2008年8月21日木曜日

久々のデジタル音声公開

日本キリスト改革派松戸小金原教会の毎週の礼拝説教を公開してきました「今週の説教」ブログに、久しぶりにデジタル音声(MP3形式)を公開しました。2008年8月10日(日)の説教です。タイトルは「生きぬけ」(使徒言行録27・27~44)です。



今週の説教 ブログ
http://www.reformed.jp/



これまでと異なるのは、説教だけでなく、松戸小金原教会の主日礼拝(2008年8月10日)の全体の音声を公開した点です。利用しているブログ(ココログ)の機能が最近大幅に向上し、大容量のファイルをアップできるようになりましたので、このたび初めて礼拝全体の音声を公開することができました。関心をもっていただきたいのは、説教よりも、リタージ(礼拝式文)や賛美の歌声、オルガン演奏のほうです。奏楽者は佐々木冬彦さんです。おそらくは改革派教会以外の方々にとって目新しく感じていただける要素があるはずです。「ジュネーヴ詩編歌」や「ハイデルベルク信仰問答の交読」や「罪の告白と赦しの宣言」などがあります。「主の祈り」は献金の後です。わたしたちのリタージは、日本キリスト改革派教会に共通なものであるわけではありません。私の前任者、澤谷実牧師が熟考して作成なさったものをベースにして、若干の改定を試みてきました。私が言うと変かもしれませんが、非常に優れたリタージであり、私はとても満足しています。





日本のファン・ルーラー研究会がオランダで

昨年2007年9月26日ユトレヒト・ヤンス教会で行われた「ファン・ルーラー著作集出版記念祝賀会」の席上、ファン・ルーラーの二男ケース・ファン・ルーラー氏が日本の「ファン・ルーラー研究会」について紹介してくださったときのラジオ音声が、インターネット上に公開されています。



「出版記念祝賀会」のラジオ音声(ケース氏の音声は「12:00」あたりから始まります)
http://www.eo.nl/media/spelert.jsp?aflid=8948162



そして、つい最近のことですが、このケース・ファン・ルーラー氏の発言のテキスト(全文)が、『ファン・ルーラー著作集』を扱っている出版社(ブーケンセントルム社)のホームページで公開されました。それを以下、拙訳にてご紹介いたします。微妙な気持ちにさせられる部分もあります。「誤解」がとかれる日の到来を期待しています。



写真で見る「出版記念祝賀会」(ここでケース氏のテキストを入手できます)
http://www.aavanruler.nl/index.php?cId=236



■ 『ファン・ルーラー著作集』出版感謝祝賀会でのケース・ファン・ルーラー氏のことば(関口 康 訳)



何人かの方々のお話を伺いながら思い出されたことは、ハンス・ハッセラー氏のことです。二つの思い出があります。



第一は、私が最初に受けた予備試験がハッセラー氏によるものであったことです。3時に始まり、それはそれは長く続き、やがて暗くなり(10月か11月でした)私の記憶では7時半を過ぎていました。



第二は、スポーツのことです。父がサッカーを非常に愛したことについては、すでに他の方々が話してくださいました。しかし、それは真理の半面にすぎません。父が重んじたもう一つの球技は、ビリヤードでした。我が家にはビリヤード台がありました。多くの日曜日の午後、父とわたしたち家族と友人たちがビリヤードに熱中しました。さらにハッセラー氏や他の教授たちまで加わりました。彼らはビリヤードをするために来ているのではないかと思うほどでした。



紳士淑女の皆様、私はファン・ルーラーの子どもを代表して謹んでご挨拶申し上げます。私の名前はケースと申します。この美しいロマネスク様式の教会で、1960年代に学生運動が起こりました。父は当時、この教会に通っていました。私も父と共に毎週通っていました。ここで父の『著作集』の第一巻を紹介させていただける機会を与えられましたことを感謝しております。



ファン・ルーラーの子どもとして最初に応答することができますことは名誉なことです。次にお話しになるバース・プレシール氏は、私もよく覚えておりますが、学生でいらした頃、父の情報カード整理箱の中身を並べたり補充したりしておられました。情報カード整理箱は計画の開始と共にカンペンに運ばれました。ディルク・ファン・ケーレン氏が上手に使いこなしておられます。私個人はファン・ルーラー協会(Stichting Van Ruler)の会長という立場でこの計画に関与することになるかもしれないという特別な経験をさせていただいております。



出版準備会に参加させていただいた初めの頃は、専門家たちが何か非常に曇った表情で私の父について聞いたり話したりしておられることに、しばしば疎遠なものを感じておりました。それは時おり私に、昔の感覚を思い起こさせるものでした。当時私は(新米の神学者としての)父の講義が、父とは異なる立場の人々のところまで飛んで行って、彼らを高く評価するものである(私にとって父は「ふつうの」人でもありました)と感じていました。第一巻の準備の際に、わたしたちは定期的に講義のテキストを送りました。私が特別に魅了され、かつ記憶に残っているのは、1956年の『エルセフィアー』誌に父が書いた論文です。真理について論じたものであり、「真理はいまだ已まず」というタイトルがついています。



その論文の中で父は、真理をめぐる対話における共産主義者たちの貢献に全く魅了されていると告白しています。父は、真理とは物質的現実と等しいものであるという彼らの見方を、自分の命題である「真理はいまだ已まず」に取り入れたのです。内容的に全く魅了されたのであり、時代の中で際立っていたのです。その論文は第一巻の68ページ以下にありますので、すべてお読みいただくことができます。それは祭日の午後のことでした。しかし、私はここでいかなる仲たがいについても言及するつもりはありません。そのようなことを皆さんにお考えいただくことは、少しも楽しいことではありません。それは昔話であり、父が教授をしていた頃の話ではないでしょうか。今とは違います。



この種の仲たがいは世界中のどこにでもあると言っておきます。それは、どうやら日本にもあるようです。わたしたち家族は、何年か前に日本のプロテスタント神学者のグループと会いました。彼らは父の本を日本語に翻訳するための特別で敬意を表すべき計画をもっています。彼らは近いうちに著作集を刊行するための計画までもっています。ついでに申せば、二年前に彼の前任者がオランダに来たときに(私の息子のドゥーウェと姪のロサリーと共に)私も会っていたらしいのです。彼らのリクエストがありました。私はファン・ルーラーの生活や知る価値のある事柄についての彼らの無邪気な考えを重んじるつもりでした。彼らは私の父が飼っていた小犬のことにまで興味を示してくれました。そのレベルのことを私は考えていました。



皆さんが期待されるでありましょうことは、多くの礼儀作法と共に開始される日本式の会話がなされただろうということでしょう。それはまさに真実でした。わたしたちは(ホテルの寝室でした)まだ座ってもいませんでしたのに、炎のような口ぶりで最初に問いかけられたことは「ファン・ルーラーは自分の神学のなかで『存在』(het Zijn)という言葉をどのような意味で語ったのでしょうか。この件についてお聞かせいただけませんでしょうか」というものでした。



それ以外の点では、すべては順調に運びました。しかし、そのグループは『われ信ず』という父の本をファン・ルーラー家の承諾なしに日本語に訳した日本の他のグループと争っています。



それは日本のなかでの問題です。ここユトレヒトにおいては、大きな一致と感謝において、私の父の著作集の素晴らしい第一巻を見ています。本当にうれしく思っています。



ニコ・ドゥ・ヴァール社長のもとにあるブーケンセントルム出版社の皆さま、ファン・デン・ブリンク教授ならびに出版会の皆さま、そして編集者のディルク・ファン・ケーレン氏に心からの感謝を申し上げます。ありがとうございます。



2008年8月10日日曜日

生きぬけ


使徒言行録27・27~4

先週の個所に記されていましたのは、恐ろしい出来事でした。囚人としてローマ皇帝のもとに護送されることになった使徒パウロを乗せた船が、地中海の上で激しい暴風に遭い、漂流しはじめたというのです。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」(27・20)と書かれていました。

その船に乗っていた人の数は276人であったと、今日の個所の37節に記されています。これだけの数の人々が、暗闇の海の上でほとんど絶望してしまったのです。

しかし、そのような状況とその人々のなかで、パウロは、非常に毅然とした態度を貫きました。それは、ある意味で不思議なことでもあります。そもそもパウロは囚人でした。一人の囚人に過ぎない存在でした。その船のなかでパウロは、いかなる意味でも指導的な立場にはありませんでした。指導的な立場にあったのは、ローマの百人隊長であり、軍人たちであり、船長であり、船主でした。

もしその人々がその船に乗っている人々を励まし助けたというならば、よく分かる話になるわけです。しかし、彼らはおろおろするばかりでした。その中で一人、パウロが語りはじめました。護送中の囚人の一人にすぎなかったパウロが、とにかく一生懸命になってみんなを励まし、力づける言葉を語ったのです。そしておそらくはパウロの言葉が、絶望していた人々を勇気づけるものとなったのです。

「十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。」

27節以下に描かれていますのは、航海についての専門的な知識をもっていた船員たちが、どこかの陸地に近づいていることを察知したとき、船が暗礁に乗り上げて難破することを恐れ、自分たちだけがその船から逃げ出そうとした様子です。しかし、その怪しい動きにパウロが気づきました。そして、そのパウロが即座に取った行動は、百人隊長と兵士たちに船員たちの逃亡計画を知らせ、それを阻止してもらうことでした。

