2006年1月8日日曜日

「狭き門より入れ」

ルカによる福音書13・22~30



今日からまた、アドベントの期間に中断していましたルカによる福音書の学びを、再開したいと思います。



「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。」



ここに出てくるのは、イエスさまが伝道旅行の途中に出会われた一人の人物です。この人が「救われる者は少ないのでしょうか」と、イエスさまに質問しました。



この人は、おそらくユダヤ人ではないかと考えられております。なぜなら、この問いは、当時のユダヤ教のいわゆるラビ文書と呼ばれるものの中に、さまざまな答えを伴いつつ、たくさん出てくるということが、確認されているからです。そのことを、この人は知っていたと思われるのです。



この問いは、より正確に言い直しますと、「救われる者は少ないのでしょうか、それとも多いのでしょうか」というものです。



ただし、「救われる者」とはどういう意味か、という点につきましては、当時からすでにさまざまな解釈がありました。だからこそ、さまざまな答えの可能性も出てくるわけです。



今ここで、当時のユダヤ教における「救われる者」という言葉の意味として考えられていたものをすべて並べて説明することはできません。しかし、ここで最も考えられる意味は、この世界の終末において実現する“神の国”の中に入ることができ、“天上の祝福”を受けとることができる者、ということです。



イエスさまに対してこの問いを投げかけたこの人物の意図も、またそれに対してお答えになったイエスさまの意図も、この意味であったと考えることが許されるでしょう。



ですから、わたしが申し上げたいことは、わたしたちは、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とは、すなわち、神の国に入ることができる人は少ないのでしょうかという意味であり、また、天上の祝福を受けとることができる人は少ないのでしょうか、という意味である、と理解してよい、ということです。



「イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。』」



これがイエスさまのお答えです。ただし、「救われる者は少ないのでしょうか、それとも多いのでしょうか」という質問に対するストレートな答えとは言えないように思います。



ストレートな答えとは、「少ないです」か「多いです」かです。しかし、イエスさまは、そのようにはお答えになっていません。イエスさまのお答えは、全くストレートではありません。いくらか変化球が投げられている、と観ることが可能です。



まず注目していただきたいのは、ここでイエスさまは、われわれ人間が入るべき場所のことを「狭い戸口」と呼んでおられる、ということです。



ただし、これはルカによる福音書の場合です。似たような言葉が、新約聖書の中にもう一個所出てきます。それはマタイによる福音書7・13です。「狭い門から入りなさい」。



しかし、このマタイの「狭い門」とルカの「狭い戸口」とは異なる意味である、という解釈があるということを、このたび調べておりまして、知りました。



「門」と「戸口」は違う、ということは、考えてみると、なるほど、そのとおりです。マタイの意味での「門」は、エルサレムの町の周囲に建てられた壁についているものですので、その意味は“町への入り口”です。それに対してルカの意味の「戸口」は、明らかに“家の入り口”です。「町」と「家」とでは、規模が全く違います。イメージできる内容も全く違う、というべきです。



しかし、わたしは今ここで、イエスさまが実際におっしゃったことは「門」であるか、それとも「町」であるか、そのどちらが正しいかというような話をしたいわけではありません。わたし自身は、どちらでもありうるし、内容的には両方正しい、と考えております。



今ここで申し上げたいことは、わたしたちが学んでおりますルカによる福音書は、ここでイエスさまが語っておられることを通して、読者に対して何を伝えようとしているのか、という点です。



この点についておそらく考えられますことは、ここでルカが「狭い戸口」という言葉で“家の入り口”を指し示しているとき、その“家”とは、おそらく“教会”のことである、ということです。イエス・キリストを救い主と信じる仲間の集まりとしての“教会”のことです。



つまり、「狭い戸口」とは、すなわち“教会の入り口”のことである、ということです。そのように考えることが、最も自然です。



ただし、もちろん、「戸口」という言葉自体は象徴的な意味です。教会の建物の話をしているわけではありません。そうではなくて、教会の仲間に加わる、ということです。教会の礼拝に出席すること、また、教会の諸活動に参加することです。「狭い戸口から入る」というのは、そういう意味である、と考えることができます。



そして、もう一点、皆さまに、イエスさまの御言葉の中で注目していただきたいところがあります。それは「努めなさい」という点です。



これは表現としては明らかに「努力しなさい」とか「奮闘しなさい」という意味であり、また「献身しなさい」というほどまでの、きわめて強い意味が込められている言葉です。



ですから、この点からも、「狭い戸口」の意味が教会である、という主張を、支えることができると思います。



考えられることは次のことです。ここでイエスさまが語られているのは、“狭い戸口から入るように努力しなさい”ということであり、その意味は、あなたがたは、イエス・キリストを救い主と信じる教会の仲間に加わり、かつイエス・キリストを通して示された神の愛をこの地上に実現するために、努力し、奮闘し、献身しなさいということです。



ところが、です。とても気になる言葉が、続いています。



「『言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』」



今わたしは、ここでルカが書いている、イエスさまが語られた御言の中の「狭い戸口」とは“教会”のことであると申し上げたばかりです。それは、“教会”という狭い戸口から入って、その中にとどまることがどうしても必要である、ということに他なりません。



そしてまた、このイエスさまの御言は、ある人物が投げかけてきた質問への答えである、という点も、見逃せません。質問の内容は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」というものでした。イエスさまの御言は、これに対するストレートな答えではないかもしれません。しかし、それは質問への答えであるということも、確かに言いうることです。



そうであるならば、です。イエスさまの答えの中に少なくとも含まれていると思われることは、 ひとが“教会”というこの「狭い戸口」の中へと入る目的は、“救われるため”である、ということです。そのように理解していただけると思います。



しかも、もちろん、教会の中にただ“入った”というだけではなく、それだけで終わりではなく、そこに参加し、信仰をもって共に生きる仲間と出会い、常に神の御前にあって感謝と喜びの人生を送る、ということまで行き着くことが必要です。そのために努力し、奮闘し、献身することが必要なのです。



ところが、です。イエスさまは、その“狭い戸口”には「入ろうとしても入れない人が多い」ということを、よくご存じです。これはどういう意味なのか、ということをわたしたちは、よく考えてみる必要があると思います。



とくに、わたしがよく考えてみなければならないと感じるのは、これは、裁きの意味であろうか、それとも慰めの意味であろうか、という点です。



裁きの意味はないと語ることはできないと思われます。なぜなら、25節以下のたとえ話は、とても厳しい裁きの面を持っていることは否定できないと思われるからです。ただし、今日は25節以下については時間の関係で残念ながら詳しくお話しすることができません。



しかしまた、わたしは「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスさまの御言に、慰めの意味を読みとることもできるのではないかとも、考えております。少なくとも文法的な観点からその意味での理解を妨げることは、できません。



ここから先は、ぶっちゃけた話になってしまうことを、お許しください。それは何かと申しますと、わたしたちがいくらか長い人生、またいくらか長い信仰生活を送ってきますと、“教会”というものに心底からうんざりさせられる瞬間に立ち会うことがある、ということは、紛れもない事実である、ということです。



分かりやすく言わせていただくならば、わたしたち教会に属している者たちのおそらくすべてが、一度ならず、まさにこの教会というものが、すっかり嫌になってしまった、ということを体験したことがある、ということです。



そんなことは一度もない、と言える人がいるでしょうか。一人もいないと言いきれるかどうかは分かりませんが。



その場合に、です。



「入ろうとしても入れない」というのは、そのように感じている人々の心の中には、主なる神に対する不信仰だとか、人生に対する不誠実だというような簡単で一面的な裁きの言葉だけでは決して片付けることのできない、むしろ、もっと深刻で、とても悩ましい、非常に複雑な要素が、そこに働いているかもしれないということを考えざるをえない、ということです。



日曜日の朝、教会に行かなくちゃと、頭と心では分かっている。しかし、体が動かない。起き上がることも、立ち上がることもできない。



あの牧師の長々とした説教を聞かされるのかと思うと、うんざりする、という人もいるでしょう。でも、それはまだ症状としては軽いほうです。それは、みんなが感じていることだからです。



症状として重いのは、やはり、あの人この人の問題です。人間関係です。人間に出会うこと、人の交わりに入ることは、それ自体とても疲れることです。忍耐と寛容が必要です。



人間は、必ずと言ってよいほどに、けんかするからです。競争もします。ねたんだり、足を引っ張り合ったりします。「あの人間関係に入ることが“救い”である」と言われるとぞっとする、という体験は、だれにでもあるのです。



しかし、それは、わたしたちにとっては、言うまでもなく、どう考えても健全なことではありません。きわめて不健全なことです。だからこそ、わたしたち自身が、真剣に考えなければならないことがあると思います。



それは、何よりも先に、「入ろうとしても入れない人」が多いという事実を、わたしたち自身が認める、ということです。



イエスさまの時代にも、そのような人々がたくさんいた、と考えることができそうです。なぜイエスさまが当時の律法学者や祭司長や長老たちをあれほどまでに激しい言葉で批判されたのかを考えてみると分かります。



それは、ユダヤ教の教会は悪くて、キリスト教の教会は正しい、という話ではありません。教会の中には人を躓かせる要素がある、ということは事実である、ということです。



しかし、それは放っておいてよいわけではなく、正されなければならない点です。わたしたち改革派教会の標語を持ち出すならば、「教会は、常に御言葉によって改革され続けなければならない」のです。



しかしまた、いわば同時に、わたしたちは、教会の中に入ること(礼拝に出席し、教会の諸活動に参加すること)が“救い”にとって必要不可欠である、ということをも認める、ということです。



どうすればよいのでしょうか。道は、おそらく一つしかないと思われます。



それは、「入ろうとしても入れない人」に教会を無理強いすることではありません。そのようなやり方では、ちっともうまく行かないでしょう。



そんなことではなく、わたしたちに求められていることは、「入ろうとしても入れない」人々のために、わたしたちみんなが祈り、配慮し、その人々を受けいれることです。



わたしたち改革派教会の者たちが「教会政治」というなんだかとっても厳めしい言葉を用いて語ろうとしている真の意図は、まさにこの点です。「入ろうとしても入れない人」への祈りと配慮です。



「教会政治」の真意は、裁きではなく、慰めであり、配慮であり、救いです。このことが十分に理解されていないところで行われる「教会政治」は凶器です。とくに“戒規”は、時と場合によっては本当に危険な凶器です。



わたしが願っていることは、多くの方々に教会に来ていただきたい、ということです。ただそれだけを願っております。



(2006年 1月 8日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年1月1日日曜日

われらの主、イエス・キリスト


ヨハネによる福音書1・14

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今日は新年礼拝です。日曜学校と合同でこの礼拝をささげています。子どもたちが前のほうに座ってくれています。もっとも、松戸小金原教会の礼拝には、いつも子どもたちがたくさんいますので、座り方が違うだけで、メンバーはいつもと同じです。

しかし、この機会に心したいことは、わたしたちにとって大切なことは、やはり、自覚的かつ積極的に子どもたちを礼拝に招くことであるということです。小さい頃に神さまを深く知ることが大切です。人生がそれで変わると言っても、決して過言ではありません。

日曜学校の子どもたち、今日は、新年礼拝に来てくれて、ありがとうございます。日曜学校では、今「使徒信条」を学んでいます。今日もそれを勉強したいと思います。

まず、使徒信条(口語訳)を、みんなで読みましょう。

「わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして、全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。」

この使徒信条は、大昔からわたしたち、キリスト教の教会が大切にしてきた言葉です。

聖書の中にこのままの言葉が直接出てくるわけではありません。しかし、聖書に書かれていることを要するに短い言葉で言うと何か。あるいは、聖書の中に書いてある神さまとはどういうお方なのかということを要するに短く言うとどれくらいになるかというと、この使徒信条くらいにまとめることができる。そういうものとして、わたしたちキリスト教の教会が、昔から重んじてきたものです。

この中で今日とくに学びますのは「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という部分です。

松戸小金原教会日曜学校の豆テキストに書いている言葉を読みましょう。

・ 「言」とは神の子、イエスさまのことです。
・ 神さまがわたしたちと同じような体をもった人間としてこの世界に来てくださったのです。
・ それはわたしたちの罪を救うためにどうしても必要な方法だったからなのです。

このとおりです。わたしたちが信じるイエス・キリストとはどういうお方なのかといいますと、要するに「言が肉となった」(ヨハネによる福音書1・14)というお方なのだ、ということです。

イエスさまは、“神人間”(かみにんげん)です。もともと神さまでした。神さまである方が、人間になってくださったのです。

でも、あまり変なものを想像しないでください。イエスさまは、わたしたちと全く同じ人間です。悲しければ涙も流されるし、疲れたらお休みになるお方です。

しかし、もちろん違いもあります。全く同じだったら、神の子とか救い主とは言えないと思います。このことを理解するためには、わたしたちのほうから考えていくと、よいでしょう。

みんなの学校の友達の中に「神さま」と呼ばれている人はいませんか。「あの人は○○の神さまだ」と。

いまは、テレビなどを見ていますと、毎日のように、必ずどこかに「○○の神さま」が出てくると言ってよいほどだと感じています。野球の神さま、テニスの神さま、エンタの神さまとか、漫画の神さまとか。

