2009年9月3日木曜日

「キリスト教民主党」研究(1)

わが国に「民主党政権」が誕生したことに触発されて何か新しいことを始めたくなりました。手始めに「『キリスト教民主党』研究」というサイトを新設しました。そして、そのトップページに「世界のキリスト教民主党一覧」をアップしました。日本国内にこの種の情報はほとんど皆無ですので、「こんなにたくさんあったのか」と驚かれる方が多いのではないでしょうか。



「キリスト教民主党」研究(新設)
http://cdp.reformed.jp/



キリスト者がきわめて少数であるわが国に、公党としての「キリスト教民主党」が誕生するのは、たとえどれほど強く願ったとしても、半世紀か一世紀以上先のことでしょう。しかし、ただ手をこまねいているというのでは、無策のそしりを免れないでしょう。誰かが何かを始めなければ、どんなに小さくても何らかのアクションを起こさなければ、永久に何も生まれないでしょう。



日本の特にプロテスタント教会が「キリスト教政党」を求めてこなかった(あるいは意図的に拒否してきた)理由は必ずしも明らかにされてきませんでした。もちろん単純に「キリスト者の数が少なすぎて為すすべがなかった」と言えばそれまでであり、説得力もあります。実際、日本のキリスト者の多くは「キリスト教政党」という言葉を聞くとジョークだと思って腹を抱えてゲラゲラ笑いだすのです。そのような現実があることを私は知っています。



しかし、数の問題以上に思想的ないし「神学的な」理由もあったと思われます。少なくともその一つにバルト神学の圧倒的な影響を数えなければならないと私は考えています。



「キリスト教政党」の成立の要件は、「神学」(theologia)以上に「キリスト教哲学」(philosophia christiana)です。換言すれば、「キリスト教」(christiana)と「哲学」(philosophia)との《順接的》関係性の確保です。そのとき我々に問われることは、教会の外(extra ecclesiae)なる「世界」(mundum)における政治、経済、文化、教育、芸術といった一般的・普遍的な事柄を「キリスト教へと改宗した人間であるならば」どのように見、どのように態度決定するのかです。



ところがバルトは「キリスト教哲学」を全面的に退けました。次のように述べています。「キリスト教哲学(philosophia christiana)は事実上、いまだかつて決して現実のことであったためしはなかった。それが哲学(philosophia)であったなら、それはキリスト教的(christiana)ではなかった。それがキリスト教的(christiana)であったら、それは哲学(philosophia)ではなかった。」
(Karl Barth, Kirchliche Dogmatik, I/1, S. 5 カール・バルト著『教会教義学』第一巻第一分冊、原著5ページ)



今はこれ以上詳述できませんが、書きとめておきたいことは、このバルトの神学的思惟の呪縛から解放されないかぎり、日本に(公党としての)「キリスト教政党」が誕生する日が訪れることは永久にありえないだろうということです。



バルトにおいて「キリスト教」と「哲学」との関係性は《逆接的》ないし対立的なものとしてしか描かれません。彼にとって「キリスト教」とは(『ローマ書講解』から『教会教義学』に至るまで一貫して)永久に「数学的点」であるところの「イエス・キリストにおける神の自己啓示」のみにとどまり続けるのであって、決して「線」にも「面」にもなっていきません。したがって、それが「世界」において形態(ゲシュタルト)を獲得することもありえないのです。



日本で「キリスト教政党」の問題に取り組むためには、このバルトの問いかけを回避できません。「キリスト教」と「哲学」との関係は、バルトが示唆したように、ただ逆接的・対立的なものでしかありえないのでしょうか。キリスト者である人間は「世界」に対して批判的・攻撃的なスタンスしか採りえないのでしょうか。この難問が我々の喉元に突き付けられています。



なお、新サイト開設に伴い、従来サイトの一つのURLを変更しました。



関口 康 小説(URL変更)
http://ysekiguchi.reformed.jp/novel.html





2009年9月2日水曜日

復活の光(2008年)

SCENE001 胃がん検診

「まず最初に胃を膨らませる薬。そのあとバリウムね。」
生まれて初めての経験てのは恐ろしい。言われるままにするしかなかろう。
「金具のついた服は脱いでください。」
「・・・はい。」
ベルトのバックルは金具だ。ここでズボン脱ぐの?
「棚の上の籠の中のを穿いて。」
パジャマのズボンだ。しわくちゃだ。
「穿きました。」
「じゃ、これ飲んで。」
ん?結構飲めるぞ。お腹がすいてるからかな。豆乳のようだ。ちょっと冷たいし。
「では、レントゲン室に入ってください。」
前の人が出てきた。次に僕が入る。ガラス張りの部屋の扉が閉まる。

