2006年3月19日日曜日

「あなたの信仰があなたを救った」

ルカによる福音書17・11~19



ルカによる福音書を調べていきますと、イエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」(ヘー・ピスティス・スー・セソーケン・セー)という言葉をお語りになっている個所が、今日開いていただいた個所を含めて、四個所もあることに気づかされます(7・50、8・48、17・19、18・42)。



繰り返されている言葉には強調があるということは、これまでにも何度か申し上げてきたことです。もしその原則がここにも当てはまるとするならば、そこから考えられることがあります。



それは、このルカによる福音書は、この「あなたの信仰があなたを救った」という言葉こそが、わたしたちの救い主イエス・キリストとはどういうお方であるのかということをはっきりと示しうる、「いかにもイエスさまらしい言葉」とでも表現すべき、イエスさまにおけるまさに一つの典型的で特徴的な言葉であるということを読者に教えようとしているのではないか、ということです。



「あなたの信仰があなたを救う」。イエス・キリストの教えの特徴がまさにここにあると、語ることができそうです。これこそが、いわばイエスさまご自身の確信であり、あるいはまたイエスさまご自身の神学である、ということです。それは、どういう信仰であり、神学であるか。それは、言ってみれば、「信仰による救いの神学」であり、もっと端的に言うならば「信仰の神学」である、ということです。



信仰とは、わたしたちにとっては、いつでも、神を信じることです。わたしたちは神を信じることによって、救われるのです。わたしたちが救われるために、わたしたち自身の信仰が、重大な意味を持つのです。



「イエスはエルサレムに上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」



イエスさまの旅の目的地がエルサレムである、ということが、ここにも記されています。ここにも、と言わなければならない理由は、ルカによる福音書の中の他のいくつかの個所にも、類する記述があるからです(9・51、13・22など)。



イエスさまは、なぜエルサレムに行かれなければならなかったのか。イエスさま御自身がはっきりと自覚しておられたことは、イエスさまはエルサレムで死ぬ、ということです。



エルサレムに行けば、律法学者、ファリサイ派、祭司長、長老たちがうじゃうじゃいる。その人々との戦いが必ず起こる。その戦いを経て、イエスさまは、エルサレムで十字架にかけられる。そして、三日目に、エルサレムでよみがえる。そのことをはっきりと自覚しておられました。



そのエルサレムに上る途中、イエスさまは「サマリアとガリラヤの間を通られた」と、記されています。単純に理解しようとすれば、旅のルートを記しているだけ、というふうに読めます。しかし、この個所にはいくつか別の読み方があります。たとえば、「サマリアとガリラヤを横切った」とも読めます。



とくに問題になることは、サマリアとガリラヤという地名の順番です。この順番で実際に進んでいきますと、イエスさまは、エルサレムの方角とは正反対の、北に向かって進んでいることになります。エルサレムに行くためには南下しなければなりません。



ですから、この個所の読み方として、イエスさまは、くねくね蛇行しながらエルサレムまでの旅を続けておられたとするか、あるいは、全く異なる発想を持つか、そのどちらかしかありません。後者の可能性として考えられることは、今日の個所に登場する主人公がサマリア人であるということと、この地名の順序が関係あるのではないか。もしかしたら、この二つの地名には何か象徴的な意味が隠されているのではないか、ということです。



「ガリラヤ」とは、イエスさまの伝道の最初の拠点であり、そこでイエスさまが多くの人を愛し、また多くの人から愛された、まさに最愛の地でした。「サマリア」の説明は、後でします。考えられる意味は、単なる旅行先のスケジュールなどではなく、イエスさまが「サマリアの人々」と「ガリラヤの人々」の両者に対する配慮や友好関係を保ちながら、エルサレムでの対決に臨まれた、というようなことではないか、ということです。



「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。」



「重い皮膚病」という訳語に変更される以前の新共同訳聖書をお持ちの方もおられると思います。わたしがいつも使っている聖書も、以前のものです。「らい病」と訳されていました。しかし、厳密な時代考証の結果、イエスさまの時代の皮膚病と、現代の「らい病」ないしハンセン氏病は異なるものであるという見解で一致しております。「らい病」という訳は、単純に誤訳です。その点をご注意いただきたいと願います。



ですから、この人々の病気の具体的な内容は必ずしも明確ではありません。重い皮膚病を患っている十人の人が「遠くの方に立ち止まったまま」、イエスさまに向かって「先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と大声で訴えたのです。



「遠くの方に立ち止まっていた」理由は、明らかです。要するに、いわゆる隔離扱いにされていたからです。その病気にかかっている人は、治るまで、かかっていない人に近づいてはなりませんでした。



しかもそれは、医学的・衛生学的な観点からの扱いというよりも、むしろ宗教的な観点からの扱いであったというべきです。いわゆる「ケガレ」の問題です。ケガレがウツるというような話です。そういうことを、わたしたちはもはや決して口にすべきではありません。それは差別です。



そして、ここでぜひ注目しておきたいことは、このとき、とにかく十人の人が、イエスさまに向かって「先生、わたしたちを憐れんでください」と大声で訴えたことです。



「先生」とは、ユダヤ教のラビのことです。つまり、宗教家のことです。ですから、ここに書かれていることは、病気の人が、宗教家に向かって「わたしたちを憐れんでください」と訴えた、ということです。なかには、もしかしたら、訴える先が違うのではないかと考える人がいるかもしれません。宗教家に頼ったところで病気は治らない。病気を治すためには病院に行かなくてはならない。



しかし、ここで考えておきたいことは、この人々の病気が「重い皮膚病」と呼ばれるほどのものであった、ということです。つまり、この人々は、もはや医者にも「治せない」とみなされ、見離され、社会的に隔離されることを余儀なくされる、そのように扱われていた人々である、ということです。



その人々が、イエスさまに憐れみを求める。宗教家であれば、だれでもよかったのか、それとも、イエスさまだから、そう言ったのかは分かりませんが、とにかくこの人々が、自分の救いを「宗教家」ないし「宗教」に求めたということは、事実であると思います。



「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』」



イエスさまは、この人々の病気をいやされました。イエスさまがこの人々に「祭司たちのところ」に行くようお命じになったのは、当時の祭司たちには、病気の人々を社会から隔離するか、それとも、社会へと復帰させるかの判断を行うという、とても重大な役割が与えられていたからです。



しかし、そのあとで一つの問題が起こりました。問題と呼ぶのは、やや大げさかもしれません。イエスさまに憐れみを求め、自分の病気をいやしていただいた人は十人いたはずでした。ところが、イエスさまのところに帰ってきて、大声で(神を)賛美して、イエスさまの足もとにひれ伏して、イエスさまに感謝したのは、一人だけだったというのです。



まさに「喉元過ぎれば熱さ忘るる」です。自分が苦しい、つらい、困っている、というときには、「神さま、先生さま、教会さま」と近づいてくる。ところが、その自分の問題が解決したとか、一山越えたとか、少し楽になったときには、「神さま、何それ?」と、言いはじめる。「今は忙しい。教会どころではありません」と言いはじめる。



興味深いことは、ここで紹介されている話は、そのような「喉元過ぎれば」の人が十人中九人もいた、ということです。九〇パーセントの人は、喉元過ぎれば“感謝”を忘れる人々であるということが紹介されているのです。



ですから、「わたしはひょっとしたらこの九人の中の一人ではないか」と考えてみるときに、「寄らば大樹の陰」とか言いながら、すっかり安心してよいのか、それとも、もう少し反省しなければならないのか。このあたりは微妙です。



しかし、問題は、このときイエスさま御自身は、どうだったかです。イエスさまのもとに帰って来て、神さまを賛美し、「イエスさま、ありがとうございました」と感謝を述べたこの一人の人の存在を、イエスさま御自身が心から喜んでくださった、ということだけは事実です。わたしたちが真似をするとしたら、どちらでしょうか。



しかも、その一人の人は「サマリア人」だった、ということが付け加えられています。ほかの九人については書かれていませんが、おそらくユダヤ人だった、ということです。先ほど後で説明しますと申し上げた「サマリア人」のことに触れておきます。サマリア人とユダヤ人は、要するに、とても険悪な関係であったことが知られています。激しい民族間の対立がありました。ユダヤ人からすれば、サマリア人は、全く明らかに差別の対象でした。その原因ないし理由については、詳しく述べる時間はありません。



しかし、ここではっきり言っておくべきことがあります。それは、イエスさまに自分の重い皮膚病をいやしていただいたサマリア人は、その病気そのものと、サマリア人であるという事実によって、ユダヤ人たちからまさに“二重の差別”を受け、“二重の苦しみ”を味わってきた人である、ということです。



そして、このサマリア人は、まさに二重の苦しみの中で、最後の最後の望みを抱いて、イエスさまに向かって遠くから「このわたしを、どうか憐れんでください」と叫んだわけです。そしてまた、この人は、自分を救ってくださったイエスさまに、感謝を言わずにはおれませんでした。イエスさまに救いを求めること、イエスさまに感謝をささげること、そうすることができた、というところに、彼の“信仰”があった、ということです。



ほかの九人たちも、病気に苦しみ、差別を受けてきたことには変わりなかったはずなのに、病気が治った途端に、イエスさまのことなど、どうでもよくなりました。残念ながら、この人々には、信仰がなかったのです。



「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」



「あなたの信仰があなたを救う」とは、どういうことでしょうか。わたしたちは、この問いと同時に、「信仰に生きる人と、信仰を持たない人は、全く同じでしょうか」と、自ら問うてみると、いくらか答えが見えてくるように思います。



信じる人だけが救われる。これは差別ではありません。わたしが信じるのです。わたしのために、わたしの代わりに誰かが信じてくれるわけではありません。信じるか信じないかは、ある意味で自分の決断次第であり、その意味での自己責任だからです。



困ったときに頼る存在が必要である。そこまでは、かなり多くの人に共通しているはずです。しかし、問題はその先です。問題が解決したあとも、わたしを救ってくださった方を信じ続けるか、それとも、自分の都合のよいときだけ、ひょいと助けを借りるか。



その違いによって、わたしたちの生き方は、大きく変わって来るでしょう。



(2006年3月19日、松戸小金原教会主日礼拝)



教会の生命としての礼拝

日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康



1、主題の背景



「教会の生命としての礼拝」という表現は、日本キリスト改革派教会の創立二〇周年記念宣言(1966年)に由来するものです。



「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう」。



二〇周年宣言が書かれた当時のわが教派の精神状況としてしばしば語られてきたことは、創立期の熱心や力の衰退ないし低迷ムード、ということです。



二〇周年宣言は、創立宣言(1946年)において明示されたわが教派の二つの主張と称される「有神論的人生観・世界観の確立」と「信仰告白・教会政治・善き生活を具備する教会の形成」の中の前者、すなわち、広く政治・社会・文化等の“一般的”な領域においてキリスト者としての判断や行動をサポートすることを旨とする「有神論的人生観・世界観の確立」の点に関する行き詰まり感を打開するために書かれました。とりわけ、創立期のわたしたちと深い関係にあったキリスト教主義学校・双恵学園の廃校が及ぼした影響は大きかったと言われます。



そのため、二〇周年宣言の眼目は、日本キリスト改革派教会の“再建”というべき事柄にあったと言えます。そしてその課題に仕えるためにこの宣言が最も強調した点が「教会の生命としての礼拝」ということでした。



つまり、その意味は教会(・教派)再建の鍵は礼拝の(再)活性化にこそある、ということです。それがわれわれの先輩たちの共通認識だったのです。



2、礼拝改革か、説教改革か



しかし、です。「教会の生命としての礼拝」ということは、わたしたちにとって自明のことであるのか、と言いますと、必ずしもそうは言えないという現実があるかもしれないことを、わたしは危惧しております。



