2009年10月1日木曜日

嫌いな言葉(2)

それにしても、「なんとか的」という教会用語が多すぎることを恥ずかしく思っています。こういうのを、まさに悪い意味で「翻訳調」と言うのです。翻訳家の山岡洋一氏が常に痛烈に批判しておられる点です。横のものを縦にして「なんとか的」といいさえすれば何かを言い終えた気持ちになるのは、我々の悪い癖です。



もう廃れたのでしょうか、つい最近まで流行っていた「テーキーナー」「ミーターイーナー」と大声で叫ぶ漫才を思い出します。



「聖書的な」という言い回しも、かなり嫌いです。異端審問官的な感じで脅迫的に突き付けてくる「聖書的か否か」は、私に言わせていただくと、ほとんどの場合、意味不明です。



その問いを突き付けることで何をおっしゃりたいのかがこちらで理解できないという意味で「意味不明」です。



また、おそらくは、そのようにおっしゃっているご本人がそれによってご自分で何を言いたいのか分かっておられないようでもあるという意味でも「意味不明」です。



「日本人的な」という言葉を悪い意味でしか使わない日本人の説教者もたくさんいます。アホかと言いたくなります。「だったら、てめえはナニジンなんだよー」と。



「聖書的でない」や「改革派的でない」という言葉も、黙って聞いていると、「人間的である」というのとほとんど同じ意味で使っていることに気づかされます。どうやら根っこは同じです。



しかし、このテーマは、考えれば考えるほど、非常に深刻なものです。十分に博士論文のテーマになります。



日本の(とりわけプロテスタントの)教会の中に「神中心主義」の衣をかぶった「ヒューマニズム嫌い」ないし「人間嫌い」が色濃く見受けられます。私はこれを「羊の衣を着た狼」であると見ています。非常に邪悪極まりない何かです。



2009年9月30日水曜日

嫌いな言葉(1)

「嫌いな人」について書きましたので、「嫌いなシリーズ」をもう少しだけ続けてみようかと思いました。



大の字をつけたいほどの「嫌いな言葉」があります(「大嫌いな言葉」だということです)。それは否定的なニュアンスで用いられる「人間的な」という形容詞です。



この形容詞が用いられて繰り出されるトークは、「教会」という枠組みの外側に(生まれてこのかた一度も)出たことのない人間としては、数えきれない頻度で聞いてきたものです。「教会用語」と呼んでもよさそうなものです。



それは教会の公の発言や文書(語られた説教や書かれた説教を含む)の中だけではなく、ごくさりげない日常会話の中にも頻繁に用いられます。



たとえば、



「そのような考え方は、はなはだ人間的な考え方なのであります。しかしながら、神の御心とはそのようなものではないのであります」というふうに語られます。



あるいは、



「前々からのぞいてみたいと思っていたあの教会に、このあいだ機会あってやっと行ってみたけど、雰囲気が人間的で嫌だった。もう二度と行きたくない」というふうに語られます。



まるで、そういうふうに語っている人自身は「人間」ではないかのようです!



教会の理想形は、そこに一人も「人間」なる存在がいなくなることであるかのようです!



「救われる」とはすなわち「人間でなくなること」「人間をやめること」であると言われているかのようです!



「人間が人間的である」とは、字面を見れば疑いなく「人間=(イコール)人間」と言っているだけのことです。いわば人間の自己同一性(アイデンティティ)を表現しているだけのことです。それ以上でも、それ以下でもありません。



しかし私は、「それは人間的な○○である」という言葉を否定的・糾弾的なニュアンスで用いる人々の言葉を、ほとんどの場合、黙って聞いています。



「ちぇ人間で悪かったね!」と苛立ちますし、「人間が『人間的』であってどこが悪いのさ?」と内心で毒づいていますし、「またか」と閉口しますが、まさに「閉口」するのであって、面倒くさいことになるということがあらかじめ分かっていますので、あえて反論はしないことにしています。



なぜなら、その人々の多くは「熱心な」信仰の持ち主だからです(私自身の信仰も「熱心」であるとは思っていますが)。



その人々の場合「人間的な」という形容詞がなぜ否定的なニュアンスになってしまうのかというと、常に必ず「神との比較」という観点が持ち込まれているからです。



基本の部分に「パーフェクトな神と比べて人間はアンパーフェクトである」という《比較》のロジックがしっかりと埋め込まれているので、その人々の口から出てくる「人間的な」を否定的に発音するあの言葉づかいは、まるでバッティングセンターのピッチングマシーンのように同じ場所から・同じ球速で・同じ角度で、何度でも繰り出されることになるのです。