このパウロの行動の意味は、次のように説明できると思います。専門的な知識をもっている人が自分たちの命を守るために逃げ出し、彼ら以外の人々、つまり、専門的な知識をもっていない人々の命を犠牲にすることは重大な犯罪であるということです。そのことをパウロが「百人隊長と兵士たち」に知らせたことの意味は、その人々の軍事力、あるいは警察力に訴えることであるということです。

ここで皆さんにお考えいただきたい点は、わたしたちが何らかの専門的な知識をもつとは、まさにそのようなことであるということです。話は飛躍しているかもしれませんが、いわゆるインサイダー取引がなぜ犯罪なのかを考えていただくと、私が申し上げたいことをすぐご理解いただけるに違いありません。これから株価が上がることを事前に知りうる少数の専門的な知識をもった人々が、値上がりする直前に株を買い、値上がりした直後に売り抜けて一儲けする。これは重大な犯罪なのです。

他にも例を挙げて行くと、きりがありません。わたしたちが考えなければならないことは専門的な知識をもつとはどういうことなのかということです。そこにどのような責任が伴い、果たすべき役割が伴うのかです。もちろんわたしたちが専門的な知識をもつためには一生懸命に勉強する必要があるでしょう。つまりその問いは、わたしたちが一生懸命に勉強することの目的は何なのかという問いでもあるでしょう。

自分自身や家族や友人たちだけを助けるためだけでしょうか。そうではないでしょう。わたしたちは、多くの人々のために、公共の福祉のために、自分の専門的知識が用いられるようになるために一生懸命に勉強すべきなのです。そして多くの人々と共に力を合わせて危機的な状況を乗り越えていくために真剣に働くべきなのです。そうでなければわたしたちの勉強にも仕事にも意味がないでしょう。いかにもケチくさい、自分のことしか考えないような生き方は、明らかにまずいでしょう。

もちろんその中に自分自身や家族や親しい友人たちが含まれていることは許されてよいことでしょう。しかし、自分たちだけが逃げ延びて、他の多くの人々が犠牲になっていく様子を、まるで対岸の火事でも見るように、遠くから眺めているというのでは、何のための専門的知識なのか、何のための勉強なのかが真剣に問われなければならないでしょう。

先週も申し上げましたように、パウロには、航海に関する専門的な知識はなかったかもしれません。しかし、そのパウロが、彼の全力を尽くして危機的状況の中にあった人々を助けることができたのです。その意味をよく考える必要があるように思われます。

「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。』こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」

その船に乗っていた人々は、14日間、つまり二週間もの間、全く何も食べずに過ごしました。その中でパウロが語った言葉は「どうぞ何か食べてください」ということでした。先週の個所でパウロは、人々に「元気を出しなさい」と語り、また「わたしは神を信じています」と語りました(25節)。私が興味深く感じたことは、パウロがこの場面で口にしていない言葉がある、ということです。

それは「皆さん、どうか神を信じてください」という言葉です。また「皆さん、どうか祈ってください」という言葉です。このような場面ではそういう言葉を語るべきではないということを、私が言いたいわけではありません。事実としてパウロはそのような言葉を口にしていないということを申し上げているのです。そのようなことよりもむしろ、この場面でパウロが積極的に語った言葉は「元気を出しなさい」であり、「何か食べてください」という言葉であったという事実です。

「神を信じてください」「祈ってください」という言葉のほうを“宗教的な”言葉と呼ぶとしたら、「元気を出しなさい」「何か食べてください」という言葉はいわば“一般的な”言葉です。あるいは、前者を“精神的な”言葉と呼ぶならば、後者はいわば“肉体的な”言葉です。さらに言い換えれば、後者は“人間的な”言葉であると呼べるでしょう。

もちろんパウロは自分自身の告白として「わたしは神を信じています」と語っていますし、また彼自身の一つの態度決定として神に祈りをささげています。しかし問題は、そのパウロが自分以外の他の人々に対して何を語り、どのような態度をとったかです。今日の個所を見るかぎりパウロはきわめて積極的に“一般的”な言葉、あるいはきわめて“人間的な”言葉をもって人々を励ましました。この事実が、私にとっては大変興味深く感じられたのです。

この点は、わたしたち自身の姿と重ね合わせて見ることができるでしょう。より根本的な問いとしては、教会と牧師は“人間的な”言葉を語ってはならないだろうかということでもあるでしょう。わたしたちが苦しみの中にある人々を励ましたり慰めたりするために語るべき言葉は何なのかを考えるための、重要な材料になるでしょう。それこそ二週間も食事をとれない状態のなかで全く絶望しかかっている人々に向かって、ここぞとばかりに伝道しなければならないでしょうか。それが彼らを助けることになるでしょうか。

この場面でパウロが語っている言葉に対して私が感じることは人間的な温かさ、あるいはデリカシーです。

伝道者になりたての頃のパウロは、語る言葉の一つ一つがけんか腰のようでした。噛みつくような調子で語っていました。しかし、そのパウロも本当に苦しみ抜いてきたのではないでしょうか。人の苦しみや痛みがよく分かるようになってきたのではないでしょうか。人が生きるために、「生き延びるために」(34節)何が必要であるかを、人としての心の深い次元で知るようになってきたのではないでしょうか。ここにパウロの人格的成長を読み取ることができるように思います。

「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」というのは、もちろん真剣そのものの言葉であるに違いないのですが、どこかしらユーモラスな響きがあります。これと似た表現は、旧約聖書のサムエル記上14・45、サムエル記下14・11、列王記上1・52、また新約聖書のマタイによる福音書10・30、ルカによる福音書12・7に出てきます。

その個所を見ると分かることは、問題は髪の毛の本数ではないということです。「主なる神があなたの命をしっかりと守ってくださる」という点を強調して語る、励ましの言葉です。人を勇気づける言葉です。

「朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。」

船がついに陸地にたどり着きました。しかし、船員たちが予測したとおり、浅瀬にぶつかってしまい、船が壊れてしまいました。兵士たちが、囚人たちが逃げないように殺そうとしたのは、彼らに与えられた任務を全うしようとしたからではありません。囚人に逃げられてしまうと彼らの責任を追及され罰せられることを恐れての行為です。ここにも自分が助かることしか考えない、自己保身的な人々の姿が描かれています。

しかし、彼らの計画は、百人隊長が阻止しました。「パウロを助けたいと思った」とあります。パウロを大事に思う気持ちを、百人隊長が持ってくれたのです。そのおかげで誰も殺されずに済んだのです。全員が助かったのです。

どうか言わせてください。囚人にすぎない一人のパウロが、276人全員の生命を救ったのです。他の誰よりも強く立ち、全力を尽くして、与えられた知恵と力を用いて。

その際、“自分のことしか考えないわがままな人々との戦い”という点を無視することができません。自分自身を含む(これが重要です!)全員が生き延びるために、パウロは、その頭と心をフル稼働させて、最後まで戦い抜いたのです。

(2008年8月10日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年8月3日日曜日

わたしは神を信じています


使徒言行録27・1~26

使徒言行録の学びも、大詰めを迎えています。今日の個所から始まりますのは、言ってみるならば、パウロの第四回目の伝道旅行の様子です。ただし、第四回目という数え方が正しいかどうかは微妙です。

これより前に行われました三回の伝道旅行は、パウロ自身の祈りと計画に基づくものでした。しかし、今回は違います。今やパウロは囚人です。彼は囚人として、ローマ帝国の軍隊に引き連れられて、新しい旅行を始めることになったのです。

目的地は、イタリアの首都ローマでした。パウロがカイサリアで行われた裁判の結果を不服としてローマ皇帝に上訴したのを受けて、ローマに護送されることになったのです。それは、この(事実上の)第四回伝道旅行は、パウロの祈りと計画に基づくものではなかったことを意味しています。

とはいえ、今申し上げた事実にもかかわらず、これはパウロにとって事実上の第四回目の伝道旅行であったとみなすことができます。なぜなら、ローマに行くことそれ自体は、すでに十分な意味でパウロ自身の祈りと計画の中にあったことだからです。そのことは、ローマの信徒への手紙の中に記されています。「わたしは、祈るときにはいつもあなたがた〔ローマの教会の信徒たち〕のことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(ローマ1・9~10)。

ところが、パウロはその続きに「何回もそちら〔ローマ〕に行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」とも書いています。つまりパウロにとってローマは、何とかしてそこに行きたいと願いつつ、いろんな要素に妨げられて、なかなか行くことができなかった場所だったのです。

そのためわたしたちは、事情は何であれ、パウロの願いはかなったのだと信じてよいのではないでしょうか。生きておられる神御自身が全く不思議な仕方で、パウロをローマへと導いてくださった。そのように見ることができると思います。

「わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人のところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。」