といいますのは、わたしたちがこれまでに出会い、立ち会って来たいくつかの教会の中には、まるでわたしたちから力を奪うために存在しているのではないかと感じて絶句せざるをえなかった「礼拝」もありました、という感想をしばしば耳にするからです。



その種の批判は、牧師である者にとっては決して他人事ではなく、聞くたびに胸をえぐられるような痛みを覚えるものですが、真摯に耳を傾けなければならないものだと、強く自分に言い聞かせています。



もちろん、その種の批判にもいろいろな面があると思います。最も多く聞こえて来、かつ最も衝撃的要素が強い(要するに耳が痛い)のは、「牧師の説教が聞くに堪えない」という声です。



改革派教会の礼拝の特色は、よくも悪しくも「説教礼拝」です。「聖書講義」であるとさえ言われます。わたし自身はこの特色をわたしたちがすっかり捨て去ってしまうならば、それと同時に、改革派教会らしさを失うに等しいと考えております。



しかし、ここでこそ確認しておきたいことは、説教だけが礼拝のすべてであるわけではない、ということです。



その日の説教で慰めを得られなかった人が、オルガンの音色や聖書朗読や讃美歌を歌うことや長老の祈りで、あるいは聖餐式や最後の祝祷で(辛うじて)慰めを得たという話を聞くことがあります。それはそれで説教を担当する者としては身も細る思いで聞く他はありませんが、他方では、そのような観点もありうるのだ、と自分自身に言い聞かせるべきなのでしょう。なぜなら、礼拝は説教だけで成り立っているものではないからです。また教会は牧師と礼拝だけで成り立っているわけではないからです。



しかしまた、今申し上げたことと同時に、紛れもない事実として、教会の中心は礼拝にあり、礼拝の中心は説教にある、ということも認めざるをえません。説教の中心はもちろん三位一体の神にあるわけですが、同時に、その神を啓示し、証しする聖書が説教における中心的な場を占めるわけですから、聖書の解釈を行う牧師もまた、ある意味で教会全体において中心的な位置づけを持ちうるということは、否定できないことです。



ですから、その点から言うなら、わたしたちの人生に真の活力と勇気とをもたらすために教会の礼拝を改革する、ということのために、最も手っ取り早い方法は、説教者である牧師自身の不断の自己改革である、という面を否定できません。現実の教会と礼拝の中で牧師の存在が占める割合は相当大きいものです。牧師がよく準備した説教(その準備には、教会員の状況をよく知る、ということが含まれます)を語りはじめるとき、礼拝改革の九割は完了している、と言い切ってもよいのではないかと思うほどなのです。



説教はとにかく簡潔なものにする(どんなに長くても30分以内)とか、「初めての来会者が耳で聞くだけで理解できる」平易な内容にするとか、難解で専門的な用語は控えるとか、親と共に出席している子どもたちにも配慮する、などなど。



「礼拝改革などは全く必要ない。牧師が自分の説教を改革しさえすれば、教会内部にうずまく問題や不満のほとんどは、解決するに違いない」という声を、わたし自身、知らずにいるわけではありません。



しかし、「どうぞ、牧師が自分で反省してください」、「はい反省します」と言えば、この発題は終わるでしょうか。繰り返しになりますが、教会は礼拝だけで立っているわけでなく、礼拝は牧師だけで立っているわけではないのです。無牧の期間のほうが、牧師がいるときよりも、はるかに成長する教会があるという(ぞっとする)話もあるくらいです。教会員あっての教会であり、出席者あっての礼拝である、という面が、今さらながら強調されて然るべきでしょう。



3、礼拝の構成要素の改革



ところで今日、皆さんにぜひお伺いしたいことは、皆さんは今の礼拝のあり方に満足しておられますでしょうか、ということです。改革すべき点は、ないでしょうか。



ただし、先ほどから申し上げていることの趣旨は、牧師と説教の問題はとりあえず外して考えていただきたいということです。今日お考えいただきたいのは、礼拝を構成する「説教」以外の要素に関することです。



礼拝の構成要素や並び順などを総称して、リタージと呼びます。儀式を意味するセレモニーと内容的に重なりますが、一応区別されます。わたしが問うているのは、松戸小金原教会のリタージは、満足できるものでしょうか、ということです。



現在のリタージは、以下のとおりです。



 前奏
 招きの言葉
◇罪と信仰の告白をしよう
 讃詠
 罪の告白と赦しの宣言
 賛美
 信仰告白 ハイデルベルク信仰問答
◇感謝と導きのための祈り
 牧会祈祷
 賛美
(洗礼式、転入式、加入式などはここに入る)
◇みことばの礼拝
 聖書朗読
 説教
 賛美
(聖餐式はここに入る)
◇主の恵みに感謝しよう
 献金
 主の祈り
◇派遣します
 頌栄
 祝祷
 報告



礼拝を改革する、ということがありうるとすれば、リタージの内容を変更する、ということに尽きると言ってよいでしょう。リタージの内容変更とは要するに、新しい要素を加えること、今あるいくつかの要素を取り除くこと、式文の言葉を変更すること、並び順を変えること、などです。



(1)新しい要素を加えること



松戸小金原教会の礼拝委員会において(現在の礼拝には無いもののうち)新しい要素として加えるべきではないだろうかと、しばしば話題に上るものとしては、「十戒」と「使徒信条」、またリタージの最後に位置する「派遣奏」と「整列退場」があります。さらに、これは礼拝全体の構造改革が必要になるものですが、短い「子ども向け説教」を通常の説教の前に置くということなども提案されつつあります。



「十戒」は、もし加えるとすれば、罪の告白と赦しの宣言よりも“前”に置かれるべきです。このわたしは十戒に示された神の戒めに背くばかりの罪深い者であることを告白しつつ、それに対する赦しの宣言を受けとるところから、礼拝が始まるべきだからです。



「使徒信条」は、もし加えるとすれば、現在のハイデルベルク信仰問答の代わりに置かれるべきです。しかしハイデルベルク信仰問答ないしウェストミンスター小教理問答などを礼拝の中で告白することは、他の教団・教派において類例があまり見られないという意味でわが教派の特色になっています。そのこともあって、わたし個人は現在の方式を変えたくはありません。



「派遣奏」は、もし加えるならば、現在礼拝の最後に行っている「報告」の位置づけや時間の長さに深く関係しはじめます。できれば、報告を祝祷の前に置き、できるだけ簡潔に終わらせる必要があるでしょう。そして祝祷の後、派遣奏に合わせて出席者全員が整列して会堂を“立ち去る”のです。礼拝後の交わりは一階の集会室で行います。



「子ども向け説教」は、果たして本当にそのようなものが必要かどうかは、議論の余地があります。通常の(大人向けの?)説教自体を、子どもたちにも分かるくらいに平易に語るほうがよいのではないか、という考えもありうるからです。



子どもたちは、わたしたちの礼拝の重要な出席者です。「あの子らに説教など分からなくていい」とか「聞かなくてもいい」という扱いをすべきではありません。しかしまた、ここには微妙な要素もあるでしょう。子どもたちに礼拝出席と説教を聴くことを義務づけるならば、日曜学校の礼拝の存在意義は何かという問いも生まれるでしょう。



ところが、現在生じている問題は、日曜学校に出席した子どもが(大人の)礼拝にも出席し、結局朝9時から12時まで、場合によっては夕方まで、今どきの多忙で多感な子どもたちの時間を教会が完全に拘束してしまっている、ということです。“文武両道”ならぬ“信仰と学問の両立”を子どもたちに求めるならば、日曜学校の礼拝か(大人の)礼拝かのどちらかで、解放してあげるべきです。



(2)いくつかの要素を取り除くこと



わたし自身は、現在の松戸小金原教会のリタージから取り除くほうがよいと感じている要素は、現時点では、ありません。



(3)式文の言葉を変更すること



式文の言葉を変更することについては、今すぐできそうなことと、教派全体の動きと合わせるべきこととがあります。現在、日本キリスト改革派教会の中で礼拝の式文や賛美歌に関する事柄を扱っているのは、大会憲法委員会第三分科会です。新しい式文やわたしたちの教派独自の賛美歌を作るために、日夜努力している委員会です。



現在の式文で少し気になっているのは「罪の告白と赦しの宣言」です。書かれていることは間違っていないと思いますし、「赦しの宣言」には、重厚な権威を感じるばかりです。しかしまた、あの文章には、どこかしら「わたし牧師が、みなさんの罪を赦してあげます」というように響いてしまう要素があるような気がしてなりません。



大会憲法委員会第三分科会は、現時点ではまだ、これと言った決定的な文案を提出するまでには至っていませんが、その前段階として、新しい式文の試案をいくつか作成しています。その中に「罪の告白と赦しの宣言」についての新しい文章もあります。全体の調子はやわらかくなっており、また「わたし牧師が」ではなく「イエス・キリストにおいて神が」わたしたちの罪を赦してくださるという点が、明確になってきています。そういうものを試用してみることも今後検討していきたいと願っております。



(4)並び順を変えること



リタージの並び順を変えることについては、慎重であるべきです。本質的な問題である場合は少なく、単に目先を変えることに過ぎない場合が多く、それでいて、結構大きな問題に発展しかねません。



日本のある教会で、献金を説教よりも前に行うように変更したところがあります。その理由は、献金の金額が説教の“評価”になってはならないということだそうです。しかし、この理由は、わたしたちにとって納得行くものでしょうか。



礼拝改革の方向は、あくまでも「教会の生命」の(再)活性化に益するかどうか、ということに集中すべきです。



目先を変えれば何とかなる、という甘い考えは持つべきでなく、必要な場合は根本的な治療を施すべきであり、そうでなければ様子を見るという姿勢も必要でしょう。



(2006年3月19日、2006年度第1回教会勉強会発題、『まきば』第310号掲載)



2006年3月12日日曜日

「赦し、信仰、奉仕」

ルカによる福音書17・1~10



今日の聖書の個所に記されている事柄の要点は、三つあると言えます。第一に「罪の赦し」、第二に「信仰」、そして第三に「奉仕」です。



「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。』」



「つまずき」とは、要するに、わたしたちが罪を犯す場合、おそらくその前に、必ずといってよいほどに受ける誘惑のことです。



比較的よく知られている事実は、「つまずき」を意味するギリシア語スカンダロンが醜聞を意味するスキャンダルの語源であるということです。ですから、このイエスさまの御言葉を現代風に「スキャンダルは避けられない」と訳すことも全く不可能とは言えません。



スキャンダルが一つもないような生涯を送ることは不可能である。このわたしがいつかどこかで騒ぎの元になる。そのようなことが、わたしたちの人生にも避けがたく起こる。このようなことを、イエスさまはここで語っておられます。



しかし、ふと気付かされることがあります。このイエスさまの御言葉には、悪い意味での潔癖主義はないように感じるということです。



悪い意味での潔癖主義とは、「つまずきに満ちたこの世界の中には、わたしたちは一日も長くとどまり続けるべきではない」と考えてしまうことです。



あるいは、反対に「わたしたちをつまずかせるこの世界よ、無くなってしまえ」と願い、この世界を一刻も早く破壊すべきである、と考えてしまうことです。



どちらにしても、非常に危険な思想です。



イエスさまの場合は、そうではありません。つまずきは避けられません。罪への誘惑はこの世界の至るところに、まるで地雷のように散りばめられています。しかし、だからと言ってわたしたちはこの世界の中から飛び出すことはできませんし、してはなりません。あるいは、“この邪悪な世界”を破壊することもできませんし、してはなりません。