あるいは、「金太郎飴」と言ってもよいわけですが・・・金太郎飴って最近見たことがないのですが、まだ売っているのでしょうか。



しかし、そもそも「神」と「人間」は《比較》してよい関係なのでしょうかね(?)という点に根本的な疑問を感じます。我々にとって「比較にならない」存在のことを「神」とお呼びするのではないでしょうか。



「神と比べて人間は・・・」なんて言われても、何か説得力ありますかね(?)と首をかしげるばかりです。



慶應義塾大学『三色旗』でファン・ルーラーを紹介しました

このたび慶應義塾大学出版会から出版された同大学通信教育部の補助教材『三色旗』第739号(2009年10月号)にファン・ルーラーに関する拙文が掲載されました。同誌の特集「オランダ―小国から見えてくるもの」に関する記事として水島治郎先生(千葉大学大学院人文社会科学研究科教授)と田上雅徳先生(慶應義塾大学法学部准教授)と私の文章が載りました。各タイトルは以下のとおりです(掲載順、敬称略)。



『三色旗』第735号(2009年10月号)目次



巻頭言                                                   1



特集 オランダ―小国から見えてくるもの                田上雅徳 2



「パートタイム社会」という実験                       水島治郎 3



オランダの戦後復興を支えた声
 ―プロテスタント神学者A. A. ファン・ルーラーの「ラジオ説教」― 関口  康 8



世俗化の紡ぎ出され方                                 田上雅徳 13



(以下略)



オランダ紀行の続きを書き始めています

とにかく完全に忘れてしまわないうちに少しでも書きとめておかなければすべてが無駄になってしまいますので、「オランダ紀行」の続きの部分を書き始めています。まだこれから書き加えていくことになると思いますが、とりあえず今日は下記の部分を書きました。思い出すことと書くこととで脳と指先が(目も肩も腰も)疲れましたので、一休みします。



■ オランダ紀行 神学者ファン・ルーラーの足跡を訪ねて(2008年12月8日~12月12日)



2008年12月11日(木)



カンペン
クバート
フラネカー
フローニンゲン
石原知弘先生



2008年12月12日(金)



ユトレヒト大学図書館



2009年9月29日火曜日

本サイトからの引用についての注意事項

本サイト開設の目的には、できるだけ多くの方々にファン・ルーラーの文章を読んでいただき、この神学者の息づかいやひらめきに直接触れていただきたいという願いが少なからず含まれています。「読んでいただきたい」と願っているからこそこのようなことをしているのですから、論文への引用や読書会や学校教材などへの利用については歓迎いたします。



ただし、本サイトに掲載しているすべての文章(訳文、解説、その他)は関口康の(その時点での)私案であり、試案であり、提案であるという意味での「未完成品」です。すべての文章を予告や断りなしに随時、修正・変更していきます。



そのため、本サイトから引用していただける場合には、事前に必ず関口までご連絡くださいますようお願いいたします。ご連絡くださった方にはその時点での最新版(案)をお送りいたします。



メール送信 (関口 康)



2009年9月28日月曜日

待望と成就(1978年)

A. A. van Ruler, Verwachting en voltooiing, 1978.

1. 三位一体神学の必要性(1956年)
2. 神の国と歴史(1947年)
3. キリスト説教と神の国説教(1957年)
4. 教会はそれ自体目的でもある(1966年)
5. エキュメニカル運動における原理的問題(1961年)
6. 終末論の光における伝道の根本問題(1950年)
7. 宣教奉仕の神学(1953年)
8. 中等教育と準備的高等教育のキリスト教化(1953年)
9. 聖書、国家、教会(1948年)
10. 神の憐れみと義(1960年)
11. 権威(1958年)
12. 神学における人間性(1966年)


「オランダ紀行 神学者ファン・ルーラーの足跡を訪ねて(2008年12月8日~12日)」の画像を公開しました

Schipol02_3記憶がかなり怪しくなってきていることもあり、昨年12月のオランダ旅行の報告文の続きを書くことになるべく早く取り組まねばならないと焦っています。今年の前半とにかく多忙を極めていたことに加えて、先般のパソコンクラッシュによって喪失したデータの中にオランダ旅行に関する部分(写真類を含む)がかなり多くあったことで意気消沈していたことが、旅行記執筆の続行を困難にしていた大きな原因でした。



しかし、私の弱い脳内で溶解させてしまってはせっかくの好機に得た情報を無駄にしてしまうことになります。不幸中の幸いは、旅行のすべてに同行してくださった石原知弘先生(写真左。日本キリスト改革派教会教師、現在アペルドールン神学大学修士課程在学)が私よりもはるかに明晰な記憶と写真類のデータを保持してくださっていることです。



