2009年5月10日日曜日

もちろんそれは容易なことではありえない

しかし、私は決してそれを容易なことと考えているわけではありません。



今に始まったことではないと思いますが、43年ほど生きてきた者がこの国に見てきた比較的新しい動きは、「どんなものであれ一つの『キャラ』(キャラクター)としてとりあえず受け入れ、殺しもしないが生かしもしないで泳がせ、ギャグかお笑いのネタでありうるかぎりにおいて限定つきの役割を果たさせ、稼げなくなった時点で表舞台から引きおろし、市井に戻す」というような《政策》でしょう。「デブキャラ」然り、「大食いキャラ」然り、「毛薄キャラ」然りです。



キリスト者に対する表立った弾圧のようなものは、もはや無いかもしれない。しかし我々はいわば「クリ(クリスチャン)キャラ」扱いです。私などはさしずめ「牧師キャラ」扱いでしょうか。



あるいは、たとえばもしファン・ルーラーの本が本格的に日本で出版される日が来ても、当面は「いろものキャラ」扱いでしょう。「喜びの神学」とか言っているかぎりにおいては、ある程度面白がってくれる。しかしファン・ルーラーその人は「いろもの」扱いなどで済ませられるような存在ではありません。歴史的過去と同時代の世界的巨匠たちを相手に、実に堂々と闘い抜いた人なのです。そのあたりの事情と迫力を我々が日本の社会と教会にどのように伝えるべきかも、悩みどころです。



もちろん!新規チャレンジャーが最初から十分かつ正当な評価を受けられると望んではならないことは分かっているつもりです。たとえサブカル扱いされようと、独自キャラ扱いされようと、全く無視されたり抹殺されたりするよりはまし、という《政治的》判断もありうると思います。



しかし、忸怩たる思いというか、我慢比べというか、どうにも表現しがたい疲労感があることは否定できません。まさに気力との戦い、自分との戦いです。



2009年5月8日金曜日

どうしたら道は開けるか(7)

当時の感覚を言葉にしていえば(どう表現しても誤解を避けることはできそうもありませんが)、次のような感じになります。



「私が信じていることを学校の教師や友人の前で口に出しても絶対に理解してもらえないことは、分かっている。けんかと暴力は大嫌いだし、トラブルに巻き込まれたくないから、黙っていよう。それに、私が教会に通っているということを口にしたばかりに、『なんだ。アーメン、ソーメン、冷ソーメンかよ』とか相手に言わせてしまうのは、そういうことを言っているその人々に神を冒涜させてしまうことになるので、かわいそうだ。しかし私の神が私を応援してくれている。私自身は少しも揺らぐこともぶれることもない。とはいえ、こちらとしては、いつまでも黙っているのも不本意だ。私の心の声、『キリスト者の声』(vox christiani)をどうしたら公の場で自由に述べることができるようになるのか。それを知りたい。」



私が「どうしたら道は開けるか」だ「ブレイクスルー」だ言っていることのすべては今書きとめたばかりの少年時代に抱いた問いの答えの求め方は何なのかにかかっているということに、気づかされます。一般化していえば「信教の自由の要求」です。要するに私は、ほとんど40年前から、同じ一つの問いの前でうろついたままなのだということです。



ここで本当は「愕然と」すべき場面かもしれませんが(おまえの精神年齢は低すぎるという事実を突き付けられたわけですから)、わりと「平然と」しています。事の真相からいえば、たとえばもしこの私が「マイノリティ」でない者になり、良い意味でメジャー化(?)する日には、古い日本はもはや形を失い、ほとんど「革命的」と言いうるほどの変容を遂げているはずです。



なぜなら、私自身は揺らぐこともぶれることもありませんから。



私は動きはしません。もし動くとしたら、この国のほうです。



どうしたら道は開けるか(6)

たしか5歳のときです(1970年!)。私の目の前を聖餐のパンと杯が通過していく。まるで逃げていくとんぼを追いかけるかのような目でそれを見た日のことを、今でもまざまざと思い起こすことができます。「おい、こら、おれを無視するな!おれは毎週教会に通っているのだし、この聖書の神を信じることはやぶさかではないと思っている。そのおれに、この集団のメンバーである以外の何でありうると言わせたいのか」という感覚を抱きました。