それでは、イエスさまは、どのように教えておられるのでしょうか。語弊や誤解をやや恐れつつ言わせていただけば、わたしたちが罪への誘惑といわば“うまく付き合いながら”、とにかく生きていくこと、この地上の人生を大胆かつ自由に生き抜いていくことを教えておられるのです。



「避けられない」とは“衝突を回避できない”ということですので、逆に言えばそこには“逃避しないで生きる”という意味が必ず含まれているはずです。そうであればこそ、イエスさまは、悔い改めた人の罪は赦されるべきである、と教えておられるのです。



この世界から逃避することもできない、しかし罪を赦してもらえないという人は、この世の中でただ絶望するしかありません。罪を赦してもらえない人生は、この世の地獄です。



自分の罪を認めて悔い改めるとは、「わたしは、誘惑に負けました。そのような弱い人間であり、愚かで惨めな存在です。そして、だからこそ、わたしには、神が必要であり、神の救いが必要であり、教会が必要であり、多くの人の助けが必要です」と認めることです。



そのように認め、悔い改めた人には「あなたの罪は赦された」と、何度でも(一日七回でも)神と教会の前で、公に宣言されるべきなのです。



罪への誘惑とうまく付き合う方法とは何でしょうか。うまく付き合うという意味は、誘惑に負けることではなく、むしろ勝つことです。誘惑との戦いは、相撲のようなものです。人生の土俵の上で罪に対してわたしたちがなすべきことは、かわし、いなし、あしらい、うっちゃり、相手を土俵の外に追い払うことです。



そのとき大切なことは、相手をよく見ることです。敵の正体を知ることです。あるいは、その罪に誘惑された結果、わたしたちはどうなっていくのかということを、うんと想像力を働かせて考え抜くことです。



「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がまし」という御言葉は、大変ショッキングなものです。しかし、いわばこれこそがわたしたちに求められる想像力です。



罪の始まりは、しばしばほんのささいなことです。一回の電話、たった一通のメールから何かが始まる。しかし、その後はまるで坂道を転げ落ちるように落ちていき、あっという間に最後のところまで行き着く。わたしたちは完全に破滅してしまうことがありえます。



そのようなことがありうる、ということを自覚していることが大切です。その自覚、自制、自省、自重、自戒が必要です。それらが無いところでは、わたしたちは際限なき罪の泥沼に陥り、最悪の結果にたどり着くことになるのです。



だからこそ、わたしたちに必要なことは、罪を犯したままで悔い改めない人の行き着く先はどこなのかということを、しっかりと目を開いて見、かつ想像力を働かせておくことです。そして、わたしたちは、そのような裁きを必ずなさる神を恐れるべきです。



今日の個所の第二段落のテーマは「信仰」です。



「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」



信仰は増えたり減ったりするものでしょうか。そのような描き方は、信仰というものをあまりにも物質的な、あるいは液体的な(?)何かでもあるような印象を与えかねません。おそらくそれは誤解です。信仰そのものは、物質でも液体でもありません。



もしかしたらの話ですが、使徒たちの願いないし問いかけに対してイエスさまが、必ずしもストレートに答えておられないように読めることの理由がそこにある、と考えることができるかもしれません。



まるで水をごくごく飲み込んでお腹を膨らませるように、まさに液体的な仕方で「信仰が増える」というようなことが起こるわけではない。「からし種一粒ほどの」とは、要するに「小さい」ということです。こと信仰に関して、物質的・物理的な大きさなどは問題にならない。小さくたって構わないじゃないかというようなことを、何かここでイエスさまがおっしゃろうとしているのではないかというふうに読むことは可能であると思われます。



しかしながら、それにもかかわらず、信仰は、なるほど、まるで液体であるかのように増えたり減ったりするものかもしれないということは、わたしたち自身の実感としては、言いうることのように思います。



なぜなら、わたしたちは、なるほど、「今のわたしは“信仰が減っている状態”である」というようなことを痛感することが、しばしばあるからです。



わたしたちが「信仰」という場合、それはいつでも必ず、神を信じることです。そして、その場合の「信仰」の意味は、おそらく、その多くの部分は「神に期待すること」です。神さまは、わたしの願いをかなえてくださるだろうという期待で、胸がいっぱいになっていることです。



しかしまた、その期待が明らかに減っている、あるいは、すっかり無くなってしまっているという場合がありうるというのが、わたしたちの偽らざるところの実感です。



「神さまになど、何度祈っても、何の応えもなければ、状況の好転も一切ありませんでした。だから、わたしはもう祈ることをやめます。教会も信仰も、そういうのは、まっぴらごめんです」と言いたくなるような心の中身や生活の状態、これこそが“信仰が減っている状態”であると言わなければならないものです。



しかしまた、その状態は、永久に続くものではないと、わたしは信じています。



信仰は減ることもあるが、また増えることもある、ということです。もう一度、いや、何度でも「信じてみよう」と思う気持ちが起こされる。神というお方がおられるならば、そのお方に委ねてみよう。その思いがあるかどうかで、事態が大きく変わってくるでしょう。



ここでイエスさまが語っておられることは、実際には非常に謎めいていますし、あまりにも現実離れしすぎている、というふうに読む人も少なくないでしょう。桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命じたら、実際にそうなるでしょうか。魔法杖をエイッと振ると物が空を飛び回るというのは、ハリーポッターの世界です。びっくり仰天です。



しかし、そのような心配は無用であると教えてくれる書物がありました。イングランド長老教会の神学者T. W. マンソン(1893年〜1958年。オックスフォード大学教授など歴任)が次のように述べました。



「このイエスの言葉は、キリスト者たちが魔法使いや手品師のようになることへと誘うものではない。ヘブライ人への手紙11章においてその栄誉が称えられている〔信仰によって生きた〕多くの英雄たちのようになることへと誘うのである。」
(I. H. Marshall, Luke, Eerdmans, p. 645より拙訳にて再引用。)



大切なことは、このイエスさまの御言葉において強調されているのは「信仰」であるということです。そして「信仰」とは、わたしたちの場合は、いつでも「神を信じること」です。つまり、強調点は「神」にあるのです。わたしたちがなすべきことは、神の全能の力を信じることであって、自分が体得した魔法の力を信じることではありません。教会は魔法学校ではありません。



今日の個所の第三段落のテーマは「奉仕」です。



「『あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、「すぐ来て食事の席に着きなさい」と言う者がいるだろうか。むしろ、「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。』」



最初に確認しておきたいことは、この話も一応、イエスさまが「使徒たち」(17・5)に向かって語られた言葉であると読むことができるという点です。「使徒」とは、教会の一つの職務の名前です。



そして、このことからわたしが申し上げたいことは、「使徒たち」に向かって語られたこの話(17・7〜10)は、“教会内の奉仕”との関連で読まれるべきである、ということだけです。もっと端的にいえば、ここで問題になっているのは“教会”であるということです。



そして、教会の中でわたしたち自身も実際に行なっている、さまざまな奉仕について、イエスさまがおっしゃっていることは、「しなければならないことをしただけです」と言うだけで、それ以上の何かを語らずに済ませるべきわざなのだ、ということです。



こういうふうに、イエスさまからはっきり言われると、なんとなく釈然としないと思われるかもしれません。もう少しくらいは誉めてくれてもいいのではないかとか、ちょっとくらいは威張らせてほしいとか。



しかし、わたしに証言しうることは、そういうふうに考える人は、実際の教会の中にはあまり多くない、ということです。



その理由として考えられる一つのことは、やや次元の違う話かもしれませんが、わたしたちが教会に来るとすぐに気付くことは、あまり口に出しては言いませんが、このわたしなどよりもはるかに大変で立派な働きをしてきたというような方々が、じつは、たくさんいる、ということです。



しかし、このこと自体も、じつはあまり問題ではありません。教会の中で最も大きな問題は、わたしたちは神さまの前にいるのだ、ということです。神さまは、まさにわたしたちなど足元にも及ばないほど偉大なお方なのです。教会の中で奉仕するわたしたちに求められるのは、謙遜な態度です。



イエスさまのお話は、ところどころ、非常に厳しい内容があります。しかしまた、心から納得できるものばかりです。



(2006年3月12日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年3月5日日曜日

「モーセと預言者」

ルカによる福音書16・14~31

今日の個所は先週学んだ個所の続きです。二つの段落を続けて読みました。すべてを詳しくお話しする時間がありません。今日は、主に19節以下についてお話ししたいと思います。

ただしその前に、最初の段落のうち一点だけ触れておきたいところがあります。それは14節です。

「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」

ここに出てくる「あざ笑った」という原語(エクムクテリゾー)は、「鼻(ムクテル)にしわを寄せる」とか「鼻を上に向けて息を出す」というような意味です。実際にやってみればすぐに分かることですが、ひどい話を聞かされたときとか、つまらないものを見せられたときつい鼻で笑ってしまうあれです。わたしたちもよくすることです。これが「軽蔑する」という意味になるのです。

イエスさまの話を聞いた人々の態度がこれであったというのですから、イエスさまの話は、よほどその人々の気に障ったか、よほど聞くに堪えないものだったのでしょう。

「金に執着するファリサイ派の人々」がイエスさまのお話を聞いたあとそのような態度をとったというのですから、これを逆に考えるならば、イエスさまのお話というのは、金に執着する人々にとっては何かとても気に障る、あるいは聞くに堪えないと感じるものでありうるということを示してもいるわけです。実際そのとおりであると、私も思います。そして安心いたします。

先週の個所に書かれていたいわゆる不正な管理人のたとえ話には、イエスさま御自身が語られた御言葉として「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(16・9)と書いてありました。これが、イエスさまがまるで不正なお金の使い方を奨励しているかのように読めることは事実です。しかし、そんなことをイエスさまが奨励なさるはずがないと、私は申し上げました。その根拠を今日の個所からも示しうると思います。

イエスさまの話を聞いた人々が笑った理由について、その正確なところはよく分かりません。しかし、金に執着するということは要するに、自分のお金はすべて自分のものであると考えているということでしょう。

その人々がイエスさまのたとえ話を笑う。どこで笑ったのか。「友達を作るために」、つまり、友達にプレゼントするためにお金を使いなさいという点ではなかったでしょうか。しかもこの世の子らのように、自分に見返りがあることを計算しながらプレゼントするのではなく、光の子らしく見返りを求めずプレゼントしなさいというのがイエスさまの教えであると理解してよいでしょう。

「金に執着するファリサイ派の人々」は、他人のためになど、びた一文も出したくないと思っていた可能性があります。だとすれば、その人たちからすると、イエスさまの話などは、聞くに堪えないと感じられたに違いないわけです。

私が今日の最初に確認しておきたいと願いましたことは、イエスさまが金に執着しておられるわけではないということです。お金に執着しているのはファリサイ派のほうなのです。

さて、今日、おもにお話しいたします19節以下の御言葉は、これもイエスさまのたとえ話です。初めに一言だけ感想を申し上げておきますと、このたとえ話は、読み方によってはわたしたちにとって非常に深刻で、難しい問題にぶつかるものでありうるだろうということを思わずにはいられません。

「『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。』」

このたとえ話の主な登場人物を二人と考えるか三人と考えるかは微妙です。美しいお召し物を着て毎日ぜいたくに遊び暮らす「ある金持ち」(名前はない)、この金持ちの門前に横たわる貧しくて不幸な「ラザロ」、これで二人です。

そして、三人目の登場人物と言いうるかどうかが微妙なのは天国の住人となっている「アブラハム」です。もっとも、これはたとえ話なのですから、あまり気難しく考える必要はないでしょうから、三人の登場人物と言ってよいでしょう。他には「犬」とか「天使たち」も出てきます。

このたとえ話の内容は、読めばだれでもよく分かるものです。

「『やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」しかし、アブラハムは言った。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」』」

