2008年9月2日火曜日

日本語の誤り(1/3)

「教会が牧師を育てる」という言葉を聞くことがあります。しかしこれは、私に言わせていただけば、どう考えても日本語の間違いです。百歩譲っても。また長老主義においては「牧師」と「長老」は「霊的に同格である」と規定されているとしても、です。(少なくとも改革派教会の)牧師は「教師」です。「教師が生徒を育てる」は日本語として正しいと思いますが、「生徒が教師を育て」ますか? これって今どき流行りの「モンスターチルドレン」ではないでしょうか(「モンスターペアレンツ」は、もう古いようです)。私の信じるところは、牧師を「育てる」のは、(なるべく同じ中会の)「先輩牧師」か、そうでなければ(神学校の)「指導教授」です。このように書くのは、「教会員が牧師の批判をしてはならない」という意味では(まさか)ありません。批判は、大いにすべきです。しかし、牧師批判を「あなたを育てるために、してあげている」と言われると我々はかなり困ります。そのようなことをこの私に対して面と向かって言った人はまだいませんが、もし言われたときには「そう言いたければ、あなたも教師(牧師)になってください。あなたは私の教師ではありません」と言い返そうと思っています。



野党のコメントにひねりが欲しい

「福田首相辞任表明」をネットで知り、うげぇーと思ってテレビをつけました。ものすごく腹が立ったのは、福田首相が辞任表明の途中で、時々、うっと来ていたところです。「泣くなよ!」・・・え、それとも、自分はみんなから支持されているとでも思っていたのか? 私はてっきり、福田さんは、自分は支持されていないことが分かっていて、それでも「これが自分の仕事だから」という理由で続けているのではないかと思っていました。その種の(やや悪質ではあるが興味深い)図太さを持っているのではないかと感じていました。それならば敬意に値します。しかし突然辞める。辞意表明の最中に泣く。この人は究極の勘違い総理大臣だったのだと、今夜やっと分かりました。こういう人を総理大臣にもつことは国民の恥です。もう一つ。腹こそ立ちませんが、いかにもバカっぽく見えたのは、野党党首たちの、判で押したような、つまらないコメント。もう少しクセ球を投げる野党を見てみたいんです、私は。あえて名指ししますが、典型的にあの福島みずほさんのように(鳩山さんや志位さんもほとんど同じですが)バッティングセンターのピッチングマシーンのようなコメントしか出てこないと、どんなに速度ある球でも、目が慣れてくると、どんな素人でも打ち返せるようになるんです。加えて思ったことは、総理大臣をポイっと辞める人って何のために政治家になったんだろうかということです。総理大臣って政治家になった人たちにとっては究極目標じゃないんですかね(違うのか?)。総理大臣が、現職のまま「周囲の圧力で」死ぬなら、本望じゃないんですかね(これも違うのか?)。もし「周囲の圧力で」辞めるということだとしたら、「総理大臣としては死ねません」ということかと思えてなりません。極端に自己愛が強いだけの人だったのかもしれません。「この内閣は続くかも」と思っていた私の、人を見る目の無さも痛感。今、かなり不愉快です。



2008年8月31日日曜日

やっと夢がかなった


使徒言行録28・17~31

今日で使徒言行録の学びを終わります。約一年半かかりました。最初の説教のときに私が申し上げたことを、たぶん皆さんはお忘れになっているでしょう。「使徒言行録の学びが終わるまで、皆さん元気でいてください」。冗談で言ったわけではなく本気で言いました。しかしこの間、一人の姉を天におくりました。一人の兄、一人の姉が、遠くに引っ越して行かれるのを見送りました。一人の姉は長期入院中です。仕事が変わった方、身辺が急に忙しくなった方々がおられます。年々体力が落ちていると感じている方は多いでしょう。私も今年前半は、体調不良に苦しみました。すべてこの一年半の間に起こったことです。

「願いがかなう」というのは簡単なことではない。そんなふうに感じます。使徒言行録に紹介されているのは最初の教会の様子、とりわけ伝道者たちの戦う姿でした。しかし、ここで言わせていただきたくなることは、最初の教会の人々やペトロやパウロだけが苦労したわけではないということです。わたしたち自身も苦労しています。わたしたち自身も、ペトロやパウロと同じか彼ら以上に、一日一日、足と体を引きずりながら、いろんなものにぶつかり傷つきながら生きています。しかしそれでもわたしたちが絶望してしまわないで立っていることができるのは、苦しみの日々の中でほっと一息つくことができる瞬間があるからであり、それを神の恵みとして受けとることができるからではないでしょうか。

日曜日の礼拝が皆さんにとってそのような時間でありうるようにするために、私なりに努力させていただいているつもりです。わたしたちの月曜日から土曜日までがつらくて、そのうえ日曜日までつらかったら、わたしたちは、もはや立っていることができません。教会の礼拝は、現実から逃避するための場所ではありません。しかし、現実の戦いのなかで傷ついた人々の安息の場ではあります。今日、日曜日はわたしたちの安息日なのです!ですから、皆さんどうぞここで休んでください。エウティコのように説教の途中で居眠りしてくださっても構いません(ただし、三階から落っこちないように。松戸小金原教会に三階はありませんが)。教会にはどうぞ休みに来てください。遊びに来てください。私にはそれ以外の表現ができません。ここは、お説教に苦しめられる拷問部屋ではないからです。