船を用いて海をわたってパウロと何人かの囚人をローマへと護送する責任を負うたのは、ローマの百人隊長ユリウスでした。

このユリウスがパウロを「親切に」扱ったと言われていますが、「親切に」は「人道的に」または「人に優しい仕方で」と訳すこともできる言葉です。その意味として考えられるのは、パウロは確かに囚人でしたが、非人道的な仕方で拘束されておらず、かなり自由に行動できる状態にしてもらっていたということでしょう。当時のローマ人たちの寛大さや見識を垣間見ることができるエピソードと言えるでしょう。

「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた。かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。『皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。』しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。」

今日の個所から分かることは、パウロの時代の海の旅は決して順調なものではなかったということです。当時のローマ軍の船の大きさや性能がどれほどであったかは知りません。しかし、向かい風が吹けば進むことができず、陸や島を見ながら針路を決めたりしていることを見るかぎり、いかにも危なっかしい古代の原始的な船を想像すべきでしょう。

そして、もたもたしている間に冬が訪れました。すると、この時期の航海は危険であるとパウロは判断し、そのように人々に忠告したと記されています。ここで問題になることは、はたしてパウロに航海についての専門的な知識があったのかということです。書物や勉強によって得た知識くらいは持っていたと考えてよいかもしれません。また、これまで三回の伝道旅行の中には船に乗る場面もありましたので、そのたびに船長たちから教えられた知識があったのかもしれません。しかし、これとてあくまでも想像にすぎません。

むしろ事実に近いと思われることは、パウロの判断は、彼自身が「わたしの見るところでは」と言っている点を重く受けとめるとしたら、一種の直感あるいは霊感のようなものに基づくものであったということです。別の言い方をすれば、パウロはこの件に関しては素人(しろうと)であると見られても仕方がない人であったということです。

だからこそ、というべきでしょう、百人隊長はパウロの判断を受け入れず、船長や船主の判断のほうを信用しました。これはある意味で仕方がないことです。専門分野を越えて口を出すと、いろんな反発が返って来ます。「素人である」と批判されます。

ところが、です。パウロの判断が的中しました。彼らの船は、その時期に発生する暴風の直撃に遭い、太陽も星も見えない闇の中で、行く先も分からぬ状態になり、漂流することになったのです。

「この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。人々は長い間、食事をとっていなかった。」

私自身は、暴風のなか海の上を漂流するというようなことを経験したことはありません。強いて挙げるとしたら、一度だけ少し似ている状況に遭遇したのは、ギリシア発エジプト行きの飛行機に乗っているときでした。積乱雲に突入し、機体が激しく揺れたり、垂直に落ちたりして、私の目の前に座っていた客室乗務員の女性たちが乗客より大きな声で悲鳴を上げているのを見て、こちらが不安になってしまったことくらいです。

しかしまた、もう少し視野を広げて考えてみるとしたら、パウロが実際に遭遇した嵐の中のこの漂流体験は、わたしたちが人生のなかで何度となく味わう生活上の苦労の体験になぞらえることができるように思われます。

ここで二回繰り返されている印象的な表現は「流されるにまかせた」です。わたしたちも「流されるにまかせる」という体験をしたことがあるのではないでしょうか。

また彼らは「積み荷」(!)を捨て、ついには「船具」(?!)までも捨てました。こういう体験も、わたしたちは何度となく味わったことがあるのではないでしょうか。決して捨ててはならない大切なもの、それを捨てると先の人生を生きていくことさえも(精神的・肉体的に)困難になるほどのものまでも、仕方なく、涙を流しながら、捨てなければならない場面が、何度となくあるのではないでしょうか。

わたしたちの人生も、そして教会も同じです。教会も様々な困難、経済的な行き詰まりなどまで味わいます。あらゆることを切り詰めながら難しい局面を必死で乗り切っていかねばならないときがあります。

パウロが知っていたのは、おそらくその面なのです。彼には、船や海についての専門的な知識はなかったかもしれません。しかしパウロは、教会という船の船長を務めてきた人です。伝道の嵐と戦ってきた人です。海よりも恐ろしい反対者や迫害者に囲まれて、その中で死ぬほどの苦しみを味わってきた人です。

興味深いことは、そのパウロこそが、この嵐の中の恐ろしい漂流体験の中で、その面での専門家であったはずの船長よりも船主よりも、さらにローマ軍の兵隊たちよりも力強い言葉を語って、みんなを励ましたのだということです。パウロの強さは、明らかに、教会と伝道の戦いの中で身につけてきたものなのです。

「そのときパウロは彼らの中に立って言った。『皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。』」

パウロには一言多いところがありました。言わなくてもいいことを、つい言ってしまう。「わたしの言ったとおりにしていれば、このような目に遭うことはなかったのに」。

これは、苦しんでいる人をますます追い詰める言葉です。語られなければならない言葉かもしれませんが、これを聞く人の心は必ず傷つくでしょう。

パウロとしては、つい出てきた言葉だったかもしれません。しかし、それ以上は続けていません。実際に苦しんでいる人々を前にして、「その苦しみを招いたのは、あなたがたの責任である。そもそもあなたがたの最初の判断が間違っていたのである」というようなことをいくら言っても、彼らを助けることにならないことくらい、パウロにも分かっていたのです。

原因や責任の追究は、後回しでよい。今必要なことは、現実となったこの苦しい状況をみんなで乗り越えていくことである。そのことをパウロはよく分かっていたのです。

むしろこの場面でパウロが語ったことは「元気を出しなさい」でした。そして「わたしは神を信じています」という言葉でした。

「わたしは」にも「神を」にも「信じています」にも、それぞれ重い意味が込められていると感じる非常に味わい深い言葉です。もちろんその意味は、「神がこの絶望的な状況を切り開いてくださる。そのことをわたしは信じています」ということでしょう。

しかしパウロが「神を信じてください」とは言っていない点も重要です。この場面でパウロは、押しつけがましいことを少しも言っていないのです。

今、苦しみの中にいる方々へ。わたしたちもパウロと同じ言葉を送ります。

「わたしは神を信じています」。神がわたしたちを必ず助けてくださるでしょう。

(2008年8月3日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年7月27日日曜日

時が良くても悪くても


使徒言行録26・19~32

使徒パウロがユダヤの王アグリッパとローマ人総督フェストゥスの前で行った弁明が、もう少し残っています。パウロの言葉は、最後まで力強いものでした。

「『アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。』」

「私は天から示されたことに背かず」とあります。しかし「背かず」とたった三文字で訳されますと、さっと読み飛ばされてしまいそうです。語られている事柄の重大さを考えますと、「背かず」だけでは物足りません。もう少し丁寧に訳す必要があります。

よりよい訳の可能性としては「私は天から示されたことに従わざるをえませんでした」です。または「背くことができませんでした」です。イエス・キリストとの出会いの体験がパウロの人生を変えたのです。パウロが進もうとしていた道をキリストが遮ったのです。その先には一歩も進ませないと言わんばかりに立ちふさがったのです。キリストはパウロと同行者たちを“転倒”させたのです。

しかし、パウロがそのことを、これまた文字どおりの「“天から”示されたこと」として語っている点が重要であると私は思います。これは人によって違うことかもしれません。わたしたちは「私の人生を変えてくださったのは神である」と端的に語ることができるでしょうか。パウロが言っていることは、要するにそういうことなのです。彼の言っている「天」とは、神御自身を指しているのです。

わたしたちは、そういう場合におそらくいくらか躊躇があります。「何々さんが私を教会に誘ってくれたから今日の私がある」と言いたくなります。「たまたま目の前に教会があり、たまたま立ち寄ったのがこの教会だった」と言いたくなります。

そのようなわたしたち自身の言葉遣いが間違っているわけではありません。事実を事実として率直に述べているだけです。私が申し上げたいことは、パウロの語り方は、わたしたちの語り方とは明らかに違うものであるということだけです。

しかし、です。パウロの言葉には力強さがあります。果てしないまでの底力を感じます。彼の信仰の最終的な根拠は人間ではないということが語られているからです。神がパウロの人生を全く新しいものへと作り変えてくださったのです。パウロは「天から」、すなわち「神から」示されたことに服従したのです。

信仰の最終的な根拠が人ではないと語ることが、なぜ力強いのでしょうか。最も単純に言えば、人間は裏切ることがありうるからです。これは、人を信用して裏切られたことがある方々にはご理解いただける話でしょう。

パウロの場合も、そのことが関係していると思われます。間違いなく言いうることは、パウロが最初に神を信じたとき、彼を「神」へと導いたのは同胞であるユダヤ人であったということです。しかし、そのパウロが今やユダヤ人たちによって殺されようとしているのです。このわたしを神へと導いてくれたユダヤ人たちによって、わたしは殺されようとしている。もしパウロが信仰の最終的な根拠を人間に置いていたとしたら、自分はユダヤ人たちに裏切られたというような思いの中で、彼は全く絶望するしかなかったのです。

しかし、パウロは絶望しませんでした。信仰の最終的な根拠が人間ではなく、神御自身に置かれていたからです。人間につまずいても、パウロの信仰は揺るぎません。誰が何と言おうとも、パウロの信仰が失われることはありません。

これらの点について、わたしたちはどうでしょうか。わが身を振り返って、よく考えてみなければならないように思われてなりません。

「『ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。』」

しかし、です。パウロの信仰の根拠は、「突然輝いた天からの光」というおそらく時間にすればたった一瞬にすぎない、神秘的で不思議な出来事という、ただそれだけのものではなかったと言うべきです。根拠は今日の個所の中に、少なくともあと二つあります。