人間は“神さま”になりたがっている、ということです。また、だれかを“神さま”と呼びたがるのだ、ということです。

ところが、イエスさまは、この点では正反対であるというこの点が、決定的な違いなのです。わたしたち人間が神さまになりたがる、あるいは、だれかを神さまと呼びたがる。しかし、イエスさまというお方はもともと神さまだったのに、人間になりがってくださった方なのです。

イエスさまは、もともと神さまのお方なのですから、人間の世界に来る必要は、本当はなかったのです。神さまなのですから、立派なお家に住んでいてもいいし、温かい部屋にずっと居てもいいし、おいしいものをたくさん食べて何不自由ない生活をいつまでもしていても全然構わない、そういうお方なのです。

ところが、そういう神さまであられるお方が、人間になられたのです。わたしたちのこの世界に来てくださったのです。それがイエスさまのお姿なのです。

日曜学校の生徒たちにわたしがいつも期待していることは、やはり、これから一生懸命勉強して、いろんな力やわざや知識を身につけてほしい、ということです。そして、それを、世のため・人のために役立てることができるようになってほしい、ということです。

ただ単なる自己満足や贅沢のためだけではなく、むしろ、この世の中で困っている人々を助ける仕事をするために役立ててほしい、ということです。

イエスさまは神さまのお家に住んでいた方なのですから、それなのに人間の世界に来てくださったのですから、ご自分は損しておられるのです。本当は楽をすることができるのに、わざわざ損をしてくださって、みんなを助けてくださったのです。

ここから先は、大人の皆さんにも、ぜひ聞いておいていただきたいことです。

子どもたちは大人のことを見ているのだと思います。父親のこと、母親のこと、社会のこと、教会のことをものすごく冷静に見ているのだと思います。

そして、その姿を真似するのだと思います。大人たちが自分の利益とか自己満足とか、ただそれだけのために、あるいは自分の贅沢のためだけに生きているということであるならば、それを見て子どもも同じように真似するのだと思います。

でも、逆も然りであると申し上げておきたいと思います。わたしたちが自分はちょっとくらい損をしても、世のため・人のため、そして神さまのために身を粉にして働くことができるということであれば、そういう大人を子どもたちも見習うのだと思います。

今年一年間がどのようなものになるかは分かりません。しかし、わたしたちもぜひそういうふうにならせていただきたいのです。

「早く神さまになりたい」というのではありません。その逆です。

神の御子イエスさまが、人間になられたのです。

イエスさまは、神の御子であられるのに、わたしたちの世界に来てくださったのです。

わたしたちも、イエスさまのように、世のため・人のために働かせていただけるものになりたいと願います。

(2006年1月1日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年12月25日日曜日

主に望みをおく人は鷲のように翼を張って上る


イザヤ書40・27~31、ヨハネによる福音書1・16~18

クリスマスおめでとうございます。今日は二人の方の加入式を行うことができましたことも感謝いたします。

今年のアドベントは、旧約聖書のイザヤ書40章と新約聖書のヨハネによる福音書1章を続けて学んできました。今日も、少しずつ学んでいきたいと思います。

「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」

残念ながら、この訳では、何のことか、ほとんど意味が分かりません。

この御言は、「わたしの道は主に隠されている」というよりも、「主なる神は、わたしたちのことなど気にかけておられない。興味をもっておられない」というようなことです。

また「わたしの裁きは神に忘れられた」というよりも、「わたしたちの神は、わたしたち人間の権利主張などは無視なさる方である」というようなことです。

ここで表明されていることは要するに、わたしたち自身もしばしば体験してきたでありましょう、神に対する失望です。「わたしは神に無視されている」という告白です。

それは、考えてみれば、もしかしたら、わたしたちにとって最もきついこと、厳しいことかもしれません。「神が存在することは分かっている。神が生きて働いておられるということも分かっているつもりである。しかし、その方に、わたしたちは無視されていると感じる。」これは、最もきついことです。

とくに、自分の身に不幸が続くとき、わたしたちは、つい、そんなふうに考えてしまいます。また、そう考えることのすべてが悪いと言われても、ちょっと困ると感じます。

そして、それは、神を信じる者であるからこそ感じる思いでもあります。神の民だからこそ、信仰をもって生きている人々だからこそ、神への祈りや願いや期待に応えがないと感じる瞬間があるということは、わたしたちの身にも覚えがあることです。

初めから神の存在を信じていない人の心に「わたしは神に無視されている」という思いが起こることは、論理的には、ありえないことです。

しかし、預言者は、猛然と反論します。

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」

「主は、とこしえにいます神」とは、もちろん、神は永遠に生きておられるということです。このお方こそが「すべてのものの造り主」であられると預言者は語っています。

主は永遠に生きる力を持っておられる、ということです。わたしたちは、永遠に生きることはできません。どこかで疲れ果ててしまいます。しかし、神さまは、疲れ果てることなく、永遠に生きる力をお持ちであり、また、天地万物をお造りになるほどの力を持っておられるのだ、ということです。

「倦むことなく、疲れることなく」とあります。「倦む」の意味は、飽きることです。物事に取り組む気力、やる気を失うことです。萎えてしまうこと、嫌になってしまうこと、投げ出してしまうことです。

ここで言われているのは、そうではなく、ということです。

神は倦まないし、疲れない、ということです。

神は、わたしたちを投げ出してしまわれない。わたしたちのことをすっかりあきらめてしまわれるとか、わたしたちのことが退屈になって、嫌になって、投げ出してしまわれる、そういう神さまではない、ということです。

わたしたちの神は、神を信じて生きるわたしたち人間一人一人のお世話に疲れない、ということです。助け、励まし、慰めることに疲れない、やめてしまわれない、ということです。

そんなことも知らないのですか、聞いたことがないのですか。神があなたがたのことを無視されるはずがないでしょう。神をもっと信頼してください、ということを、預言者は語っているのです。

「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」

これはまさに書いてあるとおりです。付け加えるべき言葉は何もありません。ひたすらこのとおりに信じたいと願うばかりです。疲れた者に、神さまは、力を与えてくださるのです。

なぜそう信じたいのかと申しますと、それは、わたしたちがあまりにも疲れやすいからです。

わたしも、自分は本当に疲れやすい人間であると自覚しています。「今こそ力が欲しい」と感じるときが本当にあります。あとちょっと体力があれば、もうちょっとがんばれるのに、と思うことがあります。今どうしても済まさなければならない仕事があるというときに、あとちょっと力がほしい。でも、疲れてしまう。

ただし、この個所で預言者が語っていることは、単に、わたしたちのいわゆる“体力”の問題に限られることではなさそうです。続きを見てくださると、そのことが分かります。

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが」

ここに出てくる「若者」や「勇士」の意味は、明らかに、体力的には十分な力を持っている、この点においては弱っていないはずの人々のことです。

ですから、ここで問題になっているのは、年齢のことや体力のことではないというべきです。年齢が若く体力がある人でも疲れることがありうるし、ずいぶん長く生きてきた人々でも元気であるということがありうる、ということです。

となると、ここでの問題は、年齢や体力の問題ではなく、より多く、心の問題である、と言ってよいでしょう。そして、そこにはどうもわたしたちの“信仰”ということが深くかかわっています。何を信じ、何を期待するかにかかっている、というべきです。

わたしがこれから申し上げることは、決して何か比較の意味で申し上げていることではない、ということを、あらかじめお断りしておきます。語弊が出てくるかもしれませんが、どうかあまり腹を立てないで聞いていただきたいと願っております。

それは、神を信じて生きている者たち、わたしたちは、元気である、ということです。

「比較の意味ではない」と申し上げましたのは、神を信じていない人は元気ではない、というような、裏面の事柄を強調するつもりはない、ということです。

しかし、やはり申し上げたいことは、神さまを信じて生きている人々は元気である、ということです。

そしてまた、やはりどうしても触れざるをえないと感じるのは、体力や年齢において若々しくて元気であると自他共に認めるような人々であっても、元気溌剌のスポーツマンや、体力みなぎるファイターであっても、“心が弱い”ということがありうる、ということです。人は見かけによらない、ということです。

それは、わたしたちも自覚があることです。元気そうに見えても心が弱い。心が弱っているということがありうるのです。

そういう自覚を持っている人は、あまり自分独りでがんばらないほうがよいと思います。周りの助けを求めたらよいし、SOSをどんどん出したらよいのです。黙っていないほうがよいし、我慢しないほうがよいのです。わたしたちの心は弱いから。ボロボロにしたまま放ったらかしにしておくと、元に戻らなくなります。自分をあまり追い詰めないほうがよいです。

また、ぜひ申し上げておきたいのは、良い意味での“逃げ場”を必ずどこかに確保しておくほうがよい、ということです。どこにも逃げる場所がなく、追い詰められてしまい、絶望する、というのが、いちばん悪いことです。

だからこそ、助けを求めてほしいと思います。そして、神さまを信じる信仰を持ってほしいと、本当にそう願います。

これは何か比較で言っていることではありません。そうでない人はダメだ、というようなことを言いたいわけではありません。

しかし、神さまを信じて生きている人々には、どこか心の中に余裕があり、ユーモアがある、ということは事実です。

わたしもそうなのです。わたしだって疲れてしまうときがあります。しかし、どこかにいつもあっけらかんとしているところが、ちょっと残っています。それは、わたしの家族にとっては図々しいと見えているところなのだと思います。でも、本当にそうなのです。

もちろん、全く何の悩みもない、などということは、ありえません。しかし、最終的なところで神さまに委ねることができるというのは、本当の実感です。格好をつけて言っているようなことではないのです。

そしてまた、これは、わたしたちの側の心の持ち方とか、物事の考え方とか捉え方、というようなこちら側の問題ではありません。ただし、これは、表現しにくいことです。

ともかくそれは、神さまがわたしたちに与えてくださるものです。わたしたちの信仰は、神さまが“聖霊の働き”を通して、わたしたちの心の中に与えてくださるものです。賜物(ギフトまたはプレゼント)として、神さまはわたしたちに信仰を与えてくださるのです。

しかしまた、神さまは、わたしたちに、信仰というものを、わたしたちの心や意志や理性や感情などを全く尊重してくださるという仕方で、与えてくださいます。神さまは、わたしたちを操り人形のようなものにしようとされている、ということではありません。

神さまは、聖書を通して、教会を通して、説教を通して、祈りを通して、わたしたちに信仰を与えてくださいます。わたしたちは、納得ずくで信仰をいただくことができます。もし疑問があれば教会に聞いたらよいし、牧師や長老たちに聞いたらよいのです。黙って従え、というようなものでは決してありません。

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

この御言葉も、まさに書いてあるとおりです。ただ、ちょっとだけ気になるので注意しておきたいのは、「鷲のように翼を張って上る」という点は、「上る」と書かれているからといって、これをすぐに、地上の生活をやめて、神さまのおられる天の世界に飛んでいく、というような意味で理解してはならない、ということです。

それは大きな誤解です。「鷲のように翼を張って上る」とは、「象のようにのっしのっしと歩く」というのと、いわば同じです。鷲のように上るとは、象のように歩くことであり、人間のように生きる、ということです。喜んで感謝して神さまを見上げて生きる、ということです。本来の力を発揮する、ということです。

ですから、これは、体力や年齢の問題ではありません。また、どうか“飛び上が”らないでください。歩いてください。前進してください。生きてください。

そして、わたしたちが元気に生きていくためには、信仰の問題、すなわち「主に望みをおくこと」を、どうしても無視することができません。これはわたしが牧師だから言っていることだろうと思われるのは仕方がないことです。しかし、公平に見て、わたしたちが元気に生きていくためには信仰が必要であると、申し上げておきます。

ヨハネによる福音書(1・16〜18)には、次のように書かれていました。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

とくに注目していただきたいのは、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」という点と、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」という点です。

ここでヨハネが語っているのは、イエス・キリストが神を現わしたのだということです。イエス・キリストがお生まれになって以来、わたしたちは、イエス・キリストを通して神を知るという道を、神ご自身から示されたのです。神を知ることも信じることもすべて、イエス・キリストを通してです。それ以外の道はありません。

それ以外の道はない、というようなことを申しますと、それは、窮屈で、偏屈で、排他的で、面倒なものではないかと思われてしまうかもしれません。しかし、決してそうではありません。

イエス・キリストというお方が、“神の愛”を示してくださったのです。その愛に生きることができるようになる、ということです。イエス・キリストの愛を通して、神が“愛に満ちたお方”であることを知るのです。

ですから、それは、愛の道です。そして、それこそが、わたしたちが元気に生きることができる道なのだ、ということです。

「そんなことは信じられない」と思う方は、ぜひ、松戸小金原教会のみんなの顔を見ていただきたいと思います。

わたしたちが、元気に喜んで生きている姿を見ていただきたいと願います。

イエスさまが生まれてくださり、命をささげてくださったおかげです。

クリスマスおめでとうございます!

