正統的なキリスト教会、つまり異端ではない教会においては、すべて「唯一の神」を信じていますが、その神は「三位一体の神」です。天地万物の創造者なる神と、十字架にかかって死んでくださった神の御子なる救い主イエス・キリストとわたしたち人間のうちに宿ってくださる聖霊なる神とが「同じおひとりの神」であると信じているのです。これだけでややこしくなってしまうかもしれませんが、大切なことは、キリスト教信仰において神は「広くて豊かな方」であるということです。ユダヤ教もイスラム教も「唯一神」ですが、彼らは「三位一体の神」を決して信じませんので、我々とは一致できません。彼らと我々の違いは「広さ・豊かさ」の違いではないかと思います。Ⅰコリント9・19~23のような言い方のなかでパウロが具体的に何をしたかについては、はっきり分かることと分からないことがあります。テモテの割礼(使徒言行録16・3)は、はっきり分かることの一つでしょう。「真の信仰」と「偶像礼拝」との線引きは、とても難しい問題です。私は中学・高校の頃に柔道を少しかじりましたが、試合開始時に神棚に一礼させられるのがどうしても嫌で、続ける気を失いました。夏になると、学校のプール開きのたびに神主がお払いに来ることに腹を立てていました。知人や親戚の葬儀(すべて仏式)に出席すること自体が嫌でした。焼香しない人間に対する白眼視はこちらまではっきり伝わって来るものでした。私は「自分はそれでよい。誰から何と思われようが構わない」と思ってきました。しかし、「神棚に頭を下げりゃいいんだろ」と何の疑問ももたずに柔道を続けている人。「学校行事だから」とプール開きのお払いの儀式に参加している人。あるいは仏式や神式の葬儀の喪主を引き受けざるをえなくなった(家族会議で押し切られた)キリスト者。個人としてではなく、会社や団体の代表者として葬儀に出席している人が、会社や団体を代表して(自分自身の信仰を犠牲にして)焼香を行うこと。このような人々を「偶像礼拝者」と呼ぶのは少し厳しすぎるだろうと考えています。
わたしたちは独りで生きているのではありません。社会の中で生きているかぎり、自分の信仰を純粋に貫き通すことができない場面に何度も遭遇します。もし宗教的な純粋さをどこまでも追求しなければならないというならば、キリスト者同士の交際以外のすべての人間関係を、教会は禁止すべきです。そのようなことは現実には不可能ですし、端的に言ってそのような禁止自体が間違っています。宗教は個人の心の中だけの「神に対する節操、貞操」の問題だけで済むものではありません。キリスト者たちは、社会の中で現実に大きな責任を負っています。自分の置かれている立場の責任が重ければ重いほど、自分の信仰告白をあらゆる面で押し通すことが難しくなっていくでしょう。私が大学時代通っていた教会の日曜学校校長は昭和天皇の友人でした。とても物静かな方なのですが、時々ぼそっと「こないだちょっと陛下とお茶飲んできましてね」という話をしてくださるのが楽しみでした。Xデーなどとも言われた昭和天皇崩御の日の次の週の礼拝では、その方は黒ネクタイで日曜学校礼拝と主日礼拝の司式をなさいました。立派な姿だと私は思いました。キリスト教の神理解は「広くて豊かな方」(三位一体の神)です。「あれもだめ・これもだめ」という戒律主義の反対です。タブーのようなものをできるだけ取り払っていくことがわたしたちには許されています。たとえば、もし「焼香」の問題で洗礼を受けることを躊躇しておられる人がいるとしたら、私でしたら、「焼香を続けてくださって構いませんから、洗礼を受けてください」と申します。ある方は受洗された後、わたしや教会の人々が何も言わないのに、「もうこんなの要らないだろ」と先祖代々の仏壇を御自分の判断で処分されました。信仰生活には、洗礼を受けてみなければ分からないことがたくさんあるのです。しかし、私がこれまで牧師をしてきた地方教会の会員の中には、家族や親戚の手前、仏壇や神棚を飾ったままの人もいます。それは仕方がないことです。ともかく私は、洗礼を受ける前にクリアすべきいろんな条件を積み上げていくことには反対なのです。救い主は「ありのまま」のその人を受け入れてくださいます。