第一の根拠は「天からの光」です。しかし、第二の根拠は「聖書」です。「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません」と言っているとおりです。第三の根拠については後ほど述べます。

イエス・キリストへの信仰の根拠は聖書にある。そのことをパウロは確信していました。これも彼の信仰の強さを表しています。

聖書は、わたしたち人間のように、昨日言ったことと今日言っていることとが違っているというような、曖昧で変わりやすい言葉の持ち主ではありません。今日ここで語ったことを来週「あれは無かったことにしてください」と語ることは、ある意味での勇気や謙遜さが必要なことではあります。しかし書かれた文字、あるいは印刷された文字には、そのようなあやふやさはありません。聖書の言葉を根拠にする信仰は、そのようなあやふやさの余地を残さない、きわめて明確な確信に至るのです。

「パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。』パウロは言った。『フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。』」

パウロはまだ弁明を続けていました。しかし、フェストゥスは「大声」でパウロの言葉を遮りました。それ以上語らせないように妨害したのです。そして、「お前は頭がおかしい」という言葉でパウロを侮辱しました。

「学問のしすぎで」とあります。これでも間違いではないと思います。しかし、原典を見ると、フェストゥスの言葉の中に“マニア”の語源と思われるギリシア語が記されています。つまり、フェストゥスが言っていることは、「お前は特定の宗教にのめり込みすぎている」というようなことです。「宗教かぶれである」とか「宗教マニアである」というようなことです。

この点から分かることは、ローマ人フェストゥスにとっては、教養の一つとして宗教についてのある程度の知識をもつということくらいは許容できるとしても、何か特定の宗教にのめり込むとか、“ハマる”ことは、精神的なバランスが崩れている、偏った人間であることの何よりの証拠に見えたのだろうということです。フェストゥスの目に映るパウロはマニアのようなものだったのです。一種の熱狂主義、視野の狭さ、精神の不安定さなどを感じ取ったのです。

宗教というものがたしかにそのような人間を生み出すことがありうることについては、わたしたちも知らずにいるわけではありません。やや誤解を恐れながら申し上げますと、もしわたしたちの信仰が先ほど申し上げた二つの根拠、すなわち「天からの光」と「聖書」という根拠だけにとどまるものであるならば、パウロがその言葉で批判された“マニア”のようなものと大差ないと見られても仕方がないのではないでしょうか。

しかし、今日私が最も強調してお話ししたいと願っていることは、パウロはこの二つの根拠だけにとどまっていなかったということです。彼の信仰には第三の根拠がありました。それは「このことはどこかの片隅で起こったことではありません」という点です。

ここで「このこと」とはイエス・キリストに関するすべての出来事です。その出来事は、どこかの片隅で起こったことではなく、アグリッパさん御自身もよくご存じのことです。このパウロの言葉の意図は、イエス・キリストに関するすべての出来事は「歴史的な事実」として起こったものであるということです。つまりパウロの信仰の第三の根拠とは「事実」です。もう少し丁寧に言えば「歴史的事実」です。これは重要な要素なのです。

パウロの意図は、次のように説明できます。

もし私が宣べ伝えているキリスト教信仰が「天からの光」と「聖書」だけを根拠にしている宗教であるとするならば、わたしたちの姿はたしかに、宗教マニアのようなものに見えてしまうかもしれません。しかし、わたしたちの場合はそれだけではありません。わたしたちの宗教は「歴史的事実」を重んじるものです。

アグリッパさん、あなたもよく知っているあの出来事。誰もが目の前で見た現実の出来事。ひとりのナザレ人イエスが十字架の上にかけられて殺されたあの出来事、それがわたしたちのキリスト教信仰の根拠です。あの出来事だけは、いくらなんでも無かったことにすることはできないでしょう。

ですから、私の頭は少しもおかしくありません。私が歴史的事実に基づいて語っていることを「頭がおかしい」などと、もし本当に言われなければならないのだとしたら、その事実を事実として認めているすべての人の頭も「おかしい」と言われなければならないではありませんか。そんな馬鹿な話はないでしょう。

「アグリッパはパウロに言った。『短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。』パウロは言った。『短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。』そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。彼らは退場してから、『あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない』と話し合った。アグリッパ王はフェストゥスに、『あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに』と言った。」

パウロの弁明を聞いたアグリッパの心は、ほんの少しくらいは動いているような気がしますが、皆さんはどのようにお読みになりますでしょうか。短い時間で私をクリスチャンにする気かと、皮肉とも冗談ともとれる言葉を述べています。「おやおや、不覚にもあなたの言葉に説得されそうになったじゃないか」と冗談めかして言っているのかもしれません。そしてアグリッパは、パウロが上訴さえしていなければ彼は釈放されただろうと、同情のことばさえ口にしています。

もちろん、それ以上のことは言えません。たとえば、アグリッパはパウロの言葉に納得したとか、アグリッパにも信仰が芽生えたというようなことまで語るのは無理でしょう。それほど甘くはないと思います。しかし、です。アグリッパはパウロの言葉に相当な迫力と説得力を感じたであろうということくらいは言ってもよさそうです。

言い逃れとして申し上げるつもりはありませんが、伝道には時間がかかるのです。相手がほんの少しでも心を動かしてくれたなら、その日の働きとしては十分すぎるほどです。相手が誰であれ、時が良くても悪くても、わたしたちは語り続けなければならないのです。

(2008年7月27日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年7月26日土曜日

「今週の説教」と検索してみてください

それからこれも今日知ったことです。著名な検索サイトで「今週の説教」という語で検索すると、グーグルでは第1位、ヤフーでは第3位、MSNでは第1位で、私の説教のサイトを探し当ててくれるようです(順位は本日現在です。この種の順位は日々変動しているものであることは承知しております)。ちなみに、私がブログを始めたのは2006年5月からですが、累計アクセス数が最近やっと10万件を超えたことも知りました。これが多いのか少ないのかは私には判断がつきませんが、多くの方々のお助けとお支えあってのことと感謝しています(「累計アクセス」のカウント対象はreformed.jpかprotestant.jpというアドレスがついているサイトです。その中には「ファン・ルーラー研究会」「アジア・カルヴァン学会」なども含まれています)。



関根正雄氏とファン・ルーラー

本日ある方から興味深い情報をいただきました。関根正雄先生がファン・ルーラーに言及しておられる、というのです。「わたくしはこの頃、預言者をヴァン・リューラーの言葉『神律的相互関係』を借りて見うるように思っている。歴史における自由な神の行動に律せられ、厳密に神の言葉と霊の働きに自由に服従した人々として預言者を見たいのである。終末論的に預言者を受け取ることは新約聖書から旧約聖書を受け取ることでもある」(『関根正雄著作集 別巻 補遺』、教文館、2004年、170ページ)。とても感動しました。興奮で今夜眠れないかもしれません。



2008年7月20日日曜日

召命と派遣

使徒言行録26・12~18

今日の個所にもパウロとイエス・キリストとの神秘的な出会いの体験が記されています。この出来事について使徒言行録が取り上げているのは、これで三回目となります、ただし、単純に同じ内容が三回繰り返されているわけではありません。初回(9・1~19)においては、パウロがその出来事に遭遇した場面が描かれていました。二回目(22・6~21)には、パウロがユダヤ最高法院の人々の前で弁明を行っている場面で語った言葉として記されていました。

そして三回目となる今日の個所で彼が語っている相手は王です。ユダヤの王アグリッパです。これで分かることは、単純な繰り返しではないということです。語っている相手が違います。また内容も少しずつ違います。比較してみると、その違いが分かります。

しかし、です。全く同じではないとしても、同じようなことが三回も繰り返されていることの意味は何なのかと考えざるをえません。ごく単純に言えば、やはり、パウロの身に起こった(時間にすればおそらくほんの一瞬の)出来事が、その後の教会と世界の歴史にとって非常に重大な意味をもっていたのだということです。そのことを使徒言行録の著者がはっきりと認識していたのです。そのことが、同じ書物のなかに同じことが三回も繰り返して記されている理由であると言えるでしょう。

もちろんパウロも、小さな一人の人間にすぎません。しかし、その一人の人間パウロがイエス・キリストと出会い、回心と救いを体験することによって、その後の教会と世界に及ぼした影響は計り知れないほど大きなものであったと間違いなく言えるでしょう。一人の人間パウロが歴史を変えた。歴史を変えたパウロを変えたのは、イエス・キリストとの出会いの体験であった。つまり、パウロの存在と働きを通して歴史を変えたのは他ならぬイエス・キリスト御自身であった。そのように語ることができると思います。

もちろんパウロは、非常に特別な賜物と能力に恵まれた人でもありました。その意味でパウロは特別な人間でもありましたので、普通の人と単純に同列に並べることはできないかもしれません。しかし、その点は十分に考慮するとしても、今日の個所を読みながら、わたしたち自身が慰められたり励まされたりする点があってもよいと私は思います。

