使徒言行録26・12~18
今日の個所にもパウロとイエス・キリストとの神秘的な出会いの体験が記されています。この出来事について使徒言行録が取り上げているのは、これで三回目となります、ただし、単純に同じ内容が三回繰り返されているわけではありません。初回(9・1~19)においては、パウロがその出来事に遭遇した場面が描かれていました。二回目(22・6~21)には、パウロがユダヤ最高法院の人々の前で弁明を行っている場面で語った言葉として記されていました。
そして三回目となる今日の個所で彼が語っている相手は王です。ユダヤの王アグリッパです。これで分かることは、単純な繰り返しではないということです。語っている相手が違います。また内容も少しずつ違います。比較してみると、その違いが分かります。
しかし、です。全く同じではないとしても、同じようなことが三回も繰り返されていることの意味は何なのかと考えざるをえません。ごく単純に言えば、やはり、パウロの身に起こった(時間にすればおそらくほんの一瞬の)出来事が、その後の教会と世界の歴史にとって非常に重大な意味をもっていたのだということです。そのことを使徒言行録の著者がはっきりと認識していたのです。そのことが、同じ書物のなかに同じことが三回も繰り返して記されている理由であると言えるでしょう。
もちろんパウロも、小さな一人の人間にすぎません。しかし、その一人の人間パウロがイエス・キリストと出会い、回心と救いを体験することによって、その後の教会と世界に及ぼした影響は計り知れないほど大きなものであったと間違いなく言えるでしょう。一人の人間パウロが歴史を変えた。歴史を変えたパウロを変えたのは、イエス・キリストとの出会いの体験であった。つまり、パウロの存在と働きを通して歴史を変えたのは他ならぬイエス・キリスト御自身であった。そのように語ることができると思います。
もちろんパウロは、非常に特別な賜物と能力に恵まれた人でもありました。その意味でパウロは特別な人間でもありましたので、普通の人と単純に同列に並べることはできないかもしれません。しかし、その点は十分に考慮するとしても、今日の個所を読みながら、わたしたち自身が慰められたり励まされたりする点があってもよいと私は思います。
それは要するに、一人の人間がイエス・キリストによって救われることの意味は決して小さなことではないということです。わたしたちは、パウロほど影響力の大きな人間ではないかもしれません。しかし、わたしが救われたことには何の意味もないとか何の影響力もないということはありえないと考えてよいはずです。ここに教会が存在すること、教会にわたしたちが集まっていることには何の意味も影響力もないということはありえない。そのように信じてよいのです。
別の点から言い直せば、どんな偉大な働きをした人にも駆け出しの頃があったということです。パウロの場合、イエス・キリストに出会うまでの彼は、全く正反対の言葉を語り、また全く正反対の道を歩んでいました。しかし、彼は回心を体験し、人生そのものが一変しました。パウロの回心が、その後の教会と世界を変えた。それは歴史的な事実なのです。
何事もそうですが、一つの道を究めるためには多くの時間がかかります。心を定めて、忍耐強く時間をかけて一つの道を歩み続けることが大切です。それによって得られる収穫は決して小さなものではありません。とにかく地道な歩みを続けていくことが重要です。
「わたしは今日、生まれて初めて教会に来ました」。その日その時から始まる大きな動きがありうるのです。このわたし、わたしたち、この教会が踏み出す小さな一歩から始まる大きな歴史があるのです。そのことを信じようではありませんか。
「『こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽よりも明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。』」
パウロが見たのは「天からの光」でした。それは太陽よりも明るく輝く光でした。彼はその光を心で感じただけではなく体全体で感じました。彼は地面に倒れてしまったのです。
この件に関しては、このときパウロは精神的ショックを受けたのだという説明も十分に成り立つでしょうと、すでに申し上げてきました。すでに死んだと思っていた方、イエス・キリストが生きておられた。そして、生きておられるその方が自分に声をかけてこられた。その声をはっきりと聞いた。それは、精神的なショックを受けるに十分な出来事です。
しかも、その声が語っている内容は、その日その時までパウロがしてきたことに対する批判であり、非難でした。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。もちろん、そのようなことを、あなたはすべきでない、してはならない、という意味です。
「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という言葉は、これまでの二回には出てこない、今回初めて出てくるものです。「とげの付いた棒」とは、イエス・キリストのことです。また、パウロが迫害してきたキリスト者たちのことであり、キリスト者の集まりであるキリスト教会のことです。あなたがイエス・キリストと教会を迫害することは、自分自身を傷つけることになる。そのことはあなたにとって何の益にもならず、むしろ不利益になる。だから、そういうことは今すぐやめなさい。そのように言われているのです。