(2005年12月25日、松戸小金原教会主日礼拝)

「喜びのクリスマス」

ルカによる福音書2・8~14



わたしたちは、今、クリスマスイブの礼拝をささげています。



「クリスマスイブ」という言葉の意味は、要するに、クリスマスの前夜ということです。クリスマスの本番は明日です。今日はいわば前夜祭です。



しかし、なぜ、わたしたちは、クリスマスの前夜祭をするのでしょうか。明日も教会でクリスマス礼拝が行われます。祝会も行われます。朝早くから夕方まで忙しい一日になりそうです。それなのに、前の夜も集まらなければならないのか。そのことを疑問に感じる人がいても、おかしくはありません。



しかし、わたしがありがたいと思っておりますことは、クリスマスイブに礼拝を行うということについて文句を言われたことはあまりない、ということです。ささげるのは当然だと考えていただけるのは幸いなことです。



クリスマスに印象的なのは光です。電飾をつけたり、ローソクを灯したり。光が輝くのは夜です。クリスマスの醍醐味はイブにあると考えている人は多いです。「クリスマス礼拝には出席できなくても、イブ礼拝には出席したい」という人に出会うことがあります。クリスマスイブ礼拝には“文化的意義”があるのです。これを多くの人々が待ち望んでいるのです。



しかし、です。わたしは、今日、クリスマスイブに礼拝をささげることの意味として、もう一つ考えてみたいことがあります。



それは、「クリスマスの前夜」の意味は何なのかということです。とくに集中して考えてみたいと思いますのは、「前夜」という言葉の意味は何か、です。



「前夜」という日本語の正確な意味を、皆さまは、ご存じでしょうか。広辞苑を調べてみますと、次のように記されていました。



「前の晩。ある日の前日の夜。」ここまでは、字義通りです。注目すべきは次の意味です。「また、特別なことのおこる直前。」



そして、この言葉の活用の例として、「革命の前夜」というのが、挙げられていました。



この意味の「前夜」という言葉を、わたしたちも、用いると思います。あまりひんぱんではないかもしれません。たとえば、戦争が始まる直前のことを「開戦前夜」と申します。それは、別に、必ずしも、時間的な意味での「夜」に限ったことではありません。まさに特別なこと、世界がひっくり返るような大騒ぎが始まる“直前”という点が大切です。



ただし、それが「夜」という言葉で表現されているのはなぜかという理由を考えてみることは、有意義なことです。それを考えるための根拠を持っているわけではありません。しかし、それはおそらく、光と音に関係があるのではないかと思われます。



もっとも「夜」という言葉でイメージされるものは昔と今とでは大違いかもしれません。今日は、ちょっと昔の話をさせていただきます。「夜」といえば闇、「夜」といえば静けさを表わしていた時代の話です。静かで暗い時間、それが「夜」です。



二千年前のクリスマスイブとクリスマス当日の様子は、どうだったでしょうか。それはそれは、まことに静かなものでした。



そこに集まったのは、何人かの羊飼いたちと、何人かの東の国の博士たちだけでした。天使たちは群れをなして現れましたが、残念ながら彼らは人間ではありませんので、人間の数にカウントできません。羊たちもカウントできません。あとは、ヨセフとマリアだけです。ですから、全員合わせても10人いたかどうかくらいです。



しかも、そこに集まっていたのはごく普通の人々でした。わたしたちと同じ(と言っておきますが)ごく普通の人々でした。ユダヤの王さまもいないし、大臣もいませんでした。祭司長も律法学者も、いませんでした。



いわば何の力も持たないごく普通の人々だけが集まって、イエスさまのご降誕をお祝いしたのです。それがイエスさまがお生まれになった最初の日の情景です。



その情景は、一夜明けたくらいで、変わるものではありません。物事は、一日二日くらいでは何も変わりはしません。世界が変わっていくためには、長い時間がかかります。わたしたちの人生も同じです。



しかし、それが“前夜”です!



夜は明けるのです。陽の光はさしこむのです。新しい時代が来るのです。それがクリスマスです。ですから、クリスマスイブとは、イエスさまが来られ、そこから新しい時代がたしかに始まった、その日を迎える準備のためのひとときである、ということです。



そうであるならば、です。この夜、わたしたちが聴くべき御言葉は「恐れるな」という言葉なのだとわたしは思います。



“前夜”だからこそ、「恐れるな」です。これから、わたしたちの人生に大きな出来事が起こるかもしれない“前夜”だからこそ、です。



「恐れるな」とは、イエスさまの父ヨセフが聞き(マタイ1・20)、母マリアもまた聞き(ルカ1・30)、そしてベツレヘムの羊飼いたちまでもが聞いた(ルカ2・10)御言葉です。



それは、救い主イエス・キリストが来てくださるその日・その瞬間から始まる、新しい時代と、新しい人生との幕開けの、まさに“前夜”において、天使の口から語られた言葉です。



なぜ“前夜”だからこそ「恐れるな」なのか、と言いますと、“前夜”には必ず“不安”がつきまとうからです。革命前夜にせよ、開戦前夜にせよ、です。新しいことが始まり、これから何かが変わろうとしているのですから。不安があるのは当然です。



それどころか、その“不安”は、無いと困るものです。



たとえば、わたしたちがイエスさまを信じても、洗礼を受けても、教会に加わっても、わたしの人生は何も変わらないし、変えたくない、ということであるならば、困ります。変わってもらわなければ困る、という面があります。



「どんなことがあっても、わたしは、自分の生き方を変えるつもりはありませんから」と開き直られると困ります。そういう人は、もっと“不安”を持つべきだ、と言いたいくらいです。



しかし、です。普通の人なら、大きな変化の前には、不安を持つでしょう。その不安な人々に対して、神さまが、天使を通して、「恐れるな」と語ってくださったのです。



その意味は、あなたの人生は、明日から変わっていくけれども、「恐れるな」です。



神さまが守ってくださるから、大丈夫だから、「恐れるな」です。



二千年前の最初のクリスマスに立ち会った人々が、またわたしたち自身が、「恐れるな」という言葉を、不安に満ちた「前夜」に聞き、大いなる慰めと励ましを得たことを、思い起こすことが、クリスマスイブ礼拝をわたしたちがささげる意味であると思います。



明日のクリスマス礼拝において、二人の方がわたしたちの教会に加入されます。加入式を行います。その方々も、まさに明日から、信仰生活のうえで新しい歩みを始めることになります。不安もあるかもしれませんので、「恐れないでください」と申し上げておきたいと思います。



2005年がまもなく終わります。新しい年に新しい歩みを始める方もおられるでしょう。不安もあると思いますので、「恐れないでください」と申し上げておきます。



イエス・キリストを信じて生きる人、教会にしっかりつながって生きている人々には、神さまがついていますから、大丈夫です。安心して、前進していきましょう。



(2005年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイブ礼拝)



2005年12月18日日曜日

言は肉となってわたしたちの間に宿られた


イザヤ書40・18~26、ヨハネによる福音書1・14~15

クリスマス礼拝を目前に控えて、今日もまた、待降節(たいこうせつ)の礼拝としてささげております。

イザヤ書40・18〜26に書かれていることは、先週まで学んできたことの続きです。今日の個所は、特に、わたしたちにとっては比較的理解しやすい内容であると思います。問題となっていますことは、前回とほぼ同様のことです。同じような内容が繰り返されていると言えます。どういう話題かということを、最初に申し上げておきます。

それは、一言でいいますならば、神さまと人間との大きさの比較です。神さまは大きな方である。しかし、人間は小さなものである。神さまとの比較において、神さまは大きいけれども、人間は小さい。また、この世界は小さい、ということを語ること。これが今日の個所全体の内容であり、文脈であるということです。そのように理解していただきたいと思います。

しかしまた、先週の個所との比較において、今日の個所には、特別な強調点が置かれている問題もある、ということも事実です。それは何なのか、ということを少しずつご説明していきたいと思います。

「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか。職人は偶像を鋳て造り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける。献げ物にする桑の木、えり抜きの朽ちない木を巧みな職人は捜し出し、像を造り、据え付ける。」

ここに“偶像”という言葉が、はっきりと出てきます。人間が、わたしたちが、その手でつくる像の問題です。論点は、非常にはっきりしております。いわゆる偶像礼拝の問題です。偶像を造ったり拝んだりすることの問題です。それがここに取り上げられています。旧約聖書の中に出てくるモーセの十戒、とくにその中の第二の戒め、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」という戒めに抵触する問題です。

わたしたちは、偶像を拝んではなりません。自分のために刻んだ像をつくってはなりません。しかし、誤解は早く解いておいたほうがよいと思います。かたちあるものすべてが悪である、というようなことを言いたいわけでは、決してありません。そのようなことを言い出したら、わたしたちは、この地上で生きていくことはできません。地上のすべてのものは、かたちあるものです。それが悪いなどということを、聖書は語っておりません。

“偶像”とは、一言でいいますと、宗教的な目的に用いるために造られる像です。それ自体を拝んだり祀ったりするためにつくられる道具の総称です。また、しかも、それを、宗教教団が信者に売って、それを拝ませるというようなことをする。そういうことのためにつくられるものです。そしてまた、それは、たいていの場合、高い値段で売られます。

その偶像の具体例が、今日の個所に出てきます。それは、木や金属で作られていました。そして、その上に、金箔がかけられていました。あるいは、銀の鎖がとりつけられていました。そのような仕方で、きらびやかに飾り立てられていました。しかしまた、それは、外側のメッキがはがれると、中の木が出てくる、あるいは、何が出てくるか分からない、というふうなものでもある、ということです。ここに書かれているのは、そのような偶像があったという歴史的な事実であるというべきです。

しかし、これは、先ほども言いましたように、宗教的な目的で刻まれ、つくられる像のことです。すべてのかたちあるものは悪であるということを言いたいわけでは決してない、ということは、繰り返し申し上げておきます。

その偶像に対して、またそれをつくる人々に対して、預言者は、次のように語るのです。「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか」。この預言者の言葉の意図として考えられることは、いわゆる反語です。

あなたがたは偶像を造る、という。それは、神さまのお姿に似せたものを造る、という。だからこそ、神さまのかたちをしているそれを拝め、というわけだ。しかし、あなたがたは、それが神さまのかたちに似ていると言う。しかし、あなたがたは本当に、神さまの姿を見たことあるのですか、という問いであると言ってよいわけです。

見たこともない(と思われる)神さまに似ているとか、なんとか、そのこと自体、本当にそうなの?どういう理由でそんなことがいえるの?こういうふうに問いかけがなされているわけです。

ですから、これは反語です。預言者の意図は、だれひとりとして神さまのお姿を見たことがある人などいない、ということです。そして、だからこそ、神さまのかたちに似せて何かをつくるというようなことは、だれにもできないし、これはそういうものだとあなたがたが言っていることのすべてはウソである。こういうことを、はっきりと言おうとしているのです。

しかし、ここにはまた、考えていけば行くほど、わたしたちの心の中にある非常に深い落とし穴、またその中の闇のようなところに入っていくような気がする問題があります。そもそも偶像の問題というものには、まずだれかが神さまに似せて何かをつくるということがある。次に、これは神さまに似ているものだから拝め、と言われる。そして、それを信じる人々が出てくる、というような一連の問題があるわけです。

しかしまた、その中に潜んでいる問題は、そういうふうにしてつくられた、これはそういうものであると言われながら差し出される偶像は、実際に見るとたしかに、わたしたちの目には魅力的な何かであるし、わたしたちの心を魅了する何か、あるいは幻惑するような何かである。偶像とは、まさにそのようなものとしてつくられているのだと言わなければならないのです。

中身は分かりません。しかし、外側はキンキラキン。銀の鎖がかかっている。そういうものである。また、それは「神さまに似ている」と言われる。そういうものとして差し出され、受け取ったとき、それを「拝みたい」という思いにさせられるような何かでもある、ということです。そういうものでなければ、人はそれを信じようとしないし、受け取ろうとしない、ということでもあるわけです。

ですから、預言者も、またおそらくわたしたちも、偶像の問題については、実際の場面では、いろんな反論を受けるのです。「これを拝んで何が悪いのか。これはよいものだ」というふうに、人々は感じるのです。わたしたちだって、そういう気持ちにさせられることがあるかもしれません。すごくきれいなものであるとか、それが人を魅了する力を持っていることは理解できることである、など。身に覚えのあることが多いと思います。

そしてまた、あと一歩踏み込んで言いますと、それが人の心を魅了する、まさに魅力をもっているものである、ということが、はっきりするならば、それはわたしたちにとって、ある意味で役に立つものなのです。

心を奪われて、うっとりして、「いいものだ」と感じることができる、というものであるならば、それ自体が目的になる、ということです。

それがもし仮に、たとえばわたしたちが天国に行って、神さまとお会いして、そのとき自分が手にしている偶像が神さまとは似ても似つかないものであるということが、後から分かったとしても、です。それでもいいと思える何かである。それが偶像の姿でもある、ということです。

自分が手にしている偶像それ自体が美しいものであり、いいものである、ということであるならば、です。神さまと似ていなくても、それはそれでいい、ということにもなってしまいかねないのです。

今この手の中に持っている、目に見える美しいもののほうが、はるかに、わたしたちにとって役に立つ。目に見えない神さまの存在などというものは、そもそも、実はいないのではないか、というようなことまで考えはじめてしまう。役に立たない、今実際にお会いすることのできない神さまよりも、今手に持っているこの美しいものを神として拝むほうが、わたしたちにとって有益である。こういう気持ちにさせられることは十分にありうることなのです。

