宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)に触発されて書きはじめたことは、しかし、同書の書評のようなことではない。書評なら最低でも全部読んでから書く。いまはまだ、読んでいる最中のメモを取っているだけだ。感じたことを感じたまま書く。
ただ、すでに分かってきたことがある。どうやら「ゼロ年代の想像力」(書名ではない)とは、私が長らく違和感…いや拒絶反応…いや嫌悪感(は言いすぎかもしれないが限りなく近い)すらおぼえてきたものようだ、ということである。宇野氏がリストアップしている作品群の名前を見てそう思った。
『バトル・ロワイヤル』(1999年)、『リアル鬼ごっこ』(2001年)、『仮面ライダー龍騎』(2002年)、『ドラゴン桜』(2003年)、『野ブタ。をプロデュース』(2004年)、『女王の教室』(2005年)、そして『DEATH NOTE』(2003~2006年連載)。
なるほど共通しているものがある。ただし、いちいちは言えない。目をそむけたくなったし、実際に目を背けたので、「ゼロ年代の想像力」なるものの産物をほとんど直視できていない。要するに知らないのだ。「ゼロ年代フォビア」かもしれない。まるでその時代の日本に私はいなかったかのようだ。
それと、私が「目をそむけた」のは、もっぱらテレビドラマとなったものだ。原作(小説・マンガなど)があるのかどうかさえ知らない。原作はもっと直視に耐えるものなのかもしれない。といって、テレビで見た俳優たちの演技を云々するつもりはない。
「目を背けた(くなった)」理由は思い出せないし、当時も自覚していなかったはずだ。しかし、今にして思うと、はっとさせられることがある。単純な話だ。宇野氏がリストアップしている「ゼロ世代の想像力」なるものの作品群がちまたに流れていたとき、うちの子どもたちは小学生だった、ということだ。
作者たちには失礼であるに違いないが、子どもたちに「ああいうの」は見せたくなかった。そういう感情は持っていた。原作も読まず、テレビドラマを直視さえしていないのに「ああいうの」呼ばわりするのは申し訳ないことだが、「読む」ということはある程度巻き込まれることだ。巻き込まれたくなかった。
「ああいうの」の中で、唯一、私自身が原作(マンガだが)をすべて読み通したのは『DEATH NOTE』だけである。必ずしも「面白かった」わけではないが「興味はあった」。歓喜をともなう好奇心ではなく、「なんなんだ、こりゃ」という目で眺めていたというに近かった。
そうね、『DEATH NOTE』を読んでいたときの気持ちは、同じ週刊少年ジャンプの中で『ONE PIECE』を読んだ後のバランスをとるような感じだった。ルフィの笑顔を見た後に夜神月のすっとした表情を見ると、なんとなくバランスがとれる。食後のコーヒー、かな。カレーの福神漬け、は言い過ぎか。
でも、逆はありえなかった。夜神月は、まさに「月」で、ルフィが主役だった。『ONE PIECE』を読んだ後でなければ『DEATH NOTE』のページをめくる気がしなかった。夜神月は、あくまでも「陰」。本人(?)がそれを望んだわけでしょ?
おっと、長々とやってしまった。今日は午後からまた中学校に行かねばならない。PTA運営委員会だ。昨夜は遅くまで中会の会議(東日本大震災被災教会緊急支援特別委員会。長いね)だった。今朝の寝覚めは悪くなかったが、取り組むべき課題が大きすぎて、ちょっとだけ逃避したい気分ではある。
��たぶんまだ続く)
2011年5月17日火曜日
ブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない
ここ数日「地震直後のメルトダウン」を急に公表しはじめたのは、米国とGE提訴のための伏線だったのかと驚きました。すぐに壊れるおんぼろ機械を高い金で売りつけやがって、と。言ってみる価値はあるでしょう。
「開発者以外には手出しできないブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」というのは論理的には整合性があるわけだから、とりあえずその線で行ってみようとする(負け戦承知の)政府は評価できる気がします。
「開発者以外には手出しできないブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」というのは論理的には整合性があるわけだから、とりあえずその線で行ってみようとする(負け戦承知の)政府は評価できる気がします。
2011年5月16日月曜日
今こそ自分の仕事に向かおう
