2006年3月5日日曜日

「モーセと預言者」

ルカによる福音書16・14~31

今日の個所は先週学んだ個所の続きです。二つの段落を続けて読みました。すべてを詳しくお話しする時間がありません。今日は、主に19節以下についてお話ししたいと思います。

ただしその前に、最初の段落のうち一点だけ触れておきたいところがあります。それは14節です。

「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」

ここに出てくる「あざ笑った」という原語(エクムクテリゾー)は、「鼻(ムクテル)にしわを寄せる」とか「鼻を上に向けて息を出す」というような意味です。実際にやってみればすぐに分かることですが、ひどい話を聞かされたときとか、つまらないものを見せられたときつい鼻で笑ってしまうあれです。わたしたちもよくすることです。これが「軽蔑する」という意味になるのです。

イエスさまの話を聞いた人々の態度がこれであったというのですから、イエスさまの話は、よほどその人々の気に障ったか、よほど聞くに堪えないものだったのでしょう。

「金に執着するファリサイ派の人々」がイエスさまのお話を聞いたあとそのような態度をとったというのですから、これを逆に考えるならば、イエスさまのお話というのは、金に執着する人々にとっては何かとても気に障る、あるいは聞くに堪えないと感じるものでありうるということを示してもいるわけです。実際そのとおりであると、私も思います。そして安心いたします。

先週の個所に書かれていたいわゆる不正な管理人のたとえ話には、イエスさま御自身が語られた御言葉として「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(16・9)と書いてありました。これが、イエスさまがまるで不正なお金の使い方を奨励しているかのように読めることは事実です。しかし、そんなことをイエスさまが奨励なさるはずがないと、私は申し上げました。その根拠を今日の個所からも示しうると思います。

イエスさまの話を聞いた人々が笑った理由について、その正確なところはよく分かりません。しかし、金に執着するということは要するに、自分のお金はすべて自分のものであると考えているということでしょう。

その人々がイエスさまのたとえ話を笑う。どこで笑ったのか。「友達を作るために」、つまり、友達にプレゼントするためにお金を使いなさいという点ではなかったでしょうか。しかもこの世の子らのように、自分に見返りがあることを計算しながらプレゼントするのではなく、光の子らしく見返りを求めずプレゼントしなさいというのがイエスさまの教えであると理解してよいでしょう。

「金に執着するファリサイ派の人々」は、他人のためになど、びた一文も出したくないと思っていた可能性があります。だとすれば、その人たちからすると、イエスさまの話などは、聞くに堪えないと感じられたに違いないわけです。

私が今日の最初に確認しておきたいと願いましたことは、イエスさまが金に執着しておられるわけではないということです。お金に執着しているのはファリサイ派のほうなのです。

さて、今日、おもにお話しいたします19節以下の御言葉は、これもイエスさまのたとえ話です。初めに一言だけ感想を申し上げておきますと、このたとえ話は、読み方によってはわたしたちにとって非常に深刻で、難しい問題にぶつかるものでありうるだろうということを思わずにはいられません。

「『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。』」

このたとえ話の主な登場人物を二人と考えるか三人と考えるかは微妙です。美しいお召し物を着て毎日ぜいたくに遊び暮らす「ある金持ち」(名前はない)、この金持ちの門前に横たわる貧しくて不幸な「ラザロ」、これで二人です。

そして、三人目の登場人物と言いうるかどうかが微妙なのは天国の住人となっている「アブラハム」です。もっとも、これはたとえ話なのですから、あまり気難しく考える必要はないでしょうから、三人の登場人物と言ってよいでしょう。他には「犬」とか「天使たち」も出てきます。

このたとえ話の内容は、読めばだれでもよく分かるものです。

「『やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」しかし、アブラハムは言った。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」』」

この金持ちは、死んだあと陰府でさいなまれていました。そして、興味深いというか、なんとなく腹が立ってくるのは、この金持ちは、死んだあともラザロを自分よりも下の人間と見、アブラハムに向かって「ラザロをよこせ」だの「わたしの舌を冷やさせろ」だのと言って、陰府にいながらラザロをこき使おうとしていることです。

この人の問題は、何と言ってもここにあります。自分が死んだあと、陰府に至っても、自分はあの人よりも上だとか、あの人は自分より下だとか、そんなことを考え続けていた。そのような発想自体が、きわめて如何わしい。そう言わざるをえません。

どれくらいお金を持っていたかは分かりません。しかし、「金で買えないものはない」と言い張るような人の姿が思い浮かびます。貧しい人や、病気などで体が不自由な人の心を理解できない。想像力に根本的な欠けがある。自分より弱いと見た人に対しては、徹底的に見くだし、こき使う。

さて、このたとえ話の中で、イエスさまは、わたしたちの信仰にとってとても重要な、あるいは先ほど申し上げましたように、非常に深刻で難しい問題になりうる点をはっきりとお話しになっています。それが、次の御言葉です。

「『そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」』」

ここでイエスさまが語っておられることは、一方の天国にいるアブラハムとラザロと、他方の陰府にいる金持ちとの間には大きな淵があり、その二つの場にいる人々は、お互いに行ったり来たりすることができない、すなわち、通行不可能であるということです。