この金持ちは、死んだあと陰府でさいなまれていました。そして、興味深いというか、なんとなく腹が立ってくるのは、この金持ちは、死んだあともラザロを自分よりも下の人間と見、アブラハムに向かって「ラザロをよこせ」だの「わたしの舌を冷やさせろ」だのと言って、陰府にいながらラザロをこき使おうとしていることです。

この人の問題は、何と言ってもここにあります。自分が死んだあと、陰府に至っても、自分はあの人よりも上だとか、あの人は自分より下だとか、そんなことを考え続けていた。そのような発想自体が、きわめて如何わしい。そう言わざるをえません。

どれくらいお金を持っていたかは分かりません。しかし、「金で買えないものはない」と言い張るような人の姿が思い浮かびます。貧しい人や、病気などで体が不自由な人の心を理解できない。想像力に根本的な欠けがある。自分より弱いと見た人に対しては、徹底的に見くだし、こき使う。

さて、このたとえ話の中で、イエスさまは、わたしたちの信仰にとってとても重要な、あるいは先ほど申し上げましたように、非常に深刻で難しい問題になりうる点をはっきりとお話しになっています。それが、次の御言葉です。

「『そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」』」

ここでイエスさまが語っておられることは、一方の天国にいるアブラハムとラザロと、他方の陰府にいる金持ちとの間には大きな淵があり、その二つの場にいる人々は、お互いに行ったり来たりすることができない、すなわち、通行不可能であるということです。

もう少し分かりやすく言えば、天国に行った人は、そこから陰府に落ちることは二度とないし、逆に陰府に落ちた人はそこから天国に上ることも二度とないということです。

ある意味で、単純明快な話です。しかしまたこれは、わたしたちにとっては、単純明快だからこそ、何とも表現しがたい複雑な思いにさせられる話ではないかと思われます。

この話を読んでわたしたちがどうしても考えてしまうことは第一に、この私は天国に行けるのだろうか、それとも陰府に落ちるのだろうかというようなことではないでしょうか。そもそもこの話は、そのようにわたしたちが考えるようにイエスさま御自身が仕向けておられるものであると思われます。

そして、その上で第二にわたしたちが考えてしまうことは、わたしたちはどうしたら陰府ではなく天国に行けるのだろうかということです。だって、考えてみたら非常に深刻ではありませんか。いったん陰府に落ちた人は二度と天国に行くことはできない、と言われているのですから。

天国に行くためにわたしたちはどうしたらよいのでしょうか。このたとえ話にヒントがあるのでしょうか。

「『金持ちは言った。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」しかし、アブラハムは言った。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」金持ちは言った。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」』」

天国と陰府との間が通行不可能であると分かったこの金持ちが次に考えたことは、今はまだ生きている自分の兄弟たちのところにラザロを遣わしてほしい。ラザロの口から兄弟たちに、陰府というようなこんな苦しいところに来ないでよいようによく言い聞かせてほしい、ということでした。

しかし、この願いを天国のアブラハムは断りました。「あなたの兄弟にはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。これはどういう意味かお分かりでしょうか。

「モーセと預言者」とは「モーセ五書」(律法、トーラー)と「預言者の書」(ネビーム)を合わせたもの、要するにわたしたちの言う「旧約聖書」のことです。イエスさまの時代には「新約聖書」はまだありませんでしたから、「モーセと預言者」の意味は「聖書」です。

つまり、天国のアブラハムは、この金持ちに「あなたの兄弟には聖書がある。彼らはそれを読むがよい」と勧めているのだと見ることができるわけです。天国に行くための読書(どくしょ)の勧めです。

ですから、これが先ほどの問題の答えでもあります。

問 わたしたちは、どうしたら陰府ではなく天国に行くことができるのでしょうか。

答 わたしたちが天国に行くために必要な知恵と知識はすべて聖書に書いてあります。
それを読みなさい。

ということです。

これも、きわめて単純明快な答えであると感じます。しかしまた、単純明快だからこそ、わたしたちには、何とも言えない複雑な心境に追いやられたような気持ちも起こってくるように思われてなりません。

なぜわたしたちが複雑な心境になるのか。人それぞれ感じ方は違うかもしれませんが、だいたい納得していただけるのではないかと思うのは次のことです。

「聖書を読めば天国に行ける。だから聖書を読みましょう。教会に来て、礼拝の中で、聖書を学びましょう」というふうに、わたしたちが、たとえば、そのような言葉で聖書を読むこと、教会に通うことを何度勧めても梃子でも動こうとしない人々が、わたしたちの家族や友人たちの中にたくさんいるからです。

あるいはまた、「それでは、聖書を読んだことがない人は天国に行くことができないとでも言うのか。そんなことはないのではないか」とか「教会に通って聖書を学んでいる人々の中にも悪いことをする人間は、たくさんいるではないか。それならば、聖書なんか、読んでも、読まなくても、同じじゃないか」などなど、じつにいろんな反論を実際に受けてきたからです。

そしてまた、そのようなことを自分で考えたり、人から言われたりするうちに、わたしたち自身もだんだん自信が無くなってくる。

「私は教会の生活だけは長いけれど、聖書なんかちっとも読んでいないなあ」とか、「聖書なんかちっとも読んでいない人々の中にも、尊敬できる立派な人はたくさんいる。聖書なんかわざわざ無理して読む必要はないのではないか」とか。

私自身は、わたしたちがそのように感じたり考えたり、迷ったり自信をなくしたりすること自体には罪がないと考えております。こういうことは誰でも考えることだからです。

しかし、問題はその先に進んでいくかどうかです。今申し上げたような迷いや自信喪失の中で、わたしたち自身が、この聖書を実際に読まなくなってしまうとしたら、そこから先に罪が始まるのです。

イエスさまの御言葉をよく読む必要があります。イエスさまは、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と語っておられます。

ここに出てくる「死者の中から生き返る者」とは第一義的にはラザロのことでしょう。しかしもう一つの意味はイエスさま御自身のことです。

イエスさまは死人の中からよみがえられた方です。死人の中からよみがえるということ自体は、もし本当にそういうことがありうるならば、ものすごいことでしょう。

ところが、そんなびっくりするようなことが起こっても、世界中の人々が、すぐにイエスさまを信じたかというと、そういうことは起こりませんでした。信じた人と信じなかった人がいました。

イエスさまはそのことをよく分かっておられました。だからこそ人々には、聖書を読みなさいと勧められたのです。

ここには比較があると私は理解します。聖書を読み、そこに書いてあることを信じることは、死者の中から生き返ってきた人の話を信じるよりも簡単だということです。聖書を開いて読むことは、今すぐにでも、できることだからです。

「天国に行きたいから聖書を読む」。これは動機として不純なものではありません。立派な動機であり、理由であると思います。ファリサイ派のように、イエスさまの言葉を鼻であしらうよりはましです。

時には、単純明快であることも悪くありません。そのことを最後に申し上げておきます。

(2006年3月5日、松戸小金原教会主日礼拝)


2006年2月26日日曜日

「友達を作りなさい」

ルカによる福音書16・1~13



今日の個所に書いているのもたとえ話です。しかしあらかじめ申し上げておきたいことは、このたとえ話は誤解されやすい、ということです。丁寧な取り扱いが必要です。



「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくためにはいかない。」』」



主な登場人物は二人です。「ある金持ち」と呼ばれている人と、その人のもとで働く財産管理人です。



「ある金持ち」について、もう少しだけ分かることがあります。これは当時のガリラヤ地方に多く存在した大地主を指しているのではないか、というのです。その人々は、多くのお金だけではなく、広大な土地を所有していました。そして、そこには広大な農園があり、いろんな産物を収穫する雇い人たちがいました。まさに豊かで恵まれた土地を持っていた人々である、と考えることができるようです。



また、もう一つ今日の個所から読み取れることは、この「ある金持ち」は、明らかに、ふだんは遠い町にいて、自分の土地とその産物については農園で働く人々と財産管理人に任せていた、ということです。



しかし、それが落とし穴になりました。財産管理人は、主人がふだん住んでいるところとの距離を利用して、不正を働いていた。主人の財産を無駄使いしていたというのです。具体的に何をしたのかは、はっきりとは分かりません。しかし思い起こされるのは、先週学びました放蕩息子のたとえ話に出てくる、弟息子の「無駄使い」です。



彼も「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(15・13)わけですが、彼がしたことについて兄貴が父親の前で指摘したことは「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来」た(15・30)ということでした。



今日の個所に出てくる不正な管理人の場合も、同じようなことを考えてよいはずです。「財産を無駄使いした」という全く同じ言葉が、二つのたとえ話に繰り返されています。この管理人も、いわば放蕩息子と同じように、自分の欲望や快楽のために、他人のお金を湯水のごとく使い、ドブに流すようなことを続けていたのです。



しかし、そんなのは遅かれ早かれ明るみに出ることです。悪いことをして、それを隠し通せるなどと思わないほうがよいです。



実際、彼の場合、不正疑惑が発覚しました。密告した人がいました。大地主は会計報告を提出させ、不正の事実が立証された場合には仕事をやめさせなければならないと考えました。当然のことです。



「『管理人は考えた。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」』」



焦ったのは、不正を行っていた本人です。そして、何とかしてこの難局を乗り切るために、ある一つの工作を始めました。



興味深いことは、この人は、いろんなことを先読みする能力に長けている、ということです。要するに頭がよい。物事の事情がよく分かっている人であると感じます。



この管理人はただちに完全に追放されてしまうとは考えていません。「主人がわたしから管理の仕事を取り上げようとしている」と言っています。つまり、彼が取り上げられると思っているのは「管理の仕事」です。しかし、主人のもとでの仕事は、管理の仕事以外にも、いろいろとあるわけです。



「土を掘る力もない」とあります。これは、おそらく、この主人の土地を掘る、という話です。つまり「土を掘る仕事」、いわゆる肉体労働ならば残っているというわけです。



しかし、自分はそんなことができる力はないと、この人は考えます。たしかにそういう言い分はありうることです。差別のような意図から申し上げるつもりは全くありませんが、財産管理のようないわゆる知的労働に向いている人と肉体的な労働に向いている人とがいるということは事実です。パソコンを使わせるとずば抜けているが、釘一本も打ったことがないというような人は、いくらでもいます。仕事を選んでいる場合ではないという言い方もありうるとは思いますが、人間には、できることとできないことがある、ということを認める必要はあるでしょう。



この人には、自分には土木作業は無理であるとの自覚がありました。しかし、財産管理の仕事に戻ることもできそうにない。そこで初めて、選択肢に「物乞い」をする、という可能性が生じてきた。しかし、それは「恥ずかしい」。



「『「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と言った。「油百バトス」と言うと、管理人は言った。「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。」また別の人には、「あなたは、いくら借りがあるのか」と言った。「小麦百コロス」と言うと、管理人は言った。「これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。」』」



この人が思いついた工作は、どれくらいの規模のものであったかを知るために、次の計算ができるようです。



まず「油百バトス」を「油五十バトス」に書き直すという話が出てきます。一バトスは39.5リットルです。百バトスは3950リットルです。その値段は、約500デナリオンであったと言われます。



次に「小麦百コロス」を「小麦八十コロス」に書き直すという話が出てきます。一コロスは393リットルです。百コロスは、39300リットルです。その値段は、これも約500デナリオンです。



つまり、油百バトスと小麦百コロスは同じ値段なのです。両方とも約500デナリオンでした。一デナリオンが、当時の労働者が丸一日働いて得ることができる賃金に相当する、と言われます。ですから、最も単純化するならば500デナリオンは500万円と考えてよいかもしれません。



つまり、この人は「油百バトス」や「小麦百コロス」各500万円を、まだ返済できていなかった人に対して、油については半額にしてあげましょう、小麦については二割引にしてあげましょう、ということを思いつき、実行に移したのだ、というのです。



