜日

自分を頼りにする人生には限界があります



コリントの信徒への手紙二1・8~14

「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦痛について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人々のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを十分に理解してもらいたい。」

今日の説教に「自分を頼りにする人生には限界があります」というタイトルを付けさせていただきました。

このようなタイトルをご覧になりますと、ほとんどの方には、この次に私が何を言うかがお分かりになるだろうと思います。私の答えは、もちろん皆さんが予想しておられるとおりです。

わたしたちが頼りにするのは「自分」ではなく「神」である。そのようにパウロも書いています。「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(9節)。

私はいま、答えを言いました。答えは出ました。ですから、「今日の説教はこれで終わりにします」と言ってもよいほどです。私はこれ以上、何を言うことがあるのでしょうか。

しかし、これで終わるわけにも行きませんので、もう少しお話しさせてください。実を言いますと、この説教の準備をしているとき、今日の個所を読みながら、ハッと気づかされたことがあるのです。私だけの読み方かもしれません。しかし私は、そのことに気づいて、ある意味で安心しました。

私が気づいたことの一つ。それは、パウロが自分を頼りにすることをやめたのは、彼が生涯の間におこなったとされる三回の伝道旅行の中の第一回目ではなく、第二回目のときであると考えられるということです。つまり、第一回目の伝道旅行のときまでのパウロは、自分を頼りにすることをやめていなかった、ということです。

しかし、第一回目の伝道旅行をしているパウロは、もちろん言うまでもなく伝道者でした。あるいは伝道者である前に、キリスト者でした。救い主イエス・キリストを信じる信仰者でした。しかし、そうであるにもかかわらず、第一回目の伝道旅行をしていたときまでのパウロは、ある意味で自信満々でした。自分の力を信じて生きることを捨て切れていませんでした。

この読み方、どうでしょうか。それは無理だと叱られてしまうでしょうか。しかし、そのように読めることを、パウロ自身が書いていると、私は気づいたわけです。

私が気づいたことの二つめ。それは、おそらくは第二回目の伝道旅行の最中にパウロが味わったことが「生きる望みを失う」ということだったということです。まさに文字どおり「絶望」したのです。

そのとき何があったのかは分かりません。一つの解釈としては、使徒言行録19章に記されているエフェソでの騒動を指していると言われることがあります。そうかもしれません。しかし、そうであると断定することまではできません。はっきりしていることは、パウロがアジア州で味わった苦難は、彼自身の「生きる望み」、あるいは「生きる気力」を根こそぎ奪ってしまうほど激しいものであったということです。

しかし、この点についても、先ほど申し上げたことを繰り返すことになります。パウロがそのような「絶望」を自覚したのは、第二回伝道旅行の最中だったと考えられるわけです。そのときパウロはすでに伝道者でした。伝道者である前にキリスト者でした。救い主イエス・キリストを信じる信仰者でした。しかし、そのパウロが「絶望した」と書いているのです。

変なことを言うようですが、キリスト者だって、伝道者だって、絶望することがあるのです。私は今日の個所に、伝道者パウロが「絶望した」と書いていることに慰められました。牧師だって、絶望することがあるからです。皆さんだって絶望してもいいのです。「神を信じる人は絶対に絶望しない」と、そこまで言い切る必要はないのです。

私が気づいたことの三つめ。それは、パウロが「自分を頼りにする」のではなく「死者を復活させてくださる神を頼りにする」ようになったのは、「生きる望みを失う」ほどの圧迫を受け、「死の宣告を受けた思い」を味わった後である、という意味のことをパウロが書いているということです。

私が申し上げたいことは、パウロがそのときまで「死者の復活」についての信仰を持っていなかった、というようなことではありません。信じてはいた。しかし、彼自身が味わった絶望の体験によってその信仰が明確化した、あるいは深まったと考えてよさそうなのです。

そもそもキリスト教の信仰というのは、一つのことを信じればそれで終わり、というものではありません。いろいろなことを信じる宗教であるという面があります。この分厚い一冊の聖書の中に書かれていることを信じるのですから、信じるべきことはたくさんあるのです。「天地万物を創造されたのは神であること」を信じるとか、「恵みによる救い」を信じるとか、「罪の赦し」を信じるとか。「死者の復活」を信じるということは、いろいろある教えの中の一つなのです。