SCENE002 寝坊

「お父さん!お父さん!遅刻する!」
・・・ナ、何だあ?・・・あ、いけね!
「うわ!ごめん、ごめん。寝坊しちゃった!」
「何か食べていかなきゃ。何か買ってきてある?」
やべ、また買い忘れた。
でも食パンはまだ二、三枚残っている。昨日の朝は食パンじゃなかったはずだし(どうだっけ?)。
「これをトーストして、ハムとチーズを載せよう。それでいいな。」
「うん、分かった。」
「トイレ行って歯磨きしたら、車で学校まで送ってやる。早く準備しろ。」
「はい。」
今夜の献立は何にしようか。

SCENE003 買い物


昨日も来たスーパーの中を今日も歩いている僕。大根の前にしゃがんでいる女性店員の横を通過。
「いらっしゃいませー。」ハイハイ、いらっしゃいましたー・・・。
この時間に男性の客はいない。目立ってるのかなあ。まあ、そんなことに誰も関心ないか。
買い物と言っても昼に食べるものだけだ。
ごはんはもうすぐ炊ける。レトルトカレーでいいや。いざというとき用に、四つほど買い込んでおこう。
夕食の材料は、またあとで買いに来なければ。昨日と同じメニューじゃ、子どもたちがかわいそうだ。
それから、ペットボトルのウーロン茶。
今日は温かい。子どもたちが帰ってきたら「のどが渇いたよお」と言うだろうから、2リットル。
お、レジに男性が並んでいる。75才というところか。
「1230円でございます。それでは、2030円お預かりいたします。800円おつりでございます。
ありがとうございました。またお越しくださいませー。」
毎日来てるよー!
・・・最近、ひとりごとばっかり言ってるよ、オレ。

SCENE004 結婚指輪と片頭痛

僕の日課は定まらない。名刺には「哲学者」と書いてみたいのだが、小説家のようなイベント屋のような仕事に不定期で取り組んでいる。会社勤めはしたことがない(ことにしている)。
それでも一つだけ決まっていることがある。朝起きるとすぐに結婚指輪をはめ、夜眠る前に外すことだ。
指輪の内側には二人の名前が書いてある。ノビタとシズカ(ウソ)。しばらくサイズが合わなくなっていたが、数年前にダイエット大作戦を敢行してからは、爪楊枝が二本入る余裕ができた。右手でくるくる回すことだってできる。
「そう。」
もう一つ日課があった。
最近、片頭痛がひどい。薬局で買える頭痛薬を飴玉のように口に放り込む癖がついた。一種の薬物依存だ。
原因は分かっている。僕は今、深い暗闇の前に立っている。

SCENE005 深い暗闇

深い暗闇とは何か。答えが分かるなら、それは暗闇ではないのだ。
不気味ではある。何かとんでもないものが僕を待ち受けている。
被害妄想ではない。生傷はすでにある。
強いて名づけるとしたら「現実という名の暴力」。
しかし、無理しても耐えて行こうと思う。行く先は他にはない。
まあ何とかなるだろう。道はないかもしれないが地面はありそうだ。
温泉に興味はないが風呂につかれば安眠もできる。
生温かい血が、僕の中をゆっくりと流れている。
根拠なき勇気なら、誰にも負けない。

SCENE006 帰宅

ギ・・・。
「ただいまー。」
「あ!おかえり。ど?」
「にゃ、別に。」
「そ。ま、おつかれ。」
「ん。」
「ねる?」
「ん。あ、駅前でパン買ったけど。食べる?」
「お、ありがと。一緒に食べよか。」
「・・・。」
振り向くと、もう夢の中。
ホント、お疲れさま・・・。

SCENE007 復活のひかり

少しずつ少しずつ、確実に時間が流れている。
さびしい。
賑やかなところが好きなわけではない。
「あなた」を独り占めしたいだけだ。
でも、叶わない。しばらくのあいだは。
「しばらくのあいだは」? そうだ!!
僕は必ずまた立ち上がる。
死ぬまでにしなければならないことがある。
動け、指。動け、足。お願いだから。
脳からの命令に反応してくれ。
僕に残された日は、限られている。