もう少し分かりやすく言えば、天国に行った人は、そこから陰府に落ちることは二度とないし、逆に陰府に落ちた人はそこから天国に上ることも二度とないということです。

ある意味で、単純明快な話です。しかしまたこれは、わたしたちにとっては、単純明快だからこそ、何とも表現しがたい複雑な思いにさせられる話ではないかと思われます。

この話を読んでわたしたちがどうしても考えてしまうことは第一に、この私は天国に行けるのだろうか、それとも陰府に落ちるのだろうかというようなことではないでしょうか。そもそもこの話は、そのようにわたしたちが考えるようにイエスさま御自身が仕向けておられるものであると思われます。

そして、その上で第二にわたしたちが考えてしまうことは、わたしたちはどうしたら陰府ではなく天国に行けるのだろうかということです。だって、考えてみたら非常に深刻ではありませんか。いったん陰府に落ちた人は二度と天国に行くことはできない、と言われているのですから。

天国に行くためにわたしたちはどうしたらよいのでしょうか。このたとえ話にヒントがあるのでしょうか。

「『金持ちは言った。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」しかし、アブラハムは言った。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」金持ちは言った。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」』」

天国と陰府との間が通行不可能であると分かったこの金持ちが次に考えたことは、今はまだ生きている自分の兄弟たちのところにラザロを遣わしてほしい。ラザロの口から兄弟たちに、陰府というようなこんな苦しいところに来ないでよいようによく言い聞かせてほしい、ということでした。

しかし、この願いを天国のアブラハムは断りました。「あなたの兄弟にはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。これはどういう意味かお分かりでしょうか。

「モーセと預言者」とは「モーセ五書」(律法、トーラー)と「預言者の書」(ネビーム)を合わせたもの、要するにわたしたちの言う「旧約聖書」のことです。イエスさまの時代には「新約聖書」はまだありませんでしたから、「モーセと預言者」の意味は「聖書」です。

つまり、天国のアブラハムは、この金持ちに「あなたの兄弟には聖書がある。彼らはそれを読むがよい」と勧めているのだと見ることができるわけです。天国に行くための読書(どくしょ)の勧めです。

ですから、これが先ほどの問題の答えでもあります。

問 わたしたちは、どうしたら陰府ではなく天国に行くことができるのでしょうか。

答 わたしたちが天国に行くために必要な知恵と知識はすべて聖書に書いてあります。
それを読みなさい。

ということです。

これも、きわめて単純明快な答えであると感じます。しかしまた、単純明快だからこそ、わたしたちには、何とも言えない複雑な心境に追いやられたような気持ちも起こってくるように思われてなりません。

なぜわたしたちが複雑な心境になるのか。人それぞれ感じ方は違うかもしれませんが、だいたい納得していただけるのではないかと思うのは次のことです。

「聖書を読めば天国に行ける。だから聖書を読みましょう。教会に来て、礼拝の中で、聖書を学びましょう」というふうに、わたしたちが、たとえば、そのような言葉で聖書を読むこと、教会に通うことを何度勧めても梃子でも動こうとしない人々が、わたしたちの家族や友人たちの中にたくさんいるからです。

あるいはまた、「それでは、聖書を読んだことがない人は天国に行くことができないとでも言うのか。そんなことはないのではないか」とか「教会に通って聖書を学んでいる人々の中にも悪いことをする人間は、たくさんいるではないか。それならば、聖書なんか、読んでも、読まなくても、同じじゃないか」などなど、じつにいろんな反論を実際に受けてきたからです。

そしてまた、そのようなことを自分で考えたり、人から言われたりするうちに、わたしたち自身もだんだん自信が無くなってくる。

「私は教会の生活だけは長いけれど、聖書なんかちっとも読んでいないなあ」とか、「聖書なんかちっとも読んでいない人々の中にも、尊敬できる立派な人はたくさんいる。聖書なんかわざわざ無理して読む必要はないのではないか」とか。

私自身は、わたしたちがそのように感じたり考えたり、迷ったり自信をなくしたりすること自体には罪がないと考えております。こういうことは誰でも考えることだからです。

しかし、問題はその先に進んでいくかどうかです。今申し上げたような迷いや自信喪失の中で、わたしたち自身が、この聖書を実際に読まなくなってしまうとしたら、そこから先に罪が始まるのです。

イエスさまの御言葉をよく読む必要があります。イエスさまは、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と語っておられます。

ここに出てくる「死者の中から生き返る者」とは第一義的にはラザロのことでしょう。しかしもう一つの意味はイエスさま御自身のことです。

イエスさまは死人の中からよみがえられた方です。死人の中からよみがえるということ自体は、もし本当にそういうことがありうるならば、ものすごいことでしょう。

ところが、そんなびっくりするようなことが起こっても、世界中の人々が、すぐにイエスさまを信じたかというと、そういうことは起こりませんでした。信じた人と信じなかった人がいました。

イエスさまはそのことをよく分かっておられました。だからこそ人々には、聖書を読みなさいと勧められたのです。

ここには比較があると私は理解します。聖書を読み、そこに書いてあることを信じることは、死者の中から生き返ってきた人の話を信じるよりも簡単だということです。聖書を開いて読むことは、今すぐにでも、できることだからです。

「天国に行きたいから聖書を読む」。これは動機として不純なものではありません。立派な動機であり、理由であると思います。ファリサイ派のように、イエスさまの言葉を鼻であしらうよりはましです。

時には、単純明快であることも悪くありません。そのことを最後に申し上げておきます。

(2006年3月5日、松戸小金原教会主日礼拝)