このたび石原先生から写真を送っていただくことができました。文章は後から書くとして、とにかく写真だけを公開することにしました。



なお、「付録 オランダの風景」に付した写真は、松戸小金原教会の前任牧師、澤谷 實(さわや みのる)先生が2001年2月にオランダを旅行なさったときにお撮りになったものです。澤谷牧師は2002年7月に55才で亡くなられました。



■ オランダ紀行 神学者ファン・ルーラーの足跡を訪ねて(2008年12月8日~12月12日)



2008年12月8日(月)



アムステルダム



2008年12月9日(火)



ユトレヒト
ヒルファーサム
アムステルダム中央駅



2008年12月10日(水)



国際ファン・ルーラー学会
スピーチ全文



2008年12月11日(木)



アペルドールン
カンペン
クバート
フラネカー
フローニンゲン
石原知弘先生



2008年12月12日(金)



ユトレヒト大学図書館
ライデン
アムステルダム
スキポール



付録



オランダの風景



付録 オランダの風景

撮影 澤谷 實 (前 日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師) ※無断転載はお控えください。



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2009年9月27日日曜日

三位一体の神


ヨハネによる福音書8・21~30

「そこで、イエスはまた言われた。『わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。』ユダヤ人たちが、『「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか』と話していると、イエスは彼らに言われた。『あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。』彼らが、『あなたは、いったい、どなたなのですか』と言うと、イエスは言われた。『それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。』彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしも、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」

今日の個所に至って、ヨハネによる福音書の難解さが絶頂点に達すると言うべきかもしれません。一回や二回読むだけで「分かった」と言える人は少ないでしょう。ユダヤ人たちを含む大勢の人々の前でイエスさまがおっしゃっていることは何でしょうか。三つほどのポイントを挙げてみます。

第一のポイントは、「わたしは去って行くが、わたしの行く所にあなたがたは来ることができない」ということです。イエスさまは、どこに行かれるのでしょうか。それははっきりしています。イエスさまが「わたしの行く所」とおっしゃっているのは「父なる神のみもと」です。そのところにわたしは行くことができるが、あなたがたは行くことができないと言っておられるのです。

第二のポイントは、「わたしは上のものに属しているが、あなたがたユダヤ人たちは下のものに属している」ということです。補足として、あなたがたは「この世」に属しているが、わたしは「この世」に属していないと語られています。つまり「この世」が「下のもの」です。そして「上のもの」とは「下のもの」の反対ですので、「この世」の反対。ということは「あの世」のことかとお考えになる方も多いでしょう。しかし「あの世」とは何でしょうか。それはどこにあるでしょうか。今申し上げることができるのは、イエスさまのおっしゃる「この世」の反対は我々のイメージする「あの世」とは本質的に違うものであるということです。

ここで第一のポイントに絡みます。イエスさまにとって「この世」の反対は「あの世」というような所ではなく常に「父なる神のみもと」なのです。聖書の中で「天」ないし「天国」が意味することは常に「神がおられるところ」です。ですから、わたしたちはこのイエスさまの言葉を衝撃をもって聞かなければなりません。「父なる神のみもと」としての「天」もしくは「天国」に行くことができるのはイエスさまおひとりだけであって、他の誰も行くことができないと言われているのです。

第三のポイントは「わたしはある」という不思議な言葉の中に隠されています。これは何でしょうか。「わたしはある」という日本語はありません。支離滅裂な響きを感じます。しかし、イエスさまのおっしゃっていることが支離滅裂であると言いたいわけではありません。あるいは、新共同訳聖書の日本語がおかしいと言いたいのでもありません。イエスさまは確かに「わたしはある」と言われたのです。ただし、その意味は、当時の人々にとっても、今のわたしたちにとっても、よほど詳しい説明でも受けないかぎり全く理解できそうもないようなことを、イエスさまはお話しになっているのです。

これから申し上げることはいま挙げた三つのポイントに共通している問題に対する答えです。三つのポイントをまとめていえば、イエスさまがこれから行かれるところは父なる神のみもとであるが、そこに行くことができるのはイエスさまひとりだけであって、他の誰も行くことができない。そして、そこにイエスさまが行かれたときに初めて、イエスさまこそが「わたしはある」という存在であるということがイエスさま以外の人々に分かるということです。

ここで考えてみたいことがあります。それは、なぜわたしたちはこのイエスさまのお話を難しいと感じるのかというその理由ないし原因です。私にはすぐ思い当たります。それは主に第一のポイントと第二のポイントにかかわることです。