SCENE008 傷心

198X年、第三京浜。横浜に向けて時速17Xキロで疾走中。
「・・・やばいな。」
アクセルをゆるめる。助手席には僕より背の高い、五歳上の女性。
何の感情もない。ありえない。あるのは違和感と、冷え切った手足。
前の夜、僕はひとりで泣いていた。察してくれたようだった。
自動車を近くの駐車場にとめ、コンサート会場まで歩いた。
僕は左。「恥ずかしい」という感情が芽生え、二歩ほど離れて。
顔を直視できなかった。

SCENE009 口笛

それでもその日、女性は恩人になった。
転機は三ヶ月後に訪れた。
富士山は見えなかった。バックミラーの中に「あなた」がいた。
隣から話しかけてくる友人の声は耳に入らなかった。うるさいよ。
僕は心の中で口笛を吹いていた。
下り坂のワインディングロードに沿って巧みにハンドルを操る。
アクセルも、ブレーキも、そっとやさしく、やわらかに。
夕方、10円玉を30個つかんで電話ボックスに駆け込む。
よし、また会える。

SCENE010 大雪の翌日

申し訳ないことに、雪が嫌いだ。
良い思い出がひとつもない。あのことも、このことも、雪の日に起きた。
右足に軽い障碍が残っている。最初で最後のスキーで捻挫したからだ。
交差点を曲がり切れず、後輪が大破したこともある。チェーンは面倒くさい。
上り坂を自動車ごと後ずさりしたこともある。渋滞中だったので冷や汗をかいた。
でも、こんなのは大したことじゃない。
透きとおった人と初めて出会ったのは大雪の翌日だった。
雪はずるい。
うっかりボルテージが急激にピークまで上がってしまったではないか。
人があれほど美しいものかと。
「赤いマフラーが僕を狂わせたんだよな。」
今はそう思うことにしている。

『改革派教義学教本』改訂委員会(仮称)設置の提案

「『改革派教義学教本』改訂委員会(仮称)の設置」を提案いたします。ただしこの「提案」を持ち込む先がまだ見つかりません。しかし、日本の教会の「神学的再生」を求めていくならば結局こういうことに至らざるをえないと信じています。私自身はこの仕事のためならこの命をささげてもよいと思っています。この一事のために涙をこらえて苦心してきました。この件に限ってはある程度ファナティックであることを認めます。しかし「あなたにこの仕事はふさわしくない」と言われるならば、引き下がります。私などよりもっとふさわしい人にお委ねいたします。その方々の仕事を遠くから静かに見守らせていただきます。



改革派教義学の「改訂」の流れ(要旨)
http://dogmatics.reformed.jp/prologue.html



2009年9月1日火曜日

民主党に期待します

「民主党」に私も投票しました。うれしい結果が出たことを喜んでいます。

土肥隆一氏の当選を新聞で確認しました。土肥氏は現在日本で唯一の、牧師の国会議員です。また参議院議長の江田五月氏のことは、社会民主連合の代表をなさっていた時代(1980年代)から応援してきました(私の祖母と母は父・江田三郎氏の時代から応援しています)。

江田氏が日本新党に参加したという報せを聞いたとき(1994年)には喜びましたが、次に新進党のほうに合流なさったとき(同年)には「判断を誤ったのでは」と強い不満を抱きました。

しかし、その後(1998年)民主党に参加なさったことで安心し、爾来一貫して支持してきました。他の民主党議員のことは分かりませんが、新鮮さを感じます。

選挙区が遠いこともあって有効で実質的な協力ができたわけではありませんが、自分にもできることからと、土肥氏と江田氏のメールマガジンを読み、そこから見えてくる日本の現在と将来の姿を心に刻みながら、キリスト者と教会の役割や責任を考えてきました。

世代は全く違いますが、土肥氏は大学(東京神学大学)の先輩、江田氏は高校(岡山朝日高校)の先輩でもあります。江田氏とは面識がありませんが、土肥氏は応援メールをお送りしたところ、なんと松戸まで自動車でかけつけてくださったことがあります。

「自民党時代」を過去のものにしてほしい。不可逆運動が長く続いてほしい。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走り続けることです。

