2006年2月26日日曜日

「友達を作りなさい」

ルカによる福音書16・1~13



今日の個所に書いているのもたとえ話です。しかしあらかじめ申し上げておきたいことは、このたとえ話は誤解されやすい、ということです。丁寧な取り扱いが必要です。



「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくためにはいかない。」』」



主な登場人物は二人です。「ある金持ち」と呼ばれている人と、その人のもとで働く財産管理人です。



「ある金持ち」について、もう少しだけ分かることがあります。これは当時のガリラヤ地方に多く存在した大地主を指しているのではないか、というのです。その人々は、多くのお金だけではなく、広大な土地を所有していました。そして、そこには広大な農園があり、いろんな産物を収穫する雇い人たちがいました。まさに豊かで恵まれた土地を持っていた人々である、と考えることができるようです。



また、もう一つ今日の個所から読み取れることは、この「ある金持ち」は、明らかに、ふだんは遠い町にいて、自分の土地とその産物については農園で働く人々と財産管理人に任せていた、ということです。



しかし、それが落とし穴になりました。財産管理人は、主人がふだん住んでいるところとの距離を利用して、不正を働いていた。主人の財産を無駄使いしていたというのです。具体的に何をしたのかは、はっきりとは分かりません。しかし思い起こされるのは、先週学びました放蕩息子のたとえ話に出てくる、弟息子の「無駄使い」です。



彼も「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(15・13)わけですが、彼がしたことについて兄貴が父親の前で指摘したことは「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来」た(15・30)ということでした。



今日の個所に出てくる不正な管理人の場合も、同じようなことを考えてよいはずです。「財産を無駄使いした」という全く同じ言葉が、二つのたとえ話に繰り返されています。この管理人も、いわば放蕩息子と同じように、自分の欲望や快楽のために、他人のお金を湯水のごとく使い、ドブに流すようなことを続けていたのです。



しかし、そんなのは遅かれ早かれ明るみに出ることです。悪いことをして、それを隠し通せるなどと思わないほうがよいです。



実際、彼の場合、不正疑惑が発覚しました。密告した人がいました。大地主は会計報告を提出させ、不正の事実が立証された場合には仕事をやめさせなければならないと考えました。当然のことです。



「『管理人は考えた。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」』」



焦ったのは、不正を行っていた本人です。そして、何とかしてこの難局を乗り切るために、ある一つの工作を始めました。



興味深いことは、この人は、いろんなことを先読みする能力に長けている、ということです。要するに頭がよい。物事の事情がよく分かっている人であると感じます。



この管理人はただちに完全に追放されてしまうとは考えていません。「主人がわたしから管理の仕事を取り上げようとしている」と言っています。つまり、彼が取り上げられると思っているのは「管理の仕事」です。しかし、主人のもとでの仕事は、管理の仕事以外にも、いろいろとあるわけです。



「土を掘る力もない」とあります。これは、おそらく、この主人の土地を掘る、という話です。つまり「土を掘る仕事」、いわゆる肉体労働ならば残っているというわけです。



しかし、自分はそんなことができる力はないと、この人は考えます。たしかにそういう言い分はありうることです。差別のような意図から申し上げるつもりは全くありませんが、財産管理のようないわゆる知的労働に向いている人と肉体的な労働に向いている人とがいるということは事実です。パソコンを使わせるとずば抜けているが、釘一本も打ったことがないというような人は、いくらでもいます。仕事を選んでいる場合ではないという言い方もありうるとは思いますが、人間には、できることとできないことがある、ということを認める必要はあるでしょう。



この人には、自分には土木作業は無理であるとの自覚がありました。しかし、財産管理の仕事に戻ることもできそうにない。そこで初めて、選択肢に「物乞い」をする、という可能性が生じてきた。しかし、それは「恥ずかしい」。



「『「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と言った。「油百バトス」と言うと、管理人は言った。「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。」また別の人には、「あなたは、いくら借りがあるのか」と言った。「小麦百コロス」と言うと、管理人は言った。「これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。」』」



この人が思いついた工作は、どれくらいの規模のものであったかを知るために、次の計算ができるようです。



まず「油百バトス」を「油五十バトス」に書き直すという話が出てきます。一バトスは39.5リットルです。百バトスは3950リットルです。その値段は、約500デナリオンであったと言われます。



次に「小麦百コロス」を「小麦八十コロス」に書き直すという話が出てきます。一コロスは393リットルです。百コロスは、39300リットルです。その値段は、これも約500デナリオンです。



つまり、油百バトスと小麦百コロスは同じ値段なのです。両方とも約500デナリオンでした。一デナリオンが、当時の労働者が丸一日働いて得ることができる賃金に相当する、と言われます。ですから、最も単純化するならば500デナリオンは500万円と考えてよいかもしれません。



つまり、この人は「油百バトス」や「小麦百コロス」各500万円を、まだ返済できていなかった人に対して、油については半額にしてあげましょう、小麦については二割引にしてあげましょう、ということを思いつき、実行に移したのだ、というのです。



いろいろ考えさせられるものがあります。とくに、実際に商売をしておられる方々の中には、お店に売っている品物の値段など、あってないようなものである、とお考えになる方も多いでしょう。多くの店に「半額割引」という看板が立っています。「二割引」くらいに書いてあれば、まだ高い、まだ値切れると思う人もいるでしょう。



