カンペンの町の入り口
オランダ改革派教会解放派(Vrijgemaakt)のカンペン神学大学
オランダプロテスタント神学大学カンペン校(元カンペン神学大学)
オランダプロテスタント神学大学カンペン校講堂
カンペン大教会(Grote Kerk)
カンペンの町の入り口
オランダ改革派教会解放派(Vrijgemaakt)のカンペン神学大学
オランダプロテスタント神学大学カンペン校(元カンペン神学大学)
オランダプロテスタント神学大学カンペン校講堂
カンペン大教会(Grote Kerk)
11日(木)は午前6時起床。朝食バイキングが始まる7時よりも前にホテルを出、トラムに飛び乗りました。そして7時半頃にはアムステルダム中央駅から電車に乗り、一路アペルドールンへ。アペルドールン駅前で石原知弘先生と待ち合わせ。石原先生が運転する自動車に乗せていただいて、オランダの東北地方に向かうためです。
■ アペルドールン
アペルドールン市(Gemeente Apeldoorn)は、神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が、生まれてから大学に入学する直前まで住んでいた、まさにこの神学者ゆかりの地です。現在石原先生が学んでおられるアペルドールン神学大学がある市でもあります。
駅から直行したのは、アペルドールン神学大学(Theologische Universiteit Apeldoorn)です。我々が訪ねたときは学生会の設立記念日のパーティーが行われている最中でした。来日講演をしてくださったことがある旧約聖書学者H. G. L. ペールス教授が我々を歓迎してくださり、神学生や近隣の教会の牧師たちと共に、30分くらい親しくお話しすることができました。
ペールス先生はファン・ルーラーがアペルドールン出身であることをご存知なかったらしく、我々の調査に深い関心を寄せてくださり、喜んでくださいました。神学生の一人は私の顔を見るなり、ニヤニヤ笑いながら「昨日アムステルダム自由大学でスピーチした人でしょ?」。私のことを覚えていてくださり、「出席しておられたのですか?」「ええ、行ってましたよ」という話から始まって、いろいろと盛り上がり、意気投合しました。別れ際、ペールス先生は御自身の最新著をプレゼントしてくださいました。最後の最後に「韓国(Korea)の(?)教会の皆様には、くれぐれもよろしくお伝えください!」とおっしゃいました。とても優しい先生でした。
国際カルヴァン学会のH. J. セルダーハイス会長も、この神学大学の教授です。セルダーハイス教授の姿を窓越しにちらっと見かけたので御挨拶したかったのですが、日が暮れるまでに計画したすべてを実行するためには時間が足りそうもないことが判明しましたので、先を急ぐことにしました。
その後、神学大学の裏というかすぐ隣にあるアペルドールン・ヒムナシウム(Apeldoorn Gymnasium)を見学しました。ヒムナシウム(ギムナジウム)は、大学入学前の準備教育を行う超難関校です。ファン・ルーラーはこのヒムナシウムを卒業後、フローニンゲン大学神学部に入学しました。ヒムナシウム時代のファン・ルーラーは数学、とくに「立体幾何学」が得意であったと伝えられています。校門の柱にAnno 1813(西暦1813年)と刻まれている歴史的建造物は、今も現役で用いられています。学校の前をうろつく二人の東洋人がよほど珍しかったようで、ヒムナシウムの生徒たち(とくに女の子たち)が窓の中から我々に笑顔を向け、手を振ってくれました。
次に向かったのはアペルドールンの「大教会」(Apeldoorn Grote Kerk)です。アペルドールン教会は、ファン・ルーラーが両親や兄弟と共に(彼は長男でした)幼い頃から通っていた教会です。彼の小児洗礼式と信仰告白式は、この教会で行われました。信仰告白に際しての教理問答教育(catechisatie)は、当時この教会の牧師であったTh. L. ハイチェマが行いました。ハイチェマはアペルドールン教会の牧師を辞任後、フローニンゲン大学神学部の教授になりました。アーノルト少年への教理問答教育には、オランダ改革派教会の伝統に則ってハイデルベルク信仰問答が用いられました。
ただし、今書いた説明は、これまで日本で読んできた書物から得たものです。ところが、今回の調査で、いくらか複雑な事情がありそうだと分かりました。