それは要するに、一人の人間がイエス・キリストによって救われることの意味は決して小さなことではないということです。わたしたちは、パウロほど影響力の大きな人間ではないかもしれません。しかし、わたしが救われたことには何の意味もないとか何の影響力もないということはありえないと考えてよいはずです。ここに教会が存在すること、教会にわたしたちが集まっていることには何の意味も影響力もないということはありえない。そのように信じてよいのです。

別の点から言い直せば、どんな偉大な働きをした人にも駆け出しの頃があったということです。パウロの場合、イエス・キリストに出会うまでの彼は、全く正反対の言葉を語り、また全く正反対の道を歩んでいました。しかし、彼は回心を体験し、人生そのものが一変しました。パウロの回心が、その後の教会と世界を変えた。それは歴史的な事実なのです。

何事もそうですが、一つの道を究めるためには多くの時間がかかります。心を定めて、忍耐強く時間をかけて一つの道を歩み続けることが大切です。それによって得られる収穫は決して小さなものではありません。とにかく地道な歩みを続けていくことが重要です。

「わたしは今日、生まれて初めて教会に来ました」。その日その時から始まる大きな動きがありうるのです。このわたし、わたしたち、この教会が踏み出す小さな一歩から始まる大きな歴史があるのです。そのことを信じようではありませんか。

「『こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽よりも明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。』」

パウロが見たのは「天からの光」でした。それは太陽よりも明るく輝く光でした。彼はその光を心で感じただけではなく体全体で感じました。彼は地面に倒れてしまったのです。

この件に関しては、このときパウロは精神的ショックを受けたのだという説明も十分に成り立つでしょうと、すでに申し上げてきました。すでに死んだと思っていた方、イエス・キリストが生きておられた。そして、生きておられるその方が自分に声をかけてこられた。その声をはっきりと聞いた。それは、精神的なショックを受けるに十分な出来事です。

しかも、その声が語っている内容は、その日その時までパウロがしてきたことに対する批判であり、非難でした。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。もちろん、そのようなことを、あなたはすべきでない、してはならない、という意味です。

「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という言葉は、これまでの二回には出てこない、今回初めて出てくるものです。「とげの付いた棒」とは、イエス・キリストのことです。また、パウロが迫害してきたキリスト者たちのことであり、キリスト者の集まりであるキリスト教会のことです。あなたがイエス・キリストと教会を迫害することは、自分自身を傷つけることになる。そのことはあなたにとって何の益にもならず、むしろ不利益になる。だから、そういうことは今すぐやめなさい。そのように言われているのです。

「『私が、「主よ、あなたはどなたですか」と申しますと、主は言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。」』」

ここで語られていますのは、イエス・キリストがパウロの前に現われてくださった目的ないし理由です。イエス・キリストがパウロの前に現われて声をかけてくださったことには、明確な目的ないし理由があったのです。

余計な言い方かもしれませんが、もしイエス・キリストが何の目的もなく死人の中から蘇ってくださり、パウロにも声をかけてくださったというだけであるならば、そのようなイエス・キリストは、せいぜい人を驚かせ、ショックを与え、恐怖におののかせるだけのお化けのようなものと変わりがありません。そして、もしイエス・キリストがそのような存在であるならば、キリスト教会はお化け屋敷のようなものと変わりがありません。

しかしそうではなく、イエス・キリストが死人の中から復活してくださり、パウロの前にも現われてくださったことには明確な目的もしくは理由があったのです。その目的とは、すなわち、あなたが今まさに見ていること、これから見ることを多くの人々の前で証言し、宣べ伝える者にするため、というものです。「あなたを奉仕者、また証人にするため」とは、あなたパウロをこのわたしイエス・キリストに仕える者とし、またわたしの復活の事実を証言する者にする、ということです。

イエス・キリストの復活が、もし、とくに目的もなく、ただ単に人を驚かせ、ショックを与え、恐怖におののかせるだけのものだったとしたら、それは「お化けが出た」というようなことと内容的に少しも変わりがありません。しかし、そういうこととそれとは全く次元が違うことです。イエス・キリストの復活には、はっきりとした目的があったのです。そしてその目的は、次のように説明することができます。

イエス・キリストは、聖書に基づいて神の言葉を語られました。愛と憐みをもって弱い人を助け、病気をいやしてくださいました。そのようなイエス・キリストの存在と働きが、彼を憎む人々の手によって中断されたのです。罪のないイエス・キリストが罪に定められ、十字架にかけられ、殺されました。

しかし、そのイエス・キリストが死人の中から復活され、弟子たちの前に現われてくださり、パウロの前にも現われてくださいました。その意味は、イエス・キリスト御自身が、その存在と働きを地上において受け継ぐ人々をお選びになったということです。

その人々は、永遠に生きておられる救い主イエス・キリストとともに、聖書に基づいて神の言葉を語り、愛と憐みをもって弱い人を助け、病気をいやす働きへと具体的に召され、選ばれたのです。

別の言い方をするならば、死人の中から復活されたイエス・キリストに出会った人々は、びっくりした、ショックを受けた、怖かったというようなことだけでは済まされないのだということです。それだけならば、何度も言うようですがただのお化け屋敷です。イエス・キリストの復活を信じる者たちはイエス・キリストの存在と働きを受け継がなくてはなりません。イエス・キリストがそうなさったように、神の言葉を宣べ伝え、人を助ける働きに就かねばならないのです。

「『わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」』」

復活なさったイエス・キリストは、パウロを「この民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」とおっしゃいました。ここで考えてみなければならないのは「救いとは何か」という問題です。

イエス・キリストがパウロに対しておっしゃらなかったことは、次のことです。「わたしは、あなたを罪と悪に満ちたこの世の人々の中から救い出しました。だから、あなたは、もう二度と彼らのもとに戻ってはなりません」ということです。そのようなことをイエスさまはおっしゃっていません。正反対です!

イエスさまがおっしゃっていることは、「彼らのもとに遣わす」ということです。つまり、あなたパウロは、あなたが元いた場所に戻って行きなさいということです。「彼らのど真ん中に入って行け」ということです。「この世の人々から逃げるな」ということです。そしてもちろん「その人々に神の御言葉を宣べ伝えなさい」ということです。

イエス・キリストはパウロに、次のことを約束してくださっています。

あなたの働きによって、彼らの目が開かれます!

闇から光へ、悪の支配のもとから神の支配のもとへ、人々が移し替えられます!

彼らには、真の信仰が与えられます!

彼らの罪が赦されます!

彼らは、すでに救われている人々と共に、神の恵みを分け合う者となります!

そのようにして多くの人々を救いに導くわざを、あなたパウロ自身が担う者となるようにと、パウロに対してイエス・キリストがお命じになったのです。

このことはわたしたち教会の者たちに全く当てはまることです。神の恵みをいただいた者たちは、その恵みを多くの人々と分かち合うことが求められるのです。イエス・キリストに選ばれ、召され、救われた者たちは、この世の中へと戻っていかなくてはならないのです。

(2008年7月20日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年7月17日木曜日

焼香の問題

正統的なキリスト教会、つまり異端ではない教会においては、すべて「唯一の神」を信じていますが、その神は「三位一体の神」です。天地万物の創造者なる神と、十字架にかかって死んでくださった神の御子なる救い主イエス・キリストとわたしたち人間のうちに宿ってくださる聖霊なる神とが「同じおひとりの神」であると信じているのです。これだけでややこしくなってしまうかもしれませんが、大切なことは、キリスト教信仰において神は「広くて豊かな方」であるということです。ユダヤ教もイスラム教も「唯一神」ですが、彼らは「三位一体の神」を決して信じませんので、我々とは一致できません。彼らと我々の違いは「広さ・豊かさ」の違いではないかと思います。Ⅰコリント9・19~23のような言い方のなかでパウロが具体的に何をしたかについては、はっきり分かることと分からないことがあります。テモテの割礼(使徒言行録16・3)は、はっきり分かることの一つでしょう。「真の信仰」と「偶像礼拝」との線引きは、とても難しい問題です。私は中学・高校の頃に柔道を少しかじりましたが、試合開始時に神棚に一礼させられるのがどうしても嫌で、続ける気を失いました。夏になると、学校のプール開きのたびに神主がお払いに来ることに腹を立てていました。知人や親戚の葬儀(すべて仏式)に出席すること自体が嫌でした。焼香しない人間に対する白眼視はこちらまではっきり伝わって来るものでした。私は「自分はそれでよい。誰から何と思われようが構わない」と思ってきました。しかし、「神棚に頭を下げりゃいいんだろ」と何の疑問ももたずに柔道を続けている人。「学校行事だから」とプール開きのお払いの儀式に参加している人。あるいは仏式や神式の葬儀の喪主を引き受けざるをえなくなった(家族会議で押し切られた)キリスト者。個人としてではなく、会社や団体の代表者として葬儀に出席している人が、会社や団体を代表して(自分自身の信仰を犠牲にして)焼香を行うこと。このような人々を「偶像礼拝者」と呼ぶのは少し厳しすぎるだろうと考えています。