書きたくない言葉ですが、日本国民は、現時点ですでに十分な意味で、高濃度の放射能の影響下にあると言わざるをえないと感じています。さらに、数か月ないし数年後には、海水や空気(これから訪れる台風の影響はすさまじい)や食べ物を通じて、その影響は全世界に拡散していくものと思われます。
このような形で、我々の世界の寿命が明らかにいくらか(いや、少なからず)短くなったことを、私は心から憂い、惨めな思いに苛まれています。
子どもたちと、子育てに七転八倒している者たちとを、まるであざ笑うかのような「放射能」なる何かが、我々の行く手を阻んでいる。過去66年間「世界唯一の原爆被災国」と称してきた日本が、今年を境に「世界最悪の放射能流出国」と改称しなければならなくなった感さえある。
しかし言っておきますが、ここで絶望するなら、我々は神学者としても教会人としても失格者です。世界の寿命が縮んだなら、我々の仕事のペースを速めるだけです。少し急ぎましょう。大いにあわてましょう。仕事をサボっている場合ではありません。
私自身は、ファン・ルーラーの翻訳と研究を開始して12年余になりますが、いまだに一冊の訳書すら世に問えていません。今のペースのままだと30年(残り18年弱)くらいかかりそうだなあと、天を仰いでいたところでした。
しかし、今回の事態を受けて、悠長なことは言っていられなくなりました。もっと急ぎます。なんらかの形にします。私の寿命が尽きる前に(こういうのも「過剰反応」と言われてしまうのでしょうか)。ウェブ版で読んでくださっている方々にも応援と協力をお願いしたいです。
このような形で、我々の世界の寿命が明らかにいくらか(いや、少なからず)短くなったことを、私は心から憂い、惨めな思いに苛まれています。
子どもたちと、子育てに七転八倒している者たちとを、まるであざ笑うかのような「放射能」なる何かが、我々の行く手を阻んでいる。過去66年間「世界唯一の原爆被災国」と称してきた日本が、今年を境に「世界最悪の放射能流出国」と改称しなければならなくなった感さえある。
しかし言っておきますが、ここで絶望するなら、我々は神学者としても教会人としても失格者です。世界の寿命が縮んだなら、我々の仕事のペースを速めるだけです。少し急ぎましょう。大いにあわてましょう。仕事をサボっている場合ではありません。
私自身は、ファン・ルーラーの翻訳と研究を開始して12年余になりますが、いまだに一冊の訳書すら世に問えていません。今のペースのままだと30年(残り18年弱)くらいかかりそうだなあと、天を仰いでいたところでした。
しかし、今回の事態を受けて、悠長なことは言っていられなくなりました。もっと急ぎます。なんらかの形にします。私の寿命が尽きる前に(こういうのも「過剰反応」と言われてしまうのでしょうか)。ウェブ版で読んでくださっている方々にも応援と協力をお願いしたいです。
「碇シンジでは夜神月を止められない」か?
遅ればせながら、と書かねばならない。劣等感を否めない。先週入手した宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)を読んでいる。こういう(たぶん話題になった)本を知らなかったことに恥ずかしさを禁じえないが、読みはじめて感じていることは「へえ」である。
宇野常寛氏の名前も先週どなたかのツイートで知ったばかりである。本書が出版されたらしき2008年7月の私は何をしていたかなあ。このブログ「関口 康日記」を始めたのが2008年1月。アムステルダム自由大学での「国際ファン・ルーラー学会」に出席したのが同年12月。そのちょうど中間くらいだ。
だから、おそらくこう言わねばならない。「2008年7月の関口は、神学一色、ファン・ルーラー一色でした」。宇野氏が扱っている仮面ライダー(龍騎、電王)、新世紀エヴァンゲリオン、DEATH NOTE、ONE PIECEなどは、子どもたちと一緒になって「批評なしに」楽しんでいた。純粋な一消費者として。
あ、いまちょっとウソを書きました。「子どもたちと一緒になって」?違うね。「子どもたち」を言い訳に使っちゃあいけない。子どもたちも楽しんでいましたが、私「が」楽しんでいました。もう一つのウソは、仮面ライダー「龍騎」というのを、私はほとんど見たことがない。チラ見したが、関心を持てなかった。
『仮面ライダー電王』は、相当見ました。映画まで見た。『DEATH NOTE』は、週刊少年ジャンプでリアルタイムで全部読んだ。映画も見た。『ONE PIECE』は全巻コミックスをもっている。アニメは(面白くないので)見ていない。『新世紀エヴァンゲリオン』は、リアルタイムでは見なかったが、昨年だったか、ウェブで全部見て、「面白い」と知った。