この点の私の考えに異論があるのは当然です。しかし、私がうんと考えこんでしまうのは、「礼拝とは何か」という問題です。たとえば、キリスト教主義学校(とくに中・高)の生徒たちのうち未受洗者である子どもたちが毎日学校で行われる「チャペルの礼拝に出席すること」、また夏休みの宿題で「教会の礼拝に出席すること」は、彼らの「礼拝行為」なのでしょうか。そこで聖書を開かせられること、賛美歌を歌わせられること、説教を聞かされること、祈りの言葉を唱えさせられること。それが彼らの「礼拝行為」でしょうか。「礼拝」には、その人の心と信仰が伴う必要はないのでしょうか。会社の上司や同僚、家族や親戚の葬式に(相当な強制力をもって)出席させられることについては、どうでしょうか。我々(キリスト教会)の論理から言えば、葬式そのものが「礼拝」に該当するのではないでしょうか。仏式葬儀の中の「焼香」の部分だけが死者礼拝でしょうか。我々のキリスト教礼拝の場合、この中のどの部分は「三位一体の神を礼拝する部分」であるが、そうでない部分もあるというふうに分けることはできません。仏教や神道の場合は、我々とは違うのでしょうか。仏教や神道の場合には、彼らの礼拝を各要素ごとに分けて、この部分は「死者崇拝」であるが、他の部分はそうではないと見てよいのでしょうか。そのような都合のよい分別は不可能ではないかと私は考えています。私自身は、たとえそれが仲良くしていただいた親戚の葬式であろうと、中学生時代の恩師の葬式であろうと、「仏式葬儀に出席すること」それ自体が嫌であり、不愉快でした。何を隠そう、「死者礼拝としての異教的葬式」に出席することそれ自体が十戒の第一戒・第二戒に全く抵触する行為であると、私は信じてきたのです。この確信は今でも変わっていません。しかし、です。「会社の上司や同僚、家族や親戚の(異教的)葬式」それ自体に「私は出席しません」という態度を強固に貫くことができるのは、たぶん牧師たち(しかも一部の牧師たち)だけです。それは「牧師の論理」です(私も一応「牧師」のはしくれです)。「え、葬式だよ?!いくらなんでも葬式の欠席はありえないだろう。そんなことをしたら今後どうなっちまうか分かりゃしない」という(教会員からの)猛烈な反発に対するある種の“妥協策”が、日本のキリスト者たちの「焼香拒否」ではないのでしょうか。この点の日本教会史的検証が必要ではないでしょうか。
以上のように申し上げる私の意図は、両論並べ立てようとすることではなく、そもそも我々自身の「焼香拒否」自体が“妥協の産物”ではないだろうかということです。私にはファン・ルーラーのように「キリスト教は啓示と異教の混合物(アマルガム)である」とまで語る勇気はありません。しかし、「妥協」(compromise)ということが真剣に考えられるべきではないかと思っています。「転向」は少なくとも私にとっては万死に値することですが、「妥協」は日々可及的速やかに行われるべきことです。私自身の確信と自明性のもとにあり続けた「死者礼拝の中心部分としての焼香拒否」は、しかし果して本当に自明なことなのだろうかと問いなおしてみる必要があると思うのです。「焼香」は、本当に死者礼拝なのでしょうか。それを死者礼拝であるとみなすなら(そうであると私は教えられてきましたが)、異教的葬式への出席それ自体を拒否すべきではないでしょうか。「仏式葬儀そのもの」と「焼香」をきれいに(「リサイクルできるもの」と「できないもの」というふうに)分別することができるでしょうか。もし分けることができるなら、「焼香のみの拒否」に意味はあるでしょう。しかし、分けることができないとしたら、「焼香のみの拒否」など全く無意味ではないでしょうか。我々に残されている道は、死者礼拝としての異教的葬式それ自体への出席を拒否するか、そうでなければ「妥協」することではないのでしょうか。これが私の問いの真意です。ある一定の自明性のもとに生きているかぎり、すべては安泰です。しかし、現実の我々は、日々新しい問いを持ち込まれ、日常生活は常に脅かされ続けているのではないでしょうか。
私はファン・ルーラーの「啓示と異教のアマルガム(混合物)としてのキリスト教」という命題に接するたびに、それによって「キリスト教自身の厳密な自己批判」へと向かうべきであるという確信を深めています。しかし、それをどのように表現してよいかについては日々迷っています。どんなふうに書いても言葉が足りず、誤解を受けてしまうことを覚悟せねばなりません。私が申し上げたいことは、仏式の葬儀における「焼香」は、その葬儀全体から切り離すことはできないのではないかということです。もしわたしたちキリスト者が「あの焼香だけを拒否しさえすれば、死者礼拝の罪から免れることができる」と考えているとしたら、非常に悪質な自己欺瞞ではないかということです。わたしたちが「死者礼拝」を完全に拒否するために必要な態度は、仏式葬儀そのものへの出席拒否ではないでしょうか。私自身は、ほとんどそうしたい気持ちで一杯です。意味不明な念仏など聞きたくもありません。しかし、たとえ牧師であっても、たとえば「教会員の家族の葬儀に出席しない」ということがありうるでしょうか。ある人々にとってはありうるのかもしれませんが、私には不可能です。それで、「やむをえず」出席する(「やむをえず」が「喪」にふさわしい心性かどうかという問いは残ります)。しかし「焼香」はしません。そのことによって、とりあえず「私はここに仕方なく来てしまいました。しかし、あの忌まわしい焼香はしていませんので、私は死者礼拝をしていません」と自分で自分を慰める。これは、わたしたちキリスト者の自己欺瞞ではないでしょうか。実際のわたしたちは、そこに出席している時点で、念仏を聞いている時点で、たちこめる香を嗅いでいる時点で、「死者礼拝」に十分な意味で“参加”しているのではないでしょうか。日本のキリスト者たちは、「仏式葬儀の全体」と「焼香」とを都合よく切り離したうえで、後者だけを否定することによって、悪質な自己欺瞞の論理を築いてきた。そのことを率直に認める必要があるのではないでしょうか。
私がファン・ルーラーを読みながら考えさせられることは「焼香だけが問題ではない」ということです。「日本のキリスト教会は、仏教思想そのもののグノーシス主義(地上の生の否定的評価)を一歩すら踏み越えることができていない」ということです。牧師たちが(しばしば涙ながらに)語る「故人は輝かしい天国へと旅立った!」「悪と罪に満ちた地上の世界から解放された!」という葬儀説教のグノーシス主義のほうは不問にしておいて、「焼香」という一点だけを強調して教会員を悩ませてきたキリスト教会の自己欺瞞性のほうが、よほど深刻です。なお、私が用いる場合の「妥協」という言葉は、常に、ファン・ルーラーやパネンベルクが愛したエルンスト・トレルチの概念です。旧日本基督教会の人々がトレルチをどれくらい読んでいたかは知りませんが、彼らが行ったと言われる“妥協”とトレルチの「妥協」とでは、意味が違います。トレルチ、ファン・ルーラー、パネンベルクらが言う意味は、地上の生はすべて「断片的なるもの」であり、かつ「トルソ」であるゆえに、「妥協」を恐れるべきではないということです。「宗教混淆」を言いたいわけでは決してありません。私が毎日悩んでいることは、日本の教会は日本社会から逃げているのではないかということです。日本社会から逃避している教会が、日本社会に伝道できるのでしょうか。「日本から逃げるな!関口よ、お前は日本に伝道しているんだろう?」と毎日、自分自身に言い聞かせています。また、最近では「焼香」を行わない日本の仏式葬儀も始まっているようです(現に最近、私の家族がそのような仏式葬儀に出席しました)。「世俗化」の流れの中で、日本の仏教界も存続の危機にあるのかもしれません。我々キリスト者が仏式葬儀の中の「焼香」の要素だけを切り離して拒否してきたことの意味(その無意味さ)が問われるときが必ず来るでしょう。それは、我々キリスト教会にとって、より深刻な時代となるでしょう。
「昭和天皇の友人」であった日曜学校校長のことをご紹介しました。詳しく書くと、その方がどなたであるかが分かってしまう方がおられるかもしれませんが、東京大学名誉教授の天文学博士で、当時の日本学士院の会長でした。昭和天皇にいろんなことを直言できる関係にありました。その方の話を聞くたびに、「国を本当に変えたいならば国の中枢に入り込む必要があるのでは」と思わされました。日本のキリスト教界が教団や大会の議長名の「抗議声明」などをいくら出しても国の中枢にいる人々にとっては痛くも痒くもないのです。「だからそういうものを出しても意味がない」と言っているのではなく(そんなことをこの私が言うはずがありません!)、両面計画が必要ではないかと思っているのです。ファン・ルーラーがオランダのバルト主義者の「キリスト教政党否定論」に反対してキリスト教政党擁護論(セオクラシー政治)にこだわった理由も、そのあたりにありました。国の中枢に入り込まなければ国を変えることができない。国会の外でいくら大声を張り上げても、法の一つすら決めることも変えることもできないのです。私の申し上げたいことは「信仰ゆえに起こる摩擦を避けるべきである」ということではありません。全く正反対です!「国を本当に変えていくために、国づくりに参加するために“蛇のように賢くあれ”」ということです。この“賢さ”をもたないかぎり、この国が変わる日を望むことはできないでしょうということです。その日曜学校校長は、まだ20歳くらいだった私が当時かぶれていたボンヘッファーに非常に興味を示してくださり、「関口先生、ボンヘッファーまた教えてくださいね」とおっしゃいました。とても慎重で思慮深い方でした。「そのような人がなぜ、礼拝で黒ネクタイなのか」と問われると答えに窮しますが。
繰り返し申せば、私自身は、生まれ育った教会で「焼香してはならない」と禁じられましたので、今日に至るまで「焼香」をしたことがありません。自分はしたことがないので、だれかに「焼香をすすめている」わけではないのです。私が申し上げたいことは、「焼香をしているキリスト者を私は裁くことができない」という点と「諸般の事情から焼香をやめることができないことが洗礼を受けることができない理由にはならないと思う」という点です。言いたいことは、それだけなのです。キリスト者“のくせに”「焼香」を行った。その途端に「彼/彼女は、ついに真の信仰を捨てた。霊的な堕落者である。ふたりの主に兼ね仕えている姦淫人間である」と見くだされる。これはいくらなんでもあんまりな言い方ではないかということです。「それほどのことか」と言いたい。そこまで言われるならば、「焼香」だけではなく「仏教葬儀」そのものが死者礼拝ではないのかと考えざるをえません。「焼香」だけを仏式葬儀の全体から都合よく区別して、そこだけ拒否して自己満足にひたっているほうが、よほどペテンであり、自己欺瞞ではないかと、真剣に告発せざるをえません。私が幼少期に過ごした教会においては「禁酒禁煙」などはもちろんのこと、「テレビ禁止」、「ギャグ漫画禁止」、さらに「電子レンジ禁止」(?)などを教え込まれました。意味が分かりません。そのような教会で、私は0才から18才まで過ごしたのです。明らかに少し歪んでいると自覚している私の性格は、そうした(宗教的)成育歴と関係あるだろうと思います。実際にはすべての点で逆らいました。しかし「焼香禁止」は、私にとってのいわば最後の束縛です。「これは一体何なのか」と自分でも正体をつかみきれないものに縛りあげられている感覚があります。「偶像礼拝だ!」「バアルに膝をかがめることだ!」という種類の言葉で一喝されると、いまだに身がすくみます。「日本プロテスタント宣教150周年」を馬鹿騒ぎするのも結構です。どうぞご自由に! しかし、昭和40年生まれの者としては(あえて「昭和」と言います。第二次大戦終結後20年経て生まれた者であることを表現したいだけです)、「日本プロテスタント宣教150周年が生み出した“負の遺産”の総検証プロジェクト」を企画することのほうがよほど有意義ではないかと考えます。我々の世代のキリスト者が「教会で受けたトラウマ」をどれほど多く背負っているかということを、いつかどこかでぶちまけたい気分です。そこを通り抜けなければ、日本のプロテスタンティズムが今後健全な成長を遂げることは不可能ではないかと思っています。「教会に若い人が集まらない」と嘆いてみせる前に、教会の側に自問すべきことがあるような気がしてならないのです。「教会よ、お前自身が人々を傷つけてきたのではないか。他ならぬお前自身が、人々を手際よく追い払ってきたのではないか。小さな問題を大きく騒ぎ立て、大きな問題を軽視してきたのではないか」と。
「焼香を行っているキリスト者」の問題について、私自身は、事柄の性質からいえば、ローマの信徒への手紙14章~15章の「信仰の強い人は信仰の弱い人を担うべきである」という問題に限りなく近いだろうと見ています(ピタリとは一致しませんが)。そのため私は、このことについて我々が何らかの明確な判断をくだすことができる具体的な指針を用意するためにどうしても経ざるをえない“教会における議論”そのものが「信仰の弱い人」を躓かせてしまうことを最も恐れます。傷つく人は、“真理”に傷つくのではなく、“議論”(のプロセス)に傷つくのです。そのような人を私なりにたくさん見てきました。私の考えが間違っているのかもしれませんが、我々に本当に必要なのは、教会会議が決定した何らかの具体的な指針ではなく、「信仰の強い人による、信仰の弱い人に対する“配慮”ないし“遠慮”」ではないかと思うのです。パウロ的に言えば「世の中に偶像の神などはない」のであり、「唯一の神以外にいかなる神もいない」のです(コリントの信徒への手紙一8・4)。私の感覚はこれに最も近いものです。そもそも「偶像の神」など“存在しない”のです。ですから、「焼香」についても言えそうなことは、そもそも“存在しない”「偶像の神」の前で(存在しない何ものかの「前」とはどこなのかという謎が残ります)、“たかがひとつまみの抹香粉”を指先につまんで片方の皿からもう一方の皿へと移したからといって、それで何かが始まるわけでも、何かが終わるわけでもないのです(この感覚はまるで自分が無神論的唯物論者でもあるかのようです!私は“敬虔な”キリスト者のつもりですが)。また、先には逆説的なことを申し上げましたが、私自身の感覚としても、仏式葬儀に参列すること自体や、お寺であれ神社であれキリスト教的なるものとは異なる宗教施設そのものの中に立ち入ること自体は、別にどうというほどのことではないのです。それは単なる集会にすぎず、単なる建築物にすぎません。集会の存在そのもの、建築物の存在そのものがただちに罪であるわけではありません。その集会に参加したから、その建築物に立ち入ったから、それがただちに罪であるわけではありません。しかし、こういうのは「信仰の強い人」の言い分なのだと、私なりに自覚しています。「信仰の弱い人」の場合は、そうは行かないでしょう。また、たとえば「数珠を手にかける」というようなことは私も嫌です。仏教に反対したいだけではなく、カトリック教会が勧めるロザリオにも反対です。ただし、反対の理由は「あのようなやり方は偶像礼拝だから」ということではなく、「私の学んできた生活習慣とは異なるから」ということです。宗教の違いではなく文化の違い、カルチャーの違いです。異なるカルチャーを強制的に押しつけられることが、不愉快なのです。
焼香を私が行わない理由もこれと同じです。「したくもないことをやらされる」という強制が、ありえないほど嫌なのです。ここについて行けないものを感じるのです。しかし、「そこにはいくらか私のわがままが含まれているかもしれない」と問い返してみたのが、先に申し上げたことの裏側にある一つの思いです。「したくもないことをやらされて」生きている人は世界中にたくさんいます。「仕事」とは、いわばそのようなものです。「やりたいことだけをやれる」人は幸せかもしれません。私自身は焼香もしませんし、数珠を手にかけることもしません。遺族に向かっては一礼しますが、遺体に向かっても・遺影に向かっても頭一つ下げたことがありません(いまだかつて)。しかしそれは、ある意味で「牧師だから許されること」であって(実は何ら「許されて」いないかもしれないわけですが)、「そうも行かない」人たちはたくさんいるだろうと考えてみたまでです。繰り返し申せば、このようなことを大っぴらに議論すると、“議論”(のプロセス)そのものに傷つく人々が必ず生まれます。そういうことを私があえて申し上げる意図は、「新しい議論を巻き起こしたい」というようなことでは決してなく、「牧師たちの側にも自己吟味が必要ではないか」と言いたいだけです。私は「信仰の強い人」は「信仰の弱い人」を裁いてはならないということを、本当に心から信じています。「信仰の弱い人」を裁かなければならないくらいなら、この仕事を辞めなければならない。そういう思いです。ひょっとしたら私はこの仕事に向いていないのかもしれません。しかし、「この種のことは、信仰のはかりに従って各自の自由裁量によって対処せよ」と言いたいわけでもなく、「この問題は教会会議というような“公の場”において徹底的に討論されるべきものではなく、牧師と教会員との“一対一”の場で心静かに語り合われるべきものである」ということです。先に書いたことをじっくりお読みいただけば、私の意図自体は(たとえ賛成や納得はしていただけなくても)正しく伝わるだろうと信じています。