2008年7月16日水曜日

基本的立場と主張

1) 説教と日曜日の礼拝を重んじる。日曜日の礼拝はキリスト者と教会の生命であると信じている。礼拝説教の基本的なスタイルは、聖書各巻の内容を少しずつ解き明かしていく「連続講解説教」である。ただし、説教の内容が聖書の歴史的・文法的研究の披瀝や神学用語解説のようなことに終わるのではなく、礼拝出席者の日常生活にとって慰めや励ましになる「普通の言葉」であることを目指している。同僚牧師や神学生の説教に対しても、「もっと普通の言葉で語れないものか」と、(自分のことを棚にあげて)不満を感じていることが多い。



2) 聖礼典(洗礼・聖餐)は重んじるが、形式はできるだけ簡素であるほうがよいと信じている。教会とは「地上における神のみわざ」であり、かつ洗礼における誓約に基づく信仰者の共同体であると信じているので、洗礼を受けていない人や信仰を告白していない人に対する無差別配餐のようなことは行わない。また病床聖餐や訪問聖餐も原則として行わない。家庭や病床への訪問において大切な要素は、ミステリーではなくデリカシーである。病者や弱者、また臨終の床にある人に接するあり方は重厚な(そして多分に押し付けがましい)儀式性を介してよりも、普段着のそっとしたふれあいや「普通の言葉」による慰めのほうがふさわしいことは火を見るより明らかである。また、聖餐の品々(パンとぶどう酒)は個別に受け渡されるべきではないと、改革派教会の伝統(特にウェストミンスター信仰告白第29章の伝統的な解釈)に基づいて信じている。



3) 礼拝や儀式の場でガウンや祭服等は着用していない。そういうものは私には似合わないと思っている。ただし、牧師のガウン着用は(神学的に)間違っていると言いたいわけではない。自分用のガウンを持っていないだけのことである。先日行った結婚式の際に先輩牧師からガウンを借りて着用したところ、「式の雰囲気がしまって見えた」とか「大勢いる中で誰が牧師かが一目で分かって良かった」などわりと好評だった。礼服がかなり古くなってきたのと、ダイエット(下記参照)の効果でブカブカになったため、ガウンをボロ隠しにしようと思っただけなのであるが。



4) 聖書解釈の際には使徒信条をはじめとする基本信条および古代教父の神学、16世紀の宗教改革者とくにスイスの宗教改革者ジャン・カルヴァン[1509-1564]の諸教説、またハイデルベルク信仰問答やウェストミンスター信仰規準などに告白されているプロテスタント教会の伝統教説(とりわけ歴史的改革派神学におけるそれ)を重んじる。同時に、宗教改革時代(16~17世紀)の教説には時代的制約や未解決点が多数あることを認める。世界の神学と教会における「さらなる宗教改革」の必要性を感じている。



5) 現代の組織神学者の中で最も信頼するのは、オランダの改革派神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー[1908-1970]である。現代の「歴史的・批評的な」聖書学の諸成果についても、できるだけ傾聴したいと願っている。行動と実践の面で尊敬しているのは、ディートリッヒ・ボンヘッファー[1906-1945]とマザー・テレサ[1910-1997]とマルティン・ルーサー・キング・ジュニア[1929-1968]である。



6) 礼拝の中でうたう讃美歌は、プロテスタント教会の伝統の中で育まれてきた古典的なものを重んじる。16世紀のジュネーブ詩編歌を日曜日の礼拝に取り入れている。礼拝以外の場所では、いろんなジャンルの音楽を好んでもいる。楽器というものを何一つ自分では演奏できないことと楽譜を読むことができないことを恥ずかしいと思っている。それでもいつの日かエレキギター(ストラトキャスター)を弾けるようになりたいと心ひそかに願っている。憧れのギタリストはもちろんジミー・ペイジである。自動車の中でいつも聴いている音楽は「コブクロ」である。歌うのは好きなほうで、たまに家族でカラオケに行く。賛美歌コーラスのパートはテノールである。低い音は出ない。高校くらいまでは、風体に似合わずボーイソプラノっぽかった。