宇野氏が扱っている範囲はもっともっと幅広い。でも、今書いた四作品以外はほとんど知らないし、分かんないですね。フォローしきれない。涼宮なんとか、ハチミツとなんとかは、タイトルくらいは見たことがあるが、中身は知らない。
まあ、『ゼロ年代の想像力』は、まだ読みはじめたばかりなので、これについて云々するのは、もう少しあとになりそうだ。でも、私が実際に関心をもって見た四作品については、宇野氏のような方の解釈に助けてもらいながら、記憶に残っている範囲内で何か書きはじめられることがあるかもしれない。
ただ、四作品といっても連載継続中(つまり未完結)の『ONE PIECE』は別扱いでなければフェアじゃなさそうだし、『仮面ライダー電王』は実写だし、『DEATH NOTE』はマンガ(後に実写化)だし、『新世紀エヴァンゲリオン』はマンガとアニメ(両者の関係は知らない)だしで、「テキストの形態」が異なる。
「テキストの形態」が違うということは、比較が難しいということだ。そのため、宇野氏が取り上げている作品群の中で、私が興味をもって見た四作品のうち、「テキストの形態」が近似していて比較しやすいと思われるのは『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』の二つだということになる。
ここで、最初のほうに書いた、宇野氏の著書をパラパラめくりはじめての第一印象としての「へえ」の話に戻る。どうやら本書にとっても、いま私が残した二つの作品、『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』が、大きな問題らしいのだ。そのことを知っての「へえ」である。
「第一章 問題設定」の中の一小節のタイトルに驚いた。「4.碇シンジでは夜神月を止められない」(22ページ以下)。これは重大な問題提起だと直感するものがある。
でもね、「碇シンジでは夜神月を止められない」ですか?はは、言われてみれば、確かにそういうことになるのかもしれない。しかし、この命題を見た直後に言いたくなったことは、「違うよ」だった。
「碇シンジは存在するが、夜神月は存在しない」です。エヴァンゲリオンは存在しうるが、DEATH NOTEは存在しません。
宇野常寛氏の名前も先週どなたかのツイートで知ったばかりである。本書が出版されたらしき2008年7月の私は何をしていたかなあ。このブログ「関口 康日記」を始めたのが2008年1月。アムステルダム自由大学での「国際ファン・ルーラー学会」に出席したのが同年12月。そのちょうど中間くらいだ。
だから、おそらくこう言わねばならない。「2008年7月の関口は、神学一色、ファン・ルーラー一色でした」。宇野氏が扱っている仮面ライダー(龍騎、電王)、新世紀エヴァンゲリオン、DEATH NOTE、ONE PIECEなどは、子どもたちと一緒になって「批評なしに」楽しんでいた。純粋な一消費者として。
あ、いまちょっとウソを書きました。「子どもたちと一緒になって」?違うね。「子どもたち」を言い訳に使っちゃあいけない。子どもたちも楽しんでいましたが、私「が」楽しんでいました。もう一つのウソは、仮面ライダー「龍騎」というのを、私はほとんど見たことがない。チラ見したが、関心を持てなかった。
『仮面ライダー電王』は、相当見ました。映画まで見た。『DEATH NOTE』は、週刊少年ジャンプでリアルタイムで全部読んだ。映画も見た。『ONE PIECE』は全巻コミックスをもっている。アニメは(面白くないので)見ていない。『新世紀エヴァンゲリオン』は、リアルタイムでは見なかったが、昨年だったか、ウェブで全部見て、「面白い」と知った。
宇野氏が扱っている範囲はもっともっと幅広い。でも、今書いた四作品以外はほとんど知らないし、分かんないですね。フォローしきれない。涼宮なんとか、ハチミツとなんとかは、タイトルくらいは見たことがあるが、中身は知らない。
まあ、『ゼロ年代の想像力』は、まだ読みはじめたばかりなので、これについて云々するのは、もう少しあとになりそうだ。でも、私が実際に関心をもって見た四作品については、宇野氏のような方の解釈に助けてもらいながら、記憶に残っている範囲内で何か書きはじめられることがあるかもしれない。
ただ、四作品といっても連載継続中(つまり未完結)の『ONE PIECE』は別扱いでなければフェアじゃなさそうだし、『仮面ライダー電王』は実写だし、『DEATH NOTE』はマンガ(後に実写化)だし、『新世紀エヴァンゲリオン』はマンガとアニメ(両者の関係は知らない)だしで、「テキストの形態」が異なる。