パウロの夢は、ついにかないました。念願のローマに着きました。パウロはこれまで、いくら祈っても計画を立ててもローマに行くことはできませんでした。ところが、その彼が囚人となってローマ人の兵隊に護送されるという格好で彼の夢がかないました。しかし、過程がどうあれ、パウロにとって重要だったのはローマに行くことでした。なぜパウロはローマに行きたかったのでしょうか。その理由が今日の個所に記されています。

「三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。『兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。』すると、ユダヤ人たちが言った。『私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。』そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」

パウロの発言の趣旨をまとめておきます。キリスト教信仰を宣べ伝えるパウロの活動をユダヤ人たちが理解してくれない。実際のキリスト教信仰はユダヤ人たちが信じる聖書の教えと反するものではない。ところが、ユダヤ人たちはそれが聖書の教えに反するものであると言い張り、パウロを捕まえて殺そうとした。裁判でローマ人は、パウロのしていることは死刑に当たるようなものではないことを理解してくれた。それでも、ユダヤ人たちが彼の有罪を言い張るので、ローマ皇帝に上訴しなくてはならなくなったというわけです。パウロは、キリスト教信仰を宣べ伝えることは、それによってだれかから責められたり殺されたりするようなものではないことを、ローマ皇帝に認めてもらいたいのです。

もう少し短く言い直します。パウロが「ローマに行かなくてはならない」という確信をもった理由は、キリスト教信仰とそれを宣べ伝えるキリスト教会の“市民権”を保障してもらうためであったということです。これを信じているから逮捕されるとか、これを宣べ伝えているから殺されるというような不当な扱いを今後一切受けることがないように法的に認めてもらうためであったということです。その法の番人がローマにいる。そこでこの問題についてはローマに行ってその人に直接かけあって話してみたいという動機をパウロが持っていたということです。

しかし、この理由は、私にとっては、分かりにくいものです。なぜ「分かりにくい」と言わなければならないのでしょうか。

第一は、わたしたち(念頭にあるのは、21世紀の日本のキリスト者)は、パウロと同じような意味で、キリスト教信仰とキリスト教会の“市民権”を獲得するための戦いをしなければならないような状況にあるとは思えないからです。わたしたちがこの信仰をもって生きることを決心し、そのような人生を歩んだからといって、それによってただちに迫害されたり殺されたりするような状況にあるわけではありません。

それどころか!つい最近ある先輩牧師の口から聞いた言葉をお借りすると、今日の状況は「糠に釘、のれんに腕押し」です。わたしたちが何を信じようと、何を宣べ伝えようと、「どうぞご自由に」という空気に包まれます。全く無関心です!迫害されたり殺されたりするような状況に戻るほうがよいなどと、まさか考えているわけではありません。しかし、いわばその代わりに、無関心の牢獄、無反応・不感症の泥沼の中にいるような感覚があります。これがパウロの時代とわたしたちの時代の決定的な違いであると思われるのです。

もう一つ。第二に申し上げることは、第一に申し上げたこととはいくらか違う次元から見たことです。しかし内容的には重なります。

パウロのローマ行きの理由は、ローマ皇帝に上訴することによって、キリスト教信仰とキリスト教会の市民権を保障してもらうためでした。しかしそこで私がどうしても抱いてしまう疑問は、はたして本当にそのようなことがパウロひとりの力で可能なのだろうかということです。相手はローマ帝国の最高権力者です。歴史が伝えるところによると、歴代の皇帝たちは、人を人とも思わない、凶悪な独裁者でした。そのような人のところまで、まるでネズミ一匹のようなパウロが、単身でのこのこ乗り込んだからといって、何がどう変わるというのでしょうか。あまりにも無謀すぎるのではないか。危険すぎるのではないか。そのように感じられてしまいます。

もっとも、パウロは、これまでの間にすでに、ユダヤの最高法院を相手し、ユダヤの王アグリッパに対しても戦いを挑んできました。だからこそローマにも行き、ローマ皇帝の前にも立つ。そのような勢いを得、自信を抱くことができたのかもしれません。

しかし、ここでわたしたちがどうしても考えなければならないことは、ユダヤとローマは違うということです。ユダヤの王とローマ皇帝は違うのです。ユダヤの王アグリッパの前でパウロがそれを根拠にして語り、しきりと訴えていたのは聖書です。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」(26・27)。ユダヤの国は、たとえどれほど堕落していたとしても、聖書を土台にして立つ国家でした。彼らの思想や文化の中に聖書の教えが生きていました。だからこそ、パウロが聖書の言葉を引き合いに出して論じることに対して、ユダヤ人たちは大いに反応し、また多くの場合、激怒したのです。両者の対話は、いちおう成り立っていたのです。

しかし、ローマ皇帝の場合はそうは行きません。聖書の御言葉を根拠にして語ったからといって、それを理解してくれるような相手ではありませんでした。どう考えても。それは全く異なる思想、全く異なる文化のうえに立っている相手でした。

聖書の教えが全く通用しない相手と語り合う。言葉の通じない、通じそうもない相手と話す。この点においてはパウロの状況とわたしたちの状況とが重なりあってくるところがあります。私は時々、家族の者から「内弁慶である」と批判されることがあります。そうであることを正直に認めざるをえません。すべての牧師が私と同じであるとは限りません。しかし、牧師たちの多くは、聖書を用いての議論ならば、得意としているはずです。私もそうです。もしそれが聖書に基づく議論であるならば、夜を徹して語り合うことができる用意と自信があります。