もちろん当時はまだこのような説明表現を用いることができませんでしたが、とにかく非常にむかっ腹が立ちました(あの小さなパンそれ自体が欲しかったわけではありません)。そして居ても立ってもいられなくなって牧師のところに行き、もしかしたら相当強い抗議めいた口調で(内心の意図は間違いなく「抗議」でした)「洗礼というのを受けさせてください」と申し出、小学校入学前のクリスマス(1971年12月26日)に洗礼を受けました。



しかし、言うまでもないことですが、当時の私に「キリスト教が何であるか」を十分な意味で理解できるはずはない。実感としては、この私は「教会」なるもののメンバーであるということだけであって、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。自分の所属する「教会」とは何なのかを言葉で説明することはできません。しかし、「教会」とは何なのかということは、感覚的実体としてははっきり分かっていました。ラテン語表現で言い直せば、教会の壁(muros ecclesiae)の「外」(extra)と「内」(intra)の違いが肌感覚のレベルで分かる。しかし、このようなことは別に、私の特殊能力のようなものではありえず、この国でキリスト者の家庭に生まれ育った人々の多くが知っている感覚なのだと思います。



しかし、です。少年時代の私がまさに肌感覚レベルで理解していたことは、「教会」はこの国の中で「マイノリティ」であるということでした。そして「教会」は、その中にいるかぎりにおいてはとても居心地の良い場所でした。良い意味での矜持をもつことができました。教会の「人間関係」に居心地の良さを感じたことはありませんでした(たぶん一度も)。牧師の説教は、むしろ居たたまれない気持ちにさせられるものでした(説明省略)。



どうしたら道は開けるか(5)

「どうしたら道は開けるか」と書いてきましたが、自分の中ではだんだん馬鹿らしくなってきたところもあって困っています。「道は開いていない」などとは実は少しも感じていないもう一人の私がいたりしますし、ブレイクスルーの手段はインターネットであるなどと実は全く思っていない私がいたりする。



私が受けたと自称する「底値教育」は(もちろんこの表現は100%冗談ですが)事実ですし、「教団離脱者」であることも「普通の牧師」であることも事実です。しかしそのすべては間違いなく自分の強い意思で選んだものでした。これまでの自分を振り返ってみて改めて気づかされることは、私が歩んできた道のすべては誰かに決めてもらったものではないと言えるということです。



しかしそうは言いましても、自分では決めることができない要素も、人生には当然あります。たとえば、「1965年に生まれたこと」などは典型的なそれです(この文脈では「昭和40年」と言いたい)。



戦後20年。日本の歴史の中の「古いもの」と「新しいもの」が渾然としていた時代でした(自宅の前の道に初めてアスファルトがひかれたときのことを記憶しています)。その中で「古い日本」にとってはまさしく《対極》の位置に立つ空間・時間・思想・行動をもつ集団の中にどうやらこの私は所属しているらしいと、もちろんそのような説明表現を用いてではありませんでしたが、感づいたのは、まだ幼い頃のことでした。



2009年5月5日火曜日

どうしたら道が開けるか(4)

さて、ひどくネガティヴなことを書き連ねて来ましたが、私自身は絶望しているわけではないということも書いておきます。ブレイクスルーの鍵は、やはりインターネットではないでしょうか。つい最近、茂木健一郎氏の「ブログ論」みたいなのを読み、ちょっとした興奮を覚えました。



ここ(↓)で読めます。



前編 http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2007/03/post_4ad8.html



後編 http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2007/03/post_c73c.html



これを読むまで知らずにいたために吃驚仰天したことは、「え?茂木氏ほどの人がブログなんてやってたの?」ということでした。この驚きの意味はお察しのとおり、この方、語ったり書いたりする言葉のすべてが有料化しうるほどの有名人であるのに、無料で読める文章を公開しちゃったりしてたんだー(へえ)ということです。



なかでも、「そーそー」と肯きながら読んだ茂木氏の言葉は、「そんなに甘いもんじゃないですよ、ブログというものは」 とか「読者を獲得するプロセスというものは、すごく長い時間がかかるわけです」というあたり。



