2006年2月19日日曜日

「放蕩息子と喜びの祝宴」

ルカによる福音書15・11~32



今日はかなり長く読みました。すべてひとつながりです。途中で切ることができません。



「また、イエスは言われた。『ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。』」



主な登場人物は、三人です。お父さんと、二人の息子です。三人とも名前は紹介されていません。今日は便宜的に「父親」、「兄息子」、「弟息子」と呼んでおきます。



弟息子が父親に向かって、「わたしが頂くことになっている分け前をください」と言いました。これはやはり、倫理的ないし道義的に問題のある、また、論理的にも成り立たない物言いなのだと言わざるをえません。



ここで彼が主張している財産分与は、本来ならば父親が死んだときに行われるものです。つまり、この弟息子は、まだ生きている父親に「あなたが死んだことを前提にして、おれの分け前をよこせ」と言っているわけです。早い話、「オヤジ頼むからもう死んでくれ」と言っているのと、ほぼ同じです。道義的な問題性は明白です。父親に何の恨みがあるかは知りませんが、言ってよいことと悪いことがあります。



また、彼の主張は、よく考えると、論理的にも成り立たないものです。父親が死んだときに貰える分、と言いましても、まだ父親は元気に生きているわけです。現役で働いていたかどうかは分かりませんが、どうやら、この家には多くの従業員がいて、父親は一族会社のオーナーのようですから、収入をいまだに得ていたと考えてよいでしょう。



そうだとするならば、です。父親の財産は、その人が生きているかぎり、常に変動していくものでしょう。もしかしたら、明日、急に事業が成功して、莫大な財産をさらに手にするかもしれません。あるいは、全く反対に、何か大きな失敗や挫折があって、この父親自身が明日、突然、無一文になってしまうかもしれません。そういうことは、十分起こりうることです。



それにもかかわらず、です。この弟息子は「オヤジが死んだときにおれが貰えるはずの分け前をよこせ」と言っているわけです。しかし、たとえばの話ですが、彼がもし、それを貰った後で、父親の会社が大成功を収め、現在父親が持っている財産がさらに増えたらどうなるか。それはもう彼のものではありません。そういうことを、この息子は考えもしない。



父親が生きているかぎり、明日何が起こるか、何が変わるか、誰にも分からないのです。そのことが分からない。想像力に根本的な欠如があるのです。論理的にもおかしなことをしているのです。



ところが、です。この父親は、黙ってなのか、何かを言いながらかは分かりませんが、この弟息子に要求どおりの財産を手渡してしまいます。やめておいたほうがよかったような気がします。たとえ子どもであっても、手渡してよいものと悪いものがあります。



案の定、弟息子は、受け取った財産の全部を換金して、外国に行き、兄息子の指摘によりますと「娼婦どもと一緒に」父親の身上を食いつぶし、財産を無駄使いしてしまいます。



留学なども含めて、外国旅行というのは、この種の危険がいっぱいであると言われます。外国では非日常の開放感を味わい、気持ちが大きくなると言われます。見ず知らずの人々の中では何をしてもよいという錯覚に陥るようです。また、誘惑も多い。現地の言葉を理解できないなど不安要素が少なくない。その上、自分が稼いだのでもないお金などを持っていますと、すぐに見破られ、格好の鴨にされてしまいます。あやしい人々が近づいてきて、あっという間に、全財産を“使い果たさせる”。



この弟息子にも、もちろん大きな責任があります。しかし、少しくらい考えてあげてもよさそうな点があるとしたら、この世界の中には、甘ったれたコドモを鴨にして、全財産を巻き上げてしまう人々がいる、ということです。危ないと分かっているのに、恐いもの見たさで近づくのは、やめるべきです。



「『何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。』」



彼は、文字どおりの無一文になりました。さらに追い討ちをかけるように飢饉が起こりました。それでも、彼には、住まわせてもらえる家と仕事が、辛うじて与えられました。これはラッキーと言うべきでしょう。家のない生活は、わたしたちにとっては、ただちに死を意味する、と言っても、決して言い過ぎではないはずです。



ただし、です。そうかと言って、まともな給料がもらえるわけではなく、三度の食事があるわけでもない。「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった」というのは、非常に実感のこもった表現であるように感じますが、イエスさま御自身にこれと同じような体験がおありだったのかどうかなど、そのあたりは全く知る由もありません。