ですから、この人が行った値引きそのものが悪いと語ることはできません。負債を軽くしてもらった人々にとっては、ありがたいことこの上ない話でもあったでしょう。



ですから、問題は、当然のことですが、この人がこのことを自分の犯した不正によって自分が職や家を失ったときに助けてもらえる人を作るために行った、という点にあるわけです。



これはやはり、どう考えてもまずいことです。彼が主人から預かっていた財産も、主人からお金を借りていた人々の負債も、彼のものではありません。これは横領罪です。それにもかかわらず、この人は、恩着せがましく、まけてやるとかなんとか。まるで自分のものであるかのように言っているわけです。ひどいものです。



ところが、です。ここに来て、だれもがびっくりするような言葉がイエスさまから飛び出します。主人は、この不正な管理人のやり方をほめた、というのです。そして、これはイエスさまのたとえ話です。このたとえ話を通してイエスさまは何をおっしゃりたいのか、ということが真の問題です。その問題の答えを、イエスさま御自身が語っておられます。



「『主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。』」



だれもが度肝を抜かれること必至です。しかし、だからこそ、これは取り扱いにおいて注意深くなければならない言葉であることは間違いありません。まるでイエスさまが不正な財産管理を奨励しておられるかのように読めることは事実です。



しかし、わたしたちは、まさかイエスさまがそんなことをおっしゃるはずがないだろうと思います。実際わたしがこれから申し上げる結論も、イエスさまがおっしゃっていることはそうではない、ということです。不正の奨励など、イエスさまがなさるはずがないのです!



イエスさまがおっしゃっていることは何か。それは要するに、全くの皮肉であり、逆説である、ということです。



このように理解するための鍵は、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」という言葉の意味は何か、という点にあります。



「永遠の住まい」という字を見ますと、わたしたちは、すぐに、そこには神さまがおられる永遠の天国のことを思い浮かべます。しかし、これはそういう意味ではありません。



じつは、全く正反対です。天国ではなく、地獄です。「住まい」と訳されているのは、砂漠の真ん中に建てられる天幕(テント)のことです。その天幕から永遠に出ることができません、という意味です。つまり事実上の死を意味します。これこそがイエスさまが「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」とおっしゃっている真の意図なのです。



しかも、このイエスさまのたとえ話は、「弟子たちに」(16・1)向かって語られたものです。あなたがた「光の子ら」(16・8)は、不正にまみれた富で友達を作り、永遠の刑罰を受けるような「この世の子ら」(同)と同じであってはならないでしょうということです。実際にはこの世の子らのほうが、賢く抜け目なくふるまっている。しかし、本来ならば、あなたがた光の子らのほうがもっと賢く抜け目なくふるまわなければならないはずでしょう、ということです。



これが皮肉であり、逆説であるという意味は何かといいますと、要するに、イエスさまがおっしゃりたいことは逆である、ということです。



あなたがた光の子らは、正しい富を使って正しい友達を作りなさい、ということです。そうすれば、あなたがたは、永遠の神の国に迎え入れていただける、ということです。



主人が不正な管理人を「ほめた」のも、なんとかして友達を作ろうとした点だけであって、横領罪の部分ではありません。ここを読み間違えてはならないのです。



ただし、です。わたしは、これまでの説明だけでは、すべてを語り尽くしたという思いには、まだまだなれません。ひとつだけ触れておきたいことがあります。



それは、今日の個所で、イエスさまが、富というものは本質的に「不正にまみれたもの」である、という認識を持っておられることは否定できない、ということです。お金というものは、罪の影響を受けやすいものである、ということです。



ただし、それは、きわめて限られた意味です。お金自体が汚らわしいとか、お金の話題や取り扱い自体が汚らわしいというような意味では全くありません。もしそのように考えなければならないとしたら、わたしたちは、この世の中から出て行かなければなりません。



「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。』」



わたしたちにとって大切なことは、この世の生活から、とにかく逃避しないことです。この世の生活に忠実であることができる人にこそ、本当に価値あるものが神さまから与えられる、ということです。



たとえば、牧師であっても、人の前で堂々と札束をめくって数えます。そういうことを軽蔑したり恥ずかしいと感じたりする人が時々いますが、わたしは、少しも恥ずかしいと思いません。小会や中会や大会などで扱う大きな話題は、お金の使い道です。そのようなことは、別に、汚らわしいことでも、恥ずかしいことでもありません。



伝道にはお金が要ります。こういうことを言うと嫌がられることがあります。しかし、もしそのあたりのことをはっきり語ることに躊躇や蔑視があるような牧師がいるとしたら、その人はキリスト教の根本が理解できていないのです。



大切なことは、自分の目の前の生活を、現実的に考え抜いていくこと、そして現実的に生きることです。キリスト者になることは、現実主義者になることなのです。



先週ある席で、ある人々から、また聞かれました。「牧師さんって、どこから収入を得ているのですか。どこか外国の本部から送られてくるのですか。」



わたしは、いちいち丁寧に答えました。別に隠すようなことではありませんから。不正によって得たものではありませんから。



わたしたちがささげる献金は、本質的かつ第一義的に「友達を作る」ためのものです。教会が伝道し、信仰の仲間を増やしていくためです。



教会は、不正な管理など決して許しません。この点は、どうかご安心くださいますように。



みんなで力をあわせて、教会の伝道に励んでいこうではありませんか。



(2006年2月26日、松戸小金原教会主日礼拝)