「テキストの形態」が違うということは、比較が難しいということだ。そのため、宇野氏が取り上げている作品群の中で、私が興味をもって見た四作品のうち、「テキストの形態」が近似していて比較しやすいと思われるのは『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』の二つだということになる。
ここで、最初のほうに書いた、宇野氏の著書をパラパラめくりはじめての第一印象としての「へえ」の話に戻る。どうやら本書にとっても、いま私が残した二つの作品、『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』が、大きな問題らしいのだ。そのことを知っての「へえ」である。
「第一章 問題設定」の中の一小節のタイトルに驚いた。「4.碇シンジでは夜神月を止められない」(22ページ以下)。これは重大な問題提起だと直感するものがある。
でもね、「碇シンジでは夜神月を止められない」ですか?はは、言われてみれば、確かにそういうことになるのかもしれない。しかし、この命題を見た直後に言いたくなったことは、「違うよ」だった。
「碇シンジは存在するが、夜神月は存在しない」です。エヴァンゲリオンは存在しうるが、DEATH NOTEは存在しません。
2011年5月15日日曜日
「文学的に考える」とは、たとえばどういう意味か
現首相が「福島第一原発が爆発した」と公的に発言したとき、あるいは現官房長官が「ただちに健康に影響はない」と公的に釈明したとき、あるいは現天皇がビデオメッセージを国民向けに流したとき、私は彼らの言葉を信用したわけではない。関心があったのは、各発言がなされたという事実そのものと、その日付や場所。そして、そのときどのようなレトリックが用いられたかということだけだった。
ましてや、東電自身や原子力保安院の会見などは、最初の数日は見ていたが、その後はどうでもよくなった。加害当事者の釈明会見など、何十時間聞いても、真相が見えてくるはずがないと分かったからだ。
現天皇はともかく、現首相と現官房長官は、国民向けに語ることができない何らかの「真相」を知っていたに違いない(知りえたことを洗いざらい人前で暴露する政治家は通常いない)。そのことを文学者はすぐに見抜く。なぜ見抜けるか。あらあら、巧みな「文法」を用いはじめたぞ、ということが、文学者には瞬時に分かるのだ。
あるいは、天皇の登場の意味も、文学者なら文学的に、あるいは歴史的に、つまり日本史的に理解する。天皇が何を語ったかはあまり問題ではない。問題なのは、なぜ出てくるのが「天皇」なのか、である。あるいは、なぜあのタイミング(2011年3月15日でしたね)なのか、である。
私自身は文学者でも歴史家でもないので、事の詳細は分からない。しかし、このたびの“出来事”(と、いくらか柔らかく、価値中立的に書いておく)が太平洋戦争の「敗戦」に匹敵する超弩級の国難であるという認識がこの国の支配者層(それが誰かは具体的には知らないが、福島第一原発「爆発」の真相を最初期の段階から知りえていた政治家の誰か複数)の中にあるということを、天皇登場の日に認識した。「ああ、そういうことか」と察知できるものがあった。
いわゆる「核爆発」が起こりうるかどうかも、私にとっては最初からほとんど問題ではなかったし、関心もなかった。たぶん起こらないし、起こっていないのだろうということが、上記の“彼ら”が用いる「文法」で分かったからだ。
ひとの話を聞く際に、語られている内容が科学的に、あるいは数値データ的に正しいかどうかよりも、“日本語として”正しいかどうかに関心を寄せて聞くと、彼らがどの程度のことまでを知っていて、そこから先は本当に知らないかが、分かってくることがあるものなのだ。
なかでも現官房長官の本職は弁護士でもあるのだろう。話の最初から、特定のだれか(の、おもに財産)を法的に弁護している調子が分かった。当然のことながら、弁護士には弁護士の文法がある。とても立派な仕事だと思うが、彼らの用いる文法は、聞いていて苦痛を感じることが多い。
もちろん、もし、自分が弁護してもらう立場にあれば、巧みな「文法」を駆使してくれる弁護士であればあるほど、この上なく助かる存在でもあるだろう。
原発そのものの仕組みを知らないとか、具体的な数値データなど持っていない人間であっても、これくらいのことは分かるのだ。原発にせよ、他の精密機械やソフトウェアにせよ、すべてをブラックボックスにしておいて、つまり、その開発に携わったごく少数の人間だけの専売特許にしておいて、それ以外の素人には(たとえ実害を受けている被害当事者であっても)この件に関する発言権は無いとするのは、いかにも卑怯だ。