土肥氏と江田氏のお二人にはぜひとも入閣していただき、この国をドラスティックに変革していただきたく願っております。

2009年8月30日日曜日

説教とは何か

ヨハネによる福音書7・14~31

「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、『この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう』と言うと、イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。』群衆が答えた。『あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。』イエスは答えて言われた。『わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。』」

今日は長めに読みました。描かれている場所はエルサレムです。そこで祭りが行われていました。先週の個所で、イエスさまが兄弟たちに「わたしは行かない」とはっきりとおっしゃっていた、あの祭りです。ところが、イエスさまは、兄弟たちが出かけた後、こっそり隠れるようにして上られたのです。

「行かない」と言っておきながら行かれたのであれば、嘘をついたと思われても仕方がありません。しかしこの件については、兄弟たちに対する配慮と愛情をイエスさまがお持ちであったと考えるほうがよいでしょうと、先週の最後に申し上げました。イエスさまは命を狙われていたのです。兄弟たちを巻き添えにしたくないとお考えになったに違いありません。

しかし、理由はこれだけではなさそうです。少なくとももう一つあることに気付きました。それは、これまでのイエスさまの行動から推測できることです。カナという町で行われた結婚式で、母マリアが「ぶどう酒がなくなりました」(2・3)と言ったとき、イエスさまは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2・4)とお答えになりました。ここに「わたしの時はまだ来ていません」という重要な言葉が出てきます。

イエスさまはだれかの依頼や指図や命令に従って行動なさることをお嫌いになったのです。どんなことであれ、イエスさまはすべてのことを御自分の意志で行われたのです。しかもイエスさまは、ただ単に「御自分の意志に従って」ということではなく、父なる神の御意志に従いつつ、イエスさま御自身の意志で行動なさったのです。イエスさまの「時」は、イエス・キリスト御自身と、御子の父なる神だけがご存じだったのです。

そして今日の個所でイエスさまは、驚くべき行動をおとりになりました。エルサレム神殿の境内にお立ちになって、堂々と説教をお始めになったのです。すでにこのことだけではっきり分かることがあります。それは、イエスさまは御自分の命など少しも惜しいとは思っておられなかったのだということです。命を狙っていた人々の目の前にお立ちになり、最も目立つ行動をおとりになったのです。

そのこと――自分の命など少しも惜しいと思わないこと――が善いことなのか悪いことなのかは、私には分かりません。もし私がこの場面に居合わせていたイエスさまの弟子の一人であったとしたら、「イエスさま、そのような無謀なことはおやめください。御自分の命をもっと大切にしてください」と言って止めようとしたかもしれません。しかしおそらくイエスさまはそのような言葉を聴き入れてくださらなかったでしょう。イエスさまは、だれの依頼も指図も命令もお受けにならない方なのです。ただおひとり、父なる神の御意志のみに従って行動なさる方なのです。だれが止めても止まらない。すべての人々はイエスさまのお姿をただ見守るしかありません。

イエスさまの説教を聞いたユダヤ人たちが、ある意味で興味深い感想を述べています。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。ここで彼らが言う「学問をする」とは、ユダヤ教のラビ(教師)になる人々が当時通ったとされるエルサレム神殿附属の律法学校に在学して聖書を勉強することを意味していると考えられます。この学校の卒業生として我々が知っている一人は使徒パウロです。その学校でのパウロの教師の中にガマリエルという名の人がいたことなども使徒言行録に記されています。

その学校で教えられていることは聖書であり、ユダヤ教の信仰もしくは神学と呼んでもよいものでした。ですから、ユダヤ人たちが言っている「学問をする」は、今のわたしたちが「神学校で学ぶ」という言葉で言おうとしていることと内容的には同じであるということが分かります。つまり彼らは「この人は、神学校で学んだわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言っているのです。

彼らが述べていることは、なるほど事実です。イエスさまがエルサレム神殿の律法学校に通われた形跡はありません。それでは、どうしてイエスさまは、そういうところで学ばれたことがなかったにもかかわらず、人々が驚くほどに聖書をよくご存じだったのでしょうか。

もちろん最初に考えなければならないことは、イエス・キリストは神の御子であり、全知全能の方なのだから、学校などに通わなくても、あるいは教会などに通わなくても、聖書に書かれていることなど全部知っておられる方なのだ、というようなことです。このような事情であるという可能性を、別に否定する必要はありません。