しかしです。聖書の教えが通用しない相手には苦手意識をもってしまいます。何をどう話してよいかが分からなくなってしまいます。黙ってやりすごすしかないと考えてしまいます。“引きこもり”になってしまいます。

そのような私であるゆえに、パウロの姿を見ると、大いに反省させられます。相手からネズミ一匹と思われようとも、聖書の教えが全く通用しない相手であろうとも、この信仰、この教会を守るために勇気をもって立ち向かう。このパウロの姿に学ばなければならないことがたくさんあると思います。聖書を知らない人々に、聖書を教えること。この信仰の真の価値を知らない人々に、この価値を分かってもらうこと。これこそが伝道であることは、間違いないことだからです。

「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。『聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。「この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。』パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

使徒言行録の最後の部分は、いくらかコミカルでユーモラスな調子で書かれています。念願かなってローマにたどり着いたパウロの前に、またしても(!)無理解なユダヤ人が現われ、苦労するのです。「あーあ。まったくもう!」というパウロのため息が、ここまで聞こえてくるようです!

ローマの町はパウロにとって天国ではありませんでした。地獄でもありませんでした。そこでも引き続き、彼の日常生活が坦々と続けられました。彼の日常生活とは、御言葉を宣べ伝えること、すなわち伝道でした。パウロから伝道を取り去ると、彼のあとには全く何も残らなかったでしょう。パウロの人生は、神とキリスト、そして教会のためにすべて献げられたのです。

(2008年8月31日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年8月30日土曜日

ここに書いた願いはすべて必ず実現するブログ

「ここに書いた願いはすべて必ず実現するブログ」があればいいのにと、時々思います。私が今、心の底から願っていることが、二つあります。

第一の願いは、松戸小金原教会の礼拝が現在の二倍以上の出席者で満たされるようになることです。

2000年ちょうどに立ち上がった新しい会堂は、百名の出席者なら余裕で対応できます。現在は一人一人が余裕で座っています。しかしこれからは、少し詰めて座らなければ入れないほどの人数になっていくことを期待しています。

余所から来た者には言いにくいことですが、松戸市も、小金原という町も、教会周辺の街並も、オプション的な魅力に満ちあふれているとは言い難いものです。純粋に東京のベッドタウンであり、街そのものに面白味は感じられません。

交通手段も、便利とはとても言い難いものです。JR常磐線「北小金駅」からも、JR武蔵野線「新八柱駅」からも、それぞれ15分ほどバスに乗っていただかなくてはなりません(駐車場は10台分ほどありますので、自動車での来会も可能です)。

「それでも構わない。松戸小金原教会は神の言葉を大胆に語り、福音を正しく宣べ伝えることにおいて熱心な教会であり、温かく安心できる教会である」と信頼し期待してくださる方々によって礼拝と諸集会が満たされるようになることを願っています。

第二の願いは、2006年7月に設立されたばかりの東関東中会に、東部中会にあるのと同じような、あるいはそれ以上の「神学研修所」ができることです。

これは私一人が願ってもどうしようもないことです。東関東中会の教師・長老、そしてすべての教会員と相談しながら進めていかなくてはならないことです。だれか突出した特定の個人が単独で暴走することによって始められたものは、後々禍根を残すものになりかねません。そのことは歴史が証明しています。

しかしまた、ここにいたって深く考えさせられることは、そこで教えるのは個々人としての人間であるということです。どんなに立派な制度や組織ができようとも、どれだけ多くの献金が集められようとも、そこで教えるべき教師一人一人が知識と敬虔において優れた者へと成長していくのでなければ一切は空虚です。

また東関東中会全体が、そこに属する教会員全員が、そのような「神学研修所」の設立を真に期待するのでなければ一切は空虚です。わたしたち教師である者たちが「そのうちだれかが始めてくれるだろう。それまでは黙ってじっと待っていよう」と手をこまねいていても自動的にどうにかなっていくというのであれば、そうしていたい気持ちが私の中にないわけではありません。

しかし、「神学研修所」(このまさしく究極的な非営利事業!)に限っては、勇気(と遊び心)をもっただれかが始めるのでなければ、永久に始まらないのではないか。大きな石も、自ら転がりはじめるまでの最初の一押しは、だれかが肩や腰を痛めてでも、必死になって手を突っ張らなければならないのではないか。そういうことも、しきりと考えさせられるのです。


2008年8月28日木曜日

悲願のトップページ完成

私が管理している二つのドメインにトップページが欲しいと、ずいぶん前から願ってきました。それが本日ようやく日の目を見ました。我ながら、けっこう気に入っています。しばらくこれで行こうと思っています。



REFORMED.JP



http://www.reformed.jp/



PROTESTANT.JP



http://www.protestant.jp/





2008年8月25日月曜日

本格的な神学を教会の手に戻そう!