絶対に壊れない機械などないし、無限のエネルギーなどありえない。そもそも「完璧なもの」は地上に存在しない。いま書いたことは、科学的に証明できなくても構わない。「そうだ」と言い張る人が多くなれば、それで事は足りるのだ。神学の出番は、そこかもしれない。
ましてや、東電自身や原子力保安院の会見などは、最初の数日は見ていたが、その後はどうでもよくなった。加害当事者の釈明会見など、何十時間聞いても、真相が見えてくるはずがないと分かったからだ。
現天皇はともかく、現首相と現官房長官は、国民向けに語ることができない何らかの「真相」を知っていたに違いない(知りえたことを洗いざらい人前で暴露する政治家は通常いない)。そのことを文学者はすぐに見抜く。なぜ見抜けるか。あらあら、巧みな「文法」を用いはじめたぞ、ということが、文学者には瞬時に分かるのだ。
あるいは、天皇の登場の意味も、文学者なら文学的に、あるいは歴史的に、つまり日本史的に理解する。天皇が何を語ったかはあまり問題ではない。問題なのは、なぜ出てくるのが「天皇」なのか、である。あるいは、なぜあのタイミング(2011年3月15日でしたね)なのか、である。
私自身は文学者でも歴史家でもないので、事の詳細は分からない。しかし、このたびの“出来事”(と、いくらか柔らかく、価値中立的に書いておく)が太平洋戦争の「敗戦」に匹敵する超弩級の国難であるという認識がこの国の支配者層(それが誰かは具体的には知らないが、福島第一原発「爆発」の真相を最初期の段階から知りえていた政治家の誰か複数)の中にあるということを、天皇登場の日に認識した。「ああ、そういうことか」と察知できるものがあった。
いわゆる「核爆発」が起こりうるかどうかも、私にとっては最初からほとんど問題ではなかったし、関心もなかった。たぶん起こらないし、起こっていないのだろうということが、上記の“彼ら”が用いる「文法」で分かったからだ。
ひとの話を聞く際に、語られている内容が科学的に、あるいは数値データ的に正しいかどうかよりも、“日本語として”正しいかどうかに関心を寄せて聞くと、彼らがどの程度のことまでを知っていて、そこから先は本当に知らないかが、分かってくることがあるものなのだ。
なかでも現官房長官の本職は弁護士でもあるのだろう。話の最初から、特定のだれか(の、おもに財産)を法的に弁護している調子が分かった。当然のことながら、弁護士には弁護士の文法がある。とても立派な仕事だと思うが、彼らの用いる文法は、聞いていて苦痛を感じることが多い。
もちろん、もし、自分が弁護してもらう立場にあれば、巧みな「文法」を駆使してくれる弁護士であればあるほど、この上なく助かる存在でもあるだろう。
原発そのものの仕組みを知らないとか、具体的な数値データなど持っていない人間であっても、これくらいのことは分かるのだ。原発にせよ、他の精密機械やソフトウェアにせよ、すべてをブラックボックスにしておいて、つまり、その開発に携わったごく少数の人間だけの専売特許にしておいて、それ以外の素人には(たとえ実害を受けている被害当事者であっても)この件に関する発言権は無いとするのは、いかにも卑怯だ。
絶対に壊れない機械などないし、無限のエネルギーなどありえない。そもそも「完璧なもの」は地上に存在しない。いま書いたことは、科学的に証明できなくても構わない。「そうだ」と言い張る人が多くなれば、それで事は足りるのだ。神学の出番は、そこかもしれない。
柏、松戸、流山、三郷のホットスポット
中部大学の武田邦彦教授が、ご自分のサイトに「柏、松戸、流山、三郷のホットスポット」という記事を掲載しておられます。ご関心のある方は、ご一読をお勧めいたします。私も現在、松戸市民ですので、他人事ではありえません。
「臨時 ホットスポット情報 子供を守ってください。関東の一部に放射線の強い場所があります。柏、松戸、流山、三郷の4市です。放射性物質は『県境』などは判りませんから、測定値に従って行動することが必要です。(以下略)」
この続きは、武田教授の文章を直接お読みください。
武田邦彦 「柏、松戸、流山、三郷のホットスポット」
http://takedanet.com/2011/05/post_5c55.html
「臨時 ホットスポット情報 子供を守ってください。関東の一部に放射線の強い場所があります。柏、松戸、流山、三郷の4市です。放射性物質は『県境』などは判りませんから、測定値に従って行動することが必要です。(以下略)」
この続きは、武田教授の文章を直接お読みください。
武田邦彦 「柏、松戸、流山、三郷のホットスポット」