わたしたちは独りで生きているのではありません。社会の中で生きているかぎり、自分の信仰を純粋に貫き通すことができない場面に何度も遭遇します。もし宗教的な純粋さをどこまでも追求しなければならないというならば、キリスト者同士の交際以外のすべての人間関係を、教会は禁止すべきです。そのようなことは現実には不可能ですし、端的に言ってそのような禁止自体が間違っています。宗教は個人の心の中だけの「神に対する節操、貞操」の問題だけで済むものではありません。キリスト者たちは、社会の中で現実に大きな責任を負っています。自分の置かれている立場の責任が重ければ重いほど、自分の信仰告白をあらゆる面で押し通すことが難しくなっていくでしょう。私が大学時代通っていた教会の日曜学校校長は昭和天皇の友人でした。とても物静かな方なのですが、時々ぼそっと「こないだちょっと陛下とお茶飲んできましてね」という話をしてくださるのが楽しみでした。Xデーなどとも言われた昭和天皇崩御の日の次の週の礼拝では、その方は黒ネクタイで日曜学校礼拝と主日礼拝の司式をなさいました。立派な姿だと私は思いました。キリスト教の神理解は「広くて豊かな方」(三位一体の神)です。「あれもだめ・これもだめ」という戒律主義の反対です。タブーのようなものをできるだけ取り払っていくことがわたしたちには許されています。たとえば、もし「焼香」の問題で洗礼を受けることを躊躇しておられる人がいるとしたら、私でしたら、「焼香を続けてくださって構いませんから、洗礼を受けてください」と申します。ある方は受洗された後、わたしや教会の人々が何も言わないのに、「もうこんなの要らないだろ」と先祖代々の仏壇を御自分の判断で処分されました。信仰生活には、洗礼を受けてみなければ分からないことがたくさんあるのです。しかし、私がこれまで牧師をしてきた地方教会の会員の中には、家族や親戚の手前、仏壇や神棚を飾ったままの人もいます。それは仕方がないことです。ともかく私は、洗礼を受ける前にクリアすべきいろんな条件を積み上げていくことには反対なのです。救い主は「ありのまま」のその人を受け入れてくださいます。

この点の私の考えに異論があるのは当然です。しかし、私がうんと考えこんでしまうのは、「礼拝とは何か」という問題です。たとえば、キリスト教主義学校(とくに中・高)の生徒たちのうち未受洗者である子どもたちが毎日学校で行われる「チャペルの礼拝に出席すること」、また夏休みの宿題で「教会の礼拝に出席すること」は、彼らの「礼拝行為」なのでしょうか。そこで聖書を開かせられること、賛美歌を歌わせられること、説教を聞かされること、祈りの言葉を唱えさせられること。それが彼らの「礼拝行為」でしょうか。「礼拝」には、その人の心と信仰が伴う必要はないのでしょうか。会社の上司や同僚、家族や親戚の葬式に(相当な強制力をもって)出席させられることについては、どうでしょうか。我々(キリスト教会)の論理から言えば、葬式そのものが「礼拝」に該当するのではないでしょうか。仏式葬儀の中の「焼香」の部分だけが死者礼拝でしょうか。我々のキリスト教礼拝の場合、この中のどの部分は「三位一体の神を礼拝する部分」であるが、そうでない部分もあるというふうに分けることはできません。仏教や神道の場合は、我々とは違うのでしょうか。仏教や神道の場合には、彼らの礼拝を各要素ごとに分けて、この部分は「死者崇拝」であるが、他の部分はそうではないと見てよいのでしょうか。そのような都合のよい分別は不可能ではないかと私は考えています。私自身は、たとえそれが仲良くしていただいた親戚の葬式であろうと、中学生時代の恩師の葬式であろうと、「仏式葬儀に出席すること」それ自体が嫌であり、不愉快でした。何を隠そう、「死者礼拝としての異教的葬式」に出席することそれ自体が十戒の第一戒・第二戒に全く抵触する行為であると、私は信じてきたのです。この確信は今でも変わっていません。しかし、です。「会社の上司や同僚、家族や親戚の(異教的)葬式」それ自体に「私は出席しません」という態度を強固に貫くことができるのは、たぶん牧師たち(しかも一部の牧師たち)だけです。それは「牧師の論理」です(私も一応「牧師」のはしくれです)。「え、葬式だよ?!いくらなんでも葬式の欠席はありえないだろう。そんなことをしたら今後どうなっちまうか分かりゃしない」という(教会員からの)猛烈な反発に対するある種の“妥協策”が、日本のキリスト者たちの「焼香拒否」ではないのでしょうか。この点の日本教会史的検証が必要ではないでしょうか。

以上のように申し上げる私の意図は、両論並べ立てようとすることではなく、そもそも我々自身の「焼香拒否」自体が“妥協の産物”ではないだろうかということです。私にはファン・ルーラーのように「キリスト教は啓示と異教の混合物(アマルガム)である」とまで語る勇気はありません。しかし、「妥協」(compromise)ということが真剣に考えられるべきではないかと思っています。「転向」は少なくとも私にとっては万死に値することですが、「妥協」は日々可及的速やかに行われるべきことです。私自身の確信と自明性のもとにあり続けた「死者礼拝の中心部分としての焼香拒否」は、しかし果して本当に自明なことなのだろうかと問いなおしてみる必要があると思うのです。「焼香」は、本当に死者礼拝なのでしょうか。それを死者礼拝であるとみなすなら(そうであると私は教えられてきましたが)、異教的葬式への出席それ自体を拒否すべきではないでしょうか。「仏式葬儀そのもの」と「焼香」をきれいに(「リサイクルできるもの」と「できないもの」というふうに)分別することができるでしょうか。もし分けることができるなら、「焼香のみの拒否」に意味はあるでしょう。しかし、分けることができないとしたら、「焼香のみの拒否」など全く無意味ではないでしょうか。我々に残されている道は、死者礼拝としての異教的葬式それ自体への出席を拒否するか、そうでなければ「妥協」することではないのでしょうか。これが私の問いの真意です。ある一定の自明性のもとに生きているかぎり、すべては安泰です。しかし、現実の我々は、日々新しい問いを持ち込まれ、日常生活は常に脅かされ続けているのではないでしょうか。

私はファン・ルーラーの「啓示と異教のアマルガム(混合物)としてのキリスト教」という命題に接するたびに、それによって「キリスト教自身の厳密な自己批判」へと向かうべきであるという確信を深めています。しかし、それをどのように表現してよいかについては日々迷っています。どんなふうに書いても言葉が足りず、誤解を受けてしまうことを覚悟せねばなりません。私が申し上げたいことは、仏式の葬儀における「焼香」は、その葬儀全体から切り離すことはできないのではないかということです。もしわたしたちキリスト者が「あの焼香だけを拒否しさえすれば、死者礼拝の罪から免れることができる」と考えているとしたら、非常に悪質な自己欺瞞ではないかということです。わたしたちが「死者礼拝」を完全に拒否するために必要な態度は、仏式葬儀そのものへの出席拒否ではないでしょうか。私自身は、ほとんどそうしたい気持ちで一杯です。意味不明な念仏など聞きたくもありません。しかし、たとえ牧師であっても、たとえば「教会員の家族の葬儀に出席しない」ということがありうるでしょうか。ある人々にとってはありうるのかもしれませんが、私には不可能です。それで、「やむをえず」出席する(「やむをえず」が「喪」にふさわしい心性かどうかという問いは残ります)。しかし「焼香」はしません。そのことによって、とりあえず「私はここに仕方なく来てしまいました。しかし、あの忌まわしい焼香はしていませんので、私は死者礼拝をしていません」と自分で自分を慰める。これは、わたしたちキリスト者の自己欺瞞ではないでしょうか。実際のわたしたちは、そこに出席している時点で、念仏を聞いている時点で、たちこめる香を嗅いでいる時点で、「死者礼拝」に十分な意味で“参加”しているのではないでしょうか。日本のキリスト者たちは、「仏式葬儀の全体」と「焼香」とを都合よく切り離したうえで、後者だけを否定することによって、悪質な自己欺瞞の論理を築いてきた。そのことを率直に認める必要があるのではないでしょうか。

私がファン・ルーラーを読みながら考えさせられることは「焼香だけが問題ではない」ということです。「日本のキリスト教会は、仏教思想そのもののグノーシス主義(地上の生の否定的評価)を一歩すら踏み越えることができていない」ということです。牧師たちが(しばしば涙ながらに)語る「故人は輝かしい天国へと旅立った!」「悪と罪に満ちた地上の世界から解放された!」という葬儀説教のグノーシス主義のほうは不問にしておいて、「焼香」という一点だけを強調して教会員を悩ませてきたキリスト教会の自己欺瞞性のほうが、よほど深刻です。なお、私が用いる場合の「妥協」という言葉は、常に、ファン・ルーラーやパネンベルクが愛したエルンスト・トレルチの概念です。旧日本基督教会の人々がトレルチをどれくらい読んでいたかは知りませんが、彼らが行ったと言われる“妥協”とトレルチの「妥協」とでは、意味が違います。トレルチ、ファン・ルーラー、パネンベルクらが言う意味は、地上の生はすべて「断片的なるもの」であり、かつ「トルソ」であるゆえに、「妥協」を恐れるべきではないということです。「宗教混淆」を言いたいわけでは決してありません。私が毎日悩んでいることは、日本の教会は日本社会から逃げているのではないかということです。日本社会から逃避している教会が、日本社会に伝道できるのでしょうか。「日本から逃げるな!関口よ、お前は日本に伝道しているんだろう?」と毎日、自分自身に言い聞かせています。また、最近では「焼香」を行わない日本の仏式葬儀も始まっているようです(現に最近、私の家族がそのような仏式葬儀に出席しました)。「世俗化」の流れの中で、日本の仏教界も存続の危機にあるのかもしれません。我々キリスト者が仏式葬儀の中の「焼香」の要素だけを切り離して拒否してきたことの意味(その無意味さ)が問われるときが必ず来るでしょう。それは、我々キリスト教会にとって、より深刻な時代となるでしょう。