私の当面の(「当面の」です)目標は、要するに、どうしたら日本語版『ファン・ルーラー著作集』を出版できるかです。



(1)そのために、まずは「ファン・ルーラー」の名前を売ること。すなわち、「んな人、知らん」と言わせないほど、ファン・ルーラーを日本の中で有名人にすること。



(2)それと同時に、「ファン・ルーラーの訳者」として立候補してきた「関口 康」を信頼していただくこと。すなわち、「底値教育」を受けてきた「教団離脱者」でもある「普通の牧師」の私のしている仕事に対して「こいつの訳なら金を払ってやってもいいかな」と思ってもらえるようになること。



以上の二点を達成するためにブログが役に立つのではないかと、私は茂木氏のブログ論を読む前から考えてきました。そして、この方の文章を読んで、我が意を得たりと満足感を味わっているところです。



ただし、ここで問題が二つ。第一は、現在の日本のキリスト教出版社が茂木氏のような発想を受け入れてくださるかどうかです。第二は、私がブログにこれまで書いてきたことは「信頼を得ること」にとっては逆効果なことばかりだったかもしれないよーということです。



今の私が考えはじめていることは、まず最初にブログ版『ファン・ルーラー著作集』(もちろん無料公開)を仕上げ、それを多くの方々に「立ち読み」していただいた後、それを本にして有料で売るという、いわゆる「ブログ本」の方式です。しかし、このやり方が神学書に通用するものかどうかは全く未知数です。



それでも、たしか渡辺信夫先生の『プロテスタント教理史』(キリスト新聞社、2006年)は、ブログではなかったはずですがどこかの教会のホームページで公開されていた文章をまとめたものだと聞いたことがあります。



つまり、前例はあるということです。しかし冒険的要素が強いやり方であることは認めます。渡辺信夫先生との決定的な違いは、「ファン・ルーラー」は(そしてもちろん「関口 康」も)日本では依然として「だれそれ?」な存在である、ということにあるのですから。



どうしたら道は開けるか(3)

しかし、私が抱いているこのポリシーには悪い面もあるということに、繰り返し気づかされてもきました。悪い面とは何でしょうか。それは、私がこのポリシーを保持し続けているかぎり、「牧師職はあくまでも牧師職なのであって、それ自体に固有の職務があるのであって、牧師職自体が研究職ではないし、また牧師職自体が教育職でもない」という見方を自分自身では払拭することができないということです。



私の経験から言わせていただけば、この見方こそが実はかなりのクセモノなのであって、わたしたちを相当悩ませてきたものでもあります。今は詳述するのを控えますが、これこそが「牧師の神学研究」を著しく阻害してきた要因であると断言できます。



別の表現でいろいろと言い換えてみれば、事柄のグロテスクさをよく分かっていただけるはずです。



「牧師職」を「研究職」からも「教育職」からも切り離して扱おうとすることは、「神学を営むこと(doing Theology)をもって生計を立ててもよい権限もしくは資格を有する者は、神学部・神学大学・神学校の教授職に就いている『神学博士』(Theological Doctor)ないしそれに準じる者に限ります」と言っているのと同じです。



「神学校から遠い地域の教会に仕えている、神学校で教える可能性のない(普通の)牧師たちは、今さら神学など学んでも無意味なのだから、そんな無駄でつまらないことを続けるのはおやめなさい」と言っているのと同じです。



当然のことながら、そのように語る人々の心のなかに思い描かれているイメージは、神学部・神学大学・神学校の教授ポストを中心とする“同心円”です。その円の中心(場所および人物)に物理的・距離的に近い教会のメンバーシップを取得することないしその牧師になることが、スゴロクで言うところの「アガリ」。「それ以外の(一般の?)教会員と(一般の?)牧師たちには、残念ながら“神学権”は認められておりません。どうぞお引き取りください」と言っているのと同じです。



「権限も資格もないのに強引に続けたいなら、どうぞご勝手に。ただし、マニア的趣味(「無資格者が営む神学」を指す揶揄)に熱中するのも程々にしてくださいね。それはあなたの現実逃避ですから」と言っているのと同じです。



どうしたら道は開けるか(2)

教育と研究の関係を「収入と支出の関係」という観点から見る。これはもちろん、かなり強めの皮肉を込めて書いていることです。この見方が事柄のすべてを物語りえているとも思っていません。