わたしたちだって、かつてはそうだったかもしれません。今だって、そういう思いから抜け出ることができないでいるかもしれません。手にしている、目の前の、美しいもの、よいもの。それがたとえ偶像と呼ばれるようなものであっても、一向に構わない。わたしたちがそういう思いにさせられるということは、十分にありうることなのです。

しかし、そのようなことを預言者も、おそらく分かった上で、真剣に、真正面から一つの問いを問いかけているわけです。それは、どういう問いなのかということを、見て行きたいと思います。

「お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか。初めから告げられてはいなかったのか。理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り、その上に御座を置かれる。」

これと同じ問題が、25~26節にも出てきます。

「お前たちは、わたしをだれに似せ、だれと比べようとするのかと、聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」

天地万物をお造りになった方がおられる。それは誰ですか?偶像ですか?あなたの目の前にある、あなたが手の中に持っている、その偶像ですか?その偶像がこの世界を造ることができましたか?そんなことはできないでしょう。そういう問いかけがある、と言ってよいと思います。

神さまという方がおられる。しかも、その方は、この世界を、造ったら造りっぱなし、放ったらかしにされるのではなく、お造りになったあとも、これをちゃんと守り、治め、育て、養ってくださる。そういうことを、あなたがたは知らないのか、という問いかけがある、ということです。

もちろん、そういうふうに問われたからといって、実際に偶像をつくったり拝んだりしているような人たちが、それをやめようというような気持ちになるかどうかは、分かりません。

しかし、預言者が言おうとしていることは、はっきりしています。それは、あなたのその手の中にあるその小さな偶像にこの世界をつくることができましたか、という問いです。そんなことはできないはずだ。また、そのことはあなたがたがいちばんよく分かっているはずだ。そういう問いかけがある、と言ってよいと思います。

26節の「天の万象」とは、星のことをとくに表わしています。夜空に光るあの天の星のことです。それをだれが創造されたかをあなたがたは分かっていますかという問いかけがあります。そして、「それらを数えて引き出された」とは何のことを言っているのかといいますと、一つ一つ星を呼び出して、名を呼んで、一つ一つそれをお造りになった、ということです。神さまは、あの星を、一つ一つお造りになったのです。それくらいの大きな力を持った方なのです。

ただし、ちょっと気になる言葉が出てきます。22節に出てくる「地に住むものは虫けらに等しい」という言葉です。これは、たとえ聖書の御言葉であっても、神さまの御言葉であっても、なんとなく聞き捨てならないという気持ちにさせられる、非常にびっくりする、なんとなく解せない言葉であると思います。

ただ、しかし、もちろん、ここは、預言者の意図を、正しくくみとるべきであると思います。読み方のポイントは、一つ前に出てくる文章、「主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる」にあります。この御言葉との関連で、先の御言葉は読まれなければならないのです。

“主”とは、神さまのことです。主なる神さまが、空の上の椅子に座っておられる、というのです。そのような様子を想像することができます。天高いところに神さまがおられ、そこで椅子に座っておられるのです。

そこから見て、です。そこから見て、地上に住んでいる人々が、そのように見える、という話です。

新共同訳聖書では「虫けら」と訳されています。他の訳を見ますと、「バッタ」というのがあります。「地に住む人はバッタです」と、その聖書翻訳には訳されていました。

つまり、ここで語られていることは、高いところにおられる神さまの目から見て、地上に住む人々はバッタのように見える、ということだけです。

これは、ある意味で、事実です。

高いところならばどこでもよいわけですが、たとえて言うならば、東京タワーとか、観覧車とか、富士山とか、飛行機の中など。わたしも、飛行機にはもちろん何度か乗ったことがあるのですが、初めて乗ったときにやっぱりそう思いました。昇っていくと、下が見え、人間の姿がだんだん小さく見えます。バッタに見えたかどうかは別問題ですけれども、まあだいたい、なるほど、そんなようなものに見えます。そのように見える、ということは事実です。

そして、そのときに、やっぱり思ったわけです。「ああ、あんなに人間って小さいのか」と、です。そういうふうに、おそらくみんな思うのです。そして、わたしたちが日常生活を送っているあの生活の場所、自分の家とか町なども、非常に小さいものだと感じます。上から見ると、そう見えます。

日常的にわたしたちが悩んだり苦しんだりしていること、兄弟げんかとか夫婦げんかとか、そういうふうなことも、ああ、あんなに小さいところで行われている小さな問題なのか、というふうに感じる。

高いところから見ますと、そういうことが、わたしたちには、なんとなく分かるのです。そして、それは事実です。

それは、しかも、それほど悪い意味でもなく、ある種の解放感として、わたしには感じとられたわけです。いつも自分を支配している苦しみや悩みは小さいものなのだと感じられて、解放感を味わった、ということを、今、思い起こします。みなさんもおそらくそういうことを感じられたことがあるのではないかと思うのです。

しかし、しかし、です。

これは、わたしにとっては一瞬のことでした。最初にわたしが飛行機に乗りましたのは高知県にいたときで、高知空港から飛び立ったものですが、羽田空港に降りるのは一時間後です。昇ったら、はい降ります、という案内があります。すぐに降ります。

降りたら、また人間の姿が大きく見えてきます。町が大きく見えてきます。わたしたちが毎日悩んでいる事柄や問題が、やっぱり大きく感じられるようになってきます。

ですから、上から見ていたときにはちょっと解放感を味わいましたけれども、また現実に引き戻されたなあ、という思いにさせられたわけです。

それでいいと思います。はっと我に返らされます。

ですから、そういうことを実際に感じた者として申し上げておきたいことは、以下のことです。

第一に、人間を“虫けら”呼ばわりすることは、やっぱり、あまりよろしくないと思います、ということです。それがたとえ聖書に出てくる言葉であるとしても、わたしたちがそれを何か人間の尊厳を冒すような仕方で、わたしたち自身の言葉として語ることはよいことではないだろう、ということです。

実際の人間は、虫けらではありません。人間は人間です。人間はバッタでもありません。人間は人間です。この点は、一歩も譲ることはできません。

しかし、第二のこととして申し上げておきたいことは、神さまの目から見たら、また、高いところから見たら、人間はバッタのように見える、という事実が、ただその事実だけが、ここに述べられているのだ、ということです。人間を見くだしたりバカにしたりするような意味では、決してありません。差別的な意図ではありません。

訳としては「虫けら」よりは「バッタ」のほうがよいと思います。「バッタ」も、神さまの立派な創造作品です。わたしたち人間と同じくらい大切な、創造の作品です。

語られているのは、ただ、大きさの問題です。上から見ると、人間は、バッタくらいの大きさに見えます、ということです。そういうふうに、この個所を理解していただきたいと思います。

ただ、同時に、23節以下に書かれていることを見ますと、そこに書かれているこの預言者が語っている言葉は、たしかに、一つの批判的な要素を含んだ言葉である、ということも事実です。

「主は諸侯を無に等しいものとし、地を治める者をうつろなものとされる。彼らは植えられる間もなく、種蒔かれる間もなく、地に根を張る間もなく、風が吹きつけてこれを枯らす。嵐がわらのように巻き上げる。」

要するに、一つの国を治める国家権力者、あるいは、国の指導者、リーダーと呼ばれるような人々、そういう人々に対して、一つの強い規制が、ここに働いている、と理解することができます。

そういう人々がもしかしたら抱くことがある、ある種の全能感もしくは万能感、「わたしは何でもできる」という思い、この力を用いて、この地位と権力を用いて、何でもできるのだ、というふうに思い込むこと。そういう人間の思いに対する強い批判がある、ということです。そのことも事実です。

高いところにおられる、そこからすべてを見ておられる、神さまの目から見たら、どんなに偉ぶっている人であっても、「バッタ」にすぎない。ただの人にすぎないし、小さな人にすぎない。そういうふうに言われているのです。

まして、です。その権力者が、良い政治家ならばともかく、圧政や暴政を強いる政治家であるならば、なおさらです。そういう者を恐れることはない、ということです。その相手もまた、わたしたちと同じ人間であり、神さまの目から見たら「虫」にすぎないと言われているのです。だからこそ、わたしたちは、恐れることなくそのような相手に立ち向かうこともできるのです。

今日も、最初にヨハネによる福音書を読みました。次のように書かれていました。

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

これは、ヨハネのクリスマスメッセージです。「言(ことば)」すなわち、神さまの永遠の御言であられ、また神の御子であられるイエス・キリストというお方が、「肉となった」と語られています。

「肉」とは、人間のことです。わたしたち人間の、この肉体のことです。神の御言が、この肉体をまとって、人間になられた、ということです。

神の御子が、神が、人間になられた。これがクリスマスの出来事です。しかし、このことも、先ほどまでお話ししてきました、イザヤ書40章の内容と呼応するかたちで理解していただきたいと願っております。

とくに注意していただきたい点は、決して神さまは、何か悪い意味で、上からこの世界とわたしたち人間を“見おろされて”、あいつらは悪いと言い、世界は邪悪であり、人間は邪悪であるなら、だから、あいつらを助けてあげよう、救ってあげよう。何かそういう仕方で、上から来てくださった、というふうに、もしわたしたちがこの事柄を理解しているとしたら、考え直してみなければならないだろう、ということです。

つまり、ここで問題にしたいことは、なんとなく押し付けがましい感じで、助けてあげよう、救ってあげよう、というような仕方で、神の御子が人間になられ、上から下へと降(くだ)って来てくださった、というふうに、御子のご降誕の意義をとらえることが本当に正しいかどうか、ということです。

そのようなとらえ方は正しくないと、わたしは申し上げたいわけです。むしろ、事実は全く逆であると言ってよいでしょう。

ヨハネによる福音書3・16に出てくる次の御言葉は、たいへん有名です。

「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。

わたしたちの神さまは、“この世を愛される方”です。この地上の世界、わたしたちが生きている現実、人間そのものを、愛してくださる神です。そのことの意味は何なのか、ということを、わたしたちは、よくよく考えてみる必要があると思います。

「あれは悪いやつだから、矯正してやりたい」とか、上から見おろして「問題を片付けてあげましょう」とか、そのような意味ではないように思います。

神さまは、この世を見くだしてはおられない、ということを申し上げておきたいと思います。むしろ、心から愛しておられるのです。

このようなことは、わたしたちにとっては、言わずもがなのことかもしれません。しかし、現実には、非常にうさんくさい“救い主”は、たくさん出回るわけです。それこそが、まさにわたしたちにとっての偶像です。偽物です。しかし、それは、人の目にはまことに美しく見え、人をだますものでもあります。きらびやかで、人の心を魅了する力を持っているものです。

お金の力、地位や名誉の力、高いビル。それさえあれば何でもできる、と言い張る人々がいます。わたしたちの目の前に登場します。

しかし、わたしたちの現実は、どうでしょうか。そのことによく気づく必要があります。神さまの目から見れば、人間は「バッタ」です。わたしたちは、もっと謙遜になるべきなのです。

ですから、このことから言えば、「言が肉となった」すなわち、神の御子イエス・キリストが人間になってくださった、ということは、イエス・キリストが、神さまの目から見た「バッタ」の一匹になってくださった、ということでもある、ということです。

イエス・キリストは、わたしたちと同じ、地上に生きる存在となってくださり、わたしたちを助け、寄り添ってくださる救い主となってくださいました。

そこに、真の「謙遜」の模範が示されているのです。

(2005年12月18日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年12月11日日曜日

国々は革袋からこぼれる一滴のしずく


イザヤ書40・12~17、ヨハネによる福音書1・10~13

今日もイザヤ書40章とヨハネによる福音書1章を開いていただきました。イザヤ書の、先週学んだ個所の続きには、次のように書かれています。

「手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を計る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし、山々を秤にかけ、丘を天秤にかける者があろうか。」

海、天、地の塵、山々、丘。これらは、わたしたちが生きている世界と宇宙を構成している諸要素です。

神さまがお造りになった天地万物の大きさや広さや高さや深さや重さ、それらすべてをはかりつくすことができる人がいるでしょうか、そんな人はいません、ということです。そのようなことは人間には不可能であると、預言者は語ろうとしています。

しかし、わたしたちは、ここで預言者が語ろうとしていることの意図を、よく考える必要があります。

ここで預言者は、わたしたちにはかりつくすことができないのは、この天地万物である、と語っているように見えます。しかし、本当にはかりつくすことができないのは、この大きな世界をお造りになった神さまのほうです。それこそが、預言者の言葉の真意です。神さまは、はかりつくすことのできない、とても大きいお方なのです。

「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。」

「主の霊」とか「主の企て」と書かれていることを、もう少しわたしたちにとって身近な言葉で言い直すとすれば、神さまの御心、思い、計画、予定というあたりのことです。改革派神学の用語で言うところの「神の聖定」(God’s Counsel)という表現が、最も近いと思われます。

ですから、この個所で預言者が語ろうとしていることは、はっきりしています。わたしたち人間には、神の御心をすべてはかりつくすことなどはできません、ということです。なぜなら、神さまは大きな方だからです。