いろいろ考えさせられるものがあります。とくに、実際に商売をしておられる方々の中には、お店に売っている品物の値段など、あってないようなものである、とお考えになる方も多いでしょう。多くの店に「半額割引」という看板が立っています。「二割引」くらいに書いてあれば、まだ高い、まだ値切れると思う人もいるでしょう。



ですから、この人が行った値引きそのものが悪いと語ることはできません。負債を軽くしてもらった人々にとっては、ありがたいことこの上ない話でもあったでしょう。



ですから、問題は、当然のことですが、この人がこのことを自分の犯した不正によって自分が職や家を失ったときに助けてもらえる人を作るために行った、という点にあるわけです。



これはやはり、どう考えてもまずいことです。彼が主人から預かっていた財産も、主人からお金を借りていた人々の負債も、彼のものではありません。これは横領罪です。それにもかかわらず、この人は、恩着せがましく、まけてやるとかなんとか。まるで自分のものであるかのように言っているわけです。ひどいものです。



ところが、です。ここに来て、だれもがびっくりするような言葉がイエスさまから飛び出します。主人は、この不正な管理人のやり方をほめた、というのです。そして、これはイエスさまのたとえ話です。このたとえ話を通してイエスさまは何をおっしゃりたいのか、ということが真の問題です。その問題の答えを、イエスさま御自身が語っておられます。



「『主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。』」



だれもが度肝を抜かれること必至です。しかし、だからこそ、これは取り扱いにおいて注意深くなければならない言葉であることは間違いありません。まるでイエスさまが不正な財産管理を奨励しておられるかのように読めることは事実です。



しかし、わたしたちは、まさかイエスさまがそんなことをおっしゃるはずがないだろうと思います。実際わたしがこれから申し上げる結論も、イエスさまがおっしゃっていることはそうではない、ということです。不正の奨励など、イエスさまがなさるはずがないのです!



イエスさまがおっしゃっていることは何か。それは要するに、全くの皮肉であり、逆説である、ということです。



このように理解するための鍵は、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」という言葉の意味は何か、という点にあります。



「永遠の住まい」という字を見ますと、わたしたちは、すぐに、そこには神さまがおられる永遠の天国のことを思い浮かべます。しかし、これはそういう意味ではありません。



じつは、全く正反対です。天国ではなく、地獄です。「住まい」と訳されているのは、砂漠の真ん中に建てられる天幕(テント)のことです。その天幕から永遠に出ることができません、という意味です。つまり事実上の死を意味します。これこそがイエスさまが「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」とおっしゃっている真の意図なのです。



しかも、このイエスさまのたとえ話は、「弟子たちに」(16・1)向かって語られたものです。あなたがた「光の子ら」(16・8)は、不正にまみれた富で友達を作り、永遠の刑罰を受けるような「この世の子ら」(同)と同じであってはならないでしょうということです。実際にはこの世の子らのほうが、賢く抜け目なくふるまっている。しかし、本来ならば、あなたがた光の子らのほうがもっと賢く抜け目なくふるまわなければならないはずでしょう、ということです。



これが皮肉であり、逆説であるという意味は何かといいますと、要するに、イエスさまがおっしゃりたいことは逆である、ということです。



あなたがた光の子らは、正しい富を使って正しい友達を作りなさい、ということです。そうすれば、あなたがたは、永遠の神の国に迎え入れていただける、ということです。



主人が不正な管理人を「ほめた」のも、なんとかして友達を作ろうとした点だけであって、横領罪の部分ではありません。ここを読み間違えてはならないのです。



ただし、です。わたしは、これまでの説明だけでは、すべてを語り尽くしたという思いには、まだまだなれません。ひとつだけ触れておきたいことがあります。



それは、今日の個所で、イエスさまが、富というものは本質的に「不正にまみれたもの」である、という認識を持っておられることは否定できない、ということです。お金というものは、罪の影響を受けやすいものである、ということです。



ただし、それは、きわめて限られた意味です。お金自体が汚らわしいとか、お金の話題や取り扱い自体が汚らわしいというような意味では全くありません。もしそのように考えなければならないとしたら、わたしたちは、この世の中から出て行かなければなりません。



「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。』」



わたしたちにとって大切なことは、この世の生活から、とにかく逃避しないことです。この世の生活に忠実であることができる人にこそ、本当に価値あるものが神さまから与えられる、ということです。



たとえば、牧師であっても、人の前で堂々と札束をめくって数えます。そういうことを軽蔑したり恥ずかしいと感じたりする人が時々いますが、わたしは、少しも恥ずかしいと思いません。小会や中会や大会などで扱う大きな話題は、お金の使い道です。そのようなことは、別に、汚らわしいことでも、恥ずかしいことでもありません。



伝道にはお金が要ります。こういうことを言うと嫌がられることがあります。しかし、もしそのあたりのことをはっきり語ることに躊躇や蔑視があるような牧師がいるとしたら、その人はキリスト教の根本が理解できていないのです。



大切なことは、自分の目の前の生活を、現実的に考え抜いていくこと、そして現実的に生きることです。キリスト者になることは、現実主義者になることなのです。



先週ある席で、ある人々から、また聞かれました。「牧師さんって、どこから収入を得ているのですか。どこか外国の本部から送られてくるのですか。」



わたしは、いちいち丁寧に答えました。別に隠すようなことではありませんから。不正によって得たものではありませんから。



わたしたちがささげる献金は、本質的かつ第一義的に「友達を作る」ためのものです。教会が伝道し、信仰の仲間を増やしていくためです。



教会は、不正な管理など決して許しません。この点は、どうかご安心くださいますように。



みんなで力をあわせて、教会の伝道に励んでいこうではありませんか。



(2006年2月26日、松戸小金原教会主日礼拝)





「今週の説教メールマガジン 第100号感謝号」記念巻頭言

佐々木冬彦 (作曲家・ハープ奏者)



関口先生、メールマガジン100号おめでとうございます!



私は一介の音楽家に過ぎず、説教学だとか最先端の神学について、よく知りません。ですので、もしかしたら的外れなことを書いてしまうかもしれませんが、そのようなところがありましたらどうかお許しください。



正確な数は数えてはいませんが、私はこの15年程の間に、約500くらいの教会(もちろんさまざまな教派)から招かれて、ハープの演奏をして来ました。そして、おそらく300人くらいの牧師の礼拝説教を聴いて来ました。これは、普通(?)のクリスチャンではちょっと経験できないことではないでしょうか。説教演習などではなく、いずれも、第一線の牧会現場で奮闘している牧師たちの、真剣勝負の礼拝説教です。ですから、おこがましいことを書かせていただくとしたら、私は説教に関してはけっこう耳が肥えているのではないかと思っています。(こう書くとやはりおこがましいですね・・・。)



だからと言って、私はこの場で「今まで出会った牧師の中で、関口康は説教者ベスト何番!」などと順位をつけるつもりはありませんし、そのようなことはするべきではないと考えています。それでも、是非ここで書かせていただきたいことは、「関口先生の説教はとても良いです!」ということです。ついでにこの場をお借りして、「関口先生は根っからの牧会者・説教者です!」ということも皆さんにお伝えしておきたいです。



私が演奏奉仕先の教会で、そこの牧師さんから「佐々木さんの教会の牧師は何と言う先生ですか」と尋ねられて、「関口康先生です」と答えますと、婉曲的にですが「関口康と言うのは○○研究会などをやっている、書斎にこもった神学オタク牧師じゃないですか」というような反応をしばしば感じることがあります。それほどまで関口先生の神学研究活動が認知されていると言うことは喜ばしいのですが、「ちょっと誤解されているな」と残念に思います。



関口先生は書斎にこもりきりの牧師ではありません。私を含め、教会員の相談に親身に乗ってくださり、またわれわれのために文字通り東奔西走しておられます。私から見ますと、もう少し書斎にこもらせて、じっくりと執筆活動をさせてあげたいな、と感じるほどです。



関口先生は確かに神学に大変造詣の深い先生です。でも関口先生の説教をお聴きいただけばわかると思うのですが、関口先生が日夜研鑚している神学は、論文を書くための神学でもなければ、神学オタクのためのスコラ的神学でもありません。むしろ、自分の羊の魂を守り、励まし、養い、生かす、そんな説教と牧会をするための神学だと思います。



少なくとも私は、関口先生の説教によって何度か危機を乗り越えてきました。迷っているときには強く背中を押されたこともありました。決して大げさでなく、「ボクの人生を変えた説教」と言える説教もありました。



今、松戸小金原教会の朝の礼拝ではルカによる福音書からの説教が続いています。正直言って、自分ひとりで福音書を読んでいても、イエスさまの言葉の意味や意図がよくわからなかったり、奥が深すぎてどのように受け留めたらよいのか途方に暮れてしまうところが多々あります。しかし、関口先生の言葉でイエスさまの言葉を解説していただくと、とても「腑に落ちる」のです。



どちらかというと、関口先生は説教でそれほど明確に「適用」を語りません。しかしその分私は、いかにそのみことばを自分の人生に適用したら良いか、魂のインスピレーションがかき立てられます。どのように生きたらよいか教えられ、進むべき方向が示され、また疲れているときには慰められます。ときに厳しい言葉もありますが、それでも関口先生の説教は「裁き、怖れさせる説教」ではなく、いつも「励まし、生かす説教」です。



現在インターネットで上では、関口先生の礼拝説教を音声でも聴くことができます。私は個人的には、メルマガで原稿を読むよりは、実況録音した音声で聴く方がずっと良いと感じています。(原稿の方は公開する前に手が入れられ、練り上げられているのでしょうが。)



でも、いくらパソコンで説教が読めたり聴けたりしても、私はより多くの方に是非、松戸小金原教会の礼拝で、「ナマ」で関口先生の説教を聴いていただきたいと願っています。音楽も説教もナマが一番です。



関口先生、今後ともよろしくお願い致します。



(日本キリスト改革派松戸小金原教会会員)



死に至るまで忠実であれ ~スミルナ教会へ~


ヨハネの黙示録2・8~11

天に挙げられたイエス・キリストから、地上の教会へと書き送られた手紙の第二番目は、スミルナの教会に宛てたものでした。

歴史上のスミルナ教会についてわたしたちに分かっていることは、ほとんど何もありません。わたしが調べたかぎりでは、スミルナという町は、当時の世界の中で最も美しく、かつ最も豊かなものであった、と書いている本があったくらいです。

美しく豊かな町。しかし、それならば、教会の人々も、なんとなくのんびり、ほんわかとしていたのかと言えば、そうではなかったと考えられます。教会は、キリスト教信仰に反対するユダヤ人たちとの間で、まさに生死をかけた戦いをしていました。そして、その中で、彼らは「貧しさ」を体験していた、というのです。

「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。」

イエス・キリストは、あなたがたスミルナ教会は、貧しいけれども豊かである、と言われています。とても微妙な言い方です。わたしには、この御言葉の中には、精神的な意味と物質的な意味との二つの意味が込められているように思われてなりません。

精神的な意味とは、あなたがたは、物質的には貧しいかもしれない。しかし、神さまの祝福のもとにあるので、精神的には豊かである、というようなことです。このように理解することも、もちろん、できるでしょう。

しかし、わたしには、そのようなことだけではないように思われてなりません。物質的な意味もある。物質的な意味とは、あなたがた一人一人は、じつは、物質的にはまことに豊かな生活をしている。しかし、それにもかかわらず、あなたがたの「教会」は、物質的な貧しさの中にある、ということです。