しかし、この観点から言うならば、「研究をサボっている教育者」は支出が少ない分だけ残金が多いわけですから、比較的余裕のある生活をしている可能性があります。逆に「教育職に就くことができない(就職先が見つからない)研究者」はゼロサム(プラマイゼロ)ないし借金生活でしょう。これはおそらく厳粛な事実です。



ここで起こるひとつの問題は、「牧師は教育職なのか」という点です。おそらく多くの人々は「教育職と見てもよさそうな面もあるかもしれませんが、たぶんそれだけではないでしょうね」というような、曖昧だけれど実態に即した答え方をするでしょう。「そもそも牧師は職業の名に値するのか」という問いさえ、日本では繰り返し投げかけられてきたわけでして。田舎の教会で「神学の研究と教育」とか言われてもねえと、あからさまな顰蹙(ひんしゅく)の目を見、つぶやきの声を聞いたこともたびたびあります(しかし、私自身が田舎の教会で「神学の研究と教育」の重要性を主張したわけではありません。間接的に“釘を刺された”のです)。



私が24歳と5ヶ月で伝道の仕事に就いて以来抱いてきたポリシーのようなものは、「牧師は教会の献金のみで生きるべきだ」ということでした。このポリシーが間違っていると言われるならそれまでのことですし、生活に窮する場面は多々ありました(苦しい状態であることは今も全く変わっていません)。しかし、「教会の献金だけで生きる」とは、教会の存在理由である「伝道」の仕事に百パーセント専念できるということですので、私の「自由」が百パーセント確保されている状態であるということです。いわゆる「ひもつき」のお金に振り回されたり悩まされたりせずに済んだことだけは幸いでした。



2009年5月4日月曜日

どうしたら道は開けるか(1)

「教育の場は自分の研究のはけ口」は確かにダメな発想ですね。学生たちが迷惑します。



ただ、今ふと考えさせられたことは、うんと世知辛くなりますが、教育と研究の関係は、その教育者≒研究者の「生計」という観点からみれば、収入と支出の関係のようなものではないだろうかということだったりもします。



今の世の中、研究だけで「食える」という人は、(スーパーエリートのような人のことは知る由もありませんが)ほぼ皆無でしょう。それどころか、ほとんどすべてが私費持ち出しです。



しかし、教育者には(多寡はともかく)支払いがあるでしょう。



教育職に就かないで研究を続けることの限界はお金です。ここですべてが足止めされます。ファン・ルーラー研究会の10年間の悩みも、結局「お金の問題」に集約されるものでした。



これを、これを、ブレイクスルーしなければ。



今の心境は、ほとんどマテリアリストです。



2009年5月3日日曜日

くめど尽きせぬ命の泉


ヨハネによる福音書4・1~15

「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは『水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』女は言った。『主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。』イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくていいように、その水をください。』」

先週学びましたイエス・キリストのみことばは、たいへん抽象的で分かりにくいものでした。私の説明も悪かったと反省しております。

しかし、今日の話はとても具体的で分かりやすいものです。これは自信を持って言えることです。この個所に描かれていますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストと一人の女性との出会いの物語です。

これはわたしたちにも分かる話です。わたしたちは地上に生きられた歴史上の人物としてのイエスさまにお目にかかったことはありません。しかし、普通の意味での人と人との出会いの体験ならば、必ずあります。その体験が重要なのです。今日の個所を読みながらわたしたちの日常生活における出会いの体験のあの場面この場面を思い出していただいて結構です。そのような読み方が可能であると思われるのです。

最初の段落に記されていますことは、イエスさまとその女性との出会いが起こるまでの経緯についての事情説明です。しかし、内容的には興味深いことが含まれていますので、少しだけ立ち止まっておきたいと思います。

ここに書かれていることは、イエスさまが宣教活動を開始されましたので、イエスさまのもとに多くの人が集まるようになりましたということです。しかし気になるのは、2節に「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」という断り書きです。この断り書きの意味は、洗礼の儀式はイエスさま御自身ではなくイエスさまの弟子たちが行っていたということであると思われます。

しかし、だからといってその洗礼はイエス・キリストの洗礼ではなく弟子たちの洗礼であったと言わなければならないわけではありません。そもそも、たとえばペトロの洗礼であるとかヤコブの洗礼とかヨハネの洗礼というようなものは存在しません。「何々先生の洗礼」なるものは、そもそも存在しないのです。少なくともそのような洗礼をキリスト教会は行ってきませんでした。「いや、キリスト教にもいろいろある」と言われるかもしれません。少なくとも改革派教会では、洗礼に対するそのような考え方は到底受け入れられないものです。

