2006年2月12日日曜日

「見失った羊を見つけ出すまで」

ルカによる福音書15・1~10



今日は、二つの段落を続けて読みました。記されているのは、いずれも、イエスさまのたとえ話です。内容的にとてもよく似ている、二つのたとえ話です。



「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」



ここに紹介されているのは、この二つのたとえ話をイエスさまがお話しになったときの状況です。ここに登場する「徴税人や罪人」は、当時の世間の人々から嫌われていました。



ところが、です。イエスさまは、そのような人々のことが好きだったのだと思います。こんなふうに言いますと、誤解されるかもしれません。しかし、そういうふうにしか表現できないような何かを感ぜざるをえません。



徴税人や罪人とイエスさまとの関係については、ルカによる福音書においてすでに一度、非常にはっきりと記されていました(ルカ5・27〜32参照)。イエスさまは、彼らと一緒に食事をしておられたのです。



ところが、です。そういうイエスさまの態度に不満を感じる人々が、文句を言ってきた。その人々に対して、このたとえ話が語られたのです。



「そこで、イエスは次のたとえを話された。『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。』」



最初に申し上げておきたいことは、これとよく似た話がマタイ福音書(18・10〜14)にも出てくるのですが、両者を比較すると、明らかに異なる点があると言わざるをえない、ということです。



どの点かと言いますと、マタイが「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば」(マタイ18・12)と書いているところを、ルカは「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」(ルカ15・4)と書いているという点です。この中で異なる部分は、二つあります。



第一は、百匹の羊を持っているのは「ある人」なのか、「あなたがた」なのか、です。



第二は、その中の一匹が「迷い出た」のか、それとも「見失った」のか、です。



第一の相違点から考えられることは、ルカはここでイエスさまの御言葉を、読者自身の体験に照らし合わせて考えるようにと読者に訴えているに違いないということです。これは、どこかの誰かの話ではなく、赤の他人の話でもない。あなたがた自身のことである。そのように考えながらこの個所を読んでくださいと、ルカが訴えているのです。



第二の相違点から考えられることは要するに、一匹の羊を捜しに行く責任の所在はどこにあるかということを、ルカがはっきりさせようとしているに違いない、ということです。



「迷い出た羊」であるならば、迷った責任の一端は、いわばその羊自身にもあると言わざるをえません。もしそうであるならば、すべては自己責任なのだから、飼い主が捜しに行くことにも限度がある、という言い方も、全く不可能ではないはずです。



ところが、ルカの記述は、明らかに違います。その一匹の羊を「見失った」のはあなたがた自身です。勝手に迷子になった羊の責任など取れるはずがないというような言い逃れは一切通用しません。見失ったあなたがた自身に、全責任があるのです。



このようなことをわたしが申し上げるとき、マタイとルカのどちらが歴史的イエスさまの真正の言葉であるか、ということを問いたいわけではありません。申し上げたいことは、今日の御言葉を読むときのチェックポイントがどこにあるのか、ということだけです。



チェックすべき第一の点は、わたしたちがこの個所を読むときには、自分自身の問題として受けとめるべきである、ということです。第二の点は、落とし物や失くしものをしてしまった責任は、それを落としたり失くしたりしたわたしたち自身にある、ということについては、言い逃れの余地はない、ということです。



しかし、です。今申し上げました二つの点は、このたとえ話の中でイエスさまがお語りになっていることの中心部分でも強調点でもありません。大切なことは、もっと別のことです。ただし、先ほど申し上げたことにも、間違いなく関連しています。



大切であると思われることは、今日の個所で重要なポイントは、やはり、その一匹の羊は、勝手に迷子になったのではなく、あなたがたが見失ったのだ、という点です。



もしそうであるならば、その羊を捜しに行く責任は、あなたがたにあるのではないかとイエスさまが言われているという点は、どうしても避けて通ることができません。九十九匹を野原に残してでも、です。見失った一匹を、あなたがた自身が捜し回りに行くべきではないでしょうかと、イエスさまは明らかに言われているのです。



しかし、です。これでもまだ、このイエスさまのたとえ話の中心部分に届いているとは思えません。責任とかいう言葉を聞くだけで重苦しくてつらいと感じるばかりです。



そして、実際、このイエスさまのたとえ話の強調点は、だれかの非を責めることにあるわけではないと思われて仕方ありません。迷子になった側が悪いのか、それとも見失った側が悪いのかというような議論は水かけ論です。意味がないし、いつまでも終わりません。イエスさまの強調点は、そこにはないのです。



それではどこに強調点があるでしょうか。それは5節から7節までに三回繰り返されている「喜び」という言葉です。また、今日は十分にお話しすることができません、第二のたとえ話(15・8〜10)の中にも二回繰り返されている「喜び」という言葉です。