先週は、遅ればせながらmixiに恐る恐る近づき、ついに参加してしまいました。次の問題は、このmixiに60歳代以上の人々(とくに牧師や神学者のような人)を誘い込むにはどうしたらよいかです。

慣れればどうってこともない感じですが、その世代の人々にとっては新しいものに慣れるまでが大変でしょう。

私がmixiに参加したいと願うようになった直接の動機は、つい最近アメリカ改革派教会(RCA)におけるファン・ルーラー研究の第一人者であるポール・フリーズ先生(Prof. Dr. Paul Roy Fries)からPlaxoというSNSに誘われて加わり、その様子を見て非常に驚いたからです。

そのグループの全員が、自分の顔写真を堂々と出しています。もちろんすべて実名公表。国はさまざま。これからいよいよ本格的に、インターネット上の神学者国際会議が行われる時代が始まるかもしれません。

日本に同様の試みや計画があるかどうかは知りません。もしまだ行われていないなら、これから真剣に実現の可能性を検討すべきではないかと思うばかりです。

まだよく分からないので全くの当てずっぽうですが、SNS(ソーシャルネットワークサービス)での議論は、掲示板やメーリングリストでの議論よりも、いろんな意味での安全性が高いような気がしています(ポジティヴすぎるでしょうか)。

「関口よ、お前はインターネットにこれ以上何を期待するのか。これまで九年半も続けてきたファン・ルーラー研究会メーリングリストが、一体何を生み出したというのか」と問われると、あまりにもつらすぎて私には答えられません。

しかし、なかには「参加してよかった」と言ってくださる方もおられます。「あのメーリングリストに参加するまではオランダ語の書物を自分で読むことなど、考えられないことでした。しかし、それを翻訳してくれて、解説してくれて、質問すれば答えてくれて。」(全部無料でネ!)

私の願いを一言で言えば、「本格的な神学を教会の手に戻すこと」です。

神学が「教会の神学」としての本来性を回復すること。それによって、とりわけ礼拝の説教が正確な神学的道筋の中で語られるようになること。そのために神学の公開性を高め、アクセスを容易にし、悪しき秘教化(esotericism)を打破すること。神学を大学や神学校の専有物にさせないこと!「神学(者/校/部)栄えて教会(人)滅ぶ」という本末転倒的事態に陥らないこと!

このような願いないし目標のためにインターネットを用いることが有効かどうかを、これまでほぼ10年近い時間をかけて検証してきたつもりです。もっと別の有効な手段があるならば、私自身にインターネットに固執する思いは皆無です。こんなの、いつでも止めます。

神学はキリスト者と牧師の日常生活の中に位置づけられるべきです。神学は学者だけのものではありません。神学は信仰について反省する学です。信仰をもって生きている人々ならだれでも取り組むべきです。

しかしまた、神学は主として伝道に直接携わる人々、なかでも牧師たちが一心不乱に取り組むべき学であることは否定できません。牧師がなぜ神学に取り組むべきなのでしょうか。牧師の仕事の中心には説教があるからです。説教の思想構造を神学が形成するのです。

逆も然り。神学なき説教には思想構造が存在しないのです。不断の神学研究に裏打ちされていないような説教は、多かれ少なかれ会衆に多大な苦痛を与えます。筋も構造もない話となり、思いつき・行き当たりばったり・支離滅裂・しどろもどろの迷走説教になります。日曜日の朝を教会で過ごそうと決心して集まってきた人々に「来なければよかった」という落胆の思いを与えます。

時間泥棒は犯罪です。信仰生活を長く続けてきた方々の中には、説教を一度聞くだけで、その牧師が神学に真剣に取り組んでいるかどうかを直感的に見抜いてしまう人々が少なくありません。理由は簡単です。神学を深めた人の説教は「分かりやすい」。神学研究がいいかげんな牧師の説教は「ちんぷんかんぷん」です。

しかし、です。牧師たち、とりわけ地方教会に仕える牧師たちが神学を継続するためにクリアすべき問題があります。

神学研究に必要なものは、当然やはり「本」です。とはいえ、近くに大学や神学校があるわけでない。神学に関する書物が簡単には手に入らない。キリスト教書店さえ存在しない、というようなことで悩んでいる牧師たちがいます。私も体験したことですが、日本の場合、「都会」と呼ばれる地域以外では神学に関して入手しうる情報があまりにも少なすぎるのです。それが牧師たちから神学への意欲を奪う一因となっています。

加えて言えば、「本」を通しての情報収集を行う場合には、言うまでもなく「本を買う」という行為を避けることができません。このことも神学への意欲という点で無視することができません。なぜ無視できないかと言えば、こと日本の場合、神学書がべらぼうに高い!高い割に内容が薄い!地方教会の牧師の中には、高すぎる神学書を前にして買い控えている人もいます。

その状況をなんとか打破したい。神学研究に関しての地方と都会の「格差是正」に取り組まねばならない。この願いがきわまり、「使ってみよう」と思いついたツールがインターネットでした。東京神学大学での同級生であり、理系の専門的知識をもっておられる清弘剛生先生(現在は日本基督教団頌栄教会牧師)は私のさまざまな相談に快く応じてくださいました。

現在までに行ってきたのは、ホームページやブログによる論文公開、メーリングリストによる原書講読会やディスカッションなどです。それらの情報のすべてを無料で提供してきました。もちろんまだまだ試行錯誤中です。私自身は、これインターネットは神学研究にも役に立つと感じてきました。しかし、可能性は依然未知数です。危険性ないしマイナス面のほうを数えはじめると、きりがありません。自分だけが「清く」ありたい人は、あまり向かないかもしれません。

しかし、です。ほぼ10年かけての実験の中で感じてきたことは、これは本当に大変なことだということです。最も大きな困難は(「やっぱりか」と言われそうですが!)、資金的な裏づけがあまりにも乏しすぎるということです。私が願ってきたことの中には「神学を大学や神学校の専有物にさせてはならない」という点が含まれていますので(批判や抵抗をもくろむ意図などは皆無ですが!)、資金的な援助を大学や神学校に求めることはできません。求めても断られるだけでしょう。

また、この種の活動は学校内行政(とくに大学や神学校の理事会の判断)の束縛やしがらみのようなものからできるかぎり自由であるべきです。その意味で、これはあくまでも私的(オランダ語のvrijのニュアンスに最も近い)に行われるべきです。そのことを私自身は痛いほど理解しているつもりです。

ところが、ここで浮上する問題は、「私的なもの」もしくは「独学的なもの」を、誰が信用し、(精神的にだけでなく資金的に)支援してくれるでしょうかということです。たとえば、独学者の著書や訳書を信用して購入してくれる読者はどれくらいいるでしょうか。ここに大きな不安要因がつきまとい続けています!