「昭和天皇の友人」であった日曜学校校長のことをご紹介しました。詳しく書くと、その方がどなたであるかが分かってしまう方がおられるかもしれませんが、東京大学名誉教授の天文学博士で、当時の日本学士院の会長でした。昭和天皇にいろんなことを直言できる関係にありました。その方の話を聞くたびに、「国を本当に変えたいならば国の中枢に入り込む必要があるのでは」と思わされました。日本のキリスト教界が教団や大会の議長名の「抗議声明」などをいくら出しても国の中枢にいる人々にとっては痛くも痒くもないのです。「だからそういうものを出しても意味がない」と言っているのではなく(そんなことをこの私が言うはずがありません!)、両面計画が必要ではないかと思っているのです。ファン・ルーラーがオランダのバルト主義者の「キリスト教政党否定論」に反対してキリスト教政党擁護論(セオクラシー政治)にこだわった理由も、そのあたりにありました。国の中枢に入り込まなければ国を変えることができない。国会の外でいくら大声を張り上げても、法の一つすら決めることも変えることもできないのです。私の申し上げたいことは「信仰ゆえに起こる摩擦を避けるべきである」ということではありません。全く正反対です!「国を本当に変えていくために、国づくりに参加するために“蛇のように賢くあれ”」ということです。この“賢さ”をもたないかぎり、この国が変わる日を望むことはできないでしょうということです。その日曜学校校長は、まだ20歳くらいだった私が当時かぶれていたボンヘッファーに非常に興味を示してくださり、「関口先生、ボンヘッファーまた教えてくださいね」とおっしゃいました。とても慎重で思慮深い方でした。「そのような人がなぜ、礼拝で黒ネクタイなのか」と問われると答えに窮しますが。

繰り返し申せば、私自身は、生まれ育った教会で「焼香してはならない」と禁じられましたので、今日に至るまで「焼香」をしたことがありません。自分はしたことがないので、だれかに「焼香をすすめている」わけではないのです。私が申し上げたいことは、「焼香をしているキリスト者を私は裁くことができない」という点と「諸般の事情から焼香をやめることができないことが洗礼を受けることができない理由にはならないと思う」という点です。言いたいことは、それだけなのです。キリスト者“のくせに”「焼香」を行った。その途端に「彼/彼女は、ついに真の信仰を捨てた。霊的な堕落者である。ふたりの主に兼ね仕えている姦淫人間である」と見くだされる。これはいくらなんでもあんまりな言い方ではないかということです。「それほどのことか」と言いたい。そこまで言われるならば、「焼香」だけではなく「仏教葬儀」そのものが死者礼拝ではないのかと考えざるをえません。「焼香」だけを仏式葬儀の全体から都合よく区別して、そこだけ拒否して自己満足にひたっているほうが、よほどペテンであり、自己欺瞞ではないかと、真剣に告発せざるをえません。私が幼少期に過ごした教会においては「禁酒禁煙」などはもちろんのこと、「テレビ禁止」、「ギャグ漫画禁止」、さらに「電子レンジ禁止」(?)などを教え込まれました。意味が分かりません。そのような教会で、私は0才から18才まで過ごしたのです。明らかに少し歪んでいると自覚している私の性格は、そうした(宗教的)成育歴と関係あるだろうと思います。実際にはすべての点で逆らいました。しかし「焼香禁止」は、私にとってのいわば最後の束縛です。「これは一体何なのか」と自分でも正体をつかみきれないものに縛りあげられている感覚があります。「偶像礼拝だ!」「バアルに膝をかがめることだ!」という種類の言葉で一喝されると、いまだに身がすくみます。「日本プロテスタント宣教150周年」を馬鹿騒ぎするのも結構です。どうぞご自由に! しかし、昭和40年生まれの者としては(あえて「昭和」と言います。第二次大戦終結後20年経て生まれた者であることを表現したいだけです)、「日本プロテスタント宣教150周年が生み出した“負の遺産”の総検証プロジェクト」を企画することのほうがよほど有意義ではないかと考えます。我々の世代のキリスト者が「教会で受けたトラウマ」をどれほど多く背負っているかということを、いつかどこかでぶちまけたい気分です。そこを通り抜けなければ、日本のプロテスタンティズムが今後健全な成長を遂げることは不可能ではないかと思っています。「教会に若い人が集まらない」と嘆いてみせる前に、教会の側に自問すべきことがあるような気がしてならないのです。「教会よ、お前自身が人々を傷つけてきたのではないか。他ならぬお前自身が、人々を手際よく追い払ってきたのではないか。小さな問題を大きく騒ぎ立て、大きな問題を軽視してきたのではないか」と。

「焼香を行っているキリスト者」の問題について、私自身は、事柄の性質からいえば、ローマの信徒への手紙14章~15章の「信仰の強い人は信仰の弱い人を担うべきである」という問題に限りなく近いだろうと見ています(ピタリとは一致しませんが)。そのため私は、このことについて我々が何らかの明確な判断をくだすことができる具体的な指針を用意するためにどうしても経ざるをえない“教会における議論”そのものが「信仰の弱い人」を躓かせてしまうことを最も恐れます。傷つく人は、“真理”に傷つくのではなく、“議論”(のプロセス)に傷つくのです。そのような人を私なりにたくさん見てきました。私の考えが間違っているのかもしれませんが、我々に本当に必要なのは、教会会議が決定した何らかの具体的な指針ではなく、「信仰の強い人による、信仰の弱い人に対する“配慮”ないし“遠慮”」ではないかと思うのです。パウロ的に言えば「世の中に偶像の神などはない」のであり、「唯一の神以外にいかなる神もいない」のです(コリントの信徒への手紙一8・4)。私の感覚はこれに最も近いものです。そもそも「偶像の神」など“存在しない”のです。ですから、「焼香」についても言えそうなことは、そもそも“存在しない”「偶像の神」の前で(存在しない何ものかの「前」とはどこなのかという謎が残ります)、“たかがひとつまみの抹香粉”を指先につまんで片方の皿からもう一方の皿へと移したからといって、それで何かが始まるわけでも、何かが終わるわけでもないのです(この感覚はまるで自分が無神論的唯物論者でもあるかのようです!私は“敬虔な”キリスト者のつもりですが)。また、先には逆説的なことを申し上げましたが、私自身の感覚としても、仏式葬儀に参列すること自体や、お寺であれ神社であれキリスト教的なるものとは異なる宗教施設そのものの中に立ち入ること自体は、別にどうというほどのことではないのです。それは単なる集会にすぎず、単なる建築物にすぎません。集会の存在そのもの、建築物の存在そのものがただちに罪であるわけではありません。その集会に参加したから、その建築物に立ち入ったから、それがただちに罪であるわけではありません。しかし、こういうのは「信仰の強い人」の言い分なのだと、私なりに自覚しています。「信仰の弱い人」の場合は、そうは行かないでしょう。また、たとえば「数珠を手にかける」というようなことは私も嫌です。仏教に反対したいだけではなく、カトリック教会が勧めるロザリオにも反対です。ただし、反対の理由は「あのようなやり方は偶像礼拝だから」ということではなく、「私の学んできた生活習慣とは異なるから」ということです。宗教の違いではなく文化の違い、カルチャーの違いです。異なるカルチャーを強制的に押しつけられることが、不愉快なのです。

焼香を私が行わない理由もこれと同じです。「したくもないことをやらされる」という強制が、ありえないほど嫌なのです。ここについて行けないものを感じるのです。しかし、「そこにはいくらか私のわがままが含まれているかもしれない」と問い返してみたのが、先に申し上げたことの裏側にある一つの思いです。「したくもないことをやらされて」生きている人は世界中にたくさんいます。「仕事」とは、いわばそのようなものです。「やりたいことだけをやれる」人は幸せかもしれません。私自身は焼香もしませんし、数珠を手にかけることもしません。遺族に向かっては一礼しますが、遺体に向かっても・遺影に向かっても頭一つ下げたことがありません(いまだかつて)。しかしそれは、ある意味で「牧師だから許されること」であって(実は何ら「許されて」いないかもしれないわけですが)、「そうも行かない」人たちはたくさんいるだろうと考えてみたまでです。繰り返し申せば、このようなことを大っぴらに議論すると、“議論”(のプロセス)そのものに傷つく人々が必ず生まれます。そういうことを私があえて申し上げる意図は、「新しい議論を巻き起こしたい」というようなことでは決してなく、「牧師たちの側にも自己吟味が必要ではないか」と言いたいだけです。私は「信仰の強い人」は「信仰の弱い人」を裁いてはならないということを、本当に心から信じています。「信仰の弱い人」を裁かなければならないくらいなら、この仕事を辞めなければならない。そういう思いです。ひょっとしたら私はこの仕事に向いていないのかもしれません。しかし、「この種のことは、信仰のはかりに従って各自の自由裁量によって対処せよ」と言いたいわけでもなく、「この問題は教会会議というような“公の場”において徹底的に討論されるべきものではなく、牧師と教会員との“一対一”の場で心静かに語り合われるべきものである」ということです。先に書いたことをじっくりお読みいただけば、私の意図自体は(たとえ賛成や納得はしていただけなくても)正しく伝わるだろうと信じています。