「『あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。』」



以前からお話ししておりますことは、聖書の中で繰り返されている言葉には強調がある、ということです。



来週お話ししますいわゆる放蕩息子のたとえ話の強調点も「喜び」です。わたしがいつも参考にしている注解書はルカ15章の1節から32節までの全体のタイトルを「喜びについての三つのたとえ話」[*]としています。



大切なことは“だれが悪いか”ではなく、“何が喜びか”なのです。



「『そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。』」



これは、まさにわたしたち自身の体験に照らし合わせてみれば、よく分かる話なのだと思います。落とし物や失くしものをしたとき、なかでも非常に大切なものである場合には、いちばんあわて、傷つき、精神的に落ち込むのは、他ならぬ当の本人です。自分のしたことがいかにひどいことかを知っているのは、本人です。



しかも、です。「羊」と、次のたとえ話に出てくる「銀貨」の共通点がもしあるとしたら、それは、第三者の手に渡ってしまった場合に、持ち主の手に返って来る可能性は、ゼロに等しい、ということでしょう。



たとえばの話ですが、皆さんの中に道に落とした一万円札が返って来たという経験をお持ちの方がおられるでしょうか。財布の中にでも入っていれば、可能性はゼロとは言えないかもしれませんが、実際にはほとんどの場合、戻ってくることはありません。



そんなときにわたしたちが感じることは、何とも言えない悔しさです。自分が落としたのですから「あなたが悪い」と言われても仕方がないのですが、「盗られた」というような思いが去来するものです。



しかし、です。わたしたちの体験の知るところによりますと、そういうときに限って、周りからいろんな言葉で責められたり、叱られたりするものです。追い討ちをかけられ、ますます傷つくのです。



しかし、だからこそ、というべきでしょう。それが大切なものであればあるほど、一生懸命に捜します。捜す気になれないようなものは、大切ではないのかもしれません。



捜して、捜して、捜して、です。そのときのわたしたちの状態の特徴としてはっきり言いうることは、ほとんど周りが見えていない、ということです。捜そうとしているそのものだけに、全神経とすべての関心が集中してしまっています。



「九十九匹を野原に残して」というのは、その九十九匹が大切ではないということではありません。しかし、ここでなぜか「ごめんなさい」と謝りたくなるのですが、捜しものをしているときの精神状態の特徴は、視野が狭くなること、周りが見えなくなることなのです。



「九十九匹」とは、99パーセントです。「9割9分大丈夫です」と言えば「ほとんど確実です」というほどの意味になるでしょう。その99パーセントをいわば放っておいてでも、1パーセントの事柄に集中するわけです。よく言えば、集中力が高まっている状態ですが、悪く言えば、視野が狭くなっている状態です。精神のバランスも崩れています。



そして、その結果として喜びの大団円を迎えることができたとき、すなわち、その捜しものが見つかったときに、そこにあるのは何か。



「喜び」である、とイエスさまは、語っておられます。緊張が解けたあとの、ちょっとした狂喜乱舞です。



イエスさまによりますと、見つけた人は、「喜んでその羊を担ぐ」のだそうです。冷静に考えますと、どんな小さな羊でも実際には結構重いと思うのですが、重さとかそういうことはあまり感じないほどに、すっかり大はしゃぎの状態になる、ということでしょう。



次に、「友達や近所の人々を呼び集めて、『・・・一緒に喜んでください』と言う」のだそうです。今の日本にこういうことをする人がいるだろうかと思わなくもありませんが、それはともかく、イエスさまの意図としては、我を忘れて大はしゃぎしている人の様子を描こうとされているようです。キャッキャとした状態です。



「『言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』」



「このように」とは、たとえ話を通して明らかになったように、ということでしょう。何が明らかになったのでしょうか。それは、はっきりしていると思います。



イエスさまが徴税人や罪人たちに近づき、一緒に食事をし、彼らと仲良くなること。



そのようにして、徴税人や罪人たちがイエスさまの仲間に加わること。



それらはすべて、だれよりも先にイエスさま御自身がお喜びになるためであり、また、イエスさまと共に生きる者たちが喜びに満たされるためであり、そしてその大きな喜びが「天」にあり、「神の天使たち」までもが喜ぶためである、ということです。



もちろんイエスさまは、御自分の仲間が増えることを本当にお喜びになります。しかし、それは、悪い意味で政治家的に、自分の支持者が増えて自分の権力が増し加わる、というようなことをお喜びになるということではありえません。イエスさまは、そんなことには全く関心がありません。



罪の泥沼の中から救い出された喜びを、真心と感謝をもって分かち合うことができる、仲間が増えること。



それだけが、それだけが、イエスさまの喜びであり、わたしたち自身の喜びなのです!



[*] Drie gelijknissen over de blijdschap.



(2006年2月12日、松戸小金原教会主日礼拝)