洗礼の主体はイエス・キリストであり、イエス・キリストの体なる教会です。どれほど間違っても洗礼の主体は教師個人ではありません。儀式を行った教師が誰であれ、それが「イエス・キリストの洗礼」であることには変わりがないのです。この点がぐらつきますと、わたしたちの信仰生活は真の神への信仰によって成り立つものではなく、ただ単なる人間関係だけで成り立つものへと変質してしまうでしょう。

イエスさま御自身が洗礼の儀式を行われなかった理由は、ここには記されていません。しかし、すぐに思い当たります。「私はもろもろの弟子たちからではなく、イエスさまの手から直接洗礼を授けていただいた人間である」というような話が独り歩きし、そのような洗礼が何かある特別な意味を持ち始めるというようなことをイエスさま御自身が最も警戒なさったからに違いありません。そのような信仰のあり方は、本来のキリスト教とは最も遠いものであると言わなければなりません。

さて、イエスさまの弟子が増えてきたことが、ユダヤ教団の人々、とくにファリサイ派に属する人々の耳に入るようになりました。この「ファリサイ派」の人々は、バプテスマのヨハネのもとに遣わされた人々(1・24)の関係者であることは間違いありません。彼らは一種の警察権力であり、ユダヤ社会とユダヤ教団を脅かす存在が出てくることを絶えず警戒していた人々でした。その彼らの目から見れば、イエスさまとその弟子たちの集団は危険な存在に見えたようです。彼らが動き始めたことをイエスさまが察知なさいました。

もちろんイエスさまたちは何も悪いことをしていたわけではありませんので、逃げることも隠れることも必要ないだろうと言われるならば、なるほどそのとおりです。しかし、権力をもつ人々が自分たちに都合が悪い存在を闇から闇へと葬り去ることがありうることは否定できません。そのことをイエスさまはご存知でした。そのため、より安全な場所に身を移すことをお考えになり、ユダヤ教団の本拠地であるエルサレム神殿のある地域からは遠いガリラヤ地方に行くことになさいました。

ところが、です。ユダヤからガリラヤへ行く途中、イエスさまは、サマリアと呼ばれる地域を通らなければなりませんでした。ただし、「通らねばならなかった」(4節)の意味は、その道しかなかったということではないように思われます。道は他にもあります。しかし、イエスさまにとってできるだけ安全な道を選ぶとしたら、このサマリアを通る道が最適であったということでしょう。

なぜこの道が最適だったのでしょうか。それは9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれているとおりです。ユダヤ人はサマリア人を民族的・宗教的に差別していました。自分たちが忌み嫌っている人々が住んでいる町にも近づこうとしませんでした。ですから、サマリアの町を通ることがイエスさまにとってはユダヤ教団の人々の追跡を逃れるために最適な道であったと考えられるのです。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があります。それとは趣旨が異なるかもしれませんが、似たようなところもあります。しかし、わたしたちが考えておきたいことは、嫌いな人の住んでいる町には近づきたくもない、その人の家の前は通りたくもないというような心理状態はどのようなものだろうかということです。

同じ空気を吸いたくもない。その相手が地上に存在していることさえ許せない。そのように敵意や憎悪がエスカレートしていくことがわたしたちにも全くないとは言えないはずです。とはいえ、この場面では、ユダヤ人たちのサマリア人嫌いが結果的にイエスさまの身の安全の確保につながったようであることは、決して良いことであったとは思いませんが、皮肉であるとしか言いようがありません。

そのようにして、イエスさまは、ともかくサマリア地方を通る道を選択なさいました。そしてシカルという町に着きました。この地方は山坂険しいところでもありますので当然お疲れになりました。神の御子もお疲れになるのです。そして、シカルの町の井戸のそばに座りこんでしまわれました。女性がイエスさまと出会ったのは、この場所でした。

それは「正午ごろのことである」(6節)と記されています。なぜ時間のことが記されているかははっきりとは分かりませんが、それはおそらく、真昼間の出来事であったという意味でしょう。