「『そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」



「彼は我に返って言った」とあります。ここで「我に返る」という言葉は、文字どおりの意味があるだけです。自分自身に立ち返るとか、自分自身の本来あるべき姿を思い出すというようなことだけです。たとえば、「回心した」というような意味までは、ありません。



実際、彼が「我に返って」思い出したことは、自分がそこで生まれ育った父親の家です。なぜ、この話の中に一度も母親の存在が言及されていないのかということ自体は謎です。ただ、もちろん確たることは言えませんが、この話の中心にあるのが財産分与という問題であるということが関係しているのではないか。その家の財産の持ち主としての父親です(当時の話です)。母親がいたかどうかは、この話の趣旨とは直接関係ないことです。



それはともかく、実際問題、彼が「我に返って」思い出したことは、よく読みますと、彼の父親の存在そのものではないように読めてなりません。



「我に返った」彼が思い出したのは、父親自身ではなく、父親の財産です。「大勢の雇い人がいる」とか「有り余るほどのパンがある」とか。彼の頭に浮かんでいるものは、雇い人であり、パンです。父親の顔でも姿でもない。この甘ったれ息子は、父親の持ち物を、相変わらず当てにしているだけです。



しかし、これは、いくらなんでも、ありえない話でしょう。彼はすでに、彼自身の分け前については、すべて受け取ったはずです。そのことを彼自身で主張しました。そして、父親も、彼自身の申告に基づいて財産分与を行ったわけです。



このことが何を意味するかは、すぐにお分かりいただけるでしょう。つまり、それは、この時点において父親の家には、この弟息子に残されているものは、何一つない、ということです。水一滴もありません。だからこそ、兄息子のほうは、弟が帰って来たことに、非常に腹を立てたわけです。お前の分はもうどこにもないはずだ。残りは全部わたしのものだ、と考えたに違いありません。



しかし、自分に都合のよいようにばかり考えるこの弟息子は、すでに自分の分はすべて持って出たはずの父親の家を思い出し、父親の財産を思い出し、そこに帰りたいと考え、帰るためにはどうしたらよいのか、そのための作戦を練りはじめるのです。



彼が思いついた作戦は、二つある、と見ることができます。



第一は、とりあえず謝罪しておきましょう、ということです。彼の謝罪文には「わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました」と書き込まれました。「天」とは、神さまのことです。お父さんは、自分に財産を与えてくれた人であり、家族の代表者です。神様と家族の前で謝罪すること。



第二は、息子としてではなく、雇い人の一人にしてほしい、ということです。わたしは自分の実家の中で元のように扱ってもらえるとは思っていない。自分の分け前は全部持ち出し済みであることについては、もちろん承知している。でも、雇い人ならば別でしょう、と。賃金をいただけないでしょうか、というわけです。これは、ただ卑屈という以外に、表現のしようがありません。しかし、彼が父親とその家族に対してしてきたことを考えると、なるほど、そのような言い方をもってしか自分の家に帰ることができる道が開かれていくことは、ありえないようにも思います。



何度も言うようですが、まだ生きている父親に向かって「わたしの分け前をよこせ」と言ったのは、他ならぬ彼自身です。その願いに父親が応じた以上、父親の家の中に、彼が受け取ってよいものは、水一滴も残っていないはずである、ということです。ですから、なるほど、彼が家に戻れる可能性はただ一つ、雇い人の一人になる、ということしかない、というのは、論理的には、納得の行く話です。



しかし、彼の父親は、こんなバカ息子の屁理屈には一切乗らなかったというのが、この話の一つの結末です。



「『そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。』」



論理的に考えていくならば、この弟息子の考えていることのほうが、正しいのかもしれません。しかし、こんなのは、はっきり言って、全くの屁理屈です。



自分の息子が“雇い人の一人”になりうるでしょうか。自分の息子に“賃金”を払うのでしょうか。父親の会社に息子が就職する、というのは、よくある話です。しかし、これはそういう話ではありません。考えなければならないことは、もしその子どもが仕事をうまくできなかったり、気に入らなくなったら、クビにするのでしょうか、ということです。会社をクビにすることはありえます。しかし、“家をクビにする”のでしょうか。そんなことを、どんな親がするのでしょうか。皆さんは、そういうことをなさるでしょうか。



この弟息子が犯した最大の罪は、放蕩の限りを尽くしたこと自体でも、財産を無駄使いしてしまったこと自体でもないように思われてなりません。彼の最大の罪は何か。父親の心の中をおしはかることができなかった、ということです。父親が、彼のことについて、何を思い、どれだけ思っているかを全く想像すらできなかった、ということです。