高名な学者たちの論文や訳文を無料で公開することはできません(させてもらえません)。無料で公開できるのは独学者の作品です(ここで「独学者」の意味は、肩書にProf. (教授)かDr. (博士)かが(あるいは両方が)付いていない人のことです)。

そもそもの動機として「地方教会のキリスト者たち(とりわけ牧師たち)の神学的な飢え渇きをいやしうる一杯の水を提供してみたい」という思いから関与を開始したインターネット活動は、何を隠そう、私自身の飢え渇きを自ら克服するための方法を編み出す試みでもありました。

口幅ったいかぎりですが、わたしたちの悲痛な叫びは、地方教会でお働きになったことのない教師、あるいは大学や神学校をもっぱら活動の場にしてこられた教師には、なかなか理解していただけないのではありますまいか。

しかし、しかし、です。ほぼ10年続けてきて分かることは、このようなささやかな神学活動にも、個人には手に負えないほど多大な資金が必要であるということです。

10年の間に、1台10~15万円程度のパソコンを4台買い換えました。これだけで50万円。プリンタは6台(3台は落雷で動かなくなりました)。安いのばかりですが、それでも1台1~2万円はしますので、ざっと10万円。OSがバージョンアップするたびに(ウィンドウズ98 → Me → XP → Vista)、大きな費用が発生しました。プロバイダ会社には10年間で150万円くらいは(もっとかな?)支払ってきたはずです。

私がメールのやりとりをする相手は、ほとんどすべてキリスト者たちであり、牧師や神学者たちです。それ以外の使い方は一切していません。オランダ語の神学書購入には、現時点で200万円くらいを注ぎ込んでいます。そこに電気代その他の諸経費を加えれば、おそらく500万円近い資金を個人的に負担してきた計算になるはずです。「一杯の水」のコストが、なんと500万円です!

「一杯の水」が500万円。これだけ自費を注ぎ込んでも、依然として、まとまった一冊の著書も、一冊の訳書さえも世に問うことができません。生まれたのは、数編の雑誌論文と、インターネット内の散文と、個人やメーリングリストに宛てて書いた一万通をゆうに超えたメールだけです。独学者であることの限界を超えることができません。

神学活動からはほとんど一円の収入も得ることができませんが、ご批判だけは結構いただきます。「ハイリスク、ノーリターン」です。おかげさまで多くの同志と知己を得、山のようなオランダ語文献を手にすることはできました。それはそれで私の誇りとしているところなのですが、しかしこのままだと、どう考えても生計が成り立ちません。

幸い、わが家には「負債」はありません。「本格的な神学」に取り組むためのプラスアルファの部分がこれ以上は捻出できそうもないと感じているだけです。これまでは二人の子どもたちが小さかったので無理や無茶がききましたが、そろそろ限界です。一般企業の場合は、資金繰りに行き詰った時点で、その事業は撤退ないし終了となるのでしょう。私も撤退すべきかもしれませんが、諦めが悪いタチなので、何とかならないものかと、毎日頭をひねっています。

これから取り組みたいと願っていることもあるのです。提供する情報が「本格的な神学」でありうるために、オランダ語のスキルを高める必要を痛感しています。東京の日蘭学会で行われているオランダ語講座(初級・中級・上級)に通いたいと何年も前から願いながら、費用的裏づけを得ることができないために、いまだその夢が叶わずにいます。

あとは出版活動です。ファン・ルーラーの論文や説教の翻訳をインターネット上で始めて以来、「独学者(教授でも博士でもない者)の訳書をどうしたら信頼して買っていただけるのか」をずっと考え続けてたどり着いた一つの結論は、訳書を出版するよりも前に訳者自身の著書を出版すべきではないかということです。

おこがましいかもしれませんが、まず最初に私自身の本(説教集など)を出版して広く読んでいただき、この人間の考えやスキルを知っていただく。そのステップを経た上でファン・ルーラーを紹介するという手順を踏むしかないのではないかということです。

しかし、出版活動も、とどのつまりはお金の問題です。今42才ですので、たぶんあと30年くらいは体が動くだろうと期待しています。オランダへの留学を本気で思い詰めていた頃は、留学の限界と言われる年齢までの日数を(まるで死刑囚のように)数えながら、ほとんど強迫観念の中で勉強していました。しかし、それも今は良い思い出です。

松戸に来て、よい教会、よい長老たちに恵まれました。多くのことを望まず、自分にできることをコツコツ続けていき、小さな何かを残せたらよいと思っています。

2008年8月24日日曜日

伝道を楽しめ


使徒言行録28・1~16

「わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。」

パウロの乗った難破船は、地中海に浮かぶ一つの島に辿りつきました。その船に乗っていた276人全員の命が助かりました。彼らは大きな喜びに満たされたに違いありません。

その島に着いたばかりのときには、そこがどこの陸地であるかが彼らには分かりませんでしたが(27・39)、まもなくそこがマルタ島であることが分かりました。なんと、その島に住人がいたのです。