そういうことは実際には起こりうる、ということは、皆さんは、よくご存じでしょう。教会は、今も昔も、教会員の献金で支えられてきました。そこでどうしても言わざるをえないことは、教会にささげられる献金の額は、教会員一人一人の持ち物の多さと、必ずしも完全に一致するわけではない、ということです。

お金持ちばかり集まれば大きな立派な教会ができる。そうでない人々の集まりは、常に小さくて、みすぼらしい教会にしかならない、ということでしょうか。そんなことはありえない、というのが、わたしたちの体験上の知識ではないでしょうか。

実際問題として、教会の豊かさや大きさは、会員一人一人の持ち物の多さとは、必ずしも一致しません。一致するのは会員一人一人の信仰の熱心です。しかし、それだけでしょうか、ということも申し上げておかねばならない点です。

一人一人の熱心はある。十分すぎるほどにある。しかし、たとえば、家族の中でわたし一人が教会に通っています、という場合は、どうでしょうか。家族のほかの人々は、わたしが教会に通うのも、教会に献金することも、一切反対であり、場合によっては、わたしが教会に通ったり、献金したりするのを強く引きとめ、妨げようとするという場合もあります。

西暦一世紀の教会の文脈において、ユダヤ人の反対という問題が紹介されている場合、そこで考えなければならないことは、自分の家族の中に反対者がいた、ということです。そのようなことは、十分にありえたことです。

そして、それは、わたしたち現在の日本の教会の状況、すなわち、日本プロテスタント伝道一六〇年の状況と似ているところがあります。実際、このことは、わたしたちの多くにとって、身に覚えのあることではないでしょうか。

しかも、この問題は決して単純なものではありません。なぜ単純でないかと言いますと、たとえば、家族に猛烈に反対されたという場合、わたしたちは、それでも何が何でもどこまでも、絶対に自分の信仰の立場を押し通すことが必要であると思われる場合と、そこであまり無理しないほうがよいのではないかと思われる場合とがあると、言わざるをえないからです。

いずれにせよ、明らかなことは、どちらがよいか、というようなことは、第三者が何事かをとやかく言えるようなことではない、ということです。各自がよく祈って判断すべきことです。信仰の立場を何が何でもどこまでも押し通すことができなかった人を、わたしたち人間同士で裁きあうことはできないのです。

しかし、それでもなお、です。わたしは、ここで話を終わらせるわけには行きません。

イエス・キリストは、どうでしょうか、ということを考えてみる必要があります。迫害と誘惑の中にあったスミルナ教会を、わたしたちが、ではなく、イエス・キリストが、どのような言葉で励まし、力づけておられるのでしょうか。わたしたちは、そのことに関心を持たなければなりません。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」

これは、どうか、厳しい裁きの言葉として受けとめ、かつ拒絶しないでいただきたいところです。

「一度死んだが、また生きた方」であられるイエス・キリストが「死に至るまで忠実であれ、そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」と言われているのは、裁きの言葉としてではなく、励ましの言葉として、語っておられます。

言うならば、その道は、わたし(キリスト)も通った道である、ということです。

体験者は語る、です。

死んで損はしなかった、ということです。

信仰に生き、かつ死んだ者には、復活のいのちを与えられるのだ、ということです!

(2006年2月26日、松戸小金原教会主日夕拝)

2006年2月19日日曜日

「放蕩息子と喜びの祝宴」

ルカによる福音書15・11~32



今日はかなり長く読みました。すべてひとつながりです。途中で切ることができません。



「また、イエスは言われた。『ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。』」



主な登場人物は、三人です。お父さんと、二人の息子です。三人とも名前は紹介されていません。今日は便宜的に「父親」、「兄息子」、「弟息子」と呼んでおきます。



弟息子が父親に向かって、「わたしが頂くことになっている分け前をください」と言いました。これはやはり、倫理的ないし道義的に問題のある、また、論理的にも成り立たない物言いなのだと言わざるをえません。



ここで彼が主張している財産分与は、本来ならば父親が死んだときに行われるものです。つまり、この弟息子は、まだ生きている父親に「あなたが死んだことを前提にして、おれの分け前をよこせ」と言っているわけです。早い話、「オヤジ頼むからもう死んでくれ」と言っているのと、ほぼ同じです。道義的な問題性は明白です。父親に何の恨みがあるかは知りませんが、言ってよいことと悪いことがあります。



また、彼の主張は、よく考えると、論理的にも成り立たないものです。父親が死んだときに貰える分、と言いましても、まだ父親は元気に生きているわけです。現役で働いていたかどうかは分かりませんが、どうやら、この家には多くの従業員がいて、父親は一族会社のオーナーのようですから、収入をいまだに得ていたと考えてよいでしょう。



そうだとするならば、です。父親の財産は、その人が生きているかぎり、常に変動していくものでしょう。もしかしたら、明日、急に事業が成功して、莫大な財産をさらに手にするかもしれません。あるいは、全く反対に、何か大きな失敗や挫折があって、この父親自身が明日、突然、無一文になってしまうかもしれません。そういうことは、十分起こりうることです。



それにもかかわらず、です。この弟息子は「オヤジが死んだときにおれが貰えるはずの分け前をよこせ」と言っているわけです。しかし、たとえばの話ですが、彼がもし、それを貰った後で、父親の会社が大成功を収め、現在父親が持っている財産がさらに増えたらどうなるか。それはもう彼のものではありません。そういうことを、この息子は考えもしない。



父親が生きているかぎり、明日何が起こるか、何が変わるか、誰にも分からないのです。そのことが分からない。想像力に根本的な欠如があるのです。論理的にもおかしなことをしているのです。



ところが、です。この父親は、黙ってなのか、何かを言いながらかは分かりませんが、この弟息子に要求どおりの財産を手渡してしまいます。やめておいたほうがよかったような気がします。たとえ子どもであっても、手渡してよいものと悪いものがあります。



案の定、弟息子は、受け取った財産の全部を換金して、外国に行き、兄息子の指摘によりますと「娼婦どもと一緒に」父親の身上を食いつぶし、財産を無駄使いしてしまいます。



留学なども含めて、外国旅行というのは、この種の危険がいっぱいであると言われます。外国では非日常の開放感を味わい、気持ちが大きくなると言われます。見ず知らずの人々の中では何をしてもよいという錯覚に陥るようです。また、誘惑も多い。現地の言葉を理解できないなど不安要素が少なくない。その上、自分が稼いだのでもないお金などを持っていますと、すぐに見破られ、格好の鴨にされてしまいます。あやしい人々が近づいてきて、あっという間に、全財産を“使い果たさせる”。



この弟息子にも、もちろん大きな責任があります。しかし、少しくらい考えてあげてもよさそうな点があるとしたら、この世界の中には、甘ったれたコドモを鴨にして、全財産を巻き上げてしまう人々がいる、ということです。危ないと分かっているのに、恐いもの見たさで近づくのは、やめるべきです。



「『何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。』」



彼は、文字どおりの無一文になりました。さらに追い討ちをかけるように飢饉が起こりました。それでも、彼には、住まわせてもらえる家と仕事が、辛うじて与えられました。これはラッキーと言うべきでしょう。家のない生活は、わたしたちにとっては、ただちに死を意味する、と言っても、決して言い過ぎではないはずです。



ただし、です。そうかと言って、まともな給料がもらえるわけではなく、三度の食事があるわけでもない。「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった」というのは、非常に実感のこもった表現であるように感じますが、イエスさま御自身にこれと同じような体験がおありだったのかどうかなど、そのあたりは全く知る由もありません。



「『そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」



「彼は我に返って言った」とあります。ここで「我に返る」という言葉は、文字どおりの意味があるだけです。自分自身に立ち返るとか、自分自身の本来あるべき姿を思い出すというようなことだけです。たとえば、「回心した」というような意味までは、ありません。



実際、彼が「我に返って」思い出したことは、自分がそこで生まれ育った父親の家です。なぜ、この話の中に一度も母親の存在が言及されていないのかということ自体は謎です。ただ、もちろん確たることは言えませんが、この話の中心にあるのが財産分与という問題であるということが関係しているのではないか。その家の財産の持ち主としての父親です(当時の話です)。母親がいたかどうかは、この話の趣旨とは直接関係ないことです。



それはともかく、実際問題、彼が「我に返って」思い出したことは、よく読みますと、彼の父親の存在そのものではないように読めてなりません。



「我に返った」彼が思い出したのは、父親自身ではなく、父親の財産です。「大勢の雇い人がいる」とか「有り余るほどのパンがある」とか。彼の頭に浮かんでいるものは、雇い人であり、パンです。父親の顔でも姿でもない。この甘ったれ息子は、父親の持ち物を、相変わらず当てにしているだけです。



しかし、これは、いくらなんでも、ありえない話でしょう。彼はすでに、彼自身の分け前については、すべて受け取ったはずです。そのことを彼自身で主張しました。そして、父親も、彼自身の申告に基づいて財産分与を行ったわけです。



このことが何を意味するかは、すぐにお分かりいただけるでしょう。つまり、それは、この時点において父親の家には、この弟息子に残されているものは、何一つない、ということです。水一滴もありません。だからこそ、兄息子のほうは、弟が帰って来たことに、非常に腹を立てたわけです。お前の分はもうどこにもないはずだ。残りは全部わたしのものだ、と考えたに違いありません。



しかし、自分に都合のよいようにばかり考えるこの弟息子は、すでに自分の分はすべて持って出たはずの父親の家を思い出し、父親の財産を思い出し、そこに帰りたいと考え、帰るためにはどうしたらよいのか、そのための作戦を練りはじめるのです。



彼が思いついた作戦は、二つある、と見ることができます。



第一は、とりあえず謝罪しておきましょう、ということです。彼の謝罪文には「わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました」と書き込まれました。「天」とは、神さまのことです。お父さんは、自分に財産を与えてくれた人であり、家族の代表者です。神様と家族の前で謝罪すること。



第二は、息子としてではなく、雇い人の一人にしてほしい、ということです。わたしは自分の実家の中で元のように扱ってもらえるとは思っていない。自分の分け前は全部持ち出し済みであることについては、もちろん承知している。でも、雇い人ならば別でしょう、と。賃金をいただけないでしょうか、というわけです。これは、ただ卑屈という以外に、表現のしようがありません。しかし、彼が父親とその家族に対してしてきたことを考えると、なるほど、そのような言い方をもってしか自分の家に帰ることができる道が開かれていくことは、ありえないようにも思います。



何度も言うようですが、まだ生きている父親に向かって「わたしの分け前をよこせ」と言ったのは、他ならぬ彼自身です。その願いに父親が応じた以上、父親の家の中に、彼が受け取ってよいものは、水一滴も残っていないはずである、ということです。ですから、なるほど、彼が家に戻れる可能性はただ一つ、雇い人の一人になる、ということしかない、というのは、論理的には、納得の行く話です。



しかし、彼の父親は、こんなバカ息子の屁理屈には一切乗らなかったというのが、この話の一つの結末です。



「『そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。』」



論理的に考えていくならば、この弟息子の考えていることのほうが、正しいのかもしれません。しかし、こんなのは、はっきり言って、全くの屁理屈です。



自分の息子が“雇い人の一人”になりうるでしょうか。自分の息子に“賃金”を払うのでしょうか。父親の会社に息子が就職する、というのは、よくある話です。しかし、これはそういう話ではありません。考えなければならないことは、もしその子どもが仕事をうまくできなかったり、気に入らなくなったら、クビにするのでしょうか、ということです。会社をクビにすることはありえます。しかし、“家をクビにする”のでしょうか。そんなことを、どんな親がするのでしょうか。皆さんは、そういうことをなさるでしょうか。