皆さんの中にも、「父なる神のみもとに行くことができるのはイエスさまだけであって、他の誰も行くことができない」という言葉を聞くと躓きを感じるという方がおられないでしょうか。手を挙げてくださいとは申しませんが、おそらくきっとおられるはずです。なぜでしょうか。私自身も含めて多くのキリスト者が長年聞いて来た教会の説教の中で「わたしたちが死んだら父なる神のみもとに行くのだ」ということを繰り返し教えられてきたからです。その教えが間違っているわけではありません。しかしそれにもかかわらず、「父なる神のみもと」に行くことができるのはイエスさまだけであって、他の誰も行くことができないのだというようなことを言われてしまいますと、「それでは我々はどこに連れて行かれるのか」という点で不安を感じたり、反発を覚えたりする人が出てくるわけです。それは無理もないことです。このイエスさまのお話を理解できない理由ないし原因は、わたしたちがこれまで聞いて来た説教の内容とは違うことが語られているように感じるという点にあるのではないだろうかと、私には思われるのです。

しかし、ここから先は励ましと慰めの言葉です。どうかご安心ください。わたしたちも間違いなく「父なる神のみもと」に行くことができます!「どこに連れて行かれるのだろうか」と心配することは全くありません。ただしそれはイエスさまがおっしゃっているのとは違う意味です。どこが違うのか。イエスさまの行かれる所と、わたしたちが行く所とは、同じ「父なる神のみもと」であっても、違う所なのだということです。ますますややこしい話をしてしまっているかもしれませんが、事情は今申し上げたとおりです。誤解を恐れず言えば、「父なる神のみもと」には二種類あるということです。イエスさまが行かれる所と、わたしたちが行く所は、違う所なのです。

しかし、どう違うのでしょうか。その説明をするためには、第三のポイントにかかわる答えを先に申し上げる必要があります。第三のポイントとはイエスさまがおっしゃる「わたしはある」とは何のことかという問題でした。すぐに答えを言います。このイエスさまの言葉には、明らかに旧約聖書的背景があります。お開きいただきたいのは出エジプト記3・13~14です。次のように記されています。

「モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言えば、彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」(出エジプト記3・13~14)

はっきり言います。イエスさまはこの出エジプト記の個所を念頭に置きながら、御自身を指して、このわたしこそが「わたしはある」と呼ばれるものであるとおっしゃっているのです。つまりイエスさまは「わたしは神である」とおっしゃっているのだということです。

このイエスさまの御言葉は、当時の人々の耳には、ほとんど間違いなく衝撃的な言葉として響いたはずです。イエスさまのお姿はどこからどう見ても、ただの人間にしか見えなかったはずです。そのイエスさまが「わたしはある」、すなわち「わたしは神である」とはっきりおっしゃったのですから、この言葉の旧約聖書的な背景を知っていた人々の中に驚かなかった人はいなかったはずです。または、驚くというよりは激しい怒りを抱いた人々も少なくなかったはずです。ただの人間に過ぎないこの男が「わたしは神である」と最悪の暴言を吐き、神を著しく冒瀆したと見た人々は多かったでしょう。

しかし、これは信仰の事柄であると、申し上げなければなりません。ここでわたしたちが全く否定できないことは、イエスさまはたしかに「わたしはある」とおっしゃることによって「わたしは神である」と明言されたということです。そして、そのことを聞いてひたすら激しく怒り、拒絶し、最悪の冒瀆罪を犯したとみなして断罪するか、それともイエスさまのおっしゃるとおりであると信じるかは、あれかこれか、二者択一の事柄であるということです。

わたしたちキリスト者と代々のキリスト教会は、イエス・キリストを「神」と信じる信仰に立っています。つまりイエスさまが御自身を指して「わたしはある」と言われたことを否定するのではなく肯定する信仰に立っています。イエス・キリストは神なのです。この点を譲ることはできません。

そしてこの点から、先ほど触れたまま、まだ答えの出ていない問題に帰ります。同じ「父なる神のみもと」でも、イエスさまが行かれる所と、わたしたちが行く所は違うという問題です。どう違うのでしょうか。これもすぐに答えを言います。イエスさまは神です。神の御子であり、御子なる神です。そのイエスさまが「父なる神のみもと」に行かれるという意味は、神としてのイエスさまが本来の姿にお戻りになるということです。つまり、本来「神」であられるイエスさまが、まさに神になられること、それがイエスさまの父なる神のみもとへの帰還の意味であるということです。