http://takedanet.com/2011/05/post_5c55.html
2011年5月14日土曜日
「読書メーター」始めました
Twitterの友人に誘われて「読書メーター」を始めました。これで、過去27年で集めた本のリストを作ることができないかと期待しています。
ただし、ここに挙げてあるものが私の蔵書のすべてではありません。まだまだたくさんあります。とくに大昔の古書は登録できない様子です(もしかしたら登録できるのかもしれませんが、いろいろ試してみる余裕がありません)。
また、「本棚」という機能を利用したかったので、すべてを「読んだ本」に分類しましたが、斜め読みの本も含まれています。
「読書メーター」の仲間が、もっと欲しいです。どなたもぜひお試しください。
関口 康 on 読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/u/108741/cat
「読書メーター」とは(はてなキーワードより):
自分の読書量をグラフで管理できるウェブサイト。読み終わった本を登録することで、ページ数や冊数のグラフ、登録した本の表紙のサムネイル画像など視覚化することができる。
ただし、ここに挙げてあるものが私の蔵書のすべてではありません。まだまだたくさんあります。とくに大昔の古書は登録できない様子です(もしかしたら登録できるのかもしれませんが、いろいろ試してみる余裕がありません)。
また、「本棚」という機能を利用したかったので、すべてを「読んだ本」に分類しましたが、斜め読みの本も含まれています。
「読書メーター」の仲間が、もっと欲しいです。どなたもぜひお試しください。
関口 康 on 読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/u/108741/cat
「読書メーター」とは(はてなキーワードより):
自分の読書量をグラフで管理できるウェブサイト。読み終わった本を登録することで、ページ数や冊数のグラフ、登録した本の表紙のサムネイル画像など視覚化することができる。
2011年5月13日金曜日
結局これは「文学の欠如」だと思う
メルトダウンは最近になって起こったわけではないし、レベル7もそうだ。ほぼ最初からそうだったのだ。“文学的に”考える者たちは早々と「最悪のシナリオ」に辿り着き、持てる想像力を駆使しながら、自分になしうること、なすべきことは何かを判断し、迅速に行動しはじめた。
いま思い返すに、福島第一原発「爆発」の一報直後のほぼ最初の時点からいちばん的確な判断ができていたのは、文学者たちであり、哲学者たちであり、神学者たちであった。
全く惨めに思えるのは、優秀な理系脳の持ち主たちだ。どうした。え、「想定外」だって?違うよ。「想像力の欠如」だ。佐々木中氏的にいえば「文学の欠如」ということにもなるだろう。
日本の教育は、2011年を境に根本的に構造を変えるべきだ。文学の素養の無い人たちには原発は扱えなかった。そのことがはっきりしたじゃないか。そういうことを今朝、ひどく考えさせられたので書きとめておきます。
いま思い返すに、福島第一原発「爆発」の一報直後のほぼ最初の時点からいちばん的確な判断ができていたのは、文学者たちであり、哲学者たちであり、神学者たちであった。
全く惨めに思えるのは、優秀な理系脳の持ち主たちだ。どうした。え、「想定外」だって?違うよ。「想像力の欠如」だ。佐々木中氏的にいえば「文学の欠如」ということにもなるだろう。
日本の教育は、2011年を境に根本的に構造を変えるべきだ。文学の素養の無い人たちには原発は扱えなかった。そのことがはっきりしたじゃないか。そういうことを今朝、ひどく考えさせられたので書きとめておきます。
2011年5月12日木曜日
いま勇気をもって書く「アニメの話」
脈絡なく書きますが、中学・高校の頃はアニメとかよく見てました。オタクとかそういうのが流行る前ですね。正確な情報などどうでもいいですが、1977年から1983年までの6年間です。宇宙戦艦ヤマトの再放送を見た日から銀河鉄道999とかの映画をやっていたころまで。松本零士氏の術中にハマったクチです。
私は1965年生まれ、つまり「戦後20年生まれ」なので、軍艦や蒸気機関車の実物を見たことがない世代ですが、そういうもの、つまり私にとって「過去」のものが宇宙の果てまで飛んでいき、見たこともない「未来」の主役になるという「未体験感」が、少年Sの好奇心をかき立てました。
当時、パソコンとか携帯とかも、その実物は見たことがなかったので、松本零士氏の描く「コックピット」や「通信機」の絵は、憧れというか興味津々でしたね。
