2006年2月5日日曜日

「弟子の条件」

ルカによる福音書14・25〜35



今日の個所には、どう考えてもえらくたいへんなことが記されております。できるだけ誤解が残らないように、きちんと理解される必要があります。そのため、今日は25〜27節の御言葉に集中してお話しします。そのことを、あらかじめお断りしておきます。



「大勢の群集が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。』」



イエスさまが「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても」と言われています。これは、イエスさまがこの御言葉をお語りになった場面として紹介されている「大勢の群集が一緒について来たが」という点に対応していると考えられます。



つまり、このときイエスさまは、御自身の目の前にいた、イエスさまと一緒についていこうとしていた大勢の群集に向かって、条件または試験問題を出されたのです。



イエスさまとしては、だれかが弟子となり、御自身のあとについて来ることについて、そのこと自体を拒むおつもりはないはずです。なぜなら、イエスさまは「わたしについて来なさい」という言葉をペトロや他の弟子に向かって語っておられるからです(マタイ4・18〜22、マルコ1・16〜20)。



ところが、です。ここでイエスさまが語っておられることは、明らかに次のようなことです。



「どうぞわたしについて来てくださって結構です。ただし、条件があります。それは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、そして自分自身(新共同訳「自分の命」)を“憎むこと”です。もしこの試験問題をクリアできる人ならだれでも、わたしの教会に入門することができます」と。



しかし、どうでしょうか。この条件には、だれが考えても、引っかかるものがあります。それは、言うまでもないことですが、なぜ「憎ま」なければならないのか、という点です。



なんてことをおっしゃるのか、と思います。わたしたちの心の中のタブーに触れるものがあります。わたし自身も、なんだかとても気に障る言葉が語られているような気がしてなりません。



とりあえず確認しておきたいことは、以下の点です。



第一は、これは誤訳ではない、ということです。ギリシア語の原文を見ましても、ここで使われているのは「憎む」としか訳しようのない言葉であることは、明らかです。



第二は、少しほっとした気持ちになれるものです。ある解説によりますと、ユダヤ人の言語体系の中で「憎む」とは「愛する」という言葉の反対語であるというのです。そして、そもそもユダヤ人の言語は白か黒かがはっきりしていると言われます。「光」の反対は常に「闇」です。「真実」の反対は常に「虚偽」です。両者の中間がないのです。



ちょうどそれと同じように、と言いうるようです。ユダヤ人の言語体系の中で「愛する」の反対は、常に「憎む」です。両者の中間の状態を表わす言葉がないのです。



しかし、たとえば、わたしたちの日本語は、そうではありません。「愛する」か、そうでなければ「憎む」か、そのどちらかしかないというような極端な二者択一は、少なくとも日本語の感覚とは異なります。日本語は、むしろ、このあたりのことについて非常に微妙なニュアンスを言い表すことができる、非常に繊細な言語であると言えるはずです。



しかし、この点でわたしたちが認めるべき単純な事実は、イエスさまはユダヤ人であるということです。イエスさまは、ユダヤ人の言葉で語っておられるのです。



第三は、ちょっとややこしいのですが、どうしても避けて通ることができない説明です。それは、イエスさまの御言葉の中に出てくる「憎む」(ミセオー)という言葉は、旧約聖書の申命記21・15〜17に出てくる「疎んじる」(サーネ)という言葉を背景としているものである、ということです。



そこにあるのは、いわゆる“長子の特権”に関する規定です。ある人に二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。しかし、両方とも子供を産んだ場合、疎んじられたほうの妻の子供が長子(夫にとって最初に生まれた子供)である場合は、たとえ夫の愛情がその妻に対しては著しく欠けているとしても、財産相続の権利は疎んじられた妻の子供(長子)のほうにある、という規定です。



この規定において重要な点は「疎んじられた妻」も妻であり、その妻の子供もその夫の確かな子供である、ということです。その子供たちは正当な財産相続の権利を持ちます。なかでも長子は他の子供たちよりも二倍の分け前が与えられなければならない、それほどまでに重要な存在であり続けるのです。



まさに今申し上げた意味を申命記21・15〜17の「疎んじる」は含みます。そして、これが今日の個所でイエスさまが「憎む」と言っておられる意味でもある、ということです。



ですから、ここではっきり言いうることは、イエスさまが語っておられるのは、わたしたちが日本語で「憎む」という言葉で思い浮かべる様子とはいくらか異なる何かである、ということです。「疎んじる」というニュアンスが、最もよく当てはまるのです。そして、そのとき大事なことは、まさに「疎んじられている妻」も妻である、ということです。



以上三点が、この個所でイエスさまが語っておられる「憎む」という言葉の意味を理解するために重要な点です。



しかし、“それにしても”です。あるいは、“そうであればますます”というべきかもしれません。たとえ、このような説明をされても、わたしたちは、そう簡単に受け入れることはできないと感ぜざるをえないでしょう。



