2005年12月25日日曜日

「喜びのクリスマス」

ルカによる福音書2・8~14



わたしたちは、今、クリスマスイブの礼拝をささげています。



「クリスマスイブ」という言葉の意味は、要するに、クリスマスの前夜ということです。クリスマスの本番は明日です。今日はいわば前夜祭です。



しかし、なぜ、わたしたちは、クリスマスの前夜祭をするのでしょうか。明日も教会でクリスマス礼拝が行われます。祝会も行われます。朝早くから夕方まで忙しい一日になりそうです。それなのに、前の夜も集まらなければならないのか。そのことを疑問に感じる人がいても、おかしくはありません。



しかし、わたしがありがたいと思っておりますことは、クリスマスイブに礼拝を行うということについて文句を言われたことはあまりない、ということです。ささげるのは当然だと考えていただけるのは幸いなことです。



クリスマスに印象的なのは光です。電飾をつけたり、ローソクを灯したり。光が輝くのは夜です。クリスマスの醍醐味はイブにあると考えている人は多いです。「クリスマス礼拝には出席できなくても、イブ礼拝には出席したい」という人に出会うことがあります。クリスマスイブ礼拝には“文化的意義”があるのです。これを多くの人々が待ち望んでいるのです。



しかし、です。わたしは、今日、クリスマスイブに礼拝をささげることの意味として、もう一つ考えてみたいことがあります。



それは、「クリスマスの前夜」の意味は何なのかということです。とくに集中して考えてみたいと思いますのは、「前夜」という言葉の意味は何か、です。



「前夜」という日本語の正確な意味を、皆さまは、ご存じでしょうか。広辞苑を調べてみますと、次のように記されていました。



「前の晩。ある日の前日の夜。」ここまでは、字義通りです。注目すべきは次の意味です。「また、特別なことのおこる直前。」



そして、この言葉の活用の例として、「革命の前夜」というのが、挙げられていました。



この意味の「前夜」という言葉を、わたしたちも、用いると思います。あまりひんぱんではないかもしれません。たとえば、戦争が始まる直前のことを「開戦前夜」と申します。それは、別に、必ずしも、時間的な意味での「夜」に限ったことではありません。まさに特別なこと、世界がひっくり返るような大騒ぎが始まる“直前”という点が大切です。



ただし、それが「夜」という言葉で表現されているのはなぜかという理由を考えてみることは、有意義なことです。それを考えるための根拠を持っているわけではありません。しかし、それはおそらく、光と音に関係があるのではないかと思われます。



もっとも「夜」という言葉でイメージされるものは昔と今とでは大違いかもしれません。今日は、ちょっと昔の話をさせていただきます。「夜」といえば闇、「夜」といえば静けさを表わしていた時代の話です。静かで暗い時間、それが「夜」です。



二千年前のクリスマスイブとクリスマス当日の様子は、どうだったでしょうか。それはそれは、まことに静かなものでした。



そこに集まったのは、何人かの羊飼いたちと、何人かの東の国の博士たちだけでした。天使たちは群れをなして現れましたが、残念ながら彼らは人間ではありませんので、人間の数にカウントできません。羊たちもカウントできません。あとは、ヨセフとマリアだけです。ですから、全員合わせても10人いたかどうかくらいです。



しかも、そこに集まっていたのはごく普通の人々でした。わたしたちと同じ(と言っておきますが)ごく普通の人々でした。ユダヤの王さまもいないし、大臣もいませんでした。祭司長も律法学者も、いませんでした。



いわば何の力も持たないごく普通の人々だけが集まって、イエスさまのご降誕をお祝いしたのです。それがイエスさまがお生まれになった最初の日の情景です。



その情景は、一夜明けたくらいで、変わるものではありません。物事は、一日二日くらいでは何も変わりはしません。世界が変わっていくためには、長い時間がかかります。わたしたちの人生も同じです。



しかし、それが“前夜”です!



夜は明けるのです。陽の光はさしこむのです。新しい時代が来るのです。それがクリスマスです。ですから、クリスマスイブとは、イエスさまが来られ、そこから新しい時代がたしかに始まった、その日を迎える準備のためのひとときである、ということです。



そうであるならば、です。この夜、わたしたちが聴くべき御言葉は「恐れるな」という言葉なのだとわたしは思います。



“前夜”だからこそ、「恐れるな」です。これから、わたしたちの人生に大きな出来事が起こるかもしれない“前夜”だからこそ、です。



「恐れるな」とは、イエスさまの父ヨセフが聞き(マタイ1・20)、母マリアもまた聞き(ルカ1・30)、そしてベツレヘムの羊飼いたちまでもが聞いた(ルカ2・10)御言葉です。



それは、救い主イエス・キリストが来てくださるその日・その瞬間から始まる、新しい時代と、新しい人生との幕開けの、まさに“前夜”において、天使の口から語られた言葉です。



なぜ“前夜”だからこそ「恐れるな」なのか、と言いますと、“前夜”には必ず“不安”がつきまとうからです。革命前夜にせよ、開戦前夜にせよ、です。新しいことが始まり、これから何かが変わろうとしているのですから。不安があるのは当然です。



それどころか、その“不安”は、無いと困るものです。



たとえば、わたしたちがイエスさまを信じても、洗礼を受けても、教会に加わっても、わたしの人生は何も変わらないし、変えたくない、ということであるならば、困ります。変わってもらわなければ困る、という面があります。



「どんなことがあっても、わたしは、自分の生き方を変えるつもりはありませんから」と開き直られると困ります。そういう人は、もっと“不安”を持つべきだ、と言いたいくらいです。



しかし、です。普通の人なら、大きな変化の前には、不安を持つでしょう。その不安な人々に対して、神さまが、天使を通して、「恐れるな」と語ってくださったのです。



その意味は、あなたの人生は、明日から変わっていくけれども、「恐れるな」です。



神さまが守ってくださるから、大丈夫だから、「恐れるな」です。



二千年前の最初のクリスマスに立ち会った人々が、またわたしたち自身が、「恐れるな」という言葉を、不安に満ちた「前夜」に聞き、大いなる慰めと励ましを得たことを、思い起こすことが、クリスマスイブ礼拝をわたしたちがささげる意味であると思います。



明日のクリスマス礼拝において、二人の方がわたしたちの教会に加入されます。加入式を行います。その方々も、まさに明日から、信仰生活のうえで新しい歩みを始めることになります。不安もあるかもしれませんので、「恐れないでください」と申し上げておきたいと思います。



2005年がまもなく終わります。新しい年に新しい歩みを始める方もおられるでしょう。不安もあると思いますので、「恐れないでください」と申し上げておきます。



イエス・キリストを信じて生きる人、教会にしっかりつながって生きている人々には、神さまがついていますから、大丈夫です。安心して、前進していきましょう。



(2005年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイブ礼拝)