で、「コックピット」や「通信機」への興味は、私の長男が幼稚園児のころに始まった「平成ウルトラマンシリーズ」のティガだダイナだガイアだを長男と一緒に見たときに再燃。「やっぱりおれはこういうの(コックピットや通信機)を自分のものにしたいようだ」という自分の願望に気づきました。
どこで読んだか忘れましたが「基本、オタクにはコックピット願望あるからな」という書き込みに笑いました。「お、おれはオタクじゃねえ!」と心で叫びました。先日、ファンに囲まれたキャンディーズの写真をどこかで見たとき、「お前らって昔からお前らなんだな」という書きこみにも笑いました。
ちなみに、キャンディーズをおっかけたことなんかありませんからね。私、オタクとか呼ばれたことねえし。ていうか、もと岡山県人の私が、どうやって、だれをおいかければいいのかって感じでしたよ。当時、岡山まで来てくれる芸能人なんて、ほとんどいませんでしたからね。
そして今。
「おっかけ」の体験はいまだにありませんが、「コックピット」と「通信機」は、なんだか手に入ってしまった感じがしています。携帯電話を持つと「流星号、応答せよ!」とか「行け、鉄人!」とか言いたくなっちゃう(古いか)。スカイプとかやってると、ベルク・カッツェの高笑いが聞こえてきます。
しかし、この「コックピット」と「通信機」っていうのは、実際に手に入れてみると、どうってことないものですね。いま思い出しているのは、故ビン・ラディン氏がテレビのリモコンを操作している、あのビデオ映像です。さらに、ビン・ラディン氏殺害時にホワイトハウスの一室に米政府関係者がコーヒー飲みながら集結している、あのスチール写真です。
米政府とビン・ラディン氏のどちらが科学忍者隊で、どちらがギャラクターなのかは分かりません。どっちなのかは、どっちでもいい。そのことよりも、政府の基地のモニターとかによく侵入していたベルク・カッツェの姿を思い起こすたびに、「彼が使っているソフトはスカイプだろうか」などと妄想しています。
ガンダムは、最初のシリーズだけは少しは見ましたよ。ただ、あんまり記憶に残っていないんで、ガンダムの話では盛り上がれないです。ストーリーが私には少し難しく感じられたというか、当時(中学生だったかなあ)の想像力の範囲を超えていました。
ヤマトは、キムタク主演の映画を私一人で観に行きましたよ。封切りからだいぶたった頃で、JR柏駅前のステーションシアターで観たのですが、そのときのお客さんが、私含めて5人。うち私以外の4名(男性3名、女性1名)は、どう見ても70歳を超えた方々でした。なんじゃこれ、でしたね。
まあ、でも、70歳オーバーの方々といえば、つまり我々の親の世代の方々ですね。我々が子どもだったころ、我が子と一緒にアニメのヤマトを見ておられたのでしょうね。そう思うと、なかなか実家に帰れない親不孝な私としては、なんだか切ないですね。
エヴァンゲリオンていうのは、去年だったかな、ウェブ上で初めて観ましたよ。一気に全部を観ました。まあ、私にとっては面白いものでしたね。何年も前からレンタルビデオ屋さんの目立つ位置にずらりと並べてあったのは遠目に見ていましたが、借りて観る「勇気」まではありませんでした。
あ、最初は「ヱ」と書かなくてはならなかったかな、「ヱヴァンゲリオン」ですかね。こういうのは分かんないですね。新東京市、でしたっけ。第二とか第三とかありましたよね、地下都市の。ああいうのが現実に必要になりそうな勢いですね、ってこういう話、空気読めて無さ過ぎですかね。
私は1965年生まれ、つまり「戦後20年生まれ」なので、軍艦や蒸気機関車の実物を見たことがない世代ですが、そういうもの、つまり私にとって「過去」のものが宇宙の果てまで飛んでいき、見たこともない「未来」の主役になるという「未体験感」が、少年Sの好奇心をかき立てました。
当時、パソコンとか携帯とかも、その実物は見たことがなかったので、松本零士氏の描く「コックピット」や「通信機」の絵は、憧れというか興味津々でしたね。
で、「コックピット」や「通信機」への興味は、私の長男が幼稚園児のころに始まった「平成ウルトラマンシリーズ」のティガだダイナだガイアだを長男と一緒に見たときに再燃。「やっぱりおれはこういうの(コックピットや通信機)を自分のものにしたいようだ」という自分の願望に気づきました。
どこで読んだか忘れましたが「基本、オタクにはコックピット願望あるからな」という書き込みに笑いました。「お、おれはオタクじゃねえ!」と心で叫びました。先日、ファンに囲まれたキャンディーズの写真をどこかで見たとき、「お前らって昔からお前らなんだな」という書きこみにも笑いました。