しかも、ここには、明言されてはいませんが、明らかに比較があります。何と何が比較されているかと言いますと、神の御心と人間の心です。神さまの大きさが、人間との比較においてはかられていると言えるかもしれません。神さまの大きさと人間の大きさの違いは、あまりにも明白である、ということです。

「主の霊を測る」とは、わたしたち人間が、神さまの御心の中身を「だいたいこの程度だろう」とあらかじめ見積もることです。そして、それ以上の期待を持たないことです。

しかし、そのように神さまがしてくださることの“程度”をはかることができる人間がいるのでしょうかと、預言者は問うています。神さまの御心とみわざは、わたしたち人間の想像を絶するものではないでしょうか、と訴えているのです。

「見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない。レバノンの森も薪に足りず、その獣もいけにえに値しない。主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。」

ここにも明らかに、神さまと地上の物事や人間のわざとの間の比較があります。神さまは大きい。しかし、地上の物事や人間のわざは、神さまと比べると、小さい、ということです。

「国々」とは、人間の・人間による・人間のための“国家”のことです。政治において司られる国です。政治とは、まさに人間のわざです。人間の・人間的なるわざです。

しかし、その“国家”のことを、聖書はあるいはこの預言者は「革袋からこぼれる一滴のしずく」にすぎないと語っています。あるいは「天秤の上の塵」にすぎない、としています。

「天秤」とは、あるものの重さと他のものの重さを比較する道具です。国家は天秤の上の塵である、ということは、神と国家は比較にならない、ということでしょう。片方に神さまがお乗りになっている天秤のもう片方に“塵”を乗せても、その天秤は全く動かないわけです。

「島は埃(ほこり)」。とても軽い、ということでしょう。

「森は薪(たきぎ)」。燃やしてしまえば灰になる、ということでしょう。

ここで明らかに語りうることは、この預言者は、国家というもの、あるいは、この世界の大自然というものを、それはとても小さいものであり、軽いものである、というふうに言い切ってしまっている、ということです。その意図は何なのであろうかと、考えざるをえません。

なぜ“考えざるをえない”のかと言いますと、少なくともわたし自身の感覚からすれば、とてもじゃないが、こんなことは言えない、と感じるからです。

国が小さいでしょうか。そんなふうに言われると、ぎょっとします。国は、ものすごく大きなものです。そのような感覚が、少なくともわたしには、あります。

あるいは、島が埃でしょうか。森が薪でしょうか。そんなふうに言われると、わたしには、全くついていくことができません。わたしにとっては、ものすごく大きなものです。非常に重いものです。

ですから、そのわたしの観点から言わせていただきますならば、国が小さいとか軽いとか、取るに足らないどうでもよいものだ、というふうに感じているようなときは、わたしたちは、表の空気をよく吸うべきであると思います。自分の家から出て、いろんな人の顔を見て、その人々の語っていること、考えていることに、よく耳を傾けてみるべきです。

都会にいる人は、満員電車に乗ったり、人ごみの中に出かけたりしてみるべきです。そうするほうがよいと思います。この世界が軽いとか、人間が小さいとか、そのようなことをもし感じているならば、そうしてみるべきです。

そうしてみると、おそらく、何か圧倒されるものがあります。そして、そこでおそらく気づかされることは、「この世界は小さい」ということではなく、逆に「わたしは小さい」ということなのです。電車の中ですし詰めになってつぶされているのは、このわたしです。世界が小さいのではなく、このわたしが小さいのです。そのことを感じるはずです。

「いや、わたしは、そのようなことを、まだ少しも感じない」ということであるならば、それを感じられるようになるまで、家の中に入るべきではないかもしれません。徹底的に世界の大きさを味わい尽くす必要があると、わたしは思います。

この世界に対する、あるいはこの地上の現実に対する過小な評価は、非常に危険な結果をもたらすことがありうるからです。

それは、牧師たちが、説教の中で、時々やってしまうことです。牧師たちはしばしば、世界は小さいと語ります。「わたしたち人間はウジ虫のような存在である」などと語ります。しかし、それは、非常に危険な言葉づかいです。

たとえ、それに類するような言葉が聖書に出てくることがあったとしても、です。それはいわば神さまだけが語りうる言葉なのであって、わたしが語るべき言葉ではない、ということです。

世界は小さくありません。人間は小さくありません。そのことを、わたしたちは、わきまえ知るべきです。

しかし、です。ここで預言者がたしかに語っていることは、神さまとの比較においてではありますが、世界は小さい、人間は軽い、ということです。そのことも、わたしたちは、認めなければなりません。

だからこそ、です。わたしたちは、この預言者がこのように語っている意図は何か、ということに、関心をもつべきです。

その理由に関して考えうることについては、先週と先々週の説教の中で、すでに触れました。一言でいえば、この預言者の発言は、明らかに歴史的に特別な背景をもっている、ということです。

それは、紀元前6世紀のイスラエルの民に起こった“バビロン捕囚”という出来事です。要するに、彼らは、自分の国を領土もろとも失ったのです。戦争に負けたのです。そして、捕虜として連れて行かれました。

彼らが長年にわたって自分自身で築き上げてきた町も、文化も、お城も、共同体の秩序も、宗教も、です。それらすべてを、彼らは失ったのです。彼らにとって、自分の財産と言いうるものは、すべて無くなってしまったのです。

このことを前提として考えていった先に、思い至ることがあります。それは何か。

国は小さい、世界と人類は軽い、神の存在の大きさ、神の御心の大きさと比べるならば、それらのものは取るに足りないとか、それは「革袋からもれる一滴のしずく」だなど、このように語られているときに思い描かれている“国”の第一の意味として考えられるのは、他ならぬ彼ら自身がかつては持っていたが、しかし、たしかにそのすべてを失ったものである、ということです。

また第二の意味として考えられるのは、今申し上げた同じことの裏面にあることです。この“国”の中には、彼らから国家とその財産を奪い取った敵国のことも含まれているのではないかということです。彼らが失った国が“国”であるとするならば、彼らから国を奪った国も“国”なのだ、ということです。

ですから、ここで考えられることは、この御言葉を語る者にも、聴く者にも、初めから分かっていたことは、彼らにとっての“国”は、小さいはずがないものであった、ということです。ものすごく大きなものです。彼らが命をかけても守ろうとしたものです。喉から手が出るくらい欲しいものだったです。それが彼らにとっての“国”です。国家であり、国土です。

しかし、だからこそ、と言いうる面もあるわけです。彼らにとっては、まさに、喉から手が出るほどに欲しい、命をかけても取り戻したい国家と国土であったからこそ、神さまは、あえて「軽い」と言われている。「無に等しい」とさえ言われている。そのように、わたしたちは、この箇所を読むことができるのです。

わたしたちにも、かつて自分で持っていた、ものすごく大切なものが何かあるかもしれません。しかし、無くなってしまった。奪われた、あるいは、失ってしまった。そういうとき、わたしたちは、何を考えるのでしょうか。そして、そのようなものを、神さまから、それは小さいものだとか、軽いものだと言われたときに、わたしたちは、何を感じるのでしょうか。そのようなことを、いろいろと考えてみることが大切です。

彼らにとって“国”は、決して小さいものではありませんでした。そのことは彼ら自身がいちばんよく分かっていることでした。しかし、それを神さまは、あえて軽いと言われ、小さいと言われているのです。その理由として思い当たるのは、以下のようなことです。それは、わたしたち自身の問題として考えてみれば、何となく分かることです。

わたしたちは、この世界の現実に向き合わなければなりません。いろいろな問題に立ち向かって行かなければなりません。そのときに、です。しかし、それらのものが、わたしたちにとって、あまりにも大きすぎると感じてしまう。とても面倒くさいし、何かとても恐ろしいものである、というふうに感じてしまうとき、わたしたちは、思わずひるんでしまう。前に進んで行けなくなるのです。

そのようなときに、です。

わたしたちに、神さまから「世界は小さい。人間は軽い」と言ってもらえるならば、そのとき、わたしたちは、慰めを得ることがありえます。「取るに足りない」とまで言われることには、なお抵抗があります。しかし、それらのものは、神さまの目から見れば、小さいものですよ、と言ってもらえることは、なるほど有り難いことです。

あなたがたは、その程度の小さな現実、小さな問題にならば、立ち向かっていくことができるのではないですか。そういうメッセージとして、この個所を受けとることができるように思われます。

もうひとつ、逆のケースについても考えておきます。わたしたちが世界の大きさに圧倒されてしまう、という場合、恐怖心のほうではなく、むしろ反対に、そのあまりの大きさにうっとりと魅了されてしまうことがある、ということです。

そして、そのときしばしば起こることは、神を忘れる、ということです。この世界がまさにわたしのすべてであって、神さまは何か小さいものだ、と感じる。教会のやっているようなことは、全く取るに足らない。この世のやっていることのほうが大切だと感じる。

これはわたしたちが陥りやすい罠です。わたしたちがこの世の中でうまく行っているときにこそ陥りやすい罠です。

この罠から逃れるためにこそ、この世界は小さい、ということを、神さまから教えていただく必要があるのです。

ヨハネによる福音書には、次のように書かれています。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

ここで「世」とは何でしょうか。神の御子であられ、また神の永遠の御言そのものであられるイエス・キリストというお方が来てくださったその場所のことをヨハネは「世」と呼んでいます。その「世」の中に先ほどの預言者イザヤの語っていた「国々」や「島々」も含まれると考えてよいでしょう。そういうものを含んだ一切が「世」です。

ヨハネの語る「世」の意味は、決して“人間”だけではありません。神さまがお造りになった、文字どおりの“世界”全体、すなわち、天地万物が含まれています。わたしたちが生きているこの世界、この現実の中に、永遠の御言である神の御子、救い主イエス・キリストが来てくださったのです。

それが、ヨハネのクリスマスメッセージです。

「世は言を認めなかった」とあります。この世の人々、世界の現実は、神の御子イエス・キリストを“わたしの救い主”として受け入れようとはしません。簡単には受け入れません。むしろ明確に拒絶します。

しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストは、あえて、この世に来てくださいました。

イエスさまという方は、福音書を読んでいけばすぐに分かりますように、ご自分のことをちやほやしてくれる相手のところだけに出向いていく、というような方では、全くありません。

むしろ、反対する人の中にも、堂々と割って入られる方です。どんな反対があっても、拒絶があっても、おそれることなく、ひるむことなく、堂々と割って入られる方です。それこそが、聖書の語る、福音書の描く、主イエス・キリストのお姿です。

また、マタイによる福音書には、イエスさまのご降誕の際にユダヤの王ヘロデがそのことをかぎつけ、その救い主とやらを殺してしまえと思い立ち、二歳以下の幼子を探し回り、それを殺したことが記されています(マタイ2・1〜15)。国家権力の横暴さというものが、そのような仕方で示されています。

しかし、神の力と比べれば、国家権力などおそれるに足りない。そのように信じなければ、乗り越えていけない壁があり、成し遂げられないわざがある、ということも、聖書が語っている真実です。

救い主は、力をもって、来てくださいました。そして、この世界の中に、救い主に反対するこの世の中に、堂々と割って入ってくださり、イエス・キリストを信じて生きる人々を、呼び起こしてくださいました。

それこそが、神の御子イエス・キリストがこの地上の世界に来てくださったことの意味なのです。

(2005年12月11日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年12月4日日曜日

声をあげよ、良き知らせを伝える者よ


イザヤ書40・9~11、ヨハネによる福音書1・6~9

「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。」

今日もまた、イザヤ書40章とヨハネによる福音書1章を開いていただきました。いずれも先週学んだ個所の続きです。

この御言葉の意味をお話しする前に、先週お話ししましたことを一点だけ繰り返します。それは、イザヤ書についてのさまざまな解釈の中で、わたし自身が選んでいる立場はどういうものかという点です。

それは、このイザヤ書40章以下を書いたのは、紀元前6世紀の預言者であるとする解釈の立場である、ということです。

紀元前6世紀は、神の民イスラエルに「バビロン捕囚」という大きな出来事が起こった時代です。彼らは、バビロンという国に神の民(当時の南ユダ王国の人々)が捕虜として連れて行かれました。捕囚の期間は、約七十年に及んだと言われます。しかし、その人々が解放され、祖国に帰ることができました。それが一連の出来事です。

そのバビロンの捕囚の出来事、そして捕囚からの解放という出来事こそがこの個所の歴史的な背景であるとする解釈の立場を、わたしは選んでいます。これは広く受け入れられている立場です。

ですから、わたしは、今日の個所も、まさにそのようなことが書かれているという前提に立って読んでいきたいと願っております。捕囚からの解放、またその解放の喜びが表現されている個所である、ということです。

それは、イスラエルの民にとって、まさに「良い知らせ」でした。また、それは「喜びの知らせ」でした。喜びの知らせ、良い知らせのことを、わたしたちは「福音」と呼んでよいはずです。日本語の「福音」の意味は、喜びの知らせ、よい知らせです。グッドニュースです。

また、主なる神があなたがたを奴隷状態から解放してくださるというこの良き知らせを宣べ伝えること、告げ知らせることを、わたしたちは「福音宣教」と呼んでよいはずです。「宣教」の意味は、神の救いを宣べ伝えること、告げ知らせることです。