ペールス先生が、次のように教えてくださいました。ハイチェマが牧師をしていたとき(1918年~1923年)のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、略称NHK)は、アペルドールンに二つあったそうです。「大教会」(Grote Kerk) と「ヨハネス教会」(Johannes Kerk)です。しかし、後者「ヨハネス教会」は今から数年前に取り壊されました。また、1970年代ないし80年代頃までのNHKの牧師は、個別の教会に赴任するのではなく、複数の牧師で複数の教会を担当していたそうです。そのため、ファン・ルーラーとその家族が「大教会」のほうに通っていたか、それとも「ヨハネス教会」のほうに通っていたかを特定することは、「ハイチェマが牧していた教会である」という情報だけでは無理だということです。別の情報を得られるまでは、それは「大教会」(Grote Kerk)のほうであった「可能性がある」と書くのがより正確だということです。
やはり現地に行かねば分からないことがたくさんあるなあと思わされました。
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| パネラー席の右端がヘリット・イミンク先生です |
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| 後ろの時計の針は「午後4時50分」を指していました |
国際ファン・ルーラー学会が無事終了しました。出席者は約200名(オランダ日報Nederlands Dagblad誌の発表)。アムステルダム自由大学の講堂(auditorium)がほぼ満席でした。ファン・ルーラーへの関心の高さをはっきりと知ることができました。
日本人の出席者は石原知弘先生(アペルドールン神学大学修士課程)、青木義紀先生(オランダプロテスタント神学大学修士課程)、私の三人でした。私のスピーチは最後の最後でした。
スピーチの前にイミンク先生(オランダプロテスタント神学大学総長)が私のことを紹介してくださいましたので、和やかな雰囲気の中で落ち着いて話すことができました。
応援してくださった皆様に心より感謝いたします。
学会終了後、メインスピーカーのユルゲン・モルトマン先生と午前の部の全体講演(plenair)の進行役のM. E. ブリンクマン先生(アムステルダム自由大学神学部教授、組織神学者)が記念撮影に快く応じてくださいました。
■ アムステルダム
アムステルダム中央駅に戻り、駅前からトラムに乗ってホテルに帰ろうとしましたが、そこでトラブル発生。乗るべきトラムの路線を間違えてしまったようでした。来た道とは異なる風景が見えはじめ、これはヤバいと、とにかく降りました。全く未知の外国で迷子になるところでした。ガイドブックの地図を見ても、よく分かりません。そこからうろうろ歩くこと約一時間。やっと見つけたのが、昨日最初に訪ねたアムステルダム自由大学の看板でした。「これでホテルに帰れる!」と、ほっとしました。
うろうろ歩いている最中に、Sushi Kingsという店を見つけて驚きました。「寿司屋」でした。ガラス越しに中を見るかぎり、店員に日本人は一人もおらず、全員オランダ人らしき若い男女が寿司を握ったり、包丁を洗ったりしていました。
「日本の寿司と味が違うのではないかなあ。東京で『広島お好み焼き』とか『沖縄ソウキそば』とか言って売っているのは現地の味と全然違うのと同じように」というなんとも微妙な興味を抱いてしまったので、夕食はすでに済んでいたのですが(石原先生のおくさまが作ってくださったおいしいサンドイッチでした)、ついお持ち帰り用のを一つ買ってしまいました。しかも値段は、日本の「小僧寿し」なら500円くらいで買えそうなのが、なんと18.5ユーロ(約2,300円)。「これだけ払って味が全く違っていたら怒るからね」とブツブツ言いながら、sushiをぶらさげてホテルに帰り着きました。
そして最初の一つを口に入れたところ、「おお、なんと、これは『寿司』だ!」と、そのおいしさに感動しました。その店は宅配(デリバリー)もしているとのこと。店には日本酒なども売っていました(買いませんでしたが)。
以上、親友の石原先生と共にユトレヒトにもヒルファーサムにも行くことができ、親切な牧師と教会が大好きな子どもたちに出会うことができ、おいしい寿司まで食べることができた一日でした。明日は「国際ファン・ルーラー学会」本番です。
■ ヒルファーサム