ちなみに、キャンディーズをおっかけたことなんかありませんからね。私、オタクとか呼ばれたことねえし。ていうか、もと岡山県人の私が、どうやって、だれをおいかければいいのかって感じでしたよ。当時、岡山まで来てくれる芸能人なんて、ほとんどいませんでしたからね。
そして今。
「おっかけ」の体験はいまだにありませんが、「コックピット」と「通信機」は、なんだか手に入ってしまった感じがしています。携帯電話を持つと「流星号、応答せよ!」とか「行け、鉄人!」とか言いたくなっちゃう(古いか)。スカイプとかやってると、ベルク・カッツェの高笑いが聞こえてきます。
しかし、この「コックピット」と「通信機」っていうのは、実際に手に入れてみると、どうってことないものですね。いま思い出しているのは、故ビン・ラディン氏がテレビのリモコンを操作している、あのビデオ映像です。さらに、ビン・ラディン氏殺害時にホワイトハウスの一室に米政府関係者がコーヒー飲みながら集結している、あのスチール写真です。
米政府とビン・ラディン氏のどちらが科学忍者隊で、どちらがギャラクターなのかは分かりません。どっちなのかは、どっちでもいい。そのことよりも、政府の基地のモニターとかによく侵入していたベルク・カッツェの姿を思い起こすたびに、「彼が使っているソフトはスカイプだろうか」などと妄想しています。
ガンダムは、最初のシリーズだけは少しは見ましたよ。ただ、あんまり記憶に残っていないんで、ガンダムの話では盛り上がれないです。ストーリーが私には少し難しく感じられたというか、当時(中学生だったかなあ)の想像力の範囲を超えていました。
ヤマトは、キムタク主演の映画を私一人で観に行きましたよ。封切りからだいぶたった頃で、JR柏駅前のステーションシアターで観たのですが、そのときのお客さんが、私含めて5人。うち私以外の4名(男性3名、女性1名)は、どう見ても70歳を超えた方々でした。なんじゃこれ、でしたね。
まあ、でも、70歳オーバーの方々といえば、つまり我々の親の世代の方々ですね。我々が子どもだったころ、我が子と一緒にアニメのヤマトを見ておられたのでしょうね。そう思うと、なかなか実家に帰れない親不孝な私としては、なんだか切ないですね。
エヴァンゲリオンていうのは、去年だったかな、ウェブ上で初めて観ましたよ。一気に全部を観ました。まあ、私にとっては面白いものでしたね。何年も前からレンタルビデオ屋さんの目立つ位置にずらりと並べてあったのは遠目に見ていましたが、借りて観る「勇気」まではありませんでした。
あ、最初は「ヱ」と書かなくてはならなかったかな、「ヱヴァンゲリオン」ですかね。こういうのは分かんないですね。新東京市、でしたっけ。第二とか第三とかありましたよね、地下都市の。ああいうのが現実に必要になりそうな勢いですね、ってこういう話、空気読めて無さ過ぎですかね。
2011年5月9日月曜日
とにかく一年過ごしてみなければ、という気持ちです
今の私が原発不要論に同意していないという意味ではありませんが(断じて)、四季が明瞭な日本では、とにかく一年過ごし、エアコン無しで夏の猛暑を乗り切り、熱中症死者が続発しなかったことを確認できないと、原発不要論に確信を持てない気がしています。
現在45歳の私にとっては、20年前の電力レベルに戻ることは、実はそれほど苦ではありません。エアコンのある学校に通ったことはないし、学生寮にもそんなものはありませんでした。すべてをエアコンの話にしてしまうのは極論かもしれませんが、20年前と今の最大の違いはエアコンですよね。
ですから、エアコンを止めるとどうなるかを見守りたいのは、確かにメタボゆえ暑がりではある私自身の姿ではなく(誤解されやすいので特記しておきます)、「生まれる前からエアコンがあった」世代の子どもたちや、病弱な方々や高齢者の姿です。とにかく一夏耐えられたという証しが欲しいです。
現在45歳の私にとっては、20年前の電力レベルに戻ることは、実はそれほど苦ではありません。エアコンのある学校に通ったことはないし、学生寮にもそんなものはありませんでした。すべてをエアコンの話にしてしまうのは極論かもしれませんが、20年前と今の最大の違いはエアコンですよね。
ですから、エアコンを止めるとどうなるかを見守りたいのは、確かにメタボゆえ暑がりではある私自身の姿ではなく(誤解されやすいので特記しておきます)、「生まれる前からエアコンがあった」世代の子どもたちや、病弱な方々や高齢者の姿です。とにかく一夏耐えられたという証しが欲しいです。
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