その喜びの知らせ(福音)をイスラエルの人々に告げ知らせる「荒れ野に呼ばわる声」が来た。王のもとから走ってきた伝令役が叫んでいる。それがイザヤ書40章の状況です。

ここでわたしは、皆さんに考えていただきたい問題を、二つ出したいと思います。

第一の問題は、もしわたしたちが喜びの知らせ、良い知らせを、できるだけ多くの人々に広く、また効果的に伝えるとしたら、そのためにはどうしたらよいでしょうか、ということです。

今ならば、光の速さと同じ速度を持つ通信手段があります。インターネットやテレビやラジオなどがあります。また、昔からのやり方としては、チラシを配るとか、本を書いて出版することなどが考えられます。

しかし、いわばもっと単純で、手っ取り早い方法があります。それが、ここに出てくる「高い山に登る」という方法である、ということです。みんなのことを見渡すことができ、一度にみんなに声を届けることができる場所です。そこに立って大きな声で叫ぶ、という方法です。

ただし、ここで注意しておきたいことは、この9節の「高い山」という言葉には、先週学んだ個所に出てきた「荒れ野」(40・3)の場合に申し上げたことが再び当てはまるように思われます。

それは、ここで預言者が語っていることの中には、多分に象徴的な意味合いを含まれているに違いない、ということです。

字義どおりの地理的・物理的な「高い山」の意味だけではない。むしろ、もっと広い意味で、とにかく、できるだけ多くの人々のことを、一度に見渡すことができ、声を届かせることができる場所のことを指しているのではないか、ということです。

たとえば、わたしが今立っているこの講壇は、皆さんのことが最もよく見える場所です。松戸小金原教会の講壇は少し高い位置にあります。ここも、まさに「高い山」なのです。そのように考えることができるのです。

しかし、どうか誤解がありませぬように。講壇の高さは、人間の位(くらい)の高さを示しているわけではありません。それは完全な誤解です。

大切なことは、その高い場所がその目的にかなって効果的であるか、機能的であるかどうか、ただそれだけです。みんなの顔が見えて、一度に声を届かせることができるかどうか、です。

皆さんに考えていただきたい第二の問題を、これから申し上げます。それは、「高い山に登る」のは、誰でしょうか、という問題です。

9節に「良い知らせをシオンに伝える者」と書いてあります。高い山に登る者、登らなければならない者とは、すなわち、「神の民イスラエルに向かって良い知らせを伝える者」である、ということです。これは誰のことですか、という問題です。そのことは、この個所には必ずしも明らかにされていません。

一つの解釈の可能性は、高い山に登って、すべての民に福音を告げ知らせなければならないのは、王のもとから走ってきた伝令役自身です。

たとえば、新約聖書は、荒れ野に呼ばわる声の主は、イエス・キリストの道備えをしたバプテスマのヨハネであると解釈しています。今日お読みしましたヨハネによる福音書1・6〜9にもバプテスマのヨハネのことが紹介されています。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

ここで大切なことは、ヨハネは一人であるということです。高い山に登って良き知らせを告げ知らせるのも一人であるという解釈の可能性には否定しきれないものがあります。

しかし、これ以外の解釈の可能性もあります。わたし自身は、これから申し上げる解釈を採りたいと願っております。

それは、高い山に登って、すべての民に福音を告げ知らせなければならないのは、その知らせを王の伝令役から聞いた神の民のすべてである、という解釈の可能性です。みんなで高い山に登るのだ、ということです。

それは、先週もご紹介しました別の聖書翻訳の場合に言いうることです。その聖書翻訳には、この9節は、以下のように訳されています。

「エルサレムよ、高い山に登って、福音を宣べ伝えなさい。福音を告げ知らせなさい。力の限りに叫びなさい。ユダの町に言いなさい。」

この翻訳によりますと、福音を宣べ伝える人が「エルサレム」と呼ばれています。これは、神の民イスラエル自身のことです。彼らが山に登るのです。

このほうが、わたしたちには、よく分かる話ではないかと思われます。だって、そうでしょう。王の伝令役の声だけなら、あまりにも小さな声です。大勢の人々が騒いでいる中では、全く聴こえません。

しかし、そうではなく、解放の喜びの知らせを聞いた人々全員が高い山に登り、みんなで大声を上げることであるとしたら、どうでしょうか。そのほうが、わずか数人の小さな声よりも、はるかによく響きわたります。遠くにいる人々にも聞こえます。

一人で声をあげるよりも、みんなで声をあげるほうが、はるかに効果的です。たとえば、みんなで声を合わせて讃美歌を歌うことも、ものすごく効果的です。

ですから、ここではっきりと申し上げておきたいことは、「高い山」とは、この松戸小金原教会の講壇だけではない、ということです。また、「高い山」に登るのは、福音の説教者たち、あるいは教会の牧師たちだけではない、ということです。

そうではなく、みんなで登るのです。みんなで、この福音を宣べ伝えるのです。

わたしたちの教会が、イエス・キリストの福音を、この町とこの国の人々に宣べ伝える方法も、まさにそれである、ということです。

「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

この段落でまず最初に注意すべき言葉は「見よ」です。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」。何を見ればよいのでしょうか。

考えられることは、ひとつです。もうすでに、主なる神が、すぐそこまで、彼らの近くまで来てくださっている、ということです。ただし、まだ到着してはおられない。だからこそ、目を上げて、そのお方の到着を注意しつつ待ちなさいと、彼らは命ぜられているのです。

そして、この個所において次に注意していただきたいことは、彼らの前に登場されようとしている主なる神の特徴は、どのようなものであるか、ということです。

ここに記されている、主なる神の特徴は、大きく分けて二つあります。

第一の特徴は、「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」という点に表わされていることです。すなわち、ここで主なる神は、権力をもって支配する王の姿に描かれている、ということです。

第二の特徴は、「群れを養う羊飼い」です。そのお方は、「小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」、とても親切で、優しくて、憐れみ深い、弱い者の味方であるような、良い羊飼いです。

後者の特徴は、前者の特徴とは、まるで百八十度違うものであるかのようです。権力をもった存在であると共に、憐れみ深い存在でもある、というのですから。

しかし、ここに明らかにされている主なる神は、まさにそのようなお方なのであって、まことの王であられると同時に、まことの羊飼いでもあられる、と言われているのです。

わたしたちは、このお方こそが、わたしたちの救い主イエス・キリストであると信じております。イエス・キリストは、“王でも羊飼いでもあられるお方”として、父なる神のもとから、わたしたちのこの世界に来てくださったのです。

ただ、ちょっと気になることがあります。それは、次の点です。

優しくて親切で弱い者を受け入れてくださる羊飼いとしてのイエス・キリストというほうは、よく分かる話であるし、納得もできる。

しかし、権力をもって支配する王としてのイエス・キリストなどと言われると、なんとなくぞっとするし、そんなのは納得できない。

こんなふうにお感じになる方もおられるのではないでしょうか、という点です。

このことについて詳しくお話しする時間は、今日は、もうありません。しかし、この点は、ぜひ理解しておきたいことです。

それは、イエス・キリストは、ただ優しいだけのお方ではない、ということです。ふにゃふにゃではない、ということです。そうではなくて、強い方でもある。力を持った方でもある、ということです。

救い主は、力をもって、わたしたちを、まさに罪の奴隷状態から救い出してくださるのです。

力がなければ、“連れ出す”ことはできません。そのことも、事実です。

まことの力を持ったお方だけが、ひとを救うことができるのです。

そのことを覚えていただきたいと思います。

(2005年12月4日、松戸小金原教会主日礼拝)


2005年11月27日日曜日

わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ


イザヤ書40・1~8、ヨハネによる福音書1・1~5

今日から教会の暦で言いますところのアドベントに入ります。イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスの準備をはじめる季節になりました。

そのために、今日、聖書を二個所開いていただきました。旧約聖書のイザヤ書40章と、新約聖書のヨハネによる福音書1章です。このところを、アドベントの期間に学んでいきたいと願っております。

イザヤ書40章のほうを、まずご覧いただきたいと思います。とても印象的な言葉をもって始められています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」

イザヤ書というこの書物には、いろいろな非常に異なる解釈の立場があります。その中で、わたしたちはどの立場かを選ぶべきか、という問いを避けて通ることは、できません。

しかしそのようなことについて詳しく述べる時間は、今日はありません。一つのことだけを述べておきたいと思います。わたしが選んでいる解釈の立場は何か、ということだけを申し上げておきます。

わたしが選んでいる立場は、イザヤ書の40章以下は、紀元前6世紀の時代に生きた預言者が書いたと理解する立場です。それ以上のことは、今日は申し上げません。

そのように考える場合に語りうることは、紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚という出来事が、この個所の記述の歴史的背景である、ということです。

それではバビロン捕囚とは何かということについても、お話ししなければなりませんが、詳しく説明している時間はありません。

ごく簡単に言うならば、神の民イスラエルが南北の二つの国に分裂した後、エルサレムを首都とする南ユダ王国が隣国バビロンとの戦争に負け、エルサレム神殿は焼き払われ、城壁は破壊され、国民の多くが捕虜としてバビロンに連れて行かれ、七十年もの間、強制労働の苦役を強いられたという出来事です。

ただし、誤解がありませぬように。わたしたちが旧約聖書を読んでいくうちに分かってくることは、そのような出来事は、彼らを不意に襲った不幸、予期せぬ災難というようなことではなかった、ということです。

そうではなく、聖書が証ししていることは、明らかに、この出来事は、彼ら自身が神の前で犯した罪に対する神御自身の裁きであり、刑罰として起こったことである、ということです。そのように、聖書には、はっきりと書かれています。

しかも、それは、いわゆる彼らの自業自得であるとか因果応報であるというような意味ではありません。それはむしろ、彼ら自身が、明確に、自覚的に犯した罪に対する正当な裁きです。

それでは彼らはどういう罪を犯したのか、という点も重要です。しかし、そのことも、今日は触れないでおきます。

そのことではなく、今日、皆さんに考えてみていただきたいと願っております第一のことは、次のようなことです。

七十年という時間の長さは、どれくらいのものだろうか、ということです。

皆さんの中には、その長さがどれくらいのものであるか、そこで何が起こるのかということについては、体験的にご存じの方がたくさんおられます。みなさんは、七十年待ちました、ということを、何か持っておられるでしょうか。七十年忍耐しましたと。わたしには無理だろうなあと感じます。それほどの長さです。

神の民イスラエルは、七十年間のバビロン捕囚を忍耐することができたのでしょうか。苦しくなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。途中で嫌になり、やけくそにならなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。

しかし、その捕囚期間が終わりました。あなたの苦役の期間は終わりました。あなたの罪は許されました。あなたは故郷に帰ることができます。

そのことをわたしの民に伝えてください。そして、そのことによってわたしの民を十分に慰めてくださいと、主なる神が、紀元前6世紀に生きたこの預言者に命じたのだということです。それが、まず最初の段落に書かれていることです。

第二に考えてみていただきたいことは、この預言者の言葉を聞いた人々の心は、どのように動いただろうか、ということです。

うれしかったのではないでしょうか。しかしまた、反面、いろいろと複雑な心境ということもあったのではないでしょうか。七十年の間に体験したこと、これもまたこのわたしの人生そのものであって、今さら否定することができない、それはそれで受け入れるほかはないものであるという意味で、いま以上に新しいものを求める気が起こらない、今さら故郷に帰る理由が分からない、という人々もいたのではないでしょうか。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

「呼びかける声がある」と訳されています。もちろん、これでも構いません。しかし、もう少し身近に感じられる訳はないものかと思わされます。わたしが参考にした聖書翻訳では、「ねえちょっと聞いて。だれかが叫んでいますよ!」というふうなニュアンスで訳されていました。

想像しうるのは、王のもとから伝令役を命ぜられた人物が走ってきた場面です。その人が大勢集まっている人々に大声で何かを伝えようとした。その声にその大勢の中のある人が気づいた。そして他の人々に「しっ、ちょっと静かにして。何か声が聞こえます。騒いでいると、何を言っているか聞こえないじゃない」と注意している様子が思い浮かびます。

その声の主である伝令役が伝えようとしていることは、わたしたちの主なる神のために砂漠の真ん中に道を作りましょう、ということです。彼らの故郷にもとあったエルサレム神殿に通じる道を作りましょう、という意味かもしれません。そのような解釈が可能です。

ただし、「荒れ野」と訳されている砂漠という言葉には、字義通りの地理的な砂漠のことだけではなく、多分に象徴的な意味も含まれている、と考えられます。つまり、この言葉には「人生の荒れ野」、「人生の砂漠」という意味も含まれていると思われます。

そのような、人生と心の問題、すなわち、わたしたちのまさに“砂漠のように荒れ果てた人生と心”の問題を、この御言葉の中に読み取ることは許されているでしょう。

「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」とありますが、この訳はかなり疑問です。谷や山や丘が、自分自身で身を起こしたり、身を低くしたりできるかのようです。

しかし、ここはおそらくそういう意味ではなく、人間のなすべき仕事を指しています。つまりこれは、谷の部分に土を入れて高くしたり、山や丘を削って低くしたり、でこぼこ道はなめらかに、狭い道は広くする。そのような、わたしたち人間が汗水流して取り組むべき土木作業のことです。