しかしまた、もう一つの見方として、全く不可能とは言い切れない見方がありうると、私は考えています。それは、イエスさまが聖書を学ばれた場所は、おそらく幼い頃から両親や兄弟と共に通っておられた会堂(シナゴーグ)であるという見方です。このことを私があえて申し上げる理由は、教会の皆さんにお伝えしておきたいことがあるからです。

今年わたしたち松戸小金原教会ですでに二回行った教会勉強会のテーマは「聖書をどう語るか」というものでした。三回目の学びを10月11日から12日までの一泊修養会で行います。

これまで学んできたことは、教会の特に礼拝の中で行われる説教ないし奨励のわざは、牧師だけの務めではなく信徒の務めでもあるということでした。しかし、このことを考えていこうとする場合にどうしても避けて通ることのできない問題が「わたしは神学校に通ったわけでもないのに、どうして?」ということでしょう。この問いに明確な答えが与えられないかぎり、わたしが多くの人の前で聖書の話をすることなど絶対に不可能である、と確信しておられる方々もおられるのではないでしょうか。

しかし、ここはどうかご安心いただきたいのです。教会に通っておられるすべての方々が聖書の話をすることができます。ぜひお考えいただきたいことは、わたしたちは一体、教会というこの場所に何年通っているのだろうかということです。もちろん、ある方々は半年、一年、三年、五年といったところです。しかし、長い方々は三十年、五十年、七十年です。「わたしは長いばかりでちっとも・・・」と謙遜なさる方は多いのですが。しかし、わたしたちはこれまでに一体、何回の礼拝、何回の説教を聴いて来たのでしょうか。指折り数えてみていただきたいのです。

たとえば私がこの教会に参りましたのが5年半前です。主の日の朝の礼拝でまもなく三百回の説教を行ってきた計算になります。次の質問は、私にとっては恐ろしいものです。私がこれまで皆さんにお話ししてきたことは、皆さんの心の中に全く何も残っていないでしょうか。もしそうでしたら私はかなり真剣に苦しまなければなりません。

なるほど教会は学校ではありません。ここに通っても資格や学位を取得できるわけではありません。成績表も教会にはありません。礼拝の説教は大学や神学校の講義とは区別されるものです。しかし、それにもかかわらずわたしたちは、ここ、教会で、かなり多くのことを学んできたはずです。何年も何十年も通って来られた皆さんが、いま、ここで聞いたことを、多くの人々に語り伝えていくこと。それこそが説教なのです。

二つの例を挙げておきます。一つは、その姿を私はまだこの松戸小金原教会に来てから見たことがないということを残念に思っていることです。かつてはどこの教会にもいたものですが、牧師の祝祷の口真似が上手な子どもたちがいます。教会ごっこのような遊びをしている中で、牧師よりもよほど上手に祝祷の言葉をそらんじることができる子どもたちがいます。説教などは聞いても何のことやらちんぷんかんぷん分からない。それでも子どもたちは礼拝の中でたしかに何かを聴き、たしかに何かを憶えて帰るのです。教会の子どもたちとは、そういう存在なのです。

もう一つは、地方裁判所で長年、書記官を務めた方から教えていただいた話です。その方によると、まだ最近のことだが、書記官を長く務めた人々は、司法試験の合格者でなくても裁判官の席に着いて事裁きを行うことができるという新しい制度ができたということでした。そのお話を伺いながら、法に基づく判断において大切なことは知識だけではなく、経験こそが物を言うのだと教えられました。とても良い制度だと思いました。これと同じことが、聖書にも説教にも当てはまるのです。

脱線しすぎたかもしれません。イエスさま御自身が「わたしが聖書を学んだのはシナゴーグである」とおっしゃったわけではありません。イエスさまがおっしゃったのは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」ということです。これもまた確かな真実です。イエスさまが聖書をご存じであられるのは、いつ、どこで、だれから学んだというようなこととは関係ないとおっしゃっているのです。「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、父なる神がわたしに「語れ」と命じておられることを、わたしは語っているのだと、おっしゃっているのです。

しかし、このことも、わたしたちに当てはまるところがあるでしょう。私の場合も、生まれてから44年間、教会に通ってきたことになりますが、いつ、どこで、だれが私に聖書を教えてくださったかというようなことを全く憶えていません。それが何先生の説教であったかというようなことは完全に忘れています。私はそれでよいと思っています。自分に九九(くく)を教えてくれた小学校の教師の名前を憶えているという方がどれくらいおられるでしょうか。それを誰が教えてくれたかは、忘れてもよいことではないでしょうか。