島の名前は、その住人たちが教えてくれたのでしょう。流れ着いた島の住人の言葉が分かるというのは有難いことです。そして何よりそこに人が住んでいたこと自体が幸いです。人の住んでいないジャングル島に着く可能性もありえたはずです。

積み荷も船具も、そして最後の食糧も、彼らには残っていませんでした。飢えと寒さの中、冷たい雨まで降っていました。惨めさと絶望の状態にあり、ガタガタ震えていた彼らを、野獣ではなく人間が、温かいたき火をもって助けてくれたのです。

人が人を助ける姿には、本当に心温まるものがあります。知らない人は縛り上げて奴隷にするとか、「人を見れば泥棒と思え」と教えられているとか。そのような可能性も決して無かったわけではないでしょう。

マルタ島の人々は、あとで見るように、宗教的・文化的に言えばパウロにとってもわたしたちにとってもかなり違和感を覚えるような人々だったかもしれません。しかし、彼らには彼らなりの文化があり、困っている人を助けることにおいて明確な良心があったと言うべきです。間違いなく言えることは、彼らはパウロたちにとって命の恩人であるということです。そのことを決して見落とすべきではありません。

「パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。『この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、「正義の女神」はこの人を生かしておかないのだ。』ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、『この人は神様だ』と言った。」

初めての島でたき火に当たっていたパウロが、さっそく災難に遭いました。パウロの手に蝮が巻きついてきたのです。海の難は去り、次は毒蛇の難です。それを見たマルタ島の住人たちはパウロを「人殺し」であると考えました。これは悪人に対する神の裁きであり、ばちが当たったのであると考えたのです。そのような考え方が彼らの宗教であり、彼らの文化であったと見るべきです。

しかし、パウロ自身はいたって冷静でした。驚くことも騒ぐこともせず、蝮を火の中に払い落して退治しました。災難から逃れ、何事もなかったように立っていることができました。すると、マルタ島の人々は、パウロのことを「この人は神様だ」と言いはじめたというのです。

人殺しにされたり、神様にされたり。パウロとしてはそれこそが、蝮にかまれるよりも災難だったかもしれません。しかし、それもまた彼らの宗教であり、文化であったと見るべきです。重要なことは、そこはエルサレムでもなければアンティオキアでもなかったということです。そのときパウロは異なる宗教の持ち主のど真ん中に立っていたのです。

さて、私はこの個所を読みながら、四つの問いを抱きました。第一の問いは、このときパウロが蝮に襲われても大丈夫だったことについて、わたしたちはどのように考えるべきだろうかということです。

もちろん、パウロの信じる神さまがパウロの命を蝮の毒から守ってくださったと言っても間違いではないでしょう。しかしまた、私にとって重要だと思える点は、このパウロの冷静な態度です。蛇に襲われた。蜂が飛んできた。そのとき重要なことは、とにかく冷静であること、そして相手の動きから決して目をそらさないことです。

熊が襲ってきた場合は「目を見てはならない」と言われますが、動きから目をそらしてはなりません。忘れてはならないことは、相手も生き物であるということです。こちらが怯えてあわてて騒げば、向こうもびっくりして攻撃を仕掛けてきます。暴れると噛みついてくるのです。

第二の問いに移ります。それではこのときパウロが冷静でありえた理由は何だろうかということです。それはやはり彼の強さにあったと言うべきです。パウロの強さの理由は、はっきりしています。単純に言えば、彼は神さま以外の何も恐れなかった人なのです。

これまで見てきましたように、パウロは人間というものを全く恐れませんでした。襲いかかろうと構える群衆のなかで、一人で立ち、一人で語ることができました。暴力も恐れませんでした。法廷も恐れませんでした。死刑宣告も恐れませんでした。

また彼は、人間だけではなくどんなことも恐れませんでした。海も恐れませんでした。暗闇も空腹も恐れませんでした。彼が唯一恐れたのは神です。そして真の救い主イエス・キリストです。その方以外のどんな存在も恐れませんでした。そのパウロにとって蝮などは、ちっとも恐くなかったのです。

第三の問いは、パウロが蝮にかまれたことを見てパウロを「人殺し」だと考えたマルタ島の人々の考え方を、わたしたちはどのように受けとめるべきだろうかということです。

はっきり言っておきます。彼らの考え方は、どれほど公平に見ても、パウロの信じていたキリスト教信仰と相容れるものではありえません。わたしたちは、彼らのような考え方についていくことはできません。誰かに災難が降りかかった。それは悪人に対する神の裁きであり、ばちが当たったのである。このように語ることは、わたしたちには許されていません。

この点は、どこまでも拡大していくことができるでしょう。戦争の被害に遭った。地震の被害に遭った。それは神の裁きである。そのように言いはじめますと、責任の所在がぼやけます。地震の場合でさえ、人災の可能性があるからです。そのように言うことは、「神の名をみだりに唱えること」に通じるでしょう。

しかし、です。ここで私は、第四の問いを発しておきます。それは先週申し上げたこととよく似たようなことです。それは、この場面でパウロが語っていない言葉があるということです。なぜパウロはその言葉を語っていないのだろうかという問いです。