パウロは、アジア州で何らかの圧迫を受け、絶望し、死の宣告を受けた思いを味わうまで、死者の復活を全く信じていなかったと言っているのではありません。しかし、死者の復活についてパウロがコリントの信徒への手紙一15章に書いていたことは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(コリント一15・3)ということでした。

「わたしも受けた」とか「わたしがあなたがたに伝えた」とかパウロが言っているのは、教会の中で先輩から後輩への教えの伝授のようなことです。あるいは、キリスト者の家庭の中で親が子どもに対して施すキリスト教的教育の内容と言ってもよいかもしれない。あるいは、牧師たちのことでいえば、神学校の講義の中で教授から教えられた神学の命題のようなものだと言ってもよいかもしれません。

コリントの信徒への手紙一の学びの中で、私が皆さんに繰り返し申し上げたことは、「死者の復活」の根拠はイエス・キリストの復活だけですということです。イエス・キリスト以外の誰一人として現時点までに復活した人はいないし、復活した人を見たことがある人もいないのです。ですから、その意味では「死者の復活」という点の信仰は、わたしたち自身の体験に基づく体験的な信仰であるというよりも、抽象的で観念的な教えであるという面をぬぐいきれないところがあるのです。

こういうことを考えてみるときに、パウロにとっても、あるときまでは「死者の復活」については、全く信じていなかったということでは決してないのですが、しかし抽象的な観念論として受け入れていた可能性があることを否定できません。しかし、そのような信じ方とは根本的に違う信じ方に変わった瞬間がある。それが、アジア州での絶望的な苦難の体験であった。そのときを境に、「死者を復活させてくださる神を頼りにする」生き方へと変わった。このように読むことができるのではないかと、私は気づかされたのです。

ぜんぶ違うと言われてしまうかもしれません。そういうのはあなたの思い込みだ、勝手な解釈だと言われてしまうかもしれません。そうかもしれません。しかし、私の気持ちとしては、いま申し上げたような読み方の可能性が少しでも残されているなら、私自身はとても慰められるものがあると申し上げたいのです。

キリスト者になっても、牧師になっても、自分を頼りにし続けることがありうるし、絶望することがありうるし、死者の復活を信じきれないことがありうるのです。

そのことは、どこかの誰かの話にしなくてもよいでしょう、他ならぬ、わたしたち自身のことを考えてみれば、答えははっきりしているはずです。

皆さんは、自分を全く頼りにしていないでしょうか。絶望したことがないでしょうか。皆さんは、死者の復活という教えを何の躊躇もなく信じることができているでしょうか。そのようなことは、ちょっと考えられないことなのです。

たとえばこういうのはどうでしょうか。「私はしょっちゅう絶望しますけどね。でも、牧師さんたちには絶望してもらいたくありません」というような理屈が成り立つでしょうか。そんなのはずるい話ですよと申し上げておきます。

今日の個所から分かることは、パウロ自身もまた、キリスト者になり、教会の牧師となり、伝道者となってから、そして、そのような者として度重なる苦労を味わい、死の宣告を受ける思いを体験していく中で、彼自身の信仰の内容がより確固たるものへと成長して行ったのだということです。

だから、私は繰り返し皆さんに言ってきたのです、「わたしたちの信仰生活は一生ものである」と。わたしたちの信仰は、一生かかって成長していくものなのです。教会のみんなも、牧師たちも、今でも毎日成長しているのです。

そういうものですから、一回や二回、教会をちょろっとのぞいてみたという人たちから、「ああ、教会なんて、こんなものか」とか「クリスチャンなんて、こんなものか」と言われたり、愛想を尽かれたりすると、私はちょっとムッとしてしまうのです。

ただし、わたしたちの信仰に何らかの成長が起こるのは、信仰者として苦労するときであるという点も、どうやら事実です。

世の中で苦労してきた人が、逃げ場所と慰めを得るために教会に来てみたら、教会でも苦労しろ苦労しろと言われる。こういうのは、しんどいことかもしれません。苦労なんか、本当はしたくないのです、だれでも、私でも。

しかし、わたしたちには苦労しなければ分からないことがあるのです。信仰者として、死ぬほどの苦労を味わうときに初めて、「神」の存在が現実味を帯びてわたしたちに迫って来るのです。そのとき初めて、「神にもっと頼ってみよう」という思いが、わたしたちの中に芽生えるのです。

(2012年5月6日、松戸小金原教会主日礼拝)