説教にも同じことが言えるのです。主なる神が、聖書を通して、代々の教会を通して、このわたしに真理を教えてくださったのです。それこそが説教の正しい聴き方なのです。

(2009年8月30日、松戸小金原教会主日礼拝)

これは純粋な愚痴ですが同時に提案でもあります

インターネットを自分でも使いながら、インターネット上のブログに「インターネット批判」を今さらながら書くことの無意味さは知っているつもりです。でも、これ(インターネット)は本当にヤバいものであるという自覚なしにいることもできません。



インターネットは「全知全能」(何でも知っているし、何でもできる存在)ではありえませんが、そのようなものに何とか近づいてみせようという強い意志を持っているかのようです。一人一人の目の前に置かれているものは「ただパソコンのみ」(sola machina)なのですが、じっと動かないままでもほとんどのことが間に合ってしまうような錯覚に陥ります。



ちょっと前まで使っていた不便な(CPUが遅いなど)パソコンには依存心を抱く余地がないほどイライラさせられっぱなしでしたが、ハード面が快適になればなるほど、その便利さの深みにはまります。



・パソコンに近づかないこと。



・ブラウザやメールソフトを開かないこと。



・届いているメールも無視すること。



仮にそのようにでもすれば(お酒を飲む人に医者が定期的な「休肝日」を勧めるのに似ているかもしれません。「休コン(ピュータ)日」ですかな)、上記のような錯覚から一時的に解放されてはっと“我に返る”ものがあるような気がしますが、私の体験からいえば、一日も経てば錯覚の状態に戻ってしまいます。



「中毒」や「依存」という表現が、やはりいちばん近い。錯覚は、さらに「倒錯」でもある。



前にも書きましたが、私はかつてパソコンもメールも使っていなかった頃、年賀状を除けば一年にせいぜい5通、多くて10通くらいしか手紙もハガキも書かない人間でした。非常識で失礼な人間だと思われても仕方がないほどに。とにかくそういうことが億劫で、筆不精でした。



それが、今や毎年2千ないし3千通くらいのメールを書くようになりました。その状態が全く切れ目なく10年以上続いています。



ひそかに願っていることは、10年前の状態に戻ればいいのに、ということです。ただし、「手紙やハガキに戻せ」という意味ではありません。そうではなくて、届いたメールにすぐに返信しなくても許されるルールが社会通念になることです。じっくり時間をかけて返事してもよいし、または返事しなくてもよいルール。う~む、ありがたい。



受け取って最も不愉快なメールは、自動的に「開封確認通知」を迫るあれです。メールを「○月○日○時○分○秒」に開封したことをチェックされる。会社等の経営者が従業員の出社時刻をタイムカードで管理しているあれと基本構造が同じです。あのメールが特に同僚である人から送られてくると「あなたはいつから私の上司になったのか」と言いたくなります。慇懃無礼とはあれのことかといつも思う。私は必ず「開封確認を通知しない」を選択するようにしています。送られてきたメールを開封するかどうかは私が決めることであって、監視など一切されたくありません。



また、こちらが書いたメールの送信時刻が相手のパソコンに表示されるのも、実はかなり不愉快です。我々人間の情報交換に関する行動を時系列で管理することを容易にする表示ですから、GPSで個人の行動を逐一見張られているのに匹敵するほどではないでしょうか。



具体的に言えば、「急いで返信してあげなきゃ」という気持ちで未明や明け方までかかって必死で書いて送ると、「関口さん、夜更かしはダメですよ」と咎められる。私の体を心配して言ってくださっている方が多いので、ほとんどの場合は有り難く拝聴しますが、「あんなにがんばって書かなきゃよかった」と後悔するときもあります。



「牧師を引退したらパソコンを棄てることができる。晴れて自由の身だ」。こんな言い方をすると10年前は変な顔をされるだけでしたが、今では納得してもらえるはずです。



他方、「わたしはパソコンもインターネットも使わない“主義”である」と言い張る牧師たちに対しては、今となっては「職務怠慢」の嫌疑をかけなければならないほどです。



2009年8月29日土曜日

ファン・ルーラーと太宰治

ファン・ルーラーと太宰治。この二人の名前を並べて書くこと自体がすでにかなり強引であるということは否定しません。しかし、私はいま、いろんなことを考えさせられています。