そのようにして、一つのまっすぐな道を作りましょう。そういう道をわたしたち自身が作りましょう、という意味ではないかと思われるのです。

それは何のための道か。主のための、わたしたちの神のための道です。主なる神の栄光を「肉なる者」、すなわち全人類が、またわたしたち一人一人が、仰ぎ見るための道です。つまり、それは、主なる神がそこをお通りになり、わたしたち一人一人のところまで来てくださるための道です。そのようにしてわたしたちと主なる神とが出会うための道です。

そういう道を、ある意味で、わたしたち自身が作らなければならない、ということは、本当のことです。すべて備えられている。道はだれかが勝手に作ってくれる。その道を、わたしたちは、ただ勝手に通るだけだ、というようなことでは、決して済ますことができない何かがある、ということは、本当のことです。

この「荒れ野に道を作ろう」と呼びかける“声”を、新約聖書は、イエス・キリストの道備えをした洗礼者ヨハネのことを指していると解釈しています。大切なことは、ヨハネは人間である、ということです。人間の働きが、何らかの仕方で、評価されるべきです。

わたしの人生は荒れ野であり、砂漠であると、今まさに自覚している人が、そこにただ座り込んでしまってよいでしょうか。道を作ろう、一緒に作ろうという声が聴こえてきたときには、耳を傾けなければならないのではないでしょうか。そして立ち上がって、その事業に参加することが求められているのではないでしょうか。

「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

この段落に書かれていることは一つの会話であると考えられます。「呼びかけよ、と声は言う」とありますが、これもまた別の聖書翻訳には「ねえちょっと聞いて。だれかが何か話しているよ」というようなニュアンスで訳されています。だいぶ違う感じがします。

その聖書翻訳によりますと、その会話の内容は、こんな感じです。

「みなさんにお話ししておきたいことがあります。」
「それは何ですか。」

そして、この人の話が始まります。

「人は草だ、ということです。人間を信じることは、野の花を信頼するようなものです。しかし、草は枯れ、花はしぼむではありませんか。」

そのようなものを信頼することができるでしょうか、できないのではないでしょうか、という意味です。「肉なる者」とは人間のことです。人間は、草に等しいものである。草は枯れる。花はしぼむ。人間も枯れる、人間もしぼむ、と言っているのです。

ですから、これは、やや皮肉っぽく見るならば、ある意味で、人間というものに対する不信感を煽るような言葉である、というような読み方が、可能かもしれません。

わたしたちも人間です。わたしも人間です。わたしは草でしょうか。「あなたは草にすぎない」などと言われると、だんだん嫌な気持ちがしてきます。腹が立ってきます。

しかし、腹を立てる前に考えてみたいことがあります。それは最初から申し上げていることです。この個所の歴史的背景として想定することができる、バビロン捕囚の現実とはどのようなものであったか、という点です。

過酷な労働を強いられること、七十年。自由の利かない、何ものかに束縛された生活が延々と続く。そのような中で、人間を信じることができなくなるのは、無理もないことでしょう。人間を信じなさいということのほうが、無理な話です。

人は草である。草は枯れる、花はしぼむ。このことは、長年にわたって、他の人間からひどい目に遭わされてきた人にとっては、ある意味で、慰めの言葉になりうるものかもしれません。人間を信じるということを強制されることには、もはや堪えられないと感じるであろう人は、じつは、たくさんいるのです。

しかし、それにもかかわらず、です。最も恐ろしいことは、だれのことも、何のことも信じられなくなることです。この世の中にあるもの、生きている人間すべてに絶望することです。それは、現実にはしばしば起こることであるだけに、恐ろしいことです。

だからこそ、でしょう。だれのことも、何のことも「信じられない」と告白せざるをえない状況に置かれ続けた人々に向かってこそ、預言者は、神の御言葉に信頼を置くことの確かさ、大切さ、力強さ、そしてその永続性を語っているのです。

「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。すべての人があなたを裏切っても、です。だれも信用できない、人間を信じることができない、という思いの中に沈み込んでしまったときにこそ、です。神さまの言葉は、それだけは、信用できます、あなたを決して裏切ることはありません、ということです。

そのように、わたしたちも、信じてよいのです。

今日、もう一つの個所として読みました、ヨハネによる福音書に、次のように書かれていました。
 
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

なんとなく難解で、謎めいた言葉です。しかし、これは、よく知られていますように、神の御子イエス・キリストのご降誕の奥義を表現しているものである、ということです。

ここに出てくる「言(コトバ)」が、神の永遠の御子イエス・キリストを表わしています。イエス・キリストは、“初めにあった言”であり、“父なる神と共にあった言”であり、“神”御自身であられる言である、ということです。

人間を見限ったり、みくびったり、見下げたりすることは、もちろん、できるならば、しないほうがよいことです。すべきではないことです。

しかし、そうは言っても、です。長年にわたってだれかに裏切られてきた人、だれかに踏みにじられてきた人にとって、だれのことも、何のことも信じられない、という不信感のとりこになってしまうことは、ありうることです。無理もないことです。

だからこそ、そのときに、です。信頼できるものが“一つでも残っている”ということが、ありがたいではありませんか!

神の言葉は、それだけは、信頼できるのです。わたしたちがそういうものにすがりたいという気持ちを持つことは、よいことではないでしょうか。

イエス・キリストは、わたしたちが永遠に信頼し続けてもよい、永遠の神の言葉です。わたしたちが人間不信の泥沼の中で、世界に絶望してしまうときにも、わたしたちの命と心を、しっかりと支え続けてくださいます。

イエス・キリストは、そのために、来てくださったのです。

(2005年11月27日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年11月20日日曜日

「神の国は一粒の芥種(からしだね)のごとし」

ルカによる福音書13・10~21



今日の個所は、わたしたちにとって本当に興味深いものです。イエスさまというお方は、この地上の世界に、何のために来られたのか、あるいは、何をするために来られたのかということが、よく分かる個所です。



「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」



いつものとおり、と言いますか、イエスさまの通常業務として、と言いますか、それをどう表現するかはともかくとして、です。イエスさまは、ユダヤ教の安息日である土曜日ごとに、ユダヤ教の会堂(シナゴグ)で行われる礼拝で、聖書に基づく説教を担当されていました。



その様子は、今まさにわたしたちがここでささげている礼拝と本質的に同じものであると考えていただいて構いません。



いわば、説教者が違うだけです。その日の説教を、イエスさまが担当されていたのです。



「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」



注目していただきたいのは、ここでルカが「十八年間も病の霊に取りつかれている女」という言葉でこの女性を紹介していることです。



「十八年間も病気に苦しんできた女」とは、書かれていません。「病の霊に取りつかれている女」と書かれています。とても意味深長な感じがします。



とくに気になる言葉は「病の霊」です。これは、どういう霊でしょうか。霊(プネウマ)は「精神」とも訳すことができます。ひとを病気にする霊であるということは間違いないでしょう。しかし、それは、いわゆる“精神の病気”でしょうか。そのような解釈もあるようです。



しかし、よりよい解釈は、13・11に書かれている二つの事柄を、一つのこととして読むことです。



つまり、「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた」という第一の事柄と、「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」という第二の事柄は、じつは一つのことである、と理解する、そのような読み方です。



これは、おそらく、わたしたちにも、身に覚えのある事柄です。



すでにお話ししておりますとおり、わたしも、慢性の腰痛もちです。ですから、腰痛のことは、よく分かります。この病気の正体が分かります。その苦しみも分かります。



はっきりしていることがあります。それは、この病気は、決して小さなものではなく、わたしたちの人生を左右するほどのものになりうるものだ、ということです。



しかしまた、もう一つ、この病気は、かなりの部分において、わたしたちの生活習慣と深く関連しているものである、ということです。



たとえば、わたしが「腰が痛い」と言いますと、皆さんは「先生、運動不足ですよ」と必ず言われるでしょう。その関連性は、あまりにも明白だからです。



そういうことと、今日の個所に出てくる女性の問題とは、どうやら、深く関わっているように思われてなりません。



わたしの腰は、痛いのだと。曲がったまま、伸ばすことができないのだと。もちろん、本当に、そうだったに違いありません。そのことに、わたしは何かケチをつけようとしているわけではありません。



しかし、です。この個所を読むかぎり、彼女の腰痛は、生まれつきのもの、先天的なものではなさそうです。むしろ、後天的なものではないか、また、そこにおそらく生活習慣的な要素がかなりの部分含まれているのではないかと思われます。



その場合に、です。自分の腰は治らない、もう絶対に治らないのだと、この女性が確信を持ってしまっていた。悪く言えば、そのようにすっかり“思い込んでしまっていた”という面があったのではないかと、考えざるをえないのです。



そのように考えることができる根拠として挙げることができるのが、先ほど触れました、ここでルカが書いている「病の霊に取りつかれていた」という言葉であるというわけです。



わたしは病気なのだ、もうこの病気は治らない、絶対に治らないのだ、と思い込むこと。そのような確信を持つこと、またその確信自体に心の中がすっかり束縛されてしまうこと。その確信の奴隷状態になり、心の悪循環に陥ってしまうこと。



そのことを、ルカは「病の霊に取りつかれる」という言葉で表現しているのではないかと、思われてならないのです。



18年間も、です。一つのことを、思い込む。わたしの病気は治らない。わたしの人生は変わらない。わたしの不幸は変わらない。



でも、そんなことを、わたしたちが信じる必要は、ないはずです。信じるべき対象は、神さまだけです。病気を信じるのでしょうか。あるいは、わたしたちを不幸に導く悪魔を信じるのでしょうか。そんなものは、信じなくてもよいはずです。



「霊に取りつかれる」とは、心の中で、わたしたち自身が、何らかの精神的・心理的な悪循環に陥っている状態が、少なくとも含まれている、と考えてよいでしょう。



わたしたちは、そういう状態から、救い出される必要があるのです。



「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」



ここに書かれていることを、わたしたちは、もちろん、イエスさまが行われた、特別で奇蹟的ないやしのみわざとして理解すべきです。イエスさまが手を置いてくださったことによって、この女性の腰が、ぴんと伸びたのです。



しかしまた、いわばもう一つの点として、ぜひ注目していただきたいのは、イエスさまが語られた御言葉の内容です。「婦人よ、病気は治った」。



わたしがとくに問題にしたいことは、この御言葉をわたしたちがどのように理解すべきか、という点です。



この点で、わたしはこのたび自分で調べてみて分かったことですが、イエスさまがここで語っておられる「病気は治った」という中の「治った」には、ギリシア語の文法で言うところの“受動態過去完了”という時制が用いられている、ということです。



そして、その時制が用いられているときには「○○されてしまっている」というふうに訳さなければならない、ということです。



ですから、イエスさまの御言葉を正確に訳すと、「あなたの腰は治ってしまっている」とか、「あなたの病気は、とっくにいやされてしまっていますよ」というふうになる、ということです。



そうであるならば、です。ここに次の問題が生じます。この女性の腰がいやされたのは、“どの時点”か、という問題です。



彼女がいやされたのは、イエスさまがその手で触れてくださったそのとき、その瞬間であると読むことも、当然できます。



しかし、もう少し別のニュアンスもあるのではないだろうかと思われます。「あなたの腰は、もうとっくに治っていましたよ」と。もう大丈夫ですからね、伸ばしてみてくださいよ、と。



イエスさまは、そのようにして、この女性の“心”を、悪循環から救い出されたのです。



「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」



この場面でこのようなことを言い出す人のことを、(できるだけ口にすべきでない言葉ではあると思いますが!)“バカ”と呼んでおきます。やめてくれ、という感じです。イエスさまは「偽善者」と呼んでおられます。どちらがひどい言い方かは、分かりません。



わたしが最も不思議でたまらないのは、なぜこの会堂長は、「安息日に病人がいやされたこと」に、腹を立てなければならなかったのでしょうか、という点です。



逆ではないでしょうか。喜ぶべきでしょう。病人が、いやされたのですから。



その安息日が、十八年間の苦しみから解放された、その記念日になったのですから。



それに、よく考えてみれば、ここは、この会堂長が責任をもって管理している“会堂”です。宗教施設です。神を礼拝する場所です。



また、その日は、安息日でした。神さまの御言葉が語られ、聞かれる日です。



そういう日、そういう場所で、一人の人が、長年の痛みから解放され、やっと安らぎを得たわけです。とてもよいことではありませんか。それなのに、この会堂長は、なぜ腹を立てなければならなかったのか。全く理解に苦しみます。



「安息日はいけない」という掟が、いかに彼らを束縛していたかが分かります。



そしてまた、その日に一人の人がいやされたことに腹を立てるこの人のことを、イエスさまが「偽善者」という厳しい言葉で非難されたことも、分かります。



「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群集はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」