7) 個人と教会と社会の相互的な協力関係を重んじる。教会の礼拝と個人の生活が喜びに満ちたものになっていくことを祈りつつ働きかけると同時に、可能なかぎり積極的に社会の安全や公平性に寄与したいと願っている。地域への奉仕活動や学校のPTA活動などには、時間の許すかぎり参加している。それらの場で人々を教会に勧誘することは、意識的に避けている。むしろ、地域の人々と共に働き、信頼される人間になることこそが「伝道」であると信じている。個人の自由と人権は最大限に尊重されなければならないと思う。



8) 政治への関心は国内・海外問わず強いほうであるが、立場は左翼でも右翼でもない。しかし「どちらでもない」というよりは「どちらでもある」という、より包括的な二枚腰(二枚舌ではない)のスタンスのほうが、政治を見つめる目としては正しいような気がしている。現時点で固定した支持政党はない。それよりも、キリスト者の倫理的誠実さに期待する思いのほうが強くある。キリスト教の洗礼を受けている人々の中から国会議員となる政治家が多く起こされることを、ひたすら祈り願っている。究極的には、ヨーロッパ型の「キリスト教民主党」が日本に生まれることを、わりと真剣に(そしてかなり無邪気に)期待している。



9) 読書は好きなほうだし、高校時代は「文学部」に属して同人誌発行の広告主探しのために奔走していた過去さえあるが、それほどの文学青年でもない。日本や海外の著名な文学者の書物を、最初から最後まで読み通せたためしがない。「国木田独歩、読みましたか?」とか「遠藤周作や三浦綾子の世界は、なかなか深いものがありますね」とか「ドストエフスキー、面白いですよね?」とかいう話題をふられると、恥ずかしくて逃げ出したくなる。小説や童話の空想世界にはほとんど付き合うことができない(自分のそういうところは欠点であると思っている。映画やテレビやアニメなどになっていれば見ようという気になることがあるが、それとても三回くらい繰り返して見ないと、話の筋道を把握できない。思考回路のどこかしらに何かしらの欠落があるようだ)。プラトンやアリストテレス、またデカルトやカントやヘーゲル、さらにハイデッガーやデリダなどの哲学書も買い求めて開いてはみるのだが、実は全く興味を抱くことができない。結局いつも読みふけっているのは、聖書と神学書、そして朝日新聞と週刊少年ジャンプである。香山リカ氏と養老孟司氏の本は面白いし、「かなり当たっている」と思う。最近読み直した福澤諭吉の『学問のすゝめ』は、あまりの毒舌と言いたい放題なところが面白かった。



10) スポーツやトレーニングというものに真面目に取り組んだことはいまだかつて一度もない。中学・高校の一時期、柔道部に所属したが、ものにならなかった。それでも1986年6月にスクーターに乗っていた私に軽トラックが接触し転倒した交通事故の際、柔道仕込みの受け身がとっさに出て、頭部を強打せずに済んだ。その後10年間、頚椎捻挫の後遺症で苦しむことになったが。2007年2月より、一日一時間のウォーキング(5km)を始めたところ、半年で体重が10kg減量した(そこでストップしてしまっているが、リバウンドもしていない)。やってみるものだ、と自分で驚いている。愛用スニーカーは「ナイキ」である。普段着はすべて「ユニクロ」である。自動車はほぼ毎日乗っているが、車種などにはまるで興味がなく、ナンバーさえ覚えていない。最も苦手なことは、論理的脈絡のない数字の羅列を記憶すること。自分の携帯電話(ドコモ)の番号が、なかなか覚えられない。逆に、いつまでも忘れることができないのは、自分が参加した会議の場での議論の内容(耳で聞いた音声)である。



11) 複数の各個教会間の協力関係のあり方としては、「長老主義」(プレスビテリアニズム)が最良であると信じている。ただし、大会(ジェネラル・アセンブリ)や中会(プレスビテリ)の過度の肥大化や強権化が各個教会の自主性を阻害するように機能することに対しては危惧を持つ。大会も中会も、そして日本政府も国際連合のようなものでさえも「小規模政体」(スモール・ガヴァメント)であることを願う。



12) 全キリスト教会一致運動(エキュメニズム)に対しては積極的かつ肯定的でありたいと願っているが、同時に、この運動の進展は各教派の伝統が最大限に尊重されるかぎりにおいてのみ可能であると信じている。したがって、当面の課題は「改革派エキュメニズム」であると信じている。日本国内の改革派・長老派諸教会は最終的に(再)合同して、ひとつの教団を形成すべきであると思う。