つまり、太陽が真上から容赦なく地上を照らす灼熱地獄。そのときイエスさまは疲れと渇きの絶頂の状態であられたのだということが暗示されているのではないかと思われます。その状態のイエスさまが水を求めて井戸端にへたり込んでおられる様子は、想像すると何とも言えない気持ちにさせられます。「かわいそうだ」という言い方には語弊がありますが、なんとかしてあげたいような気持ちにもなります。

そこに女性が現れました。彼女は井戸に水をくみに来ました。その女性に対してイエスさまが「水を飲ませてください」とお願いなさったのです。「おい、水を飲ませろ」と強盗のように脅したわけではありませんし、上から命令なさったわけでもありません。哀れな姿としか表現のしようがないほど憔悴しきった中で水を求めておられるイエスさまの様子が目に浮かびます。違うでしょうか。

ところが、その女性は、ある意味で当然の、しかし、何となく冷たい感じもする言葉をイエスさまに投げ返しました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。

これがある意味で当然の言葉であったと申しましたのは、先ほども触れましたように、ユダヤ人はサマリア人を宗教的・民族的に差別していたからです。とくにユダヤ人の側がサマリア人を馬鹿にし、見くだしていました。そのユダヤ人であるイエスさまがサマリア人の女性に頭を下げてお願いする。それは明らかにタブーを破る行為でした。それは彼女の側からすれば、天地がひっくり返るほど驚くべきことであったに違いありません。

しかし、何となく冷たい感じもすると申しましたのは、目の前に現実に疲れきっており渇ききっている人が横たわっているのに、すぐには助けようとしないで、この私にそんなことをどうして頼むのですかと理屈を言って突き放しているようでもあるからです。

わたしたちならどうするだろうかと、ここでも考えておくことが重要です。嫌いな人や憎い人、敵対関係にある人が、目の前で困っている。そして、その相手が自分に対して頭を下げて助けを求めてきた。自分はその人を助けることができる力や技術を持っている。しかし、そこには単純に乗り越えることができない壁や障害がある。助けるべきか、立ち去るべきか。そのようなことで悩むことがわたしたちにもあるのではないでしょうか。

しかし、そのような場面でわたしたちは実際にどのようにするでしょうか。相手の出方次第であるという面があるかもしれません。頭の下げ方がまだ足りない。それこそ地面に這いつくばってでも願うなら、よし分かった、言うことを聞いてやってもよい、となるか。それとも、はいはい、どうぞどうぞ、となるか。

イエスさまは、この場面で何とも不思議なことを語り始められました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)。

「あれれ?イエスさまはお願いしている立場であるはずなのに、逆のことを言っているぞ」と思われても仕方がないようなことをおっしゃっています。しかし、このイエスさまの言葉が、このあと、彼女を救いに導くものになりました。「水を飲ませてください」から始まるなにげない会話をきっかけにして、この女性の人生に根本的な変化が起こりました。本当に渇いているのはイエスさまではなく自分自身であったということに彼女は気づきました。イエスさまがそのことに気づかせてくださったのです。

この続きは来週お話しいたします。

(2009年5月3日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年5月1日金曜日

カルヴァン、ゲットだぜ!

今年(2009年)は、宗教改革者ジャン・カルヴァンの生誕500年。日本でも各地で記念行事が行われています。



パーフェクトではありませんが国内と海外で今年行われる記念行事をほぼ一覧できる「カルヴァン生誕500年(2009年)関連行事カレンダー」を私が作成しましたので、これを見て「どれに参加しようかな?」と選んでいただけるとうれしいです。



すでに終了したものもありますが、まだまだたくさん残っていますので、すべての集会が多くの人で満たされますよう期待しています。



ちなみに私は、子どもたちに大人気の「ポケモン スタンプラリー」を真似て「カルヴァン スタンプラリー」を企画しませんかと一応提案してみたのですけどね。全国共通の「カルヴァンスタンプ」を作って全国の集会に設置していただき、「カルヴァンスタンプ帳」にたくさんスタンプを集めた人に「カルヴァンマスター認定証」を出しましょうと。



冗談だと思われたらしく即座に却下されましたが。ナニ、こちらは大真面目だったのですけどね。



ともかく今年を機に、日本におけるカルヴァン研究が盛んになっていくことを願っています。