しかしそれに対して、わたしたちが「父なる神のみもと」に行くという場合には、わたしたち自身が神になるわけではないという点が全く違います。わたしたちは死んでも神にはなりません。地上の人生においてどれほど立派な働きをしても、だからといってわたしたち自身が神になるわけではありません。わたしたちが父なる神のみもとに行くときに起こることは、永遠に神に仕える者になられるということです。その場合、わたしたちが仕える神は三位一体の神です。そこには父なる神がおられ、御子なるイエス・キリストがおられ、聖霊なる神がおられます。

ただし、三人の神さまであるとお考えにならないでください。ある神学者の説明を借りて言えば、三位一体の神は「1+1+1=1」(足し算)ではなく「1×1×1=1」(掛け算)なのだ、ということです。しかし、こんな言い方ではますます分かりません。別の言い方をすれば、おひとりの神が地上の人間に対して三回、異なる姿でかかわってくださったのだ、ということです。

わたしたちに問われていることは、あなたはこのことを信じるかということです。あなたはイエス・キリストは「わたしはある」と称される神御自身であるということを信じるか、ということです。

(2009年9月27日、松戸小金原教会主日礼拝)

嫌いな人

こういうことを字に書くのは、記憶に間違いが無ければ、生まれて初めてのことです。本邦初公開(?)です。

私には「嫌いな人」がいます。ただし、特定の誰かのことを言いたいのではなく、「嫌いなタイプの人」のことです。

それは「脅迫する人」です。

私は本来、冷たい人間です。近くにいる方々は、多かれ少なかれ、私からそのようなものを感じるはずです。すぐバレるような、露骨な冷たさがあります。「岡山県人」であることもいくらか関係している可能性があります。

私の持っている「冷たさ」の中身は「私は誰をも支配しないし、支配したくない。しかしその代わりに、誰からも支配されたくない」という打ち消しがたい感情に根ざしています。オランダ人にも、これに近い感情があるらしいと聞いたことがありますが、定かではありません。

ともかく他人との距離の取り方がかなり遠いほうであると、自覚しています。

しかし、「脅迫する人」はしばしば、決して入られたくない距離に土足で踏み込んできます。これが困る。

しかも、本来他人との距離をかなりとっていると自覚している私を「脅迫」する人の多くが取る方法は、逆説的ではありますが、「辞める」という方法です。

我々の仕事の本質部分に「団体運営」という側面がありますので。

「辞める」という仕方での(一種独特の)脅迫を受けやすい立場にいると自覚しています。

困ってしまうのは私が本来冷たい人間であるということです。

その意味は、「辞める」という仕方での脅迫が実は全く通用しない人間であるということです。私相手に「辞めるカード」を突き付けても、暖簾に腕押し、ぬかに釘です。「どうぞご自由に」と言いそうになります。もちろんそんなことはその人の前では口が裂けても言いませんが。

私はかつて「辞めた」人間です。重大な決意をもって「離脱」しました。それゆえ私自身には「辞める」と言い張る人々を引きとめる力も資格もありません。

しかし、どうか誤解なきように。

私は、あの「離脱」によって、誰をも脅迫していません。私の「離脱」によって脅迫を感じた人は一人もいなかったはずです。

なぜなら、これは断言できますが、当の本人がそのような意図を全く持っていなかったからです。他ならぬ私自身が、幼い頃から今日に至るまで、「辞任」や「離脱」(という言葉)を《脅迫のカード》として利用するというようなやり方を最も忌み嫌う種類の人間だからです。

特定の誰かのことだと思われると困るのですが(誰から聞いたか忘れてしまいました)、これまで耳にしてきた中でいちばん不愉快に感じられた《論理》は、「わが教会は『あのリベラルな』教団から離脱して作られたものである。それゆえ、もし今後わが教会がリベラルになっていくならば、そのときはこの私が離脱するのみである」というものです。

そのような《論理》(聞いているとため息が出る三段論法)を、自分自身の体と心で現実の「離脱体験」をしたことがない(または「なさそうな」)人の口から聞くと、私には耐えがたいものがあります。

ただし、その場合には、「どうぞご自由に」とは思いませんし、言いません。「やれるものならやってみろ」とも思いませんし、言いません。

「離脱経験者」である私には何かを語る力や資格はありませんし、その人の前に立ちふさがって張れるほどの頑強な体もありません。

できるのは、「辞めないでください」と泣きながら訴えることくらいです。

しかし、その人の服をつかんで引っ張ることまではできない。実際に辞められた後、泣き寝入りするばかりです。

ここまで書いてきて、「嫌いな人」とは私自身のことのような気がしてきました。

「泣き寝入り」も脅迫の一種だと考えるとすれば。

「誰をも支配したくない代わりに誰からも支配されたくない」という感情も離脱行為の一種だと考えるとすれば。

自己嫌悪のかたまりです。