だからこそ、わたしを雇い人にしろだの、賃金を支払えだのと、くだらないことを考えたのです。そういう言葉こそが、父親の心をいちばん深く傷つけるものだ、ということが分かっていなかったところに、彼の最大の罪があるのです。



父親としては、前半の謝罪についてはともかく、後半の雇い人うんぬんの話は聞きたくありません。だから、この弟息子が準備した文章の中の「もう息子と呼ばれる資格はありません」に続く「雇い人の一人にしてください」の部分を、父親自身がさえぎっていることが、お分かりいただけるはずです。ああ、うるさい、もう黙れと言いたいかのようです。「雇い人にしてください」?そんなことは、父親にとって、子どもからいちばん言われたくない、いちばん腹が立つ言葉なのです。



父親としては、自分の息子が帰ってきたという、ただそのことがうれしかっただけです。そのことを単純に喜ぶことは、父親には許されていると思います。それは、なんだかんだというような屁理屈では、説明できないものです。



「『ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」』」



父親の態度を、兄貴は理解できません。兄貴は非常に腹を立てます。彼の言い分には、ある程度説得力があります。しかし、肝心なことを忘れています。



兄息子がすっかり忘れてしまっていることは、自分の父親の子どもは、一人ではなく、二人いる、ということです。どんな子どもでも、親にとっては、永遠に子どもです。兄弟同士は、早くいなくなってほしいと願ったり、邪魔だと思ったりするのかもしれませんが、それは子どもの論理であって、親の論理ではありません。



ですから、ここでも当てはまると思われることは、兄貴のほうも、父親の心の中をおしはかることができないという点で罪を犯しているのだ、ということです。



想像力が根本的に欠けているのです。自分のことしか考えていないのです。このたとえ話に出てくる「放蕩息子」は、一人ではなく、二人である、と言われるゆえんが、ここにあるのです。
 
「『すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しむのは当たり前ではないか。」』」
 
これこそが、“親の論理”です。論理的には、明らかに、飛躍があり、無理があります。財産分与というある意味で純粋な契約関係上の事柄からすれば、弟息子にはもはや何一つ残されていないことは、明らかです。しかし、そういう契約だとかややこしいことを全部すっ飛ばしてしまう何か、理屈では説明できない何かが親子の関係の中にはあるのです。



それと同じように、とイエスさまは、おっしゃろうとしているのです。これは、イエスさまのたとえ話です。イエスさまが、この話を通して何をお話しになろうとしているのかが、最後に問われなければなりません。



イエスさまの意図は、より直接的に言えば、イエスさまが、徴税人や罪人たちと一緒に食事をしておられたことに文句を言ってきたファリサイ派や律法学者たちへの反論です。



弟息子は徴税人や罪人たち、兄息子はファリサイ派や律法学者たちです。そして父親は、神さまです。神さまの前で、あなたたちは兄弟ではないか、ということでしょう。似たり寄ったりだ、という言い方も成り立つでしょう。それなのになぜ、兄が弟を見下したり、よけものにしたり、差別したりするのか。そんなことをしてはならない、ということです。



しかし、です。そのような問題の解決には、いろいろな難しい要素がある、ということは、わたしたちもよく知っているところではないでしょうか。



しかし、だからこそ、というべきでしょう、イエスさまが、このたとえ話を通じて最もわたしたちに伝えようとしておられるのは、この兄弟の両方の父親の心の中にあるものは何かということを、想像力をうんと働かせて考えてみよ、ということではないでしょうか。



それは、別の言葉で言い換えますと、先ほど申し上げた“親の論理”を、よく理解せよ、ということです。どんな子どもであっても、自分の子どもがせっかく帰ってきたのだから、「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前である」という“論理”です。この“親の論理”が、神さまの論理でもあるのです。



神さまは、子どもたちが神の家に帰ってくることを、ただひたすら首を長くして待っておられます。しかも、真面目に生きてきた人だけが救われるのではなく、罪人にこそ救いが必要なのです。



そして、見落としてはならないことは、弟息子も兄息子も、父の前では同じ“放蕩息子”なのだ、ということです。



罪人を救うために、神は、イエス・キリストを地上に遣わしてくださったのです。



(2006年2月19日、松戸小金原教会主日礼拝)