この個所において、そして今日の個所全体を通して、「束縛からの解放」というテーマがはっきりと示されていることに、きっとお気づきいただけるでしょう。



救いとは、「束縛から解放されること」を意味しているのだ、ということです。心も、体も、全く自由にされること。それが救いです。



ですから、「安息日はいけない」というこの会堂長の言葉も、ある意味で、まさに何かに束縛されている人の言葉である、ということです。戒律のとりこになっているのです。



イエスさまの場合は、むしろ、安息日だからこそ、です。この日にこそ、救いが起こり、いやしが起こるのです。



そうでなければ、どういうことになるのでしょうか。この会堂長に逆に聞いてみたいことは、安息日ごとに、あなたの会堂で行われている礼拝の中では、本当に何も起こらないのですか、ということです。いやしも起こらない。救いも起こらない。何も起こらない。そんなことで本当によいのですか、と聞いてみたいです。



イエスさまの場合は、会堂の中で、です。安息日にこそ、です。礼拝において、です。いやしと救いが起こるのです。いやしと救いを求めて、ひとがイエスさまのもとに集まるのです。



「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」



ここには、二つのたとえ話が語られています。「からし種」とは、文字どおり辛い、あのからし(マスタード)の種です。「パン種」とは、パン生地に入れる酵母のことです。



からし種も、パン種も、たいへん小さいものです。それがどこにあるかが分からない。パン種に至っては、パン生地に混ぜてしまうものです。



二つのたとえ話に共通しているテーマは明らかです。「小さなものが大きくなる」ということです。あるいは「小さなものの影響で全体が大きくなる」ということです。



また、からし種にせよ、パン種にせよ、両方に共通している「種」という言葉が持っているイメージから、語りうることがあります。



それは、要するに、“埋めるもの、埋め込むもの”であり、“中に入れるもの”であり、“浸透する、浸透させるもの”です。



思い当たるのは、神の救いであり、神の御言です。それらのものは、わたしたちの外側にあるべきものではありません。外側にあるうちは、神の御言葉は、まだ全く聞かれていないのと同じです。



そのとき、わたしたちは、じつは、まだ、救われてもいないのです。わたしの心まで、救いが届いていないのです。



大切なことは、中に入ってくること、です。わたしたちの存在の内側へと入ってくること、内部に浸透してくること、これが「種」という言葉が持っているニュアンスであると語ることができるでしょう。



小さな種が蒔かれ、土の中に入り込む。その種が「成長して木になる」のです。また、小さなパン種によって「全体が膨れる」のです。



神さまの救い、神の御言葉が、わたしたちの現実の世界、日常生活の中に、入ってくる。わたしたちの体験的現実の中に、入ってくる。深く浸透してくる。そして、それによって全体が成長する。



もしそうだとすれば、「神の国」とは何でしょうか。それは要するに、わたしたちの日常生活である、ということです。



わたしたちは「神の国」と聞くとどうしても、“向こうの世界”とか“あの世に行くこと”をイメージしてしまいます。しかし、それは、イエスさまがお語りになる「神の国」とは、異なるものです。



イエスさまの「神の国」は、わたしたちの日常生活です。



わたしたちの心の中に、神の御言葉が浸透する。それと共に、救いが浸透する。それによって、わたしたち自身が成長する。わたしたちの生活が「神の国」へと造りかえられていく。



こういうことが起こるのです。



ですから、ここで大切なものは“言葉”であるということが、おそらくかなり分かっていただけるでしょう。



イエスさまが救いの御言葉を語られ、その手で触れられる。それによって、十八年間も「わたしは絶対に治らない。この病気は絶対に治らない」と、そう確信していたこの女性が、いやされました。



イエスさまの御言葉を聴いて信じる。言葉が種のように心の中に蒔かれ、埋め込まれて、浸透する。わたしのものとなる。そのときに、その人に“救い”が起こるのです。



言葉がひとを変え、現実を変え、世界を変えるのです。



わたしたちが教会でしていること、また牧師がしていることは、ごく小さなことです。外から見ると、またわたしたち自身の率直な感覚としても、教会で行われていることは、ごく小さなことです。なんでもないことです。



しかし、です。このごく小さな営みが、一回一回の礼拝とか、わたしたち一人一人が心で神を信じるといったこのごく小さな営みが、大きなものになっていきます。わたしたち自身の人生を変え、また世界を変えていきます。



わたしたちは、そのように、信じてよいのです。



(2005年11月20日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年11月13日日曜日

「悔改めずば亡ぶべし」

ルカによる福音書13・1~9



この個所で、イエスさまは、全く同じ言葉を二度繰り返しておられます。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。



これは聖書に限らず、一般的にも同じように言いうることですが、繰り返されている言葉には強調がある、と考えてください。そこに主題(テーマ)があります。今日の個所の主題は、悔い改めなければ滅びる。みんな滅びる、ということです。



ただし、です。わたしは、ここに但し書きを置いておきます。今日の個所は、表面的にさらっと読むだけでは理解できないところである、と思います。注意深く読まなければ、読み間違えてしまうでしょう。



とくに注意深くありたいことは、この御言葉を、イエスさまご自身はどのような意味で語っておられるか、ということです。悔い改めるべきことの具体的な内容は何か、です。いったい、わたしたちは“何について”悔い改めなければならないのでしょうか。



「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」



「ちょうどそのとき」とは、どういうときでしょうか。これと全く同じ言葉(ちょうどそのとき)が13・31にも出てきます。同じ言葉が繰り返されています。繰り返されている言葉には、強調があるのです。



それは、イエスさまが、弟子たちや群集に向かって、一連の説教をしておられたときである、と理解することができるでしょう。



ここで思い起こしていただきたいのは、先週学んだ御言葉です。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(12・56)。ここに出てくる「今の時」、これが「ちょうどそのとき」という言葉の具体的な意味であると考えられます。



イエスさまは、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」とお語りになることにおいて、あなたがたは「今の時」を見分けることができるようになりなさいと強く願っておられることは明らかです。



「今の時」とは、どういうときでしょうか。神の子、救い主イエス・キリストが地上に来られているときです。イエス・キリストを通して救いの恵みが地上にもたらされているとき、救いが実現しはじめているときです。神の国が近づいているときです。



しかしまた、そのときは人々が救いを求めているときでもあります。救いを必要としている人々があふれている時代です。



ヨハネによる福音書1・5に「光は暗闇の中で輝いている」と記されています。この「光」とは、イエス・キリストのことです。光としてのイエス・キリストは、暗闇の時代に来てくださったのです。



イエス・キリストは、弟子たちに、「今の時」を見分けることができるようになることをお求めになりました。そのときは、暗闇のときでもあります。



「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とあります。このピラトこそ、イエス・キリストが十字架にかけられる前に行われた裁判(不当な裁判!)の審き主です。ローマの提督ポンティオ・ピラトです。このピラトが、いったい何をしたのでしょうか。



ここに出てくる「ガリラヤ人」とは、ガリラヤ地方出身のユダヤ人、しかもエルサレムに移住していた人々のことであろうと考えられています。



この人々が殺されたようです。なぜ殺されたのかまでは分かりません。しかし、当時のガリラヤ人たちは、ユダヤ教の主流派から虐げられていた、と伝えられています。反主流派である彼らが、ローマ帝国とその支配下にあるユダヤ王国の支配者に対する政治的暴動を起こしたのではないか、というようなことが考えられています。



この事件のことを指していると言われているのが、使徒言行録5・37に紹介されている出来事です。「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。」



それで彼らは処刑された。そしてピラトは、ガリラヤ人たちの血をいけにえに混ぜた。この「いけにえ」とは、過越祭のときエルサレム神殿に犠牲として供えられた動物のことであろうと考えられています。屠殺された、血まみれの動物です。



ですから、ピラトがしたことは、要するに、人間の血を動物の血に混ぜた、ということです。これが、なんとひどい、なんとむごいことか、ということは、誰もが感じることでしょう。人間として、断じて許されないことです。



これで分かることは、ピラトという人は、こういうことを平気で行うことができる人間であった、ということです。全くひどい、文字どおり“人を人とも思わない”、残酷な人間であった、ということです。このポンティオ・ピラトによって、イエスさまは、十字架につけられたのです。



「今の時」とは、どういうときでしょうか。これで少し分かりました。“人を人とも思わない”人が、人を裁く人の座に着いているときです。人の道の正義がねじ曲げられている時代です。恐るべき圧政の時代です。



「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。』」



ここに「イエスはお答えになった」とあります。ここで言いうることは、イエスさまが語っておられるのは、お答えではなく、むしろ、問いかけである、ということです。



そして、もう一つ言いうることは、イエスさまが彼らに問うておられるのは何かと言いますと、それは要するに、「思うのか」という点である、ということです。



あなたがたは、その血をいけにえの中に混ぜられるというひどい目に遭った一部のガリラヤ人たちが、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったから、そのような目にあったのだ、というふうに「思うのか」。



つまり、要するに、そのような目にあったガリラヤ人たちは、いわゆる“自業自得”とか“因果応報”の死を遂げたのだと「思うのか」。



イエスさまが問うておられるのは、その点です。あなたがたは、そういうふうに思うのか。そういう考え方は正しいのか、と問うておられるのです。



そして、イエスさまは「決してそうではない」と、お答えになりました。イエスさまのところに、殺されたガリラヤ人たちについての情報を知らせてきた人々自身が持っていたと思われる、まさにこの“自業自得”だの“因果応報”だのという考え方それ自体を否定されたのです。



よく考えてみれば、そのとおりです。ガリラヤ人が殺されたこと、彼らの血が動物の血の中に混ぜられたことが“自業自得”であるわけがありません。



当時の裁判に、問題があったのです。“人を人とも思わない”ローマの提督ポンティオ・ピラトにこそ問題があり、ユダヤ人の指導者たちにこそ問題があったのです。



「『また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」



これも同じです。シロアムの塔が倒れて死んだ。その人々が死んだのは“自業自得”であったと、あなたがたは「思うのか」と、イエスさまは、問うておられるのです。



「『言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」



イエスさまが警告しておられることは、その“自業自得”とか“因果応報”という考え方そのものに罪がある、ということです。そういう考え方はやめなさい、ということです。その考え方そのものを“悔い改める”必要があるのです。



このことを、わたしたち自身の問題として考えてみると、分かるはずです。なるほど、わたしたちがそのような考え方を持ち続けているかぎり、本当に見抜かなければならない問題を、見抜くことができません。



本当の問題は、どこにあるのか。本当に悪いのは誰であり、本当に裁かれなければならないのは、誰なのか。そういうことが分からなくなってしまいます。事の真相が見えなくなってしまいます。



何か事が起きたとき、それを“自業自得”と考えて、自分や個人の小さな問題にしてしまうことによって、本当の問題が見えなくなる。それによって、社会の巨悪を生き延びさせる結果を招いているかもしれません。



わたしたち日本キリスト改革派教会が重んじるウェストミンスター大教理問答を見ていただきますと、一言で「罪」と言っても、「上の人」(社会的に地位が高い人)が犯す罪は、「下の人」(地位が低い人)が犯す罪よりも「重い」と言われています(大教理問答第151問の答えを参照してください)。全く同じ、というわけではないのです。



「悔改めずば亡ぶべし」。このイエスさまの御言葉を、もしわたしたちが、ただ単にわたしたち自身の個人的な心の中の問題にしてしまうときには、おそらく、イエスさまの意図を、読み間違えているのです。



むしろ、もっと大きな問題です。社会の問題です。“自業自得”という思想によって、真の問題が隠蔽されると、社会全体が道を間違います。それによって、「皆が滅びる」。“全滅”の危機に陥るのです。



イエスさまは、“自業自得”とか“因果応報”という考えに対して、真っ向から反対されました。最も有名な個所は、ヨハネによる福音書9・1〜3でしょう。



イエスさまは、生まれつき目の見えない人の前で、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と質問する弟子に対して、次のようにお答えになりました。



「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。



本人の“自業自得”ではない。両親の“因果応報”でもない、という意味です。これらの思想を、イエスさまは、はっきりと否定されたのです。



だからこそ、です。わたしたちが悔い改めなければならないことは何でしょうか。このように考えることをやめる、ということです。この思想の呪縛から、救い出されなければならないのです。



「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」』」。



このイエスさまのたとえ話の中で興味深く感じるのは、ここに登場するぶどう園の主人が園丁に言った言葉の中に出てくる「もう三年もの間」という点です。



と言いますのは、イエスさまが伝道活動をなさった期間について、(それにはさまざまな計算方法や考え方があるのですが)、一般的には約三年間であったと言われているからです。



三年もの間、せっかく植えたいちじくの木に、実ができない。そのような木など、早く切り倒してしまいなさいと、ぶどう園の主人が園丁に命じた、というのです。



ところが、園丁は、いちじくをかばいました。今年もこのままにしておいてくださいと。肥やしをやってみます、そうすれば、来年は実がなるかもしれませんと。



このたとえ話の意図は明らかです。ぶどう園の主人は父なる神さま、園丁はイエスさまです。



イエスさまは、三年間待っても実をつけないダメないちじくの木を、かばってくださいます。



イエスさまにかばっていただいている「いちじくの木」とは“だれ”のことでしょうか。それは、イエスさまが何度説教しても、どんなに言葉を尽くして神の御言葉を語っても、罪を悔い改めない人のことです。イエスさまを信じようとしない人々のことです。



イエスさまは、そのような人々を、かばってくださいます。そして、忍耐強く、待っていてくださいます。



イエスさまの御心は、人が滅びることではなく、人が生きることなのです。



(2005年11月13日、松戸小金原教会主日礼拝)