この弟息子が犯した最大の罪は、放蕩の限りを尽くしたこと自体でも、財産を無駄使いしてしまったこと自体でもないように思われてなりません。彼の最大の罪は何か。父親の心の中をおしはかることができなかった、ということです。父親が、彼のことについて、何を思い、どれだけ思っているかを全く想像すらできなかった、ということです。



だからこそ、わたしを雇い人にしろだの、賃金を支払えだのと、くだらないことを考えたのです。そういう言葉こそが、父親の心をいちばん深く傷つけるものだ、ということが分かっていなかったところに、彼の最大の罪があるのです。



父親としては、前半の謝罪についてはともかく、後半の雇い人うんぬんの話は聞きたくありません。だから、この弟息子が準備した文章の中の「もう息子と呼ばれる資格はありません」に続く「雇い人の一人にしてください」の部分を、父親自身がさえぎっていることが、お分かりいただけるはずです。ああ、うるさい、もう黙れと言いたいかのようです。「雇い人にしてください」?そんなことは、父親にとって、子どもからいちばん言われたくない、いちばん腹が立つ言葉なのです。



父親としては、自分の息子が帰ってきたという、ただそのことがうれしかっただけです。そのことを単純に喜ぶことは、父親には許されていると思います。それは、なんだかんだというような屁理屈では、説明できないものです。



「『ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」』」



父親の態度を、兄貴は理解できません。兄貴は非常に腹を立てます。彼の言い分には、ある程度説得力があります。しかし、肝心なことを忘れています。



兄息子がすっかり忘れてしまっていることは、自分の父親の子どもは、一人ではなく、二人いる、ということです。どんな子どもでも、親にとっては、永遠に子どもです。兄弟同士は、早くいなくなってほしいと願ったり、邪魔だと思ったりするのかもしれませんが、それは子どもの論理であって、親の論理ではありません。



ですから、ここでも当てはまると思われることは、兄貴のほうも、父親の心の中をおしはかることができないという点で罪を犯しているのだ、ということです。



想像力が根本的に欠けているのです。自分のことしか考えていないのです。このたとえ話に出てくる「放蕩息子」は、一人ではなく、二人である、と言われるゆえんが、ここにあるのです。
 
「『すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しむのは当たり前ではないか。」』」
 
これこそが、“親の論理”です。論理的には、明らかに、飛躍があり、無理があります。財産分与というある意味で純粋な契約関係上の事柄からすれば、弟息子にはもはや何一つ残されていないことは、明らかです。しかし、そういう契約だとかややこしいことを全部すっ飛ばしてしまう何か、理屈では説明できない何かが親子の関係の中にはあるのです。



それと同じように、とイエスさまは、おっしゃろうとしているのです。これは、イエスさまのたとえ話です。イエスさまが、この話を通して何をお話しになろうとしているのかが、最後に問われなければなりません。



イエスさまの意図は、より直接的に言えば、イエスさまが、徴税人や罪人たちと一緒に食事をしておられたことに文句を言ってきたファリサイ派や律法学者たちへの反論です。



弟息子は徴税人や罪人たち、兄息子はファリサイ派や律法学者たちです。そして父親は、神さまです。神さまの前で、あなたたちは兄弟ではないか、ということでしょう。似たり寄ったりだ、という言い方も成り立つでしょう。それなのになぜ、兄が弟を見下したり、よけものにしたり、差別したりするのか。そんなことをしてはならない、ということです。



しかし、です。そのような問題の解決には、いろいろな難しい要素がある、ということは、わたしたちもよく知っているところではないでしょうか。



しかし、だからこそ、というべきでしょう、イエスさまが、このたとえ話を通じて最もわたしたちに伝えようとしておられるのは、この兄弟の両方の父親の心の中にあるものは何かということを、想像力をうんと働かせて考えてみよ、ということではないでしょうか。



それは、別の言葉で言い換えますと、先ほど申し上げた“親の論理”を、よく理解せよ、ということです。どんな子どもであっても、自分の子どもがせっかく帰ってきたのだから、「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前である」という“論理”です。この“親の論理”が、神さまの論理でもあるのです。



神さまは、子どもたちが神の家に帰ってくることを、ただひたすら首を長くして待っておられます。しかも、真面目に生きてきた人だけが救われるのではなく、罪人にこそ救いが必要なのです。



そして、見落としてはならないことは、弟息子も兄息子も、父の前では同じ“放蕩息子”なのだ、ということです。



罪人を救うために、神は、イエス・キリストを地上に遣わしてくださったのです。



(2006年2月19日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年2月12日日曜日

「見失った羊を見つけ出すまで」

ルカによる福音書15・1~10



今日は、二つの段落を続けて読みました。記されているのは、いずれも、イエスさまのたとえ話です。内容的にとてもよく似ている、二つのたとえ話です。



「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」



ここに紹介されているのは、この二つのたとえ話をイエスさまがお話しになったときの状況です。ここに登場する「徴税人や罪人」は、当時の世間の人々から嫌われていました。



ところが、です。イエスさまは、そのような人々のことが好きだったのだと思います。こんなふうに言いますと、誤解されるかもしれません。しかし、そういうふうにしか表現できないような何かを感ぜざるをえません。



徴税人や罪人とイエスさまとの関係については、ルカによる福音書においてすでに一度、非常にはっきりと記されていました(ルカ5・27〜32参照)。イエスさまは、彼らと一緒に食事をしておられたのです。



ところが、です。そういうイエスさまの態度に不満を感じる人々が、文句を言ってきた。その人々に対して、このたとえ話が語られたのです。



「そこで、イエスは次のたとえを話された。『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。』」



最初に申し上げておきたいことは、これとよく似た話がマタイ福音書(18・10〜14)にも出てくるのですが、両者を比較すると、明らかに異なる点があると言わざるをえない、ということです。



どの点かと言いますと、マタイが「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば」(マタイ18・12)と書いているところを、ルカは「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」(ルカ15・4)と書いているという点です。この中で異なる部分は、二つあります。



第一は、百匹の羊を持っているのは「ある人」なのか、「あなたがた」なのか、です。



第二は、その中の一匹が「迷い出た」のか、それとも「見失った」のか、です。



第一の相違点から考えられることは、ルカはここでイエスさまの御言葉を、読者自身の体験に照らし合わせて考えるようにと読者に訴えているに違いないということです。これは、どこかの誰かの話ではなく、赤の他人の話でもない。あなたがた自身のことである。そのように考えながらこの個所を読んでくださいと、ルカが訴えているのです。



第二の相違点から考えられることは要するに、一匹の羊を捜しに行く責任の所在はどこにあるかということを、ルカがはっきりさせようとしているに違いない、ということです。



「迷い出た羊」であるならば、迷った責任の一端は、いわばその羊自身にもあると言わざるをえません。もしそうであるならば、すべては自己責任なのだから、飼い主が捜しに行くことにも限度がある、という言い方も、全く不可能ではないはずです。



ところが、ルカの記述は、明らかに違います。その一匹の羊を「見失った」のはあなたがた自身です。勝手に迷子になった羊の責任など取れるはずがないというような言い逃れは一切通用しません。見失ったあなたがた自身に、全責任があるのです。



このようなことをわたしが申し上げるとき、マタイとルカのどちらが歴史的イエスさまの真正の言葉であるか、ということを問いたいわけではありません。申し上げたいことは、今日の御言葉を読むときのチェックポイントがどこにあるのか、ということだけです。



チェックすべき第一の点は、わたしたちがこの個所を読むときには、自分自身の問題として受けとめるべきである、ということです。第二の点は、落とし物や失くしものをしてしまった責任は、それを落としたり失くしたりしたわたしたち自身にある、ということについては、言い逃れの余地はない、ということです。



しかし、です。今申し上げました二つの点は、このたとえ話の中でイエスさまがお語りになっていることの中心部分でも強調点でもありません。大切なことは、もっと別のことです。ただし、先ほど申し上げたことにも、間違いなく関連しています。



大切であると思われることは、今日の個所で重要なポイントは、やはり、その一匹の羊は、勝手に迷子になったのではなく、あなたがたが見失ったのだ、という点です。



もしそうであるならば、その羊を捜しに行く責任は、あなたがたにあるのではないかとイエスさまが言われているという点は、どうしても避けて通ることができません。九十九匹を野原に残してでも、です。見失った一匹を、あなたがた自身が捜し回りに行くべきではないでしょうかと、イエスさまは明らかに言われているのです。



しかし、です。これでもまだ、このイエスさまのたとえ話の中心部分に届いているとは思えません。責任とかいう言葉を聞くだけで重苦しくてつらいと感じるばかりです。



そして、実際、このイエスさまのたとえ話の強調点は、だれかの非を責めることにあるわけではないと思われて仕方ありません。迷子になった側が悪いのか、それとも見失った側が悪いのかというような議論は水かけ論です。意味がないし、いつまでも終わりません。イエスさまの強調点は、そこにはないのです。



それではどこに強調点があるでしょうか。それは5節から7節までに三回繰り返されている「喜び」という言葉です。また、今日は十分にお話しすることができません、第二のたとえ話(15・8〜10)の中にも二回繰り返されている「喜び」という言葉です。



「『あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。』」



以前からお話ししておりますことは、聖書の中で繰り返されている言葉には強調がある、ということです。



来週お話ししますいわゆる放蕩息子のたとえ話の強調点も「喜び」です。わたしがいつも参考にしている注解書はルカ15章の1節から32節までの全体のタイトルを「喜びについての三つのたとえ話」[*]としています。



大切なことは“だれが悪いか”ではなく、“何が喜びか”なのです。



「『そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。』」



これは、まさにわたしたち自身の体験に照らし合わせてみれば、よく分かる話なのだと思います。落とし物や失くしものをしたとき、なかでも非常に大切なものである場合には、いちばんあわて、傷つき、精神的に落ち込むのは、他ならぬ当の本人です。自分のしたことがいかにひどいことかを知っているのは、本人です。



しかも、です。「羊」と、次のたとえ話に出てくる「銀貨」の共通点がもしあるとしたら、それは、第三者の手に渡ってしまった場合に、持ち主の手に返って来る可能性は、ゼロに等しい、ということでしょう。



たとえばの話ですが、皆さんの中に道に落とした一万円札が返って来たという経験をお持ちの方がおられるでしょうか。財布の中にでも入っていれば、可能性はゼロとは言えないかもしれませんが、実際にはほとんどの場合、戻ってくることはありません。



そんなときにわたしたちが感じることは、何とも言えない悔しさです。自分が落としたのですから「あなたが悪い」と言われても仕方がないのですが、「盗られた」というような思いが去来するものです。



しかし、です。わたしたちの体験の知るところによりますと、そういうときに限って、周りからいろんな言葉で責められたり、叱られたりするものです。追い討ちをかけられ、ますます傷つくのです。



しかし、だからこそ、というべきでしょう。それが大切なものであればあるほど、一生懸命に捜します。捜す気になれないようなものは、大切ではないのかもしれません。



捜して、捜して、捜して、です。そのときのわたしたちの状態の特徴としてはっきり言いうることは、ほとんど周りが見えていない、ということです。捜そうとしているそのものだけに、全神経とすべての関心が集中してしまっています。



「九十九匹を野原に残して」というのは、その九十九匹が大切ではないということではありません。しかし、ここでなぜか「ごめんなさい」と謝りたくなるのですが、捜しものをしているときの精神状態の特徴は、視野が狭くなること、周りが見えなくなることなのです。



「九十九匹」とは、99パーセントです。「9割9分大丈夫です」と言えば「ほとんど確実です」というほどの意味になるでしょう。その99パーセントをいわば放っておいてでも、1パーセントの事柄に集中するわけです。よく言えば、集中力が高まっている状態ですが、悪く言えば、視野が狭くなっている状態です。精神のバランスも崩れています。