「1908年(明治41年)生まれ」のファン・ルーラーと「1909年(明治42年)生まれ」の太宰は一歳違いの同世代です。現にファン・ルーラーの「生誕百年」の祝いは昨年12月に行われ、太宰のそれは今年行われています。ともかく辛うじて分かることは、両人が「ちょうど百年前に生まれた」という点で一致しているということくらいです。



彼らが「世に知られる」時期も重なっています。太宰の『斜陽』が大ヒットするのは1947年です。同年ファン・ルーラーは神学博士号を取得してユトレヒト大学教授になりました。それまでのファン・ルーラーは教会の牧師でした。「本を書く仕事」という観点から見れば、(牧師の本業は「本を書くこと」ではありません)、牧師時代の文筆業を「下積み」と呼び、大学教授になったときをもって「メジャーデビューした」と把えることは全く不可能な見方でもないだろうと思います。



ただし、翌1948年に太宰は自分の命を絶ちました。三鷹の川で。ファン・ルーラーが「さあこれからが私の出番である」と前向きに立っていた頃に、太宰は入水しました。「世に知られる」時期はほぼ等しい関係であるにもかかわらず、一方は希望に満ちて立ち、他方は絶望して倒れました。



オランダは、第二次大戦における「戦勝国」ではありません。戦前「中立国」の理念を掲げたところ、ナチス・ドイツ軍が侵攻してきました。ナチスの暴力的支配が国土から撤退した日が彼らにとっての終戦です。



日本は「敗戦国」です。太宰の死と第二次大戦との関係は、皆無かどうかは分かりませんが、(三島の死とは異なり)きわめて希薄であると思われます。



それでは太宰は何に絶望したのか。すべては藪の中です。猪瀬直樹氏の『ピカレスク 太宰治伝』(小学館、2000年)はだいぶ前に読みました。猪瀬氏の言うとおりでしょうか。



しかし、最晩年の「如是我聞」(1948年)の中に、私にとってはとても気になる言葉が出てきます。太宰の愛読者たちにはお馴染の言葉なのかもしれません(漢字と仮名遣いを現代的なものに改めました。原文にある改行は削除しました)。



「全部、種明しをして書いているつもりであるが、私がこの如是我聞という世間的に言って、明らかに愚挙らしい事を書いて発表しているのは、何も『個人』を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦いなのである。彼らは、キリストと言えば、すぐに軽蔑の笑いに似た苦笑をもらし、なんだ、ヤソか、というような、安堵に似たものを感ずるらしいが、私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。」
(『太宰治全集』第10巻、筑摩全集類聚、筑摩書房、類聚版第一刷1979年、361~362ページ)。



これを読むかぎり、ですが、鼻息の荒さが似ています!ファン・ルーラーと太宰は、義憤の抱き方というべきものが似ています。そっくりと言っても過言ではないくらいに。



太宰の実存とキリスト教の関係は太宰研究者の間でも議論され続けているようです。太宰が「全部、種明しをして書いている」と言いつつ明示している「反キリスト的なものへの戦い」という側面を真剣に取り上げてくださる方はおられないでしょうか。



太宰が死の直前に、あまりにもストレートすぎる義憤と共に告白した「反キリスト的なものへの戦い」の中身は何なのか。これを問うことは太宰をとらえる視点を単純化することにはならず、むしろより多角的で総合的な視点を与え、太宰研究に、いや、もっと言えば「現代日本思想史研究」により豊かな実りをもたらすのではないだろうかと思うのです。



「そういうことはお前がやれ」と(「マッタク、アホラシイ」とため息まじりに)言われるかもしれませんが、私が木に竹を接いだような太宰研究を始めるよりも、もっとふさわしい人がいるでしょう。私に思い当たることは全部書いておきます。



2009年8月28日金曜日

日記を小説のように/小説を日記のように

私がブログに何かを書くたびに“心配”してくださる方々がいるので、うれしいやら、慌てるやらです。

「これは暇つぶしです」と言うと「おまえはそんなに暇なのか」と怒り出す人が必ずいますので、「これもまた広い意味での牧師の仕事の一環です」と言い張ることにしているのですが、クソ真面目に受け取る人々は(クソは余計ですね、すみません)私の書くすべてが真実であると思ってくださるようですから迂闊なことは書けません。