ヒルファーサムは、ファン・ルーラーが牧師として働いた教会がある町です。しかし我々は、それがヒルファーサムのどの教会なのかを特定できずにいました。それでとりあえず、その町で最も古く最も大きな教会である「大教会」(Grote Kerk)に行きました。
しかしそれが本当にファン・ルーラーが牧会した教会であるかどうかに確信が持てませんでした。「これかなあ?たぶんこれだよねえ。でも、分からないねえ。これだってことにしておこうか?(苦笑)」とか言いながら建物の周囲を二人でうろついていたところ、教会前に駐車していた自動車から出てきた若い男性が我々に気づいて声をかけてくださいました。それがなんと「大教会」の牧師でした!(ただし「パートタイムの」牧師であるとのこと。その方曰く、現在「大教会」は主任牧師がおらず、探しているとのことでした。)
これはラッキーと、その先生にこの教会とファン・ルーラーの関係を質問したところ、「それはこの教会ではなく、別の教会です」と教えてくださいました。そして「じつは今から30分くらい子どもたちにカテキズムを教えなければならないので、もし終わるまで待ってくださるなら、自動車でその教会まで連れて行ってあげますよ。ちょっと遠いので、徒歩で行くのは無理だと思いますので」と言ってくださいました。驚くやら喜ぶやら。二人で小躍りしました。
教会の一室に通していただいて待つこと30分。その先生が我々のところに戻ってこられ、「子どもたちが日本からのお客さんに興味を持っているので、会ってもらえませんでしょうか」とのこと。これまた大喜びで了解しました。カテキズム教室に集まっていたのは10名ほどの中学生でした。男の子も女の子もいました。我々を興味津々の目で見つめ、「日本にはどれくらいクリスチャンがいるのか。多いのか少ないのか」とか「あなたたちはこれから牧師になるのか、それともすでに牧師なのか」など質問攻めに会いました。
子どもたちと別れる前に、その牧師がオランダ語でお祈りしてくださいました。最後に私が「皆さんは教会が好きですか」と尋ねたところ、一人の女の子がニコニコしながら「ハイ!」と大きな声で答えてくれました。
その後、先生の自動車で目的の教会(Hilversum Diependaarse Kerk)に移動しました。移動中も突然の訪問客に対してとにかく親切に何でも教えてくださいました。曰く、「大教会」(Grote Kerk)とファン・ルーラーが働いていた「ディーペンダール教会」は、同じオランダプロテスタント教会(Protestantse Kerk in Nederlands)に属しているものの、前者がConfesioneel(信仰告白派)という正統的なグループに属しているのに対して、後者はリベラルである。しかし、ファン・ルーラーは「大教会」のほうでも説教していた。ファン・ルーラーは、教会員から「説教が難しすぎてついて行けない」と批判されていた。私(その先生)はファン・ルーラーを偉大な神学者であると思っている、などなど。「現在ヒルファーサムには、いくつくらいの教会(プロテスタントとカトリックとを合わせて)がありますか?」という私の質問に対しては、少し考えて「20くらいですね」と答えてくださいました。その後、その先生はヒルファーサム駅まで我々を送ってくださいました。
石原先生とも明日に備えてヒルファーサム駅でお別れ。時刻はすでに午後6時。あたりは真っ暗でした。
今朝は7時に起床。8時にホテルで朝食を食べました。一応セルフバイキング形式でしたが、予想どおり、パン、ハム、チーズ、コーヒーのみの(あとは何もない)朝食でした。その後一時間ほどかけてメールの返事を何通か書き、10時にホテルを出発。雨が降っていたのでホテルのフロントで傘を借りました。
■ ユトレヒト
トラムに乗って約15分でアムステルダム中央駅(Amsterdam Centraal)に着き、そこからユトレヒト中央駅(Utrecht Centraal)まで約30分。そこから徒歩で10分のところにあるドム教会(Dom Kerk)に行きました。ドム教会の前で、9月から留学中の石原知弘先生が待っていてくださいました。石原先生は午前中ユトレヒトの語学学校で勉強。午後から私に付き合ってくださいました。
最初にドム教会の内部を見学。ドム教会は、とにかく巨大で荘厳な建物でした。なかでもとくに驚いたことは、説教壇(Kansel)と聖餐卓(Abondmaal tafel)とが会衆席をはさんで対極の位置に置かれていたことです。両者は20メートルほど離れており、そのような贅沢というか優雅な建物の使い方をしていることに驚き、また羨ましく思いました。