なぜならば、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、そして自分自身を「愛さないこと」が、イエスさまの弟子となることの条件である、と言われているのですから。何とも言えない難しさを感じます。



なぜ“何とも言えない難しさを感じる”のでしょうか。わたしが申し上げたいことは、ほとんど間違いなく、実際の場面においては複雑な心理状態に置かれるであろう、というほどの意味です。



なぜそうなのか。なんとなく言葉にしづらいことです。しかし、この際はっきり言っておきます。



それは何かと言いますと、家族と自分自身を「憎むこと」すなわち「愛さないこと」は、ある面からすれば、わたしたちにとって、もしかしたら“いとも簡単なこと”であり、じつは“今すぐできるかもしれないこと”であり、“さっさとやってのけることができるかもしれないこと”であるということを、だれも完全には否定しきれないであろう、ということです。



だって、そうでしょう。大きい・小さいは別として、ほとんど毎日のように、わたしたちの家庭内には、なんらかのトラブルがあります。家族を憎むこと、あるいは「疎んじる」ことは、そうすることができないどころか、むしろ、いとも簡単にできてしまう可能性があります。だからこそ恐いという面があるのです。



しかし、です。わたしたちは、いくらなんでも、やはり、「家族を憎め」と言われることには、非常に大きな抵抗を感じます。ところが、今日の個所でイエスさまは、その条件をクリアできなければ、わたしの弟子ではありえないと言われているわけです。どうしたらよいのでしょうか。



わたしにも確たることは言えません。しかし、ひょっとしたら、こういうふうに考えてみることができるのではないかという可能性の線が全く見えていないわけでもありません。



それはどういう線かといいますと、今日申し上げてきたことの中にヒントを出してきたつもりです。すでにお気づきかもしれませんが、先ほど「憎む」の意味として申し上げた「愛さないこと」は「疎んじること」の意味を持っている。しかし、疎んじられた妻も妻である、というあの話こそがヒントです。



すっきり理解していただけるかどうかは不安です。まず申し上げておきたいことは、わたしたちは、たとえそれがイエスさまからの命令であっても、「家族を憎むこと」は、普通の感覚では、できないし、してはならないことである、と感じる、ということです。



しかし、いわばギリギリの線で、わたしたちに、できることがあるかもしれない。それは、平たく言えば“優先順位”の問題である、ということです。



ただし、優先順位という考えを持ち込むとき、非常にドライでさばさばした話になってしまう危険があることは、注意すべきです。まさに「愛されている妻」と「疎んじられている妻」の話です。二人の妻(?)の間に優先順位がある、という話です。



どういうことでしょうか。これも言葉にしづらい話ですが、わたしたちが気づくべきことは、この地上の世界に生きているかぎり、わたしたちは、ひとつの瞬間においては同時に二つ以上の場所に立つことはできず、また同時に二つ以上の仕事に取り組むことはできない、ということです。



イエスさまは「ひとは二人の主人に兼ね仕えることができない」とお語りになりました。わたしたちは、ひとつの大きな決断をもって、ひとつの選択肢を選ばざるをえないということが、ありうるのです。



ですから、愛する相手も、その瞬間にはひとりだけです。それがわたしたちの現実です。そうであるならば、そのときわたしたちにとって重要なことは優先順位である、ということです。



イエスさまを愛し、イエスさまに従うか。それとも、家族を愛し、家族に従うか。この選択肢を選ぶ必要がない人は幸いであるというべきです。しかし、わたしたちの現実は、それほどうまく行くばかりではないということも事実です。



「あなたはイエスさまとわたし、教会と家族のどちらを愛しているの?」と問われる場面は実際にありうることです。そのような選択の場面は、わたしたちの人生においては一度ならずある。そのように言わざるをえません。



最後にわたしの話をさせていただきます。わたしもキリスト者家庭に生まれ育った人間としてご他聞に漏れず、教会がとても嫌になってしまった時期を経験しました。いわゆる思春期の頃、中学生・高校生くらいの頃です。とにかく教会に行きたくない、と感じたものでした。



しかし、そのとき、わたしの両親が全く動じませんでした。「お前の好きにしたらよい」とは、決して言いませんでした。わたしよりも教会を選んでいるように見えました。そのことがわたしにとっては良いことであったと、今にして思います。



これは一般論にすることはできないかもしれません。あくまでも、わたしの場合です。わたしの両親は、わたしの意志よりも神の意志を選んでくれました。そう思えたときに、わたしは両親を尊敬することができましたし、その意志に従う気持ちになりました。伝道者になろうと思ったのも、その頃です。



逆の言い方も、わたしにはできます。ただし、一般論ではありません。



もしそのときわたしの両親が、わたしを第一にし、キリストを第二にするような態度をとったならば、わたしは両親を尊敬できなかったかもしれず、教会から離れてしまったかもしれません。



譲らないほうがよいときもあるのです!



これ以上のことは、今日は申し上げないでおきます。



(2006年2月5日、松戸小金原教会主日礼拝)