パウロが語っていない言葉とは何でしょうか。すぐに気づいていただけると思います。マルタ島の人々がパウロのことを「人殺し」であると言い、その次に「この人は神様だ」と言いました。しかし、ここで驚くべきことは、そのときパウロが彼らに対して「わたしは人殺しではない」とか「わたしは神ではない」と反論していない(!)ということです。議論もしていません。微笑み(最低でも苦笑い)をもって受け流している感じです。

議論するのが面倒くさかったからでしょうか。もしかしたらそうなのかもしれません。しかしこれまでのパウロの言動と比較してみると、どこか違いを感じます。

もっと食ってかかってよさそうな場面です。噛みつくような調子でむきになって反論しそうな場面です。「わたしは人殺しではないが、神でもない。人間を神と呼んではならない。あなたがたの考え方は間違っている。今すぐその考えを捨てなさい」。もしこの場面でパウロがそのように語っていたとしても、わたしたちが驚くことはないでしょう。しかしパウロはここでは一切反論していません。

その理由は何でしょうか。そのことについては何も書かれていません。ただ、考えさせられることは、パウロも少し変わってきているようだということです。

アテネでの演説を思い起こしてくださる方もおられるでしょう。アテネの至るところに偶像があるのを見て憤慨したパウロは、誰が聞いてもアテネの人々を痛烈に批判しているように受けとれる言葉を語りました。皮肉な言い回しで、目の前にいる人々に噛みつき、こき下ろしました。おそらくそれがパウロの正義であり、語らずにはおれない言葉でした。その結果アテネの伝道は明らかに失敗に終わりました。「それでも構わない。言いたいことを言えたので私は満足である」と、パウロは考えていたのではないでしょうか。

しかし、そのパウロが、ここマルタ島では、「この人は神様である」と言われても黙っています。いい気持ちになっていたはずがありません。キリスト教信仰とは全く相容れない思想です。それでも反論していません。“新しいパウロ”とまで呼ぶのは言い過ぎかもしれませんが、ここに至って異教的な人々に対する接し方が変わってきたように見えるのです。

わたしたちの教訓にすべきことがあると感じます。何でもかんでも言い返すのではなく、少し黙ることも大切ではないでしょうか。そのように考えさせられます。

そして、実際のパウロが次にとった行動はとても興味深いものです。

「さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。」

マルタ島の長官プブリウスの父親が、病気で寝ていました。パウロは、その家に行って苦しんでいるその父親を助けました。そうしたところ、島の人々がパウロのもとに集まるようになり、深く敬意を表してくれるようになりました。そして船出のときには必要な物を持って来てくれるほどまで仲良くなったのです。

ここにはわたしたちの伝道を考えるうえで、とても重要なヒントがあるように思われてなりません。問わなければならないことは、町の人々を批判し、皮肉を言い、けんかして、どうして伝道ができるだろうかということです。

私自身は、アテネでのパウロの気持ちが全く分からないわけではありません。偶像など見るのも嫌なところがあります。しかし、パウロの時代において、彼が初めて行った町が“異教的”であるというのは考えてみると当たり前のことだったわけです。

わたしたち日本の教会の場合も、それと似たようなことが言えるでしょう。この町に一つしかない改革派教会にとって、この町の多くの人が改革派教会の存在を知らないのは当たり前のことなのです。

しかし、その場面でわたしたちが感情を表に出し、「この町は異教的である。改革派的ではない」などと言っては、むきになって立ち向かい、相手を怒らせ、もめごとの種を撒き散らしていくことが伝道なのでしょうか。そうすることが教会の使命であると言わなければならないのでしょうか。もう少し違ったやり方はないのでしょうか。

このマルタ島でのパウロのように、苦しんでいる人のために祈り、手を置いていやすというようなやり方は、どうでしょうか。それは、単純に人の役に立つことをすることです。困っている人を助けることです。相手に喜んでもらえること、楽しいことをすることです。

大切な点は、わたしたちがそれを“教会の外側”にいる人々に向かってすることです。わたしたち自身がどんな人にも親切にふるまい、信頼される人間になり、「あの人が通っている教会ならば、わたしもぜひ通いたい」と思ってもらえるようになることです。時間がかかるかもしれません。しかし、それこそが最も理にかなった伝道の方法なのです。

(2008年8月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

アンドリュー・マーレーのこと

アンドリュー・マーレーがユトレヒト大学神学部の卒業生であるとは知りませんでした。

たしかにユトレヒト大学は、ファン・ルーラーが教えた学校です。しかし、1828年生まれのアンドリュー・マーレーと1908年生まれのファン・ルーラーとの間には、80歳の差があるようです。

1837年生まれのアブラハム・カイパーよりもマーレーのほうが9歳年上。これで分かることは、カイパーが43歳の時に自ら開学した「アムステルダム自由大学」(1880年創設)は、マーレーの神学生時代には存在しなかったということです。

また、カイパーやヘルマン・バーフィンクらが初代メンバーとなった「(非国教会系)オランダ改革派教会(GKN)」も存在しませんでした。言い方を換えれば、マーレーの神学生時代に改革派系の主要な牧師養成機関としてオランダに存在したのは、いずれも国立大学であるライデン大学、ユトレヒト大学、フローニンゲン大学の各神学部だけだったということです(たとえばカイパーはライデン大学神学部の卒業生であり、「(国教会系)オランダ改革派教会」(NHK)の牧師になりました)。