その後、ドム教会の隣にあるユトレヒト大学(Universiteit Utrecht)の旧校舎に行きました。ファン・ルーラーが講義を行っていた場所です。古い建物の中には似つかわしくない感じの電光掲示板があり、今日の予定が映し出されていました。三名の博士号授与式(promotie)と授与者祝賀会(receptie)が行なわれる予定だったようで、我々が訪ねたときはそのうち一名の祝賀会が行われている最中でたいへん賑やかでした。白い蝶ネクタイをしたにこやかな若い男性と廊下ですれ違いましたので、たぶんその人が今日まさに「博士」(doctor)になられたのでしょう。
ドム教会の次は、徒歩7分くらいのところにあるヤンス教会(Jans Kerk)に行きました。大学教授時代のファン・ルーラーが家族揃って通っていた教会です。昨年9月に『ファン・ルーラー著作集』第一巻の出版感謝祝賀会が行われたのもヤンス教会でした。ヤンス教会の中に、1980年代に考古学者によって発掘された昔の墓がガラスのケースに入れられて飾られていました。ヤンス教会を出たところ、興味深いことに、教会のすぐ前にアンネ・フランクの像が立っていました。「なぜユトレヒトにアンネさん?どういう関係なんだろうねえ」と石原先生と顔を見合わせて考え込みましたが、彼女のことをよく知らないので分かりませんでした。『アンネの日記』を読み直してみたくなりました。
その後、ユトレヒトの繁華街を散歩しました。昼食はフライドポテト(だけ)で済ませました。それからユトレヒト中央駅に戻り、そこから電車でヒルファーサム(Hilversum)に向かいました。
8日(月)7時30分に小田雅也長老が牧師館まで迎えに来てくださり、八柱駅まで送ってくださいました。八柱駅から新京成線に乗り、京成津田沼駅で成田空港まで行く特急に乗り換えました(京成の「成」は成田の「成」だったのかと初めて知りました)。成田空港には10時に到着。千葉銀行成田空港支店で円をユーロに両替。チェックインもボディチェックもスムーズでした。日本航空411便は定時に出発、12時間のフライトを経てアムステルダムに無事(これもみごとに定時に)到着しました。航路はロシア上空、高度1万メートルをシベリア方面にカーブしながらもほぼまっすぐに進んで行くものでした。エコノミークラスの三人掛けのシートでしたが、同じシートには私しかいなかったのでゆうゆうと使うことができました。フライトの間は退屈だろうとそれだけを憂鬱に思っていましたが、それは昔の話だと分かりました。座席前に各個人用のテレビが備わり、それで映画を鑑賞したり、音楽を聴いたり、ゲームをすることができました。映画は立て続けに四本も見てしまいました。「ハンサム☆スーツ」(主演 塚地武雅)という映画には、他人事ではない話に思えて感動しました。機内食は三食ありました。けっこう美味しく食べました。
スキポール空港には、たいへん心強いことに、野村信先生(東北学院大学教授、アムステルダム自由大学客員研究員)が迎えに来てくださいました。野村先生の案内で今週水曜日に「国際ファン・ルーラー学会」(Internationaal Van Ruler Congres)が開催されるアムステルダム自由大学をさっそく見学しました。講堂(auditorium)の前に飾られた初代学長アブラハム・カイパーの像を見ることができました。夕食は野村先生と一緒に自由大学の学生食堂で食べました。5ユーロほど払ったとき、レジの若くて美しい黒人の女性が「モヘラック!」(Mogelijk!)とおっしゃって私の顔を見てニコッと笑ったので、野村先生に意味を伺いましたら「『たくさん食べてね』というくらいの意味でしょう。フランス語のボナペティ!(Bon appetit! どうぞ召し上がれ!)と同じようなことです」と教えてくださいました。夕食後、自由大学の図書館(bibliotheek)や書店コーナー(boekhandel)も見に行きました。書店には興味深い本が並んでいましたが(ほとんどがオランダ語のものです)、衝動買いを抑えて抑えて。その後、トラム(路面電車)でホテルまで行きました。トラムの乗車方法からホテルのチェックインまですべてを野村先生が助けてくださいました。寝室は古いですが、こざっぱりした、とてもいい感じです。同じ部屋で四泊します。