そして、その結果として喜びの大団円を迎えることができたとき、すなわち、その捜しものが見つかったときに、そこにあるのは何か。



「喜び」である、とイエスさまは、語っておられます。緊張が解けたあとの、ちょっとした狂喜乱舞です。



イエスさまによりますと、見つけた人は、「喜んでその羊を担ぐ」のだそうです。冷静に考えますと、どんな小さな羊でも実際には結構重いと思うのですが、重さとかそういうことはあまり感じないほどに、すっかり大はしゃぎの状態になる、ということでしょう。



次に、「友達や近所の人々を呼び集めて、『・・・一緒に喜んでください』と言う」のだそうです。今の日本にこういうことをする人がいるだろうかと思わなくもありませんが、それはともかく、イエスさまの意図としては、我を忘れて大はしゃぎしている人の様子を描こうとされているようです。キャッキャとした状態です。



「『言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』」



「このように」とは、たとえ話を通して明らかになったように、ということでしょう。何が明らかになったのでしょうか。それは、はっきりしていると思います。



イエスさまが徴税人や罪人たちに近づき、一緒に食事をし、彼らと仲良くなること。



そのようにして、徴税人や罪人たちがイエスさまの仲間に加わること。



それらはすべて、だれよりも先にイエスさま御自身がお喜びになるためであり、また、イエスさまと共に生きる者たちが喜びに満たされるためであり、そしてその大きな喜びが「天」にあり、「神の天使たち」までもが喜ぶためである、ということです。



もちろんイエスさまは、御自分の仲間が増えることを本当にお喜びになります。しかし、それは、悪い意味で政治家的に、自分の支持者が増えて自分の権力が増し加わる、というようなことをお喜びになるということではありえません。イエスさまは、そんなことには全く関心がありません。



罪の泥沼の中から救い出された喜びを、真心と感謝をもって分かち合うことができる、仲間が増えること。



それだけが、それだけが、イエスさまの喜びであり、わたしたち自身の喜びなのです!



[*] Drie gelijknissen over de blijdschap.



(2006年2月12日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年2月5日日曜日

「弟子の条件」

ルカによる福音書14・25〜35



今日の個所には、どう考えてもえらくたいへんなことが記されております。できるだけ誤解が残らないように、きちんと理解される必要があります。そのため、今日は25〜27節の御言葉に集中してお話しします。そのことを、あらかじめお断りしておきます。



「大勢の群集が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。』」



イエスさまが「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても」と言われています。これは、イエスさまがこの御言葉をお語りになった場面として紹介されている「大勢の群集が一緒について来たが」という点に対応していると考えられます。



つまり、このときイエスさまは、御自身の目の前にいた、イエスさまと一緒についていこうとしていた大勢の群集に向かって、条件または試験問題を出されたのです。



イエスさまとしては、だれかが弟子となり、御自身のあとについて来ることについて、そのこと自体を拒むおつもりはないはずです。なぜなら、イエスさまは「わたしについて来なさい」という言葉をペトロや他の弟子に向かって語っておられるからです(マタイ4・18〜22、マルコ1・16〜20)。



ところが、です。ここでイエスさまが語っておられることは、明らかに次のようなことです。



「どうぞわたしについて来てくださって結構です。ただし、条件があります。それは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、そして自分自身(新共同訳「自分の命」)を“憎むこと”です。もしこの試験問題をクリアできる人ならだれでも、わたしの教会に入門することができます」と。



しかし、どうでしょうか。この条件には、だれが考えても、引っかかるものがあります。それは、言うまでもないことですが、なぜ「憎ま」なければならないのか、という点です。



なんてことをおっしゃるのか、と思います。わたしたちの心の中のタブーに触れるものがあります。わたし自身も、なんだかとても気に障る言葉が語られているような気がしてなりません。



とりあえず確認しておきたいことは、以下の点です。



第一は、これは誤訳ではない、ということです。ギリシア語の原文を見ましても、ここで使われているのは「憎む」としか訳しようのない言葉であることは、明らかです。



第二は、少しほっとした気持ちになれるものです。ある解説によりますと、ユダヤ人の言語体系の中で「憎む」とは「愛する」という言葉の反対語であるというのです。そして、そもそもユダヤ人の言語は白か黒かがはっきりしていると言われます。「光」の反対は常に「闇」です。「真実」の反対は常に「虚偽」です。両者の中間がないのです。



ちょうどそれと同じように、と言いうるようです。ユダヤ人の言語体系の中で「愛する」の反対は、常に「憎む」です。両者の中間の状態を表わす言葉がないのです。



しかし、たとえば、わたしたちの日本語は、そうではありません。「愛する」か、そうでなければ「憎む」か、そのどちらかしかないというような極端な二者択一は、少なくとも日本語の感覚とは異なります。日本語は、むしろ、このあたりのことについて非常に微妙なニュアンスを言い表すことができる、非常に繊細な言語であると言えるはずです。



しかし、この点でわたしたちが認めるべき単純な事実は、イエスさまはユダヤ人であるということです。イエスさまは、ユダヤ人の言葉で語っておられるのです。



第三は、ちょっとややこしいのですが、どうしても避けて通ることができない説明です。それは、イエスさまの御言葉の中に出てくる「憎む」(ミセオー)という言葉は、旧約聖書の申命記21・15〜17に出てくる「疎んじる」(サーネ)という言葉を背景としているものである、ということです。



そこにあるのは、いわゆる“長子の特権”に関する規定です。ある人に二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。しかし、両方とも子供を産んだ場合、疎んじられたほうの妻の子供が長子(夫にとって最初に生まれた子供)である場合は、たとえ夫の愛情がその妻に対しては著しく欠けているとしても、財産相続の権利は疎んじられた妻の子供(長子)のほうにある、という規定です。



この規定において重要な点は「疎んじられた妻」も妻であり、その妻の子供もその夫の確かな子供である、ということです。その子供たちは正当な財産相続の権利を持ちます。なかでも長子は他の子供たちよりも二倍の分け前が与えられなければならない、それほどまでに重要な存在であり続けるのです。



まさに今申し上げた意味を申命記21・15〜17の「疎んじる」は含みます。そして、これが今日の個所でイエスさまが「憎む」と言っておられる意味でもある、ということです。



ですから、ここではっきり言いうることは、イエスさまが語っておられるのは、わたしたちが日本語で「憎む」という言葉で思い浮かべる様子とはいくらか異なる何かである、ということです。「疎んじる」というニュアンスが、最もよく当てはまるのです。そして、そのとき大事なことは、まさに「疎んじられている妻」も妻である、ということです。



以上三点が、この個所でイエスさまが語っておられる「憎む」という言葉の意味を理解するために重要な点です。



しかし、“それにしても”です。あるいは、“そうであればますます”というべきかもしれません。たとえ、このような説明をされても、わたしたちは、そう簡単に受け入れることはできないと感ぜざるをえないでしょう。



なぜならば、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、そして自分自身を「愛さないこと」が、イエスさまの弟子となることの条件である、と言われているのですから。何とも言えない難しさを感じます。



なぜ“何とも言えない難しさを感じる”のでしょうか。わたしが申し上げたいことは、ほとんど間違いなく、実際の場面においては複雑な心理状態に置かれるであろう、というほどの意味です。



なぜそうなのか。なんとなく言葉にしづらいことです。しかし、この際はっきり言っておきます。



それは何かと言いますと、家族と自分自身を「憎むこと」すなわち「愛さないこと」は、ある面からすれば、わたしたちにとって、もしかしたら“いとも簡単なこと”であり、じつは“今すぐできるかもしれないこと”であり、“さっさとやってのけることができるかもしれないこと”であるということを、だれも完全には否定しきれないであろう、ということです。



だって、そうでしょう。大きい・小さいは別として、ほとんど毎日のように、わたしたちの家庭内には、なんらかのトラブルがあります。家族を憎むこと、あるいは「疎んじる」ことは、そうすることができないどころか、むしろ、いとも簡単にできてしまう可能性があります。だからこそ恐いという面があるのです。



しかし、です。わたしたちは、いくらなんでも、やはり、「家族を憎め」と言われることには、非常に大きな抵抗を感じます。ところが、今日の個所でイエスさまは、その条件をクリアできなければ、わたしの弟子ではありえないと言われているわけです。どうしたらよいのでしょうか。



わたしにも確たることは言えません。しかし、ひょっとしたら、こういうふうに考えてみることができるのではないかという可能性の線が全く見えていないわけでもありません。



それはどういう線かといいますと、今日申し上げてきたことの中にヒントを出してきたつもりです。すでにお気づきかもしれませんが、先ほど「憎む」の意味として申し上げた「愛さないこと」は「疎んじること」の意味を持っている。しかし、疎んじられた妻も妻である、というあの話こそがヒントです。



すっきり理解していただけるかどうかは不安です。まず申し上げておきたいことは、わたしたちは、たとえそれがイエスさまからの命令であっても、「家族を憎むこと」は、普通の感覚では、できないし、してはならないことである、と感じる、ということです。



しかし、いわばギリギリの線で、わたしたちに、できることがあるかもしれない。それは、平たく言えば“優先順位”の問題である、ということです。



ただし、優先順位という考えを持ち込むとき、非常にドライでさばさばした話になってしまう危険があることは、注意すべきです。まさに「愛されている妻」と「疎んじられている妻」の話です。二人の妻(?)の間に優先順位がある、という話です。



どういうことでしょうか。これも言葉にしづらい話ですが、わたしたちが気づくべきことは、この地上の世界に生きているかぎり、わたしたちは、ひとつの瞬間においては同時に二つ以上の場所に立つことはできず、また同時に二つ以上の仕事に取り組むことはできない、ということです。



イエスさまは「ひとは二人の主人に兼ね仕えることができない」とお語りになりました。わたしたちは、ひとつの大きな決断をもって、ひとつの選択肢を選ばざるをえないということが、ありうるのです。



ですから、愛する相手も、その瞬間にはひとりだけです。それがわたしたちの現実です。そうであるならば、そのときわたしたちにとって重要なことは優先順位である、ということです。



イエスさまを愛し、イエスさまに従うか。それとも、家族を愛し、家族に従うか。この選択肢を選ぶ必要がない人は幸いであるというべきです。しかし、わたしたちの現実は、それほどうまく行くばかりではないということも事実です。



「あなたはイエスさまとわたし、教会と家族のどちらを愛しているの?」と問われる場面は実際にありうることです。そのような選択の場面は、わたしたちの人生においては一度ならずある。そのように言わざるをえません。



最後にわたしの話をさせていただきます。わたしもキリスト者家庭に生まれ育った人間としてご他聞に漏れず、教会がとても嫌になってしまった時期を経験しました。いわゆる思春期の頃、中学生・高校生くらいの頃です。とにかく教会に行きたくない、と感じたものでした。



しかし、そのとき、わたしの両親が全く動じませんでした。「お前の好きにしたらよい」とは、決して言いませんでした。わたしよりも教会を選んでいるように見えました。そのことがわたしにとっては良いことであったと、今にして思います。



これは一般論にすることはできないかもしれません。あくまでも、わたしの場合です。わたしの両親は、わたしの意志よりも神の意志を選んでくれました。そう思えたときに、わたしは両親を尊敬することができましたし、その意志に従う気持ちになりました。伝道者になろうと思ったのも、その頃です。



逆の言い方も、わたしにはできます。ただし、一般論ではありません。



もしそのときわたしの両親が、わたしを第一にし、キリストを第二にするような態度をとったならば、わたしは両親を尊敬できなかったかもしれず、教会から離れてしまったかもしれません。



譲らないほうがよいときもあるのです!



これ以上のことは、今日は申し上げないでおきます。



(2006年2月5日、松戸小金原教会主日礼拝)