この三校のなかで最も古いライデン大学は啓蒙主義やフランス革命などの影響をもろに受けてリベラル化の一途を辿っていたようで、それがカイパーの国教会離脱の最も根本的な動機にもなっていくわけですが、ユトレヒト大学は(他大学と比較すれば)いくらか伝統的な改革派神学を保っていたようです。

19世紀のユトレヒト大学神学部で教えていた教授がどのような人々であったかは、A. ド・フロート編『ユトレヒトの神学四世紀』(A. de Groot (ed.), Vier eeuwen theologie in Utrecht, Zoetermeer, 2001)を読めば分かります。この本を私は持っていますので、そのうち調べておきます。


2008年8月23日土曜日

教義学の扱うべき範囲とは

(キリスト教)教義学の扱うべき範囲は、際限がありそうで無い。無さそうで、ある。そういう厄介な面があります。扱っているテーマが宗教の教義なのですから、宗教の主題としての神のみわざの全範囲を(とにかく何らかの仕方で)包括しているものでなければ、「教義学」と呼べるものではありません。

しかし、神のみわざの全範囲とは何でしょうか。それは「(「神が創造された」としか語りようがない)この宇宙の、最初から最後まで」というべきものです。それを一冊の書物にまとめることができる人間はいない。通常は、こういう前提から出発してよいはずです。

それでも「教義学」は、今日なお書かれねばならないものです。その理由は書き出すと長くなるので、今はやめます。それは現代においてもなお不可避的に書かれねばならない書物であり、また、それを書くのはいずれにせよ誰か人間です。

「誰にも書くことができない書物は、しかし、誰かによって不可避的に書かれねばならない。」もしこれをディレンマと呼んでよいならば、教義学は常にこのディレンマの中にあったし、今もあり続けていると言ってよいでしょう。

宇宙の最初から最後までを一冊の本にする。そのようなことは実際にはおそらく全く不可能なことであるわけですが、それでも20世紀まではさまざまな悪あがきがなされてきました。たとえば、タイトルの「教義学」の後に「概論」と付けておくことによって、「これは全体の要約としての意義を持ちうるのだ」と言い張ってみせる方法がしばしば用いられました。

あるいはまた、「教義学として書かれはじめた過去の書物は、いずれも未完結に終わったのである」という歴史的事実を引き合いに出すことによって互いに慰め合う(あのような偉い人たちでも成し遂げることができなかったことなのだから、わたしたち凡人にできなくても当然なのだという言葉をもって)というようなことも実際になされてきました。

しかし、そういうやり方は、私に言わせていただくと、何となくみっともなくて、見苦しいものです。「本当は書くことができたし、書くべき内容は山ほどあるのだが、時間切れで書けなかっただけである」と言う。悔し紛れか言い逃れとして言っているようにしか聞こえません。

わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。教義学を断念することは簡単です。この種の書物はとっくの昔から「サブカル化」しているわけですから、「新しい教義学を生み出す」などと息巻いている者は一笑・一蹴されるだけでしょう。16世紀や20世紀といった神学の黄金時代の書物を再版ないし再翻訳して、今の不毛な時代をやり過ごすしかないのでしょうか。


2008年8月22日金曜日

夏季休暇が終わりました

先週の木曜日から今週の水曜日まで夏季休暇をいただいていました。その間、妻子と共に岡山市の実家に帰省(実態は「寄生」ですね)していました。今年12月末に閉園されることになった「倉敷チボリ公園」に行ったり(初めて行きました。けっこう楽しかったです。最初で最後になってしまいました)、私にとっては懐かしい「表町商店街」や「天満屋」などを家族でぶらついたりしました。天満屋前の喫茶店で食べたカキ氷(ミルク金時)のあまりの美味しさに衝撃を受け、翌日まで快感にひたっていました。読書も少しはしました。茂木健一郎氏の『思考の補助線』(ちくま新書、2008年)を見つけ、一夜で読みました。本書全体を通じての「知のデフレ」ないし「知のサブカル化」に対する茂木氏の懸念や、茂木氏のニーチェ解釈(216ページ以下)には賛同できるものがありました。皮肉でも批判でもなく、「本書は茂木氏の宗教哲学ないし神学の書である」と思いながら、微笑ましく読み終えました。ひまつぶしのために(セブンイレブンの雑誌棚から)毎月買っている『日経PC21』の2008年9月号の中に見つけた古田貴之氏(千葉工業大学未来ロボット技術研究センター所長)のインタヴュー記事にはあらゆる意味で感動しました。この人は尊敬すべき真の学者だと思い、さっそく中学二年の長男に読ませました。日曜日は、日本キリスト改革派神港教会の礼拝に出席しました。長女が10年前に幼児洗礼を授かった教会です。午後は神戸のハーバーランドでぶらついた後、六甲山を越えて神戸改革派神学校の様子を見に行き、そこで渡蘭直前の石原知弘先生ご夫妻と30分間だけお話しすることができました。月曜日には、以前からメールのやりとりをさせていただいていた日本聖約キリスト教団南輝教会の吉岡創牧師に初めてお目にかかり、一時間半熱く語り合いました。「休暇でリフレッシュできましたか」と問われると答えに窮するものがあります。ガソリンは満タンになっていません。千円分ずつチビチビ買ってはようやく乗り継いでいる感じです。しかし、どんどん成長していく子どもたちを横目に見ながら、「私の目標はまだまだ遠い。こうしちゃおれない。立ち上がらねば」と少なからず再奮起できた(ような気がした)このたびの夏季休暇でした。「自分に甘い」人間であることを深く反省させられました。