2008年7月16日水曜日

基本的立場と主張

1) 説教と日曜日の礼拝を重んじる。日曜日の礼拝はキリスト者と教会の生命であると信じている。礼拝説教の基本的なスタイルは、聖書各巻の内容を少しずつ解き明かしていく「連続講解説教」である。ただし、説教の内容が聖書の歴史的・文法的研究の披瀝や神学用語解説のようなことに終わるのではなく、礼拝出席者の日常生活にとって慰めや励ましになる「普通の言葉」であることを目指している。同僚牧師や神学生の説教に対しても、「もっと普通の言葉で語れないものか」と、(自分のことを棚にあげて)不満を感じていることが多い。

2) 聖礼典(洗礼・聖餐)は重んじるが、形式はできるだけ簡素であるほうがよいと信じている。教会とは「地上における神のみわざ」であり、かつ洗礼における誓約に基づく信仰者の共同体であると信じているので、洗礼を受けていない人や信仰を告白していない人に対する無差別配餐のようなことは行わない。また病床聖餐や訪問聖餐も原則として行わない。家庭や病床への訪問において大切な要素は、ミステリーではなくデリカシーである。病者や弱者、また臨終の床にある人に接するあり方は重厚な(そして多分に押し付けがましい)儀式性を介してよりも、普段着のそっとしたふれあいや「普通の言葉」による慰めのほうがふさわしいことは火を見るより明らかである。また、聖餐の品々(パンとぶどう酒)は個別に受け渡されるべきではないと、改革派教会の伝統(特にウェストミンスター信仰告白第29章の伝統的な解釈)に基づいて信じている。

3) 礼拝や儀式の場でガウンや祭服等は着用していない。そういうものは私には似合わないと思っている。ただし、牧師のガウン着用は(神学的に)間違っていると言いたいわけではない。自分用のガウンを持っていないだけのことである。先日行った結婚式の際に先輩牧師からガウンを借りて着用したところ、「式の雰囲気がしまって見えた」とか「大勢いる中で誰が牧師かが一目で分かって良かった」などわりと好評だった。礼服がかなり古くなってきたのと、ダイエット(下記参照)の効果でブカブカになったため、ガウンをボロ隠しにしようと思っただけなのであるが。

4) 聖書解釈の際には使徒信条をはじめとする基本信条および古代教父の神学、16世紀の宗教改革者とくにスイスの宗教改革者ジャン・カルヴァン[1509-1564]の諸教説、またハイデルベルク信仰問答やウェストミンスター信仰規準などに告白されているプロテスタント教会の伝統教説(とりわけ歴史的改革派神学におけるそれ)を重んじる。同時に、宗教改革時代(16~17世紀)の教説には時代的制約や未解決点が多数あることを認める。世界の神学と教会における「さらなる宗教改革」の必要性を感じている。

5) 現代の組織神学者の中で最も信頼するのは、オランダの改革派神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー[1908-1970]である。現代の「歴史的・批評的な」聖書学の諸成果についても、できるだけ傾聴したいと願っている。行動と実践の面で尊敬しているのは、ディートリッヒ・ボンヘッファー[1906-1945]とマザー・テレサ[1910-1997]とマルティン・ルーサー・キング・ジュニア[1929-1968]である。

6) 礼拝の中でうたう讃美歌は、プロテスタント教会の伝統の中で育まれてきた古典的なものを重んじる。16世紀のジュネーブ詩編歌を日曜日の礼拝に取り入れている。礼拝以外の場所では、いろんなジャンルの音楽を好んでもいる。楽器というものを何一つ自分では演奏できないことと楽譜を読むことができないことを恥ずかしいと思っている。それでもいつの日かエレキギター(ストラトキャスター)を弾けるようになりたいと心ひそかに願っている。憧れのギタリストはもちろんジミー・ペイジである。自動車の中でいつも聴いている音楽は「コブクロ」である。歌うのは好きなほうで、たまに家族でカラオケに行く。賛美歌コーラスのパートはテノールである。低い音は出ない。高校くらいまでは、風体に似合わずボーイソプラノっぽかった。



7) 個人と教会と社会の相互的な協力関係を重んじる。教会の礼拝と個人の生活が喜びに満ちたものになっていくことを祈りつつ働きかけると同時に、可能なかぎり積極的に社会の安全や公平性に寄与したいと願っている。地域への奉仕活動や学校のPTA活動などには、時間の許すかぎり参加している。それらの場で人々を教会に勧誘することは、意識的に避けている。むしろ、地域の人々と共に働き、信頼される人間になることこそが「伝道」であると信じている。個人の自由と人権は最大限に尊重されなければならないと思う。

8) 政治への関心は国内・海外問わず強いほうであるが、立場は左翼でも右翼でもない。しかし「どちらでもない」というよりは「どちらでもある」という、より包括的な二枚腰(二枚舌ではない)のスタンスのほうが、政治を見つめる目としては正しいような気がしている。現時点で固定した支持政党はない。それよりも、キリスト者の倫理的誠実さに期待する思いのほうが強くある。キリスト教の洗礼を受けている人々の中から国会議員となる政治家が多く起こされることを、ひたすら祈り願っている。究極的には、ヨーロッパ型の「キリスト教民主党」が日本に生まれることを、わりと真剣に(そしてかなり無邪気に)期待している。

9) 読書は好きなほうだし、高校時代は「文学部」に属して同人誌発行の広告主探しのために奔走していた過去さえあるが、それほどの文学青年でもない。日本や海外の著名な文学者の書物を、最初から最後まで読み通せたためしがない。「国木田独歩、読みましたか?」とか「遠藤周作や三浦綾子の世界は、なかなか深いものがありますね」とか「ドストエフスキー、面白いですよね?」とかいう話題をふられると、恥ずかしくて逃げ出したくなる。小説や童話の空想世界にはほとんど付き合うことができない(自分のそういうところは欠点であると思っている。映画やテレビやアニメなどになっていれば見ようという気になることがあるが、それとても三回くらい繰り返して見ないと、話の筋道を把握できない。思考回路のどこかしらに何かしらの欠落があるようだ)。プラトンやアリストテレス、またデカルトやカントやヘーゲル、さらにハイデッガーやデリダなどの哲学書も買い求めて開いてはみるのだが、実は全く興味を抱くことができない。結局いつも読みふけっているのは、聖書と神学書、そして朝日新聞と週刊少年ジャンプである。香山リカ氏と養老孟司氏の本は面白いし、「かなり当たっている」と思う。最近読み直した福澤諭吉の『学問のすゝめ』は、あまりの毒舌と言いたい放題なところが面白かった。

10) スポーツやトレーニングというものに真面目に取り組んだことはいまだかつて一度もない。中学・高校の一時期、柔道部に所属したが、ものにならなかった。それでも1986年6月にスクーターに乗っていた私に軽トラックが接触し転倒した交通事故の際、柔道仕込みの受け身がとっさに出て、頭部を強打せずに済んだ。その後10年間、頚椎捻挫の後遺症で苦しむことになったが。2007年2月より、一日一時間のウォーキング(5km)を始めたところ、半年で体重が10kg減量した(そこでストップしてしまっているが、リバウンドもしていない)。やってみるものだ、と自分で驚いている。愛用スニーカーは「ナイキ」である。普段着はすべて「ユニクロ」である。自動車はほぼ毎日乗っているが、車種などにはまるで興味がなく、ナンバーさえ覚えていない。最も苦手なことは、論理的脈絡のない数字の羅列を記憶すること。自分の携帯電話(ドコモ)の番号が、なかなか覚えられない。逆に、いつまでも忘れることができないのは、自分が参加した会議の場での議論の内容(耳で聞いた音声)である。

11) 複数の各個教会間の協力関係のあり方としては、「長老主義」(プレスビテリアニズム)が最良であると信じている。ただし、大会(ジェネラル・アセンブリ)や中会(プレスビテリ)の過度の肥大化や強権化が各個教会の自主性を阻害するように機能することに対しては危惧を持つ。大会も中会も、そして日本政府も国際連合のようなものでさえも「小規模政体」(スモール・ガヴァメント)であることを願う。

12) 全キリスト教会一致運動(エキュメニズム)に対しては積極的かつ肯定的でありたいと願っているが、同時に、この運動の進展は各教派の伝統が最大限に尊重されるかぎりにおいてのみ可能であると信じている。したがって、当面の課題は「改革派エキュメニズム」であると信じている。日本国内の改革派・長老派諸教会は最終的に(再)合同して、ひとつの教団を形成すべきであると思う。