9割はジョークです(ということにしておきます)。残りの1割は(ナンデショウ?)。

ですから、どうかあまり重く受けとめないでください。

ここに書くほとんどが私小説的な内容になってしまうことには自分なりの理由があります。

太宰治の作品の多くも私小説的なものですが、彼がある人々から「自己愛が強すぎる」という趣旨の批判を受けたことは知っています。きっと私も同じように見られているのでしょうけれど、私ほど自分のことを好きでない人間は少ないのではないか、というくらいの自覚を持って生きているのですが、このことは無理に知らせないかぎり自分以外の誰も知る由もないことです。

自分のことばかり書いてきた(かのように読めるようなことしか書けなかった)理由は、他人の文章の借用や盗用を極端なほどに避けてきたからです。他人に関する個人情報を紹介することについてかなり神経を尖らせ、細心の注意を払ってきました。よほど入念な仕方でご本人の許可ないし快諾を得ることができたときでさえ、公開を踏みとどまってきました。

インターネットには他人のことは何も書けないし、書いちゃあいけないと自分に言い聞かせてきました。ここに自由に書けるのは、結局のところ、自分に関する事実と、公表された他者の文書に対する自分の意見と、私の脳内の妄想のようなことだけです。

私が提案したい命題は「インターネット時代においてはすべては私小説化していく」というものです。

「牧師はいつも遊んでいる」だなんて非難を受けたくないぜ、と憤慨の思いが募ってくるときには今日一日こなした仕事のすべてをリストアップしたくなる衝動にかられますが急ブレーキを踏んで自制します。牧師の仕事の多くの部分は「個人にかかわること」だからです。「ハイ、今日も一日、ヒマでした。アハハ」と、別のことを書き込むのです。

「日記を小説のように/小説を日記のように」書いていくことが日課になりそうです。


2009年8月27日木曜日

太宰先生ありがとう

柄にもなく今日は、日暮れ時から太宰治なる巨人にのめりこんでいます。今はまだ読んでいる最中ですが、最晩年に書かれた「叙是我聞」(にょぜがもん、1948年)です。初めて読んでいます。内容の紹介は割愛しますが、面白くて面白くて。「これだ!」と感動しています。



先輩文学者を批判する言葉の激しさに引き込まれます。その激しさたるや、これに腹を立てた人によって実は暗○でもされたのではないかしらんと邪推したくなるほどです。



私もかねがね、これに太宰が書いているのと同じくらいの調子で、ある人々を批判したいと願ってきましたので参考になります。なかなか書き言葉にならないことと、勇気がないことで、その批判をまとめて公表することができずに来ましたが、太宰の文章を読んで批判文書というのはこういうふうに書けばいいのだと得心させられています。



太宰がほとんど憎悪の対象と思っているらしい人の姿が、私が長年問題を感じてきた人々の姿と、さまざまな点で符号します。歴史は繰り返しませんが、人間は同じ過ちを何度でも犯すということを確信します。



太宰先生、これを遺してくれたことを感謝し、尊敬します。半年ほど前にヤフオクで『太宰治全集』(筑摩全集類聚)を安く落札したまま放置していました。もうちょっとちゃんと読みますので許してください。



2009年8月25日火曜日

緊張の日々を過ごしています

恥ずかしい話ですが、今年の私は非常に緊張しています。自己中心的な言い方になってしまうこと自体も嫌なのですが、自分の「壁」を乗り越えられるかどうかを心配しています。本当に恥ずかしい話なのですが、自分への戒めとして書いておきます。



牧師の仕事に就いてから現在の松戸小金原教会で四つめの仕事場になるのですが(兼任の教会を含めると二つ増えて六つめになります)、実をいえば、一つの教会で6年以上働くことができたことがありません。経歴は公開しているとおりで偽りはありません。最長で6年、最短は10ヶ月でした。教会の名誉のために申し上げますが、すべては私の不徳の致すところでした。ご迷惑をおかけした皆様にお詫びしたい思いでいっぱいです。



それでは、今年の私がなぜ緊張しているのか。それは、もちろん、松戸小金原教会に来て今年が6年目だからです。「壁」とは、この6年という時間です。



幸い現在、教会内には大波も小波もありません。平穏無事、和気藹々そのものです。明るくて温かくて優しい雰囲気で包まれています。



私の夢は、この「壁」を乗り越えることができた「来年の私」を一目見てみたいということです。