「『私が、「主よ、あなたはどなたですか」と申しますと、主は言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。」』」
ここで語られていますのは、イエス・キリストがパウロの前に現われてくださった目的ないし理由です。イエス・キリストがパウロの前に現われて声をかけてくださったことには、明確な目的ないし理由があったのです。
余計な言い方かもしれませんが、もしイエス・キリストが何の目的もなく死人の中から蘇ってくださり、パウロにも声をかけてくださったというだけであるならば、そのようなイエス・キリストは、せいぜい人を驚かせ、ショックを与え、恐怖におののかせるだけのお化けのようなものと変わりがありません。そして、もしイエス・キリストがそのような存在であるならば、キリスト教会はお化け屋敷のようなものと変わりがありません。
しかしそうではなく、イエス・キリストが死人の中から復活してくださり、パウロの前にも現われてくださったことには明確な目的もしくは理由があったのです。その目的とは、すなわち、あなたが今まさに見ていること、これから見ることを多くの人々の前で証言し、宣べ伝える者にするため、というものです。「あなたを奉仕者、また証人にするため」とは、あなたパウロをこのわたしイエス・キリストに仕える者とし、またわたしの復活の事実を証言する者にする、ということです。
イエス・キリストの復活が、もし、とくに目的もなく、ただ単に人を驚かせ、ショックを与え、恐怖におののかせるだけのものだったとしたら、それは「お化けが出た」というようなことと内容的に少しも変わりがありません。しかし、そういうこととそれとは全く次元が違うことです。イエス・キリストの復活には、はっきりとした目的があったのです。そしてその目的は、次のように説明することができます。
イエス・キリストは、聖書に基づいて神の言葉を語られました。愛と憐みをもって弱い人を助け、病気をいやしてくださいました。そのようなイエス・キリストの存在と働きが、彼を憎む人々の手によって中断されたのです。罪のないイエス・キリストが罪に定められ、十字架にかけられ、殺されました。
しかし、そのイエス・キリストが死人の中から復活され、弟子たちの前に現われてくださり、パウロの前にも現われてくださいました。その意味は、イエス・キリスト御自身が、その存在と働きを地上において受け継ぐ人々をお選びになったということです。
その人々は、永遠に生きておられる救い主イエス・キリストとともに、聖書に基づいて神の言葉を語り、愛と憐みをもって弱い人を助け、病気をいやす働きへと具体的に召され、選ばれたのです。
別の言い方をするならば、死人の中から復活されたイエス・キリストに出会った人々は、びっくりした、ショックを受けた、怖かったというようなことだけでは済まされないのだということです。それだけならば、何度も言うようですがただのお化け屋敷です。イエス・キリストの復活を信じる者たちはイエス・キリストの存在と働きを受け継がなくてはなりません。イエス・キリストがそうなさったように、神の言葉を宣べ伝え、人を助ける働きに就かねばならないのです。
「『わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」』」
復活なさったイエス・キリストは、パウロを「この民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」とおっしゃいました。ここで考えてみなければならないのは「救いとは何か」という問題です。
イエス・キリストがパウロに対しておっしゃらなかったことは、次のことです。「わたしは、あなたを罪と悪に満ちたこの世の人々の中から救い出しました。だから、あなたは、もう二度と彼らのもとに戻ってはなりません」ということです。そのようなことをイエスさまはおっしゃっていません。正反対です!
イエスさまがおっしゃっていることは、「彼らのもとに遣わす」ということです。つまり、あなたパウロは、あなたが元いた場所に戻って行きなさいということです。「彼らのど真ん中に入って行け」ということです。「この世の人々から逃げるな」ということです。そしてもちろん「その人々に神の御言葉を宣べ伝えなさい」ということです。
イエス・キリストはパウロに、次のことを約束してくださっています。
あなたの働きによって、彼らの目が開かれます!
闇から光へ、悪の支配のもとから神の支配のもとへ、人々が移し替えられます!
彼らには、真の信仰が与えられます!
彼らの罪が赦されます!
彼らは、すでに救われている人々と共に、神の恵みを分け合う者となります!
そのようにして多くの人々を救いに導くわざを、あなたパウロ自身が担う者となるようにと、パウロに対してイエス・キリストがお命じになったのです。
このことはわたしたち教会の者たちに全く当てはまることです。神の恵みをいただいた者たちは、その恵みを多くの人々と分かち合うことが求められるのです。イエス・キリストに選ばれ、召され、救われた者たちは、この世の中へと戻っていかなくてはならないのです。
(2008年7月20